第三部 第十五章
『いつか私が手紙を書かなければならない日が来るのではないかと思っていました。どうやら今がそのときのようです。18ヶ月前のあの電話に次いで、通算3度めのおせっかいです。
わかりきったことですが、啓奈は私にとって何者とも取り替えることのできない人です。たとえば悪魔にどちらかを差し出せと言われたなら、もしかしたら私は両親を差し出すかもしれません。それだけ私は彼女のことを愛しています。その彼女が苦しんでいるのをこれ以上黙って見ているわけにはいかないのです。
あのときの電話でも言ったと思います。あなたにもわかっていることです。彼女は決して弱い人間ではありません。それどころか、そのへんの男たちなんか、逆立ちして山手線を一周したってかないっこないのです。私たちには想像もつかないなにかを持っている人なのです。その彼女が今ぐらついています。自分を失いかけているのです。正直、今のような状態の啓奈を見たのは、私も今回がはじめてです。あなたにはそれがわかりますか。
あなたが東京を去るとき、私はあなたをひどく憎みました。これほどひどくだれかを憎んだことなんてないんじゃないかというくらいにです。あれからいくらかの時間が過ぎ、私も多少は大人になって、あなたがあのとき感じた歪みをもしかすると少しは理解できるようになったのかもしれません。でも、今はあなたを許すことはできません。
はっきり言います。あのとき、あなたは自分に嘘をついて啓奈の元を去ったのです。そして今も嘘をつき続けています。そうすることによって啓奈を苦しめていることを知っていながら、傍観者を装い続けているのです。私は真剣に腹を立てています。自分を哀れむのはやめてください。啓奈を苦しめることも、もうしないでください。
先日スキーに行ったときのことを、啓奈はあなたへ書いて寄越したのではないでしょうか。でも、彼女は昼間にそれを書いていましたから、その夜起こった出来事のことなどあなたは知る由もありませんね。知りたいですか。
彼女はいっしょに行ったグループの中の男の子のひとりとキスしたそうです。パーティーの中のゲームでペアになった男の子だったのですが、お酒も多少入って、かなり強引に迫られ、そのときもういいやって思ったそうです。一瞬あなたのことが頭を離れたそうです。
今更言うことでもないのですが、彼女に興味をもつ男はたくさんいるのです。あなたに関わりあっている暇など、彼女にはまったくないくらいです。
その夜遅く、彼女は私のところにやってきて、声をあげて泣きました。あなたのことを一瞬とはいえ忘れ、そしてキスしてしまったことを、とても手紙では書き表せないほどに悔やみ、そして泣き叫んだのです。あの岸本君がそんな彼女を見て動転してしまったくらいなのです。
何も感じませんか。なぜ彼女が泣いたのか、あなたにはわかりますか。断わっておきますけど、古くさい貞操観念なんて言葉で片付けるようなことだけは絶対にしないでください。
あなたは本当はとても正直な人だと思います。貴重な種類の優しさも持ち合わせています。あなたはわずか3ヶ月ほどしか東京にいませんでしたが、私にはそれがわかりました。だから啓奈もあなたのことを好きになったのだと思います。その正直さが、その優しさが、なにかの加減で奇妙に屈折して、それであなたを啓奈の元から立ち去らせたのです。そろそろ気づいてください。お願いします。
私はあなたが好きです。岸本君も口ではひどいことを言うときもありますが、あなたのことを信用しています。そして、啓奈はほかの誰よりもあなたのことを愛しています。
私は啓奈があなたへの手紙を書き続けていたことを知っています。そして、投函されないまま彼女の机の中で眠っている幾通ものあなた宛の手紙のことも・・・。
あなたは今、生きているのですか。これが今の私の気持ちをあらかた言い表しているように思われます。
最後に誤解のないように書き加えておきます。啓奈はあなたに嫌われたならそれはそれで仕方のないことだと覚悟しています。振り向いてもらえなくてもいいとまで思いはじめています。ただ、彼女がいちばんに望んでいることは、あなたにあなた自身を見失ってほしくない、ということです。その一心でこれまで手紙を書き続けてきたのです。
どうか、わかってあげてください。私からの、本当に、本当に一生のお願いです。
優 子
P.S. 岸本君も怒ってます。 』
|