第四部 第八章
いくぶん和らいだ午後の陽射しが部屋の中を照らし出していた。僕は窓辺の陽だまりの中に腰を下ろして、何を見るともなく外を眺めていた。時折乾いた風がマンションのそばの柿の木を揺らしていた。枯れはじめた枝葉の匂いがこの部屋まで入り込んできていた。世界は急速に秋の気配に染まりつつあった。
啓奈の帰る日が近づいていた。彼女は23歳の誕生日が過ぎると、それまで以上に物静かになっていった。日常的な些細なことを片付けてしまうと、僕にもたれかかってぼんやりと過ごすことが多くなった。外へもあまり出たがらなかった。
いま思えば、このころの彼女の変化に僕がもっと気をつけておくべきだった。毎年夏が過ぎ誕生日を迎えるころになると、僕自身なんだか捜し物を必死で捜しているうちに何を捜していたのかわからなくなってしまったような感じで集中力を欠いてしまっていたから、彼女のことも同じような意味合いで捉えていたのだ。夏のあとに秋が来るという普遍的事実さえなければ、僕は彼女の変化をもう少し違ったかたちで捉えることができていたのではないかと思う。
「いつまでもこうしていたい」と、啓奈は唐突に言った。それは彼女が帰京する前夜のことで、僕たちは裸のまま毛布にくるまっていた。
僕は煙草を吸いながらぼんやりと天井を見つめていた。部屋の隅には彼女のボストンバッグが、すでにいつでもその役割を果たせるように準備されていた。時計の音だけがまるで深い海の底にいるような感じで聞こえていた。
「あなたと離れ離れなんて考えられない」
彼女の声にはまったくと言っていいほど抑揚がなかった。それは誰に向かって喋っているのか本人にもわかっていないような喋り方だった。
「絶対にいや」
僕は彼女のほうを見た。彼女は両手を胸に乗せ、やはり天井を見ていた。いや、見ていたというよりはたまたま視線の先に天井があるだけといった感じだった。当然のように、僕の視線には気づいていなかった。
「いっぱいやりたいことがあるの・・・」
話の続きを待ったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。僕には彼女の言いたいことがさっぱりわからなかった。まるで多くの言葉を失ってしまい、残された乏しい数の言葉だけを細い鎖でつなぎとめているような、そんな喋り方だった。よもすると、それは何かの拍子に簡単にばらばらになってしまい、さっぱり意味不明な言葉になってしまいそうだった。
僕は掴みどころのない不安を感じた。今の彼女は精神的に参ってしまっているのではなかろうか? 異常に暑いこの夏、いろんなことがあった。彼女にとってはそのすべてが重要で、蔑ろにできるものはひとつもなかった。それらを短期間のうちに小さな胸に抱え込み、相当に疲れているのだと思った。できることならあと一ヶ月くらいのんびりと休ませてあげたかった。
しかしそれは、たとえ僕が口にしてみたところで彼女が聞き入れる話ではなかった。彼女は本当に真面目なのだ。彼女が授業を休むことなど、東京に30センチの積雪を記録することほど珍しいのだ。僕は成す術なくため息をつき、それから深い眠りへと落ちていった。
朝食をふたりで簡単に済ませると、彼女はふたたび僕が贈ったスーツに袖を通した。肩口まで伸びた髪を梳いて簡単に化粧を終えると、ボストンバッグを玄関に置き、それから窓辺に立って外を眺めた。僕はベッドに腰掛けて彼女の後姿を眺めた。明るい光の中で、彼女の細い髪の毛の一本一本が絹糸のように輝いていた。ノーマ・カマリのスーツのせいか心持ち肩が張っているように見えたが、全体のバランスを崩してしまうほどではなかった。その肩から背中にかけてなだらかな稜線が伸びていた。彼女の身体を縁取るように、光の輪が彼女を包んでいた。アルミの窓枠を掴んだ左の薬指には白く光る指輪が見えた。どこからか雲雀の囀りが聞こえていた。
彼女は背中を向けたままぽつりと何かを言った。言ったような気がした。それは雲雀の鳴き声に混じってよく聞き取れなかった。返事を待っている様子もなかったので、僕は錯覚だろうと思った。
部屋を出ると、バス通りまで歩いた。川沿いの道を散歩を楽しんでいるかのようにゆっくりと歩いた。彼女の表情はとてもすっきりとしていた。そばを流れる川の水のように一片の翳りもなかった。まるで重要な任務を無事終えたかのような爽やかな顔をしていた。
空港に着くと、40分ばかり時間の余裕があったのでコーヒーハウスに入った。ふたりともアイスティを注文して、何も入れずに飲んだ。
啓奈は空港に来てからひとことも喋っていなかった。僕も心の中でもやもやとしたものを持て余しながら話しかけることができずにいた。彼女はアイスティを半分ほど飲んでストローについた口紅を指先で拭うと、テーブルの上で両方の指を絡めて僕を見た。
「東京に出て来てくれる?」とても静かな声で啓奈はそう言った。
「もちろん」
「いつ?」
「電話一本くれたら」と僕は言った。「タクシーをとばしてでも行くよ」
「毎晩電話するかもよ」
「残念だな。夜はいないんだ」
「帰ってくるころを見計らって、ね」
「期待してる」
「今、どんな気持ち?」
「そうだな・・・」僕は少し考え、言った。「前菜とスープが終わっていきなりデザートが出てきたような気分」
「物足りない?」
「ものすごく」
「もっと別の言い方をして?」
「西アフリカの子供たちのように、僕は飢えているんだ」
「はっきり言って――」彼女はにこっと微笑むとガラス越しに外へ視線を向けた。「とても嬉しい」
僕は彼女のボストンバッグを持って広いロビーを歩いた。このロビーが実は巨大な迷路で、出口に辿り着いた者だけが搭乗券を手にすることができるのならいいのに。そうすれば僕は彼女の手を固く握ってわざと袋小路ばかりを見つけて、すべての飛行機をやり過ごすことができる。僕は袋小路を見つけることに関してはちょっとした自信があるのだ。年に170回くらい袋小路に迷い込んでいるから。
帰したくなかった。誰が何と言おうと帰したくなかった。彼女が目の前から消えてしまうと、僕は何をしたらよいのかわからなくなってしまいそうだった。僕の部屋は冷凍庫のように冷たく何もかもが凍りついてしまうのだろう。何度も彼女の手を取って走り出したい思いに駆られた。
列のいちばん後ろに並ぶと、彼女は僕の手から荷物を取って足元に置いた。
「私のこと、忘れないで」と彼女は言った。
僕はびっくりして彼女をまじまじと見た。
「絶対に忘れないで」
「忘れるわけないじゃないか」
「約束して」
「約束でも何でもするよ」
「だったらキスして」
「ここで?」
彼女は小さく頷いた。僕はぐるっと周囲を見渡し、それから彼女を抱き寄せた。啓奈は僕の首に両腕を回し、引き寄せるようにして唇を押しつけた。どこかで女の子の驚きの悲鳴が上がった。にわかに辺りからざわめきが聞こえてきた。
彼女は相当な力で僕の首を押さえつけたまま離そうとしなかった。少しづつ僕の前のビジネスマンとの距離が離れていった。残り少なくなった列を見渡した係の女性が僕たちに気づいて頬を赤く染めたのが、視界の隅に映った。
列が彼女も含めてふたりだけとなり、僕が首の付け根に痺れにも似た感覚を覚えはじめたとき、啓奈は不意に僕から離れ、ボストンバッグを右手に掴むと二度と振り返ることなくゲートをくぐっていった。姿が見えなくなるとき、彼女は背中を向けたまま遠慮がちにそっと左手を挙げた。その背中は”さよなら”と言っていた。 |