第三部 第十章
年がかわり2月に入ると、僕はあの悪夢のようなアパートを出て1DKのマンションと名のつくところへ引っ越した。築8年経っていたが、それまで住んでいたアパートの一室に比べればウォルドーフ・アストリアのスウィートほどに快適な部屋だった。質屋に持ち込んだ家財道具のうち、利子を払い込んで食い止めてあったテレビと冷蔵庫も取り戻した。6回の分割払いで車も買った。メンテナンスに手間と金のかかる代物だったが、僕の大好きなアルファ・ロメオ・ジュリア1600スーパーにかわりはなかった。
その月には共同経営者の彼もあのホテルを出て、マンションに引越した。彼の新居はまだ建ったばかりで、2つの寝室に14畳のリビングルームと8畳のダイニングキッチンがついていた。実家から家具を運び込み、新たに28型の大型テレビと本皮のソファを買ってリビングルームに置くと、彼がちょっとした若い実業家に見えなくもなかった。
店は年末の勢いが1月の終わりまで続いた。2月に入ると多少落ち着きはしたものの、相変わらず忙しい毎日にかわりはなかった。バイトのふたりには日給で12,000円づつ払った。それでも我々の手元にはちょっと信じがたい額の金が残った。
佳織とはクリスマス以来関係を断っていた。彼女はいろいろと手を尽くしてくれたが、僕は1度も射精することなく、酒の飲みすぎだとか疲れているだとかの言い訳もできなくなっていた。それ以降、僕はなにかと理由をつけて彼の誘いを断わっていたし、佳織のほうからもとくに誘ってこなくなった。
佳織との関係が途絶えてから、僕は新たに8人の女の子と寝た。2人はそのときすでにうちの客で、別の2人はそれから常連となった。残りの4人は、たぶん店の客だったのだと思う。ほとんど記憶にも残っていなくて、それ以来店で顔を合わせたこともない。いわゆる行き当たりばったりの関係ばかりが続いていたわけだが、そのあいだも僕は一度も射精しなかった。そのたびに、佳織のときと同じような言い訳を繰り返した。彼女たちは大して気にも止めなかった。僕は同じ女の子とは二度と寝なかった。
それほど気にしていたわけではなかったけれども、これだけ続くといささか不安になってきた。これといって具合が悪いわけでもなく、勃起しないわけでもない。少なくとも自覚できるほどの体調の変化は見受けられなかった。
僕は最後に射精したときのことを思い出してみた。東京を離れる前夜、啓奈を抱いたときだった。―――まさか。なんの根拠もない。あれこれ思い悩んでみてもどうすることもできなかったし、ますます深みにはまっていきそうな気がしたので、僕はそれ以上考えないことにした。
2月の終わりに、僕はふたたび佳織と寝ることになってしまった。その日は彼女の誕生日で、うちの店でちょっとしたパーティーを開き、ふたりとも酔った勢いで気がついたらベッドの中にいた。彼女はすでに心底疲れ果て、ぐったりと横たわっていた。目は焦点を失い、宙を彷徨っていた。僕の下半身はまるで腰から下を切り離されてしまったかのようだった。
「ねえ」
彼女がそう問いかけてきたとき、僕はほとんど眠りかけていた。物憂げな眼差しで僕の耳たぶのあたりを見つめている。
「いくつか訊いてみてもいい?」
「ああ」
「私以外の人とはどうなの?」
僕は少し驚いて彼女のほうを向いた。彼女の瞳は心なしか哀しげに見える。
「わからないね」僕は彼女から目を逸らしながら言った。「ためしてないから」
言葉の意味を確かめるような沈黙が僕と佳織のあいだに降りた。彼女の視線は僕に向けられたまま片時も離れない。
「私より以前はどうだったの?」
僕はしばらく思い出す振りをして、それからなんともなかったと答えた。
「なんだか私、ばかみたいね」彼女はそう言った。「何度も何度もひとりでイっちゃって、ほんとにばかみたい」
彼女は寝返りを打って背を向けた。投げやりな言葉を態度で示すとはまさにこのことだ。金色の産毛がきらきらと輝いて目に痛い。
「考えたんだけど」と僕は言った。「君にこんな思いをさせるくらいなら、もう会わないほうが――」
彼女は突然振り向いた。「ちょっと待って。それ、どういう意味よ?」
「つまり、今のふたりにとって最善のことを考えたほうがよくないかって――」
「待ってよ。いいからちょっと待って。誰もそんな意味で言ったわけじゃないわ。私のことなんてどうでもいいの」
彼女のほうを向くと、彼女は咄嗟に僕の腕を掴んでいた右手をためらいがちに離した。それから目を逸らし、唇を噛み締めた。僕には彼女の考えていることがいまひとつよくわからなかった。
「もし私に気を使って言ってくれているのなら、そんなことはどうでもいい」と彼女は言った。「本当にいいの、私のことは。それよりあなたなの。もうこの際だからはっきり言うけど、私あなたのこと好きなの。すごく相性いいの。こんなのってはじめて。あなたのキスも大好きだし――こんなことを言うと軽蔑する?」
「まさか。嬉しいよ、たとえ冗談でも」
「ねえ、これって冗談で言ってるわけじゃないのよ。お世辞なんかじゃないわ」
彼女は僕の横顔をじっと見つめていた。まるで自らの発した言葉の意味を噛み締めているかのようだった。そのとき僕はなにひとつ応える術を持たなかった。彼女は寝返りを打ち、諦めにも似た小さなため息をついた。
「なにか悩みごとでもあるの?」と彼女は言った。
「たぶん、ない」
「『たぶん、ない』? ふつうそんな言い方ってする? 他人の話をしているわけじゃないのよ。あなた自身のことなのよ」
「どう言えばいい?」
「知らない」
なんとも奇妙な間だった。彼女が求める場所は最初から明らかで、そこへ辿り着くことも本来なら容易だったはずなのに、なにかに邪魔をされたわけでもなくそれは不意に断たれた。僕はこのまま眠ってしまったほうがふたりにとっていちばんよいのではないかと感じたが、それは彼女が容赦しなかった。彼女は長い沈黙のあと口を開いた。
「ゴルゴ13って知ってる?」
「ゴルゴ13?」
「そう、氷のような目をした暗殺者のマンガのこと。ねえ、知ってる?」
「知ってるよ」
「あの人って、絶対にイッたりしないんでしょう、たくさんの女の人と寝るけど。女を抱きながら枕の下の拳銃のことを考えている。絶対に瞳を閉じない。息も切らさない。背後の扉に常に神経を尖らせている。死に対する恐怖が彼をそうさせるんだって。ねえ、もしかしてなにかに抑圧されているなんてことはない、あなたって?」
抑圧? 思いもしなかった。
「無意識のうちになにかを恐れているとか――怒らないで――両親に厳しく躾けられたとかって、ない?」
「まさか。そうだとしたら、こんなところにいないと思う」
「だったら・・・そう、なにか罪悪感が残ってしまうような恋愛経験があるとか。たとえば――」
「どこからそんなことを思いつく?」
「なんとなく」彼女は言いよどんだ。視線が落ち着くまでに数分かかった。それから、おそらくは彼女がもっとも確かめたかったことを訊ねた。
「忘れられない人とか・・・」ここから先は言わなくとも、といった感じで彼女は押し黙った。
僕は無言のまま否定した。声には出せなかった。そしてそれは、十分すぎるほどの説得力を持って、彼女にしっかりと伝わった。彼女はそれ以上なにも訊かなかった。 |