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この章から、性的な表現が出てきます。年齢制限のない一般的な小説で考え得る程度のものですが、不快に感じられる方はご遠慮下さい。
How 'bout Us
作:H.RcGoon



第一部 第四章


 五月も半ばになると、かすかに夏の匂いを含んだ暖かな風が吹くようになった。大学の構内では芝生が微妙な色合いにその姿を変え、校舎のレンガ壁にからまった頑丈そうなつたもゆっくりと鮮やかな緑色に染まろうとしていた。重たい上着を脱ぎ捨てた、テニスラケットやレコードや分厚い本を小脇に抱えた学生たちの足並みは、急に生き生きとしはじめたように見えた。
 その日の最後の講義が終わって、岸本が奇妙な笑みを浮かべて僕のところへやってきた。
「おまえさ」岸本は僕の目の前に両手をつきながら、やぶからぼうに言った。「啓奈とちょくちょくふたりきりで会っているんだって?」
 僕は授業中からずっと読んでいたトレヴェニアンの『The Main』から顔を上げて彼を見た。「いきなりなんだよ?」
「ここのところつきあいが悪いと思ったら、オレの知らないあいだにずいぶんうまいことやってるじゃないか。何回くらいデートしたんだ?」
「そんなんじゃないさ」
「聞いたぜ、先週ふたりだけで神戸まで行ったって」
「それがどうしたんだ?」
「どこまで行ったんだ?」
「神戸に決まってるじゃないか」
「ばか。だれが行き先を訊いている? デートのなかみだよ、なかみ」
「そんなのじゃないって。野球を観に行っただけだよ」
「でも中止だったんだろ? まるまる二日間なにしてたんだよ、恋人の街神戸で?」
「恋人の街?」僕はため息をつき、ペーパーバックを閉じて立ち上がった。「喫茶店でお茶を飲んですき焼きを食べて、それから何杯か酒を飲んだ。それだけだよ」
「それがデートじゃなかったら、オレと優子はいつもなにしてんだろ?」
「それとこれとはまったく別ものじゃないか」
「どうだか。まあいずれはっきりするさ」
 僕はなんだか心の中を見透かされたような気がして、恥ずかしさがこみ上げてくると同時にほんのわずか不機嫌になった。
「それよりメシ食べに行かないか? そう不機嫌になるなよ。美味いところに連れていってやるからさ」岸本はそう言って顎で窓のほうを指した。
 僕は窓辺に行って外を見てみた。チャペルの近くのもみの木の下に立っている優子と啓奈がすぐに目に入った。二人組の男子学生がなにやら話しかけている。
「な?」
「どこへ?」
「まだ決めてない。でも早くしないとふたりとも連れていかれるぜ。あんな子がふたりも揃っていて、やつら放っておくわけないからな」
「やつらって――知っているのか、あのふたり?」
「知るか」岸本は苦々にがにがしい口調で、それでもなぜか楽しそうにそう言い放ちながら出口へと向かった。「世界じゅうのやつらのことさ」
 僕たちは啓奈の運転で横浜まで足を延ばし、中華街で少し早めの夕食を取った。大通りから一本はずれた小さな店だったが、料理はどれも本物で、とげのない実に素直な味つけだった。岸本と僕は中国ビールを飲み、優子と啓奈は杏露酒しんりゅうしゅを氷をひとかけらだけ入れたワイングラスで二杯づつ飲んだ。
 それから近くの埠頭ふとうに行き、船や海を眺めた。あたりはすでに薄暗く、港に停泊した船のあちらこちらには小さな明かりが灯っていた。が落ちると海から吹く風はさすがにまだ冷たく、しばらくすると船の明りがにじんだ。
 僕は火のついていない煙草を唇にはさんだまま、両手をチノクロスのポケットに突っ込んで遠くの海を眺めていた。岸本は僕の隣りで押し黙ったまま、しきりにハイライトをふかしていた。優子と啓奈は僕たちから五メートルほど離れた場所で寄り添い、小声でなにごとかをささやきあっていた。会話の内容までは聞き取れなかった。時折ふたりの澄んだ笑い声が風の音とともに耳に届いてくるだけだった。
「なにを確かめるつもりだったんだ?」僕は煙草に火をつけながら、そう岸本に訊ねた。
 彼は僕を見て煙草の煙を吹きかけ、それからほくそえんだ。「そこまで気づいていながら、なぜとぼける?」
「なにが言いたいんだ?」
 岸本は煙草を踏み消しながらジーンズのポケットに両手を突っ込んだ。「まあいいさ。いずれなにもかもはっきりする」
 首筋から後頭部にかけて何か熱いものがゆっくりとせり上がってきた。それはまるでぱんぱんに張った筋肉を解きほぐすかのように僕の脳をゆっくりと刺激した。やがてひとりの人物の姿が脳裏に浮かんできた。啓奈だった。彼女はいつもの優しげな笑みをたたえてこちらを見ていた。僕は彼女の笑顔に吸い寄せられるようにして見惚みとれていった。
 あのときの僕はあとから思い出してみても、驚くほど意識を集中していた。意識を集中して脳裏に浮かんだ彼女を見つめていたのだ。僕は顔を上げ、頭を強く振って彼女の映像を振り払おうとした。かなり困難な作業だったが、彼女の笑顔は次第に遠く小さくなり、針の穴ほどの白い点となり、やがて完全に消えた。それでも、僕の後頭部をすっぽりと包み込んだ温かい何かはしっかりと残った。

 啓奈は岸本と優子を青山のそれぞれのマンションに送り届けたあと、僕をアパートまで送ると言った。僕は電車で帰るからと言ってふたりといっしょに車を降りようとしたのだが、それは優子が許さなかった。優子は送ってもらいなさいよと言って、器用に片目をつぶってみせた。
 青山通りはうんざりするほどの混みようだった。僕が煙草を一本吸うあいだに五〇メートルと進まなかった。
「ねえ」彼女は深刻な口調で言った。「今日はもう松本君のお部屋まで辿り着けないかもしれない」
「かまわないよ。車の中でだって眠れるから」
「そんな、哀しくなるようなこと言わないで」彼女は笑みを浮かべた。「私のお部屋はすぐそこなんだから」
 僕は危うく2本めの煙草を取り落としそうになった。彼女は声を出して笑った。
「お茶くらいご馳走ちそうするわ」
「いや、今日は帰るよ」と僕は言った。「明日提出しなきゃならない課題もあるし」
 彼女はまた笑って、そうとだけ言った。
 彼女はそのあと僕のアパートに着くまでずっとなにか考え事をしていた。考え事をしているように見えた。話しかけるのも悪いと思ったので、僕は窓を開けて煙草を吸いながら、あちらこちらの派手なネオンサインを眺め続けた。アパートに帰ってからふと、彼女は考え事をしていたのではなく、退屈していただけだったのではないかと思った。そう考えると、胸がきりかなんかでつつかれているかのように痛んだ。  

 10時過ぎにシャワーを浴びてから、読みかけの『The Main』を持ってベッドに入ると電話が鳴った。
「起きてた?」と啓奈は言った。
「もちろん」僕はいささか驚きながら、煙草をくわえてそう言った。
「課題は?」
 彼女に嘘をついていたことをすっかり忘れていた。慌てて、今やっている最中だと答える。
「少しのあいだなら、平気?」
「ああ。かまわない」
 沈黙。
「あのね、私にはパジャマに着替えてベッドの中で小説か何かを読んでいる松本君の姿が見えるのだけど」
 口にくわえていた煙草が机の下まで飛んだ。
「当たった?」彼女はとても楽しそうにそう言った。「私には松本君のことがわかるんだって言ったでしょう? 言わなかったっけ?」
「聞いてない、そんな話」
 ふたたび沈黙。
「課題をやっていても本を読んでいてもいいから――」
「ごめん。課題というのは・・・・あれはうそ」
「知ってたよ」
「え」
「うそだって、わたし知ってたの」
「なんで?」
「さあ。そんなことよりも――ね、今からそっちに行ってもいい?」
 今度はベッドから転げ落ちそうになった。
「いま何時――」僕は時計を見た。「もう十時だよ」
「それも知ってる」
「感心しないね、こんな時間にわけわからない男の部屋を訪ねるなんて」
「わけわからなくないよ」
「いや、そういうのではなくて――」
「いいでしょ?」
「どうしてまた急に・・・・」
「たった今、松本君に会いたいから・・・なんて理由じゃ、だめ?」
 頭がくらくらしてきた。彼女がこんなにも積極的で大胆な女性だとは知らなかった。岸本もそんなことはちっとも教えてくれなかった。正直言って、彼女がなにを考えているのか僕にはさっぱりわからなかった。本気でこんなことを言っているのだとしたら、彼女はなにかとんでもないかん違いをしているのではないかという気がした。もしからかっているのだとしたら、それは冗談が過ぎていた。
「もしもし?」彼女の声は自信に満ちていて、まったくかげりがない。「聞いてる?」
 僕は電話のフックをじっと見つめていた。気がつくと、左手は煙草のパッケージをくしゃくしゃに握りつぶしてしまっていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
 僕はうめくような声で返事をした。彼女は本当に大丈夫かともう一度訊ねた。
「そんなにびっくりさせるようなこと、わたし言ったの?」
「それってひどい冗談だと思う」
「冗談? 冗談なんてわたし言ってないわ。真面目に言ったつもりよ」
「信じろというほうが無茶だ」
「ちょっと待って。本当に冗談なんかじゃないわ。真剣なんだから」
 僕は思わず握りつぶしてしまった煙草をごみ箱に放り込んだ。彼女の口調が変わったことはわかった。こんなたちの悪い冗談を口にするようなタイプでないことも十分にわかっていた。それでも僕はこれは悪い夢なのだと思い込もうとした。
「だったら、新しいシーツに取り替えて待ってるよ」僕の無意識はそう言った。
 途端に電話線がぴんとはりつめた。息を呑み、凍りついてしまった彼女の姿が見えた。
「薬局は閉まったから、輪ゴムでもいい?」
 僕はその沈黙を払拭ふっしょくするかのように追い討ちおいうちをかけた。脳は半ばやけくそ気味にそう喋らせていた。二度と降ろせない幕を引き上げてしまったのなら、その舞台をぶち壊してしまうほど暴れたかったのかもしれない。そうすることが少しでもなぐさめになるのではないかと、僕は思ったのだ。
 受話器の向こうからはブーンという音が聞こえてきた。彼女は押し黙ったままで、暗いとばりのような沈黙が続いた。
「ねえ」神妙な口調で彼女は言った。「いま、わ・ご・むって言ったの?」
「そう」
「輪ゴムって、髪の毛や年賀状を束ねる、あの輪ゴム?」
「ほかにはないと思う」
「それって、どんなふうに使うの?」
 ふたたび立ち往生するばんだった。思い切り意外な展開だった。あるいは受話器を乱暴に叩きつけられて、明日からの憂鬱ゆううつな大学生活のことを思いながら、ひょっとしたら眠れない夜を過ごさなければならないかもしれないと思っていた。顔を合わせていたなら、ほおを二、三回張り倒されてもおかしくないくらいのことを僕は口走ってしまったのだ。
「血液が回らなくならないのかな?」
「いや、大丈夫・・・だと思う」
「見てみたいな、使うところ」
 僕はこの夜何度めかのひどい混乱状態におちいった。そこはい上がることなどとてもできそうにない深い深い穴の中だった。なぜ自分がそのような状況に置かれてしまったのかもわからないまま、ただぼんやりと高い穴のふちを見上げていた。星がゆっくりと流れ、それにつられて僕の頭は揺れ、身体も揺れた。目の前に真っ赤なとばりが降りてきたとき、僕は大きな音ともにベッドから転げ落ちた。
「どうしたの? 大丈夫?」
 腰をしたたか打ちつけたせいで目には涙がまっていたが、顔にはなぜか薄ら笑いが浮かんだ。
「腰を打ってしまったから、今夜は無理だと思う」
「うそ?」
「永遠にだめかもしれない」(本当に痛かったのだ。)
「わかった」彼女は力強くそう言った。「今から看病に行ってあげる。それなら問題ないでしょう? 待っていて」
 電話は切れた。僕は耳をすませ、それから受話器を見て、ふたたび耳にあて、ためしにもしもしと言ってみた。もちろん返事はなかった。
 分不相応ぶんふそうおうにも彼女をさとそうとしたこころみは、足元に白いペンキで線を引いただけに終わった。彼女はその線をさらっといとも簡単に洗い流した。おかげで僕は自分の立っている場所を見失った。ショックで頭は混乱し、自ら引いた境界線をふらふらと超えていった。
 我に返って、そこは後戻りのできない場所だと気づいた。僕は捨て身の戦法にって出た――そう、まるで敵対する国との国境を誤って超えてしまった兵士のように。僕が手にした兵器はM-16自動操銃じどうそうじゅう一丁のみ。敵が周到に用意した兵器に比べるとそれはあまりに心もとなく、そして無意味だった。僕はほとんど相手に鉛弾を撃ちこむことなく、いいようにもてあそばれ、そしてぶちのめされた。
 ふと、思った。彼女は最初からこのような展開を見越していたのではないか、と。僕が混乱し動揺して、彼女がほどこした美しい舞台設定をぶち壊しにしようとしてしまうことまで・・・。
 僕は慌てて立ち上がると部屋の中を見渡した。絨毯じゅうたんのすみに汚れた靴下とバスタオルが落ちていた。椅子いすの背にはチノクロスのパンツが折り目をまったく無視した状態で掛けてあった。本棚のすみにはこんなとき処遇に困るたぐいの雑誌も何冊かあり、その前にはまだ読んでいない文庫本が山積みになっていた。
 テーブルの上は、H.ウォーの『事件当夜は雨』と父親からの手紙と分譲マンションのダイレクトメール(どういうわけか学生の僕にもこの種類の郵便物がたまにやってくる)と、どこかの店のレシートとわずかばかりの小銭、テレビとステレオのリモコン、ポテトチップスの空袋に飲みかけのコーラの缶とグラス、ボールペンと鉛筆が一本づつに三〇センチの定規(何に使ったんだっけ?)、たぬきの貯金箱に目覚し時計、それにどういうわけかシチュー鍋が一個――やれやれ、いつの間にこんなことになってしまったのだ?
 僕はシチュー鍋を片づけ、チノクロスをハンガーに掛けてクローゼットにしまい、靴下とバスタオルを洗濯機に放り込んでふたをした。彼女の目に触れてはならない雑誌は本棚の後ろに隠し、父親からの手紙は机の引き出しにしまい、スナックの空袋と分譲マンションをごみ箱に押し込んだ。
 次にダンボールの空箱を取り出してきて、テーブルの上を手で払ったあと、慌てて小銭を集めた。コーラがものの見事にあふれていた。僕は舌打ちしながらコーラの缶とグラスを台所に持っていった。
 ふと思い立って、絨毯の上に腹這はらばいになった。無数の抜け毛とスナックのくずらしきもの、それに埃が絨毯の毛にからみついていた。僕は安物のグレイの絨毯に掃除機をかけた。煙草の焦げ跡こげあとが3ヵ所もあった。
 コードに足を引っかけて転びそうになったそのとき、玄関のチャイムが鳴った。僕はあわてて掃除機のスイッチを切り、クローゼットの中に放り込んだ。ふたたびチャイムが鳴ったので、返事をしてもう一度部屋の中を見渡した。
 たぶん、大丈夫――たぶん。 
 呼吸を整えて玄関を開けると、紙袋と小さな白い箱を持った啓奈が目をくるくるさせて立っていた。危うく、こんばんはと言いそうになった。
「早かったね」
 彼女はバス・ウィ―ジョンのチョコレート色のローファーを脱いで僕が差し出したスリッパに履き替えながら、この時間なら空いているからと言った。「それより腰はどう?」
 腰のことなどすっかり忘れていた。「だいじょうぶ」
「どうしたの?」彼女は立ち止まって僕の顔をのぞきこんだ。「汗かいてるよ」
「ああ、いま腕立て伏せをしていたんだ」
「腰が痛いのに?」
「逆療法だよ」
「目覚し時計を持って?」
「そう、目覚し時計を持――って、なんで?」
「知らない」
 僕は手にした目覚し時計を呆然ぼうぜんと見つめた。それから、ずいぶん前から肺の中にまったままになっていた空気を吐き出した。彼女は上目遣うわめづかいで僕を見て含み笑いを漏らした。
「そんなことよりも、適当にそのへんに座っていて。お茶でもいれるから」
「私がしようか?」
「いいから座ってて」
 彼女を部屋に押しやると、僕はやかんを火にかけてお茶の用意をはじめた。大丈夫、落ち着け。
「紅茶でいいのかな?」
「ええ」
「レモンかミルクは?」
「ストレートで」
 ストレート――? ストレートってなんだ? 頭の中に真っ先に浮かんできたのは、六歳の夏に広島市民球場で見た江夏豊えなつゆたかの豪速球だった。実際にはあまりに速すぎて見えはしなかったのだけれど。
 冷蔵庫を開けてみると、からからに乾いたレモンが半分あった。ミルクはなかった。僕はあきらめてレモンを三角コーナーに放り込んだ。
「お皿はある?」彼女が台所にやってきてそう言った。
 僕はあわててプラスチック製の水切りかごにあった大きなカレー皿をつかんだ。彼女は両手を胸のところで止め、僕と皿を交互に見た。
「ケーキがのるくらいの小さいお皿でいいのだけど」
「あぁ、そうか」
 僕は食器棚の扉を開け、ケーキ用の皿とフォークを2組取り出した。僕の部屋にもケーキ皿くらいはあるのだ。
 彼女はにっこりと微笑んで皿を受け取り、部屋に戻っていった。
 落ち着け、落ち着け――僕は呪文を唱えるように口の中でつぶやいた。落ち着け、落ち着け――やかんの湯をカップに注ぎ、ティーバッグを揺する。カップの中身は真っ黒――慌てて台所の電灯のスイッチを押し、ふたたびカップをのぞき込んだ。オーケー。
 二つのカップを持って部屋に入ると、彼女はテーブルのそばにちょこんと座り、シチュー鍋から一枚づつ小銭を取り出しているところだった。さっき片づけたはずのシチュー鍋がどういうわけかいま彼女の手元にあった。
「なんで?」
「知らない」彼女はそう言うと、最後の一枚をシチュー鍋から取り出した。「全部で四六三円あったわ」
「それ、どこにあった?」
「枕の上」
「なんで?」
「知らない。あ、それからね――」彼女はそう言ってごみ箱を引き寄せた。「これは?」
 彼女がごみ箱から取り出したものは読みかけの『The Main』だった。「捨てるのなら、いただいてもいい? ちょうど、これ読みたいなって思っていたの」
 もう何がなんだかわからなかった。身体じゅうからあらゆる水分が蒸発し、からからになって朽ち果くちはててしまったような気分だった。僕はあきらめて彼女の向かいに腰を下ろした。
「たぶんはじめてよ、あなたみたいな人」彼女は白い箱からチーズケーキを取り出しながら、楽しそうにそう言った。「なんだか、相当にふしぎ」
「君だって、僕からすれば相当にふしぎ、だよ」
「どうして?」
「今ごろこんなところにいる」
「変かな?」
「変かなって・・・そりゃ、君が勇敢ゆうかんな女の子だってことは認めるよ。だけどね――」
「そんなことよりも――ね、腰は?」
「ああ。少し、ね」
「わたし、こんなもの買ってきたんだけれど」彼女はそう言って持ってきた紙袋を開けた。なかみは普通のサロンパスに大判のシップ薬、スプレー式のものから塗るタイプのもの、果ては飲み薬まで、全部で十二種類あった。
「どうしたの、これ?」
「途中で買ってきたの。本当に痛そうだったから。どれがいい? それとも順番に全部試してみる?」
「いいよ」
「だめ。痛いのでしょう?」
「痛くなんかない。ぜんぜん」
「私が貼ってあげる」
「いいって――」
 彼女はいきなり僕の肩を掴んでびっくりするほどの力で押し倒した。それから這って逃げようとする僕の太腿ふとももの上に馬乗りになった。
「じっとしてなさい」彼女はアイロンをかけたような口調で言いながら、僕のパジャマのすそをたくしあげた。「どのあたり?」
「もう少し上」僕は憮然ぶぜんとなって嘘をついた。本当はもう少し下だったのだが、そこにシップ薬を貼るためにはパジャマのズボンを下ろさなければならなかったからだ。
「このへん?」
「そう」
 彼女は最初にスプレーを使って、その上から大判のシップ薬を貼った。「どう、気持ちいい?」
「うん」
「ついでにこれも飲んでおく?」
「それはいいよ。なんだかおなかをこわしそうだ」
「大丈夫」彼女はそう言って、僕の上におおいかぶさった。
 僕は全身を硬直させた。彼女の柔らかな胸が肩甲骨けんこうこつのあたりに押しつけられたのだ。
「飲んで」
 彼女は僕の首に後ろからしがみつくような態勢になっていた。彼女の息づかいが耳のすぐ後ろで感じられた。
「大丈夫、かな?」
「大丈夫よ」
 僕は恐る恐るひとくち飲んでみた。子供のころ飲んだ風邪薬をひどく苦くしたような味だった。
「どう?」
 僕はびんのラベルに書いてある成分を読み上げた。それから効能を読んでみると、肩こり、疲労回復、目の疲れ・・・・・。
「これ、打ち身に効くなんてどこにも書いてない」
 僕はそう言って思わず振り返った。彼女の瞳がわずか数センチのところにあった。彼女はさらに顔を近づけ、平気よとささやいた。唇がそっと僕の頬に触れた。
 彼女はまばたきもしないで、じっと僕を見つめていた。彼女の瞳は驚くほど深く透き通り、瞳孔どうこうがゆらゆらと揺れていた。そこには彼女の勇敢さが裏付けされていると同時に、完全なる自己信頼と意志の強さからあふれてくる光のようなものが見て取れた。僕は身体をひねって振り返ったまま、茫然ぼうぜんとなって彼女の瞳を見ていた。
 彼女の薄いまぶたがゆっくりと閉じられ、僕たちはどちらからともなく唇を重ねた。彼女の唇は熱を持っていた。そしてかすかに震えていた。彼女は唇を離すとこぼれ落ちた髪をかき上げてにっこりと微笑み、今度は僕を見つめたままもう一度唇を近づけてきた。
 僕は不自然な体勢のまま彼女の肩を掴み、言った。「これ以上続けると止まらなくなってしまう」
「かまわない」
「でも、輪ゴムしかない」
 彼女は思い出したように笑って、それから間隙かんげきを縫うようにして不意に唇を押しつけてきた。僕は半ば無理やり身体を回転させて仰向あおむけになり、彼女の背中に手を回して軽く力を加えた。彼女の重みが心地好かった。
「笑わないで答えてくれる?」
「ああ」
「ほんとに笑わない?」
「約束する」
「ヴァージンって、いや?」
 彼女の瞼は小刻こきざみに震え、白い陶器とうきのような歯が唇に立った。視線は僕の眼と首のあたりとのあいだを行ったり来たりしていた。
「そんなことはないよ」と僕は言った。「素敵なことだと思う」
「本当にそう思う?」
「ああ」
「だったら、もらってくれる?」
 耳の後ろでまるで開演前のベルのような音が聞こえた。息が詰まった。瞳はなんとか彼女に焦点を合わせようとむなしい努力を続けていた。  
 彼女の積極的な言動は僕のそれまでの常識を根底からくつがえした。ヴァージンの女性なんて初めてだったし、彼女のような人もうらやむような知性と美貌びぼうを持ち合わせた女性となると、それこそまったくといっていいほど信憑性しんぴょうせいに欠けた行為だった。悪い冗談か夢なのではないかと思った。
 しかし、彼女の瞳は真剣そのものだった。彼女の身体の重みもはっきりと感じられた。冗談でも夢でも幻想でもなかった。僕は自分が置かれた状況を把握しようと思いをめぐらせたが、何を考えたらよいのかさっぱりわからなかった。そのせいでおそらく困惑し切った表情が僕の顔に浮かんだのだろう。彼女の顔に落胆の色が広がった。
「やっぱり・・・」彼女は両手をついて上半身を起こした。「いやよね、ヴァージンなんて」
 僕はまるで緊張と不安と動揺を振り払うかのように、首を横に振った。両手は彼女の背中を離れ、絨毯の上を彷徨さまよった。背中にじっとりと汗が浮かんでいた。彼女の瞳は光を増し、頬は心なしか蒼ざめていた。前髪がこぼれ落ち、額と頬をおおった。小さな舌がそっと唇を這った。僕には彼女をがっかりさせないようなうまい言葉が見つからなかった。
「いいの」
 彼女は恐怖と不安から解放されたかのような笑みを浮かべた。顔色は決してよくなかったが、それでも頬の片すみにほんのりと赤みが差しかけていた。まぶしそうに細めた目にはひとすじの光があった。彼女の瞳は濡れていた。
「気にしないで」と彼女は言った。「私、たぶんあなたのそんなところが好きなんだと思うから」
 不意に温かな空気があたりを包んだ。
「そんなところ?」
 彼女は小さくうなずいた。
「好き・・・?」
「そう」
 彼女はふたたび僕の身体にそっと体重をあずけ、頬を僕の胸につけた。彼女の髪の毛が僕のあごを優しく撫でた。僕は彼女の背中に両手をまわした。彼女の鼓動がはっきりと伝わってきた。目元まで赤くなっているのが、こぼれ落ちた前髪の陰からもわかった。僕はそのまま長い時間をやり過ごした。 

「今晩泊まってもいい?」長い時間が過ぎたあと、彼女は僕の胸に頬を押しつけたまま小さな声でそう言った。
「帰らなくて平気なの?」
「私はあなたと同じひとり暮らしよ」
「毎晩お父さんが電話をかけてくるとか」
「まさか」彼女は顔を上げて僕を見た。「私、こう見えても両親の信頼は厚いの」
「もしかして、最初からそのつもりだった?」
「そう」
「だったら、薬局に寄ったついでに買ってくればよかったね、あれ」
「輪ゴムがあるからいいのかと思った」
 僕たちは抱き合ったまま笑った。
「でも、眠れる?」
「大丈夫。毛布の予備くらいあるから」
「そうじゃなくて」
「ん?」
「さっきから腰のあたりにあたってる」
 僕はしばらく考えてから大丈夫さと答えた。
「ほんとに?」
「たぶん、ね」
「我慢できなくなったら、言ってね」
 眠りに落ちる前、彼女は僕の肩口でごめんなさいと言った。僕が訊き返しても彼女はそれ以上なにも言わなかった。彼女の言おうとしていたことはわかるような気もしたし、それはまったく見当はずれのような気もした。本当のところは、そのあとすぐに聞こえてきた彼女のかすかな寝息が本物であったのかどうかということと同じくらい、僕にはわからなかった。
 その夜、僕はなかなか寝つけなかった。やっぱり美しい女性がそばで眠っていたからだろう。僕だって男なのだ。僕は最初から絨毯の上で眠るべきだったのだ。狭いシングルベッドの上で、彼女は小さな寝息を立て、まるで子供のように丸くなって眠っていた。彼女の息づかいが一定の間隔をおいて首筋を撫で、乳房はパジャマ代わりのTシャツを通して腕に押しつけられ、太腿は心地好い重みを僕に与えていた。そんな中で、僕は抑圧されて行き場を失った性欲と一晩じゅう戦い続けた。

 翌朝、僕と彼女はほとんど同時に目を覚ました。彼女が先にシャワーを使い、それから僕が使った。彼女は僕がシャワーを浴びているあいだに、残り物のカレーを温め、レタスとピーマンで簡単なサラダを作った。僕がシャワーから出ると、彼女は勝手に台所を使ったことをびた。僕はぜんぜんかまわないと答えた。
「でも、残り物のカレーなんかしかなくて悪かったね」
「わたし好きよ、二日めのカレーって」
 食事が終わると、僕たちは彼女の車で出かけた。海を見たいと彼女が言い出したからだった。車の中で彼女は、僕が生まれ育った街のことについて聞かせてほしいと言った。
 僕の故郷は'70年代に入って観光地としてけっこう有名になった小さな城下町で、実家は街の中心からさらに十六キロも山奥に入った地区にある。近所には食料品から雑貨まで、まあ田舎で暮らすにはさほど不自由を感じさせない程度の小さな商店が三軒ある。理髪店と美容院が一軒づつ。薬局もある。でもあまり気の利いたものは置いてない。風邪薬と目薬くらいだ。駐在所があり、パトカーと消防車が一台づつ。最近になって自動販売機が二台設置された。夜中に叫び声をあげれば、少なくとも二、三軒の家には明りが灯る。その程度には住宅は密集している。でも、叫び声を聞いたことは未だかつて一度もない。バスは一時間に一台、鉄道は街まで出ないとない。ほとんどの家庭は一台か二台の自家用車を所有している。でも、下水道設備はない。
 僕が通った小学校と中学校には、みしみしと軋む廊下と小学生の重みにも耐えられない天井(実は、体育館の天井裏に上がっていて、落ちたことがある。奇跡的にかすり傷で済んだけれど)と真冬でも風の吹きぬける窓がある。生徒数はそれぞれ全体で九十人前後と六十人前後で、増えもしなければ極端に減ることもない。夏暑く冬寒い気候のせいか子供たちはみんな頑丈で、僕自身大した病気にかかったこともないし、どこかの子供が大病をわずらったなどという話も聞かない。夏にはみんな文字通り真っ黒に日焼けする。山野を駆け巡り、近所の川で水遊びに興じる。およそ都会の子供たちとは遠くかけ離れた環境の中で、だれもがけっこうたくましく育つ。
 僕の話の内容はざっとそんなところだった。彼女は楽しげに時折うなずきながら僕の話に聞き入っていたが、本当に楽しかったのかどうかはわからない。僕自身、僕の故郷が楽しいところだなんて思ったことはそれまでただの一度もなかったからだ。
「素敵なところみたいね」と彼女は言った。
「そうかなあ」僕は彼女の言っていることが本当に信じられなくてそう言って首をかしげた。「みんな、こんな田舎いなかなんて早く抜け出したいって思っていたはずだけど」
「そんなものよ」
 空は抜けるように青く、海を眺めるには誰もいない冬の海に匹敵するくらいうってつけの五月の午後だった。僕たちは海岸沿いに車を停め、外へ出て砂浜を歩いた。
 長い髪の毛が微風そよかぜに揺られ、頬をほんのりと紅潮させた彼女は、とても心地好さそうに見えた。僕はそんな彼女と海とを交互に眺めながら、とても満たされた気分になった。
「いつか、あなたの街に行ってみたいな」
 砂浜に長い足跡をつけた後、彼女はぽつりとそう言った。







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