第四部 第四章
翌朝目が覚めると、隣りに眠っているはずの啓奈の姿はなかった。シーツにはまだ彼女の温もりが残っており、その上にはブラインドを通った朝陽がいくすじもの細い線を描いていた。
僕は裸のままベッドから抜け出して台所に行った。テーブルの上には紅茶の用意がしてあった。次に洗面所に行ってみた。もちろん彼女はいなかった。代わりに彼女の下着とストッキングが干してあった。ひとりではないことを、僕はそのときはじめて実感した。
歯を磨いて顔を洗い、髭を剃った。ペリエの小瓶を持ってベッドに戻り、煙草を吸いながら飲んでいると、啓奈が近所のパン屋の紙袋を抱えて帰ってきた。彼女は紙袋をテーブルに置き、ベッドのそばへ来て微笑んだ。それからおはようと囁くように言いながら僕の耳の下に唇をそっとつけた。
「よくパン屋さんなんてわかったね」
「まかせて」彼女はベッドの上に頬杖をつきながら言った。「こういうことには鼻が利くんだから」
僕はふんふんと頷いた。
「先に着替える? それともここでお食事?」
「服を着るのがなんだかもったいないな」
啓奈は瞳をくるっと一回転させ、僕の裸の胸を見ながら含み笑いを浮かべた。それから探し物でもするような感じでシーツの下に左手を差し込み、僕のペニスに触れた。彼女は唇を噛みながら笑うとゆっくりと指先を動かしはじめた。僕は彼女を引き寄せてそばに座らせ、唇を首筋に押し当てながらブラウスの上から胸に触れた。
「脱いだほうがいい?」
「このまま」
「それにしても、ずいぶん元気ね」
「昨夜3回もやったのにね」
「うん、3回もやったのに」
「ずっと我慢してたんだ、きっと」
「そのぶん全部出していいわよ」
彼女は笑って指先に力を加えた。ほどなくして僕は啓奈の手の中に射精した。彼女はそれをクリネックスで拭き取りながら、よかった? と訊いた。僕はとてもねと答えた。彼女は嬉しそうに微笑むと、立ち上がってブラジャーの位置を整えた。
「でも、こんなテクニックをどこで覚えたの?」
「教えてあげない」彼女は後ろ向きのままそう答えたが、柔らかな耳たぶが真っ赤になっているのがベッドの上からでもはっきりとわかった。
僕がシャワーを浴びているあいだに、啓奈はたまねぎとマッシュルームのオムレツを焼き、レタスとツナのサラダを作り、コーンスープにミルクを足して温め、バゲットにバターを塗ってオーブントースターで焼いた。シャワーから出ると部屋いっぱいに香ばしい匂いが漂っていた。その匂いは細かな霧となって僕の鼻腔を心地よく刺激した。
僕たちは台所のテーブルに座って彼女の作った朝食を食べた。それはまさに夏の朝に相応しい朝食だった。食事が終わると流し台の前に並んで食器を洗い、それから2、3日ぶんの荷物を作った。彼女が持ってきたジュリア・シュミットのボストンバッグから彼女の荷物を減らし、そこに僕の着替えを詰め込んだ。
「それにしても」と、僕はいささか不思議に思って彼女に訊ねた。「荷物がずいぶん多くないかい?」
「大学は夏休みよ」
「まさか、そのあいだずっといるつもり?」
「だめ?」
「だめじゃないけど――いやそうじゃなくて、お父さんやお母さんは?」
「あなたのところに行くって言ってある」
「僕のところ――って、知らないよね、僕のこと?」
「知ってるよ」
「どうして? 会ったことないよ」
「私が話したもの」
「話したって――ねえ、それでお父さんやお母さんは会ったこともない男のところへ君が行くことを許しちゃうわけ?」
「前にも言わなかった? 私、こう見えても信頼厚いんだって」
「いや、信頼厚いとかじゃなくって――」
「ねえ、そんなに心配なら今度会ってくれる?」
「あ、ああ。いずれはそのつもりだけど。でも、大丈夫かな?」
「平気よ。ママもきっとあなたのことを気に入るわ」
「なんで?」
「だって、あなたってそういうタイプよ」
「そういうタイプ?」
「そう。そういうタイプ」
僕と啓奈は10時過ぎにタクシーをつかまえ、共同経営者の彼の部屋に向かった。彼が車を貸してくれることになっていたのだ。僕のアルファ・ロメオ ジュリア1600スーパーは昨年の1月――美奈子と再会する直前――意図的に凍らせたんじゃないかと思いたくなるほどつるつるの雪道で操縦不能となり、巨大な樅の木に突っ込んでその一生を終えていた。鼻っ柱を樅の木に食い込ませ、シャーシーは折れ曲がり、ギアレバーが僕の顔の高さまで突き上がったその姿は、あまりに無残な最期だった。
呼び鈴を鳴らしたとき、彼はまだ眠っていたようだった。眠そうな眼をこすりながら、彼はポルシェのキーを持って上半身裸のまま出てきた。啓奈は慌てて後ろを向き、僕はキーを受け取って休暇と車の礼を言い、裸で出てきたことにひとこと注文をつけた。彼は、昨夜はどうだった? と啓奈の背中に訊いた。彼女は顔を紅潮させて、知りませんと言った。
僕はいくつかある故郷への道の中から、もっとも遠回りになる海岸沿いの国道を選んで車を走らせた。万が一、途中で啓奈が運転しなければならなくなったときのことを考えて、山道の少ないいちばん安全な道を選んだのだ。途中に競艇場があるものだから日によってはどうしようもなく混雑してしまう道だったが、幸いにその日は大きなレースもないようで、車の流れはとてもスムースだった。
気温はすでに30度を越していた。午後にはもっと暑くなることが明らかだった。空にはロールパンのような雲がふたつ浮かんでいた。窓を開けると汐の匂いを含んだ生暖かい風が吹き込んできた。複雑な海岸線に囲まれた海はほとんど凪の状態で、すでに色とりどりの水着を着けた海水浴客が浜辺で寝そべったり水をかけあったりしていた。沖合いでは真っ白な帆を広げた2隻のヨットがきらきらと輝く水の上をゆっくりと滑っていた。それはそこだけ切り抜かれたような鮮明な白だった。その後ろには目が痛くなるような緑色した小島が見えた。啓奈は海を見ながら、水着を持ってくればよかったと残念そうに言った。
「むこうで買えばいい」
「お家の近くで泳げるところがある?」
「きれいな遠浅の海岸があるよ」僕はその海岸のことを思い出しながらそう答えた。
僕の故郷の街が一望のもとに見渡せるトンネルを抜けたのは、それから4時間後のことだった。僕にとっても久しぶりの故郷だった。大学を辞めてしまって以来、一度も帰ってきていなかったのだ。およそ40ヵ月ぶりのことだった。
「なんだか緊張してきちゃったな」啓奈は街並みを見下ろしながら不安そうにそう言った。
「僕が大丈夫なら、君が大丈夫じゃないわけがない」
「ありがとう。でも、やっぱり・・・」
山沿いの国道を下りると、僕は駅前に新しくできた町営の駐車場に車を停めた。それは以前帰ってきたときにはなかったものだった。時の流れというものは日常における記憶を時として蔑ろににしてしまう。もしこの駐車場ができていなければ、高校生のころそれこそ毎日のように目にした風景がこの場所に残っていたはずだ。しかし、僕にはあのころこの場所にどんな建物が立っていたのかまるで思い出せなかった。
「どうしてお家まで帰らないの?」と啓奈は車から降りながら言った。
「いま帰っても誰もいないからね」と僕はポルシェの低い屋根越しに言った。「それに、家はまだここから16キロ先なんだ」
「じゃ、まず街の見学ってところね」
「そう。とりあえず――」
「お昼にしましょ?」
「そう。何か忘れてると思ってた」
僕たちは近くのレストランに入り、遅めの昼食をとった。
「それにしても、本当に静かなところね」啓奈はあまり美味しくないパエリアを口に運びながら言った。「騒音なんてちっとも聞こえない」
「夜になるとこんなものじゃないよ」
「もっと静か?」
「夜8時になるとね、みんな雨戸も閉ざして一歩も外には出ないんだ。街灯も全部消える」
「街灯も? どうして8時なの?」
「8時になるとね」と僕は真顔になって言った。「魑魅が出てくるんだ、この街には」
「ちみ?」
「そう、山に棲む怪物だよ」
「――って、魑魅魍魎の魑魅のこと?」
「今では正体を見たことのある人はもうほとんど残ってないけどね」
「冗談でしょ?」彼女は一瞬顔を曇らせ、それから苦笑いを浮かべてそう言った。
彼女にとってこの街は未知なる世界も同然だった。実を言うと、道すがら次第にまわりの景色が彼女にとってあまり馴染みのないものへと変化していくにつれて、僕は彼女の表情に一抹の不安みたいなものを見出していたのだ。誰もが一度は感じたことのある初めて訪れる土地に対するさまざまな不安に、僕の街が彼女の予想をはるかに越えた田舎だったことがさらに拍車をかけていたのだ。
「冗談なんかじゃないさ」僕はいたって真剣に言った。「この街ではね、毎年20人くらいの行方不明者が出るんだ。わずか一万人足らずの街で、だよ。みんなそいつらの餌食になってしまうんだ」
「悪い冗談だわ、それって。そんな話、だれも信じやしない」彼女はもう一度苦笑いを浮かべ、気を取り直してふたたびパエリアに取りかかろうとした。
「だからいつまで経ってもこの街は救われない。誰も信じてくれないから」僕は追い討ちをかけるように言った。彼女のスプーンが顎のところで静止した。「街には観光客が落としていくわずかな収入しかないから、大した対策も立てられない。ほらよくあるでしょ、閉鎖的な街でとんでもないことが――たとえば細菌兵器の開発だとか遺伝子操作による人体実験だとか――それによって生まれてきた気味の悪い生物が住民を襲っちゃうような話が。そういったことが起こっているのに、よその土地の人間は誰も信じようとしない。それは人知れず進行して、やがてひとりの住民もいなくなって街は滅びていく。そのパターンさ」
啓奈はスプーンを皿に戻してまだ半分しか食べていないパエリアを隅にやり、悲しそうな顔をして信じられないと言った。
「この街に関しては秘密実験も不穏な分子も関係ないけどね。昔からこの土地に棲みついているんだ、そいつらは。みんなそいつらとともに生きてきたんだ。だから夜間外出して襲われることは仕方のないことだとみんな諦めている。だから君もどんなことがあっても夜8時以降は絶対に外出したらだめだよ」
啓奈は今にも泣き出しそうな表情で深く考え込んでいた。そして恐る恐る口を開いた。「ねえ、冗談だよね・・・?」
僕は残っていたオムライスの皿をよけ、煙草に火をつけながらにやっと笑って、嘘だよとなんでもないように言った。彼女は口を半分ほど開いて絶句した。
「信じられない」彼女は前髪をかき上げながら大きくため息をついた。「あなたなんか、そのモンスターだかなんだかに食べられちゃえばいいんだわ」
「もう食べないの?」
「いらない」
「コーヒーか紅茶は?」
「それもいらない」
「煙草でも吸ってみる?」
「けっこうよ」
「怒った?」
「当たり前でしょ」
レストランを出ると僕たちは街をこれといったあてもなく歩いた。どこに行きたいかと訊ねると、彼女はそっぽを向いてモンスターの出ないところと答えた。昼間は出てこないよ、と言って僕はまた笑った。
彼女はすっかりご機嫌ななめで常に僕から1メートルほどの距離をおいて歩いていたのだが、鯉が放流されている水路の辺りに来ると僕の袖を子供のように引っぱった。
「ねえ」彼女は僕の袖口を掴んだまましゃがみこんで鯉に見入って言った。「これもモンスターなの?」
「みたいでしょ」
「はじめて見た、こんな大きい鯉」
鯉は狭い堀の水の中で、異常とも思えるその巨体を折り重ねるようにして泳いでいた。
「これ、食べちゃうの?」
「人間?」
「そう」
「いくらなんでも鯉は人間を襲ったりなんてしないよ」
彼女は立ち上がって僕を睨んだ。「さっきの話の続きなの? 私が言ってるのは逆でしょ」
「食べないよ」僕は笑いながら言った。「ここの鯉は街の条令かなんかで保護されてるんだ」
彼女はふうんと返事をしてふたたびしゃがみこみ、その鯉たちを眺めた。
「何を食べるの?」
「犬とか猫とか」
「本当に怒るよ」
「観光客の投げる餌だよ。大抵が麩だけどね」
「なるほど」彼女はうんうんと頷いた。「だからこんなに大きくなっちゃうのね」
「え?」
「麩はね、たんぱく質がものすごく豊富で、しかも消化がとてもいいの」
「ふうん」
「プランクトンは食べないの?」
「そんなまずいもの食べなくても、いくらでも餌を投げてくれるよ」
「プランクトンを食べたことあるの?」
「ない」
彼女はしばらくのあいだしゃがみこんで食い入るように鯉を眺めていたが、ふと、なんだか気味悪いと言って立ち上がった。僕は相槌を打ちながら、彼女の手を取った。結局、夕方まで街を歩き回り、それから僕の実家へ向かった。啓奈はいよいよねと言った。いよいよだ、と僕は答えた。
啓奈のことだから何も心配することはないと思いつつも、まるで心のどこかに眠り爆弾でも仕掛けられたような不安が、常に僕の中にはあった。しかし、最初は恥ずかしがるような素振りを見せた彼女も夕食が終わるころにはすっかり母親と意気投合し、料理を教えてもらう約束まで取りつけるようになっていた。
僕は意外に機嫌のよい父親と居間でウィスキーを飲んだ。啓奈は台所で、夕食で食べた母親の祖母の代から伝わるかぼちゃの湯葉包みを熱心に習っていた。
父は元気そうで安心したと僕に言った。それから、啓奈の両親に失礼のないようにと釘を刺した。やがて父親がグラスを持って寝室に引っ込むと、僕はひとりでウィスキーを飲んだ。啓奈はひとりで飲んでいる僕に気づいて、父親が寝室に引っ込んでしまったことをとても残念がった。
「あなたの子供のころのこととか、聞きたいことがたくさんあったのにな」
「そんなことを聞いてどうする?」
「楽しいじゃない?」
「楽しくなんかないよ。ありきたりの出来事しかない。君には想像もつかないような平凡な毎日を送って僕は大人になったんだ」
彼女はじっと僕の眼をのぞき込んだ。「どうしたの?」
「なにが?」
「少し変よ、今のあなた」
僕は諦めてため息をついた。啓奈は心なしか心配そうに僕の横顔を見ていた。
「戸惑ってるんだ」と僕は言った。「あまりにとんとんとんって順調にことが運ぶものだから」
「いいことじゃない。それとも、うまくいかないほうがよかった?」
「そんなことはないよ」
「あなた、疲れてるのよ。昨夜もあまり眠ってないし。早くお風呂に入ってさっさと寝ちゃいなさい」
「君は?」
「いっしょにいないと寂しい?」
「とっても」
「残念ね。しばしのお別れよ」
僕は酒をやめて、風呂に入ることにした。啓奈はもっと母親と話がしたいからと言った。
啓奈が部屋に入ってきたのは、僕がうとうとしはじめたころのことだった。時計を見ると、すでに12時を回っていた。
「ごめんなさい。起こしちゃった?」
「いや、まだ眠ってない」
「ひとりじゃ眠れない?」
啓奈はボストンバッグからパジャマを取り出して着替えはじめた。僕は背中を向けて洋服を脱いでいく彼女を見ていた。彼女はブラウスを脱ぎ、細身のスカートを脱いでハンガーに掛けた。
「なに見てるの?」と、啓奈は僕のほうを見もせずに言った。
「ストリップ」
「そんなに見たい?」彼女はブラジャーのホックをはずしながら肩越しに僕を見てそう言った。
「啓奈の裸ならいくら見たって見飽きない」
「アリガト。でも、いい子だからあまりじろじろ見ないでね」
「ねえ」僕は相変わらず彼女の着替えを眺めながら訊ねた。「どうして風呂に入ったあとパジャマに着替えないの?」
彼女ははたと手を止めて僕を見た。「そのほうがいいの?」
「別にどっちでもいいけど」
「うちのママうるさいの、そういうことには。女性は寝巻きでうろうろするものじゃありませんって」
「ふうん」
「私ね」彼女は隣りに滑りこみながら言った。「お父さんもお母さんも大好きになっちゃったよ」
「無理しなくていいよ」
「ぜんぜん無理なんてしてない。本当に気に入っちゃったんだもの。とっても優しそうで、とっても厳しそうで、でもとっても楽しいの」
「ふつう、親を評価するのに楽しいなんて言うのかな」
「でも、私があなたのご両親を大好きになってしまったことは変わらない」
「まだ6時間くらいしか経っていないんだよ、ここに来てから」
「私の場合、時間なんてあまり関係ないのよ、そういうことに関しては」彼女は天井を見つめたまま言った。「あなたのことを気に入っちゃったときと同じようにね」
「そう言ってくれると」僕は彼女を引き寄せながら言った。「はっきり言って涙が出るほど嬉しいよ」
彼女はうつ伏せになって僕の胸の上に顎を乗せ、何かに考えを巡らせているような眼で僕を見た。
「あまりうまくいってないの?」
「大学を辞めたからね」
「もう3年も前のことじゃない?」
「でも、親父は僕や弟をいい大学に入れるために20年間も働いてきたんだ、文句も言わずに。3年なんて慰めにもならないさ」
「でも、大学がすべてというわけではないでしょう? お父さんもきっと許してくれてると思うわ」
「違うよ、そうじゃない。親父は許してなんかいない。わかるんだ、僕には。それなのに、3年ぶりに帰ってみるとあまりに機嫌がよすぎる」
腕に彼女の温かな胸が押しつけられていて、僕はなんとなくもぞもぞと身体を動かした。
「あなたの考えすぎだと思うな、私は」彼女は僕の胸に丸やら三角やらを人差し指で描きながら言った。「そうよ、きっと考えすぎ。これからなにもかもうまくいくわ」
僕はカーテンの隙間から夜の空を眺めた。月が出ているのだろう――空は鮮やかなミッドナイトブルーだった。野良猫か野良犬が走り回る音がして、ニッパーが吠えた。ニッパーというのは、僕が高校3年の春、通学途中でダンボールに入れられて道の真ん中に置き去りにされていたのを拾ってきた雌犬だ。まだ目も開いていない生まれたばかりの雑種犬だった。彼女は、そのころすでに家の主的存在だった四国犬のクロに毎日のように弄ばれながらも、今ではそのクロに牙を剥くことすらあるほど逞しく成長していた。
「ねえ、何を考えてるの?」啓奈は僕の唇を人差し指でなぞりながら言った。
「わからない?」
「今、あなたの中は真っ白よ。まるで濃い霧の中にいるみたい」
「君の裸を思い出していたんだ」
彼女は唇を噛みながら僕の口元を軽くつねった。「あなたって時々ドキッとするようなことを平気な顔をして言うのね」
「平気な顔して言うから効果あるんだ」
「そんなに見たい?」
「いつでも見ていたいさ」
「じゃ、抱いて?」
「聞こえちゃうよ」
「やっぱりまずいかな?」
「歳の離れた兄弟なんてほしくないよ」
彼女は声を押し殺して笑い、好きよと囁いて僕にキスした。
ほどなくして、彼女は僕の肩口に顔を寄せて微かな寝息をたてはじめた。彼女も慣れない街に来て半日歩き回り、相当疲れていたのだろう。穏やかな寝顔だった。
僕は啓奈を起こさないようにそっとベッドを抜け出して窓辺に立った。きれいな色をした空だった。月が左手の山影に見えた。広い庭に所狭しと植えられた草花は息を潜め、やがて訪れる夜明けを待ち詫びていた。物音ひとつない夜だった。まるで鋭利な刃物のような、極端に澄み切った空気がそこにはあった。
それは以前となんら変わることのない、18の年までいつも過ごしてきた夜のはずだった。しかし、僕は久しぶりの故郷の夜に馴染めてなかった。奇妙な違和感があった。まるでいま立っている場所は僕が立っているべき場所ではないような気がした。いま吸っている空気は辺りを包みこんでいる空気とはまったく別のもののような気がした。自分の存在が急に薄れてきたような気分だった。
僕は振り返ってベッドのほうを見た。啓奈はうつ伏せのまま気持ちよさそうに眠っていた。ふと、得たいの知れない恐怖感に襲われた。彼女が呼吸をしているように見えないのだ。あまりに静かで、背中もまるで上下していない。僕は慌ててベッドのそばに駆け寄り、彼女の口元に手を当てた。微かな温かい寝息が手のひらに触れた。僕はそっと息をつき、その場を離れてふたたび窓辺に立った。
森のせいだ。僕はすっかり忘れてしまっていた帰郷の本来の目的を思い出した。そう、あの森はここから200メートルと離れていないところにあるのだ。しかも以前のように僕はひとりではない。啓奈がいっしょなのだ。あの森を共有する啓奈が今ここにいるのだ。
森は僕の中で規則正しい呼吸を繰り返しながら、このときが来るのをじっと待っていた。僕と啓奈が森を訪れる日を心待ちにしていたのだ。僕にはこのとき、僕の中で森が息づいているのがはっきりと感じられた。次第に不安が広がっていった。それは黒々とした煙幕のように広がり、すべてを包みこもうとしていた。
ふと涙が落ちた。冷たい涙だった。なぜ涙が落ちるのかわからなかった。森へは行かないほうがよいのではないか、そんな気がした。行けばその森の中で触れてはならないものに触れてしまうのではないかという不安が舞い上がった。しかし、同時にそれを確かめてみる必要が今の僕たちにはあるような気がした。そんなことを僕は時が経つのも忘れて考え続けた。気の遠くなるような時間が過ぎたが、どうしていいものかわからなかった。気がつくと、辺りの景色が紺色のベールを脱ぎ捨て、本来の色を取り戻しはじめていた。夜が明けてきたのだ。
よそう。いくら考えてみても今の僕には処理できない。幸い彼女も向こうを発つときからひとことも森のことを口にしていない。彼女が忘れてしまっていることを祈ろう。今の僕にはとても森に入る勇気などない。どうしようもないくらいに怖い。できることならこのまま何も見ずに、なにものにも触れずにここを去りたい。僕は思った。こんな目的で僕はここへ帰ってくるべきではなかったのだ。
「眠らなかったの?」
僕は飛び上がるほどびっくりして振り返った。啓奈が頬を枕に押し付けたままはっきりした眼差しで僕を見ていた。僕は眠れなかったんだと言った。彼女は瞬きもせずにじっと見ていた。彼女の周りには微かな湿り気がオーラのように漂っていた。時計の針は5時半を指そうとしていた。
「そばに来て」と彼女は言った。
僕は自らの意思とは違う何かに操られるようにベッドのほうへ歩いて行った。彼女は身体を起こし、手を取って僕をベッドに座らせた。それから左手で僕の頬を優しく撫でながら顔を近づけ、そして言った。
「行きましょう、あの森へ」
僕は息を呑んで彼女を見つめた。瞳には淡い光が宿り、微かに揺れていた。それは僕をとても安らかな気持ちにすると同時に哀しい気持ちにもさせたが、その哀しみがいったいどこからやってくるものなのかわからなかった。僕は唇を噛み、うなだれた。額が小さな音を立てて触れ合った。
「怖いのね?」
僕は頷いた。彼女は両手で僕の頬を包み、そっと唇を重ねた。
「でも」と彼女は言った。「やっぱり行くべきなのよ、私たちは」 |