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How 'bout Us
作:H.RcGoon



第四部 第七章


 実家を発ってマンションに戻ると、僕はまず最初に共同経営者の彼に電話を入れた。明日の夜から店に出るつもりだと言ったが、彼は聞き入れなかった。2、3日ゆっくりしてこいと言って一方的に電話を切ってしまった。啓奈はにこにこしながらその様子を眺めていた。
「あと3日間はずっといっしょにいられるね」
「ずいぶん態度が変わったな。休むなって最初は言ってたくせに」
「いいの」
 僕と啓奈は彼女のたっての希望で夜の街に出かけた。うんざりするほどの車の多さも慌しげに帰宅を急ぐ人々も、夜空にきらめくネオンサインなんかも、その夜ばかりはなんだかとても懐かしく感じられた。
 バス通りをどこへ行くともなく歩きながら、僕はふたたびあの森のことを思い出していた。あの森は僕と啓奈にとっていったいどのような意味を持つものなのか。森の中で啓奈が眼にしてしまったものとは果たして――彼女は何を知ってしまったのだろう?
 その後の彼女の様子を見ていれば、それがただならぬ問題であることは明らかだった。森に入って以来、僕の中では彼女はなんだか以前の啓奈ではなくなったような思いが日増しに強くなっていた。今まで僕が見ていたものは啓奈のほんの一部分にしか過ぎなかったのではないかと思うほど、折りに触れて新たな発見をした。びっくりするほど大胆な言動を取ったかと思えば、まるで子供が作り上げた積み木の家のような、繊細で脆い美しさを持った少女のように振舞った。子供っぽいわがままに取られることさえあった。そのたびに僕は驚き、少なからずショックを受け、そして言葉にできないほどの喜びを感じた。そうして僕は彼女のことをますます好きになっていった。

 啓奈が僕の袖を引っ張りながら、またあの森のことを考えていたのでしょうと言った。僕は違うよと答えた。
「だったら、何を考えていたの?」
「今年の阪神タイガースは果たして優勝できるか」僕はそう言いながら立ち止まって、ショーウィンドウの大型テレビを指した。テレビではオールスター休みの合間を利用して、今年のプロ野球前半戦のハイライトシーンを集めた特別番組が放映されていた。
「優勝するわよ」と啓奈はあっさり言った。
 僕はびっくりして彼女を見た。彼女は当たり前でしょうと言わんばかりに肩をすくめてみせた。
「でも、ここから落ちていくのが阪神のお決まりのパターンだからな」
「今年はそんなことないわ」彼女は僕の手を握りながら笑って言った。「いくらあなたが自虐的でも」
「根拠は?」
「そんなものない。だって、以前あなたに教えてもらったことくらいしか知らないもの」
「でも優勝するって、わかるんだね?」
「そう」
「阪神は好き?」
「大好きよ」
「野球のことをあまり知らなくても?」
「うん」
「掛布は?」
 彼女はふと思いついたように僕の顔をのぞきこんだ。「あなたってよく見ると、笑った顔なんて掛布さんそっくりじゃない?」
「掛布を見たことあるの?」
「ほら」彼女はそう言って目の前のテレビを指差した。
 テレビの画面は、現在快進撃を続けている阪神タイガースの特集ビデオを流していた。僕はその映し出された映像に唖然となり、食い入るように見入った。いつもの大きなテイクバックから振り下ろされたバットは飴のようにしなりながら白球を軽々と弾き返すと、“31”の背番号に吸いつくようにして文字どおり背中に巻きついた。5月22日甲子園での対広島戦、大逆転劇の布石となる掛布の第10号のホームランシーンだった。
「すごい」僕は思わずそう叫んでいた。
「すごく美しい、この人の背中って」
「え?」
「ほら、この“31”の背中」
 彼女はゆっくりと繰り返される“31”のホームランシーンをふたたび指差した。僕は改めてその“31”を見た。そう言われてみると、確かに“31”の背中はとても美しかった。身体は決して大きくないし、見栄えのするユニフォーム姿でもない。しかしどこがどうと言うのではない。とにかくその背中は美しかった。余計な言葉などいらない、有無を言わせぬ美しさだった。ふと、それは啓奈の美しさと共通する部分があるような気がした。自然と人を引きつけてしまう、そんな美しさだ。
 僕はその“31”の背中を見ながら、思わず身震いした。それから満たされた気分で彼女の耳たぶに唇をつけた。彼女はくすぐったそうに首をすくめてほんの少し顔を赤らめた。
「あなたが好きなものは私も好き」彼女はゆっくりとした歩調で歩き出しながら言った。「それから、あなたが嫌いなものは、私も嫌い」
「ずいぶんと主体性のない主張だな」
「これが今の私の主体性なの――ううん、違う。昔からずっとそうだった。だって、今まであなたのまわりのものを嫌だなんて思ったこと、一度もないもの。あなたの着る洋服もあなたの言葉も、それからあなたのお友達も、あなたの街やあなたのお父さんやお母さんも、それにクロもニッパーもみんな、私大好きよ」
「これ以上ない称賛の台詞だね」
「本当のことよ」
「ありがとう」
「うん」
「ところでさ、さっきからいい匂いがしない?」
「お好み焼き、ね?」

 翌日僕たちはまた海へ出かけ、その近くの遊園地にも行った。その次の日には映画も観た。これからの季節に備えて色違いのカシミアのセーターとスエードの靴も買った。書店に行って文庫本を買い漁り、レコード店で数枚のレコードを買った。最後にバーに行って3杯づつカクテルを飲んだ。
 こんなふうにして短い夏休みが終わると、僕はまた以前のように店に戻り、彼女は僕の部屋で掃除や洗濯をしたり、近所に買い物に出かけたり、本を読んだり音楽を聴いたりして過ごすようになった。
 僕はいつも午前11時に目を覚ました。啓奈はそれまでに洗濯を終わらせ(彼女はまるで老人のように早起きなのだ)、昼食――僕にとっては朝食――を用意してから僕を起こした。食事が終わると、週に2日はふたりでスポーツジムに通った。残りの5日は買い物に出かけたり、映画を観たり、部屋の中でぼんやりとして過ごした。たまに川沿いのショートコースに出かけてハーフをこなしたりもした。この夏のあいだ、僕は一度も彼女に勝てなかった。ゴルフをするたびに隣りのショートヘアの女性のことを思い出したが、彼女とはあれきり一度も会わなかった。窓もずっとカーテンがされたままだった。
 僕が夕方から仕事に出かけてしまうと、彼女は部屋の掃除をし、簡単な食事を作ってひとりで食べた。そのあとはひたすら僕の帰りを待った。時には朝方の4時を回ってしまうこともあったが、彼女は必ず起きて待っていた。大学のテキストを開いていることもあれば、クンデラやコレットなんかの小説を一心に読みふけっていることもあった。ポリスやスニーカーのレコードに耳を傾けている夜もあった。中でも彼女はポリスの『Every Breath You Take』が大好きだった。それから僕たちは幼い子供のように抱き合って眠った。月並みな表現だけれど、とても幸せだった。彼女は森のことをすっかり忘れさせてくれた。悪い予感など微塵もなかった。そのようにして、1985年の僕と啓奈の夏は通り過ぎて行った。

 9月に入ってから、啓奈はひどい風邪をひいた。熱が40度近くまであがり、3日3晩うなされ続けた。彼女は、ここ何年か風邪をひいたこともなかったからその分をいっぺんに背負い込んでしまったと、ベッドの中で笑って言った。3日めに37度まで下がると、彼女は止めるのも聞かずベッドから抜け出した。
 店では共同経営者の彼と常連客とのあいだで、僕と啓奈の誕生パーティーの計画が着々と進行していた。僕はかなり頑なに反対したのだが、誰ひとりとして僕の意見など取り合わなかった。
 僕は貯金を使ってノーマ・カマリのカスタードクリームのようなスーツと小さなダイヤの指輪を買った。スーツは誕生日の前日に彼女に渡した。
 誕生パーティーの当日、彼女は僕が贈ったスーツに袖を通して、パールのピアスとチョーカーをつけた。僕はいつもと変わらないチノクロスにストライプのボタンダウンシャツを着て、その上から3年前の誕生日に啓奈が編んで送ってくれた49ersのセーターをはおった。
 信じられないことに、その夜は40人近い客が一度に押しかけ、当然狭い店内には入りきれず、彼は隣りの店に断わってドアを開けたままパーティーを決行した。彼らは金を出しあって一脚12,000円もするロイヤル・コペンハーゲンのティカップを6組もプレゼントしてくれた。彼はふたりでも抱え切れないほどの薔薇の花束を個人的に用意してくれていて、それを差し出されると啓奈の瞳には見る見るうちに大きな涙の粒が膨らんでいった。
 あっという間の2時間だった。パーティーが終わると、彼が気を利かしてふたりだけにしてくれた。もちろん店はその時点で閉めてしまい、彼は大勢の仲間とともに夜の街に消えていった。
 帰りのタクシーの中で、僕は指輪をいつ渡そうかとずっと考えていた。しかし啓奈があまりにたくさんの薔薇を抱えていたものだから、運転手がやたらと質問をしてきて考えに集中できなかった。
「ほんとに来てよかった」と啓奈は言った。
「何度も聞いたよ、その台詞は」
「何度でも言うわ。本当に来てよかった」

 部屋に帰ると、思いがけないことが待ち受けていた。テーブルの上に小さなシュガーケーキとヴ―ヴ・クリコが用意されていたのだ。真新しいフルート型のグラスもちゃんと2つあった。僕と啓奈は部屋の灯りを点けて、びっくりして互いを見た。シャンパンのボトルには赤と緑のリボンが結んであり、水色のカードがはさんであった。そのカードには右上がりの特徴ある文字が並んでいた。

  『結婚はなぜ風呂に似ているか?
        ――入っちまえば、熱くない
    しっぽりと濡れた夜に、乾杯!
      P.S. スペアキーは責任持って処分する』

 クリスマスでもないのに赤と緑のリボンなんて、いったいどういうつもりなのだろう。どうしてあいつはこんなことばかりに気が回るのだ? 僕はひとりごとのようにぶつぶつ言った。啓奈が背後から僕の肩に顔を乗せ、何度も読み返していた。僕はカードを彼女に渡して、窓辺に立った。それまでの苦労が水の泡だった。涙は僕の貯水限界量を超えていた。それは絨毯の上にぽたぽたと落ちた。
「いい子だから、泣かないの」
 啓奈は僕の髪をくしゃくしゃにした。彼女の眼にも涙が浮かんでいた。ほら、と言って彼女はハンカチを差し出した。僕はそれを受け取りながらまたひとりごちた。彼女は鼻をくしゅんといわせて笑った。そして金色のリボンがかけられた紫色の小箱を差し出した。
「あなた、無くしちゃったでしょ?」啓奈は両手を後ろに回し、僕の顔を下からのぞき込みながらそう言った。
 僕は不器用な手つきで包装紙を破り、チョコレート色のふたを開けた。ミザーニのリストウォッチだった。アンティーク調の文字盤に斬新なデザインの針が不思議とマッチした、とても洒落た時計だった。
「よく、わかったね」僕はあまりうまく回らない舌で喋った。
「当たり前でしょ、2ヶ月近くもいっしょにいるのよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 僕はふと思い出してチノクロスのポケットから小箱を取り出し、彼女に差し出した。彼女はきらきらと輝く瞳で僕を見つめ、ありがとうと言ってそれを受け取った。僕は弾かれたように彼女のそばを離れ、ステレオの前に行ってシャンペーンのレコードをかけた。それから手のひらを拳で叩きながら台所に行き、やかんを火にかけた。シャンペーンの『How 'bout Us』に合わせて口ずさみながらカップを用意し、取っておきのティーバッグを取り出した。
 啓奈は台所の入り口に立っていた。右手には小さな指輪を持っていた。
「泣いたら、また何か言うでしょう?」
「さあ」
「きっと、言うよね」
「何も言わないかもしれない」
「約束してくれる?」
「僕の苦手なものはレバーと電話と、もうひとつ何か知ってる?」
「知ってる。約束だって言いたいのでしょう?」
「当たりだ」
 彼女は風に流されるようにして僕の胸の中に飛び込んだ。その瞬間に彼女の瞳から最初のひとつぶが落ちた。
「いっつも泣いてるみたいだな」
 彼女は僕の胸を叩いた。「あなたこそ」
 僕はその手を掴んで指輪を奪い取り、彼女の左手の薬指にはめた。やかんが小さく囁きはじめるまで、彼女は静かに泣き続けた。







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