第三部 第五章
僕は店の開店と同時に自分の取り分を前借してアパートを借りた(なんてむしのよい話だろう)。いつまでもホテルの廊下をうろうろなんてしたくなかったし、ちょうどそのころ僕にはうってつけの格安アパートが見つかったのだ。共同経営者の彼はその仮住まいがいたく気に入っていたらしく、翌年の2月までそこに住み続けた。「慣れてしまえばどこだって同じなんだ」と彼はいつも言っていた。
僕の新しい住まいはおそろしく古めかしい二階建ての木造アパートで、風の強い日にはテーブルに置いた飲みかけの缶コーラが倒れるほどに揺れた。一階はこの建物の所有者である老夫婦が経営する食堂になっていて、非常に魅力的な値段で食事ができたのだけれども、おおかたの予想どおり何度となくひどい腹痛まで味わされることになった。
食堂の脇のじめじめとした冷たい路地を抜け、途中で奇妙に折れ曲がった猫の食道のように狭苦しい階段を上がると、三畳分ほどの共同洗面所があった。洗面台は昔ながらの巨大なコンクリート製で、まるで15年間くらい海底深く沈めてあったかのようにどす黒い緑色にすっかり変色していた。洗面台の上には廃校になった小学校から剥いで持ってきたような板が打ちつけてあって、洗濯用洗剤が置いてあったり、コップに差した歯ブラシがあったり、ときにはどういうわけからかコンドームが洗って干してあることもあった。その洗面台の左側に何かの呪いによって朽ち果てたかのような共同トイレがあった。
部屋は洗面台の並びに一部屋、向かいに二部屋あって、僕の部屋は向かいの奥側だった。そこには押し入れも風呂もなかったけれども、擦り切れて反り返った4枚の畳があった。おかげで僕は部屋の中でしょっちゅう転ぶはめになった。東側の壁には明り取りのようなささやかな窓がついていたが、窓を開けると15センチ先に隣りのビルの壁があった。一面を緑色の苔やら黴やらが覆っていて、パルプ工場の排煙のようなひどい悪臭を放っていた。それでも、4,500円という破格の家賃は何物にも変えがたい魅力があった。
開店当初の店の営業状態については、実際のところ的を得た説明が僕にはできない。当然といえば当然の成り行きだし、そのような状況を乗り越えられたことが奇跡と言われたら確かにそのとおりなのかもしれない。
開店初日には、この街に残っていた予備校時代の友人や知人が大挙に押しかけてきて、仕入れたウィスキーの三分の一が空になり、残りの半分に誰かしらの名前が書かれてあった。当時の国内ではまだほとんど見かけることのなかったハイネケンも6ケース空いた。冷蔵庫の中は閉店の2時間前にはすっかり空っぽになった。もっともメニューなどというものははなからなくて、そこにあるものに適当に手を加えて出すといったかなり無茶苦茶なやり方だったから、無駄になったものも相当量あったと思う。
2日めにして在庫のウィスキーがすべて出払い、ハイネケンも底をついた。僕たちは何本かのウィスキーと何本かのビールを近所の酒屋に買いに走った。酒類を正規の仕入れ業者以外から仕入れることは彼の父親から固く禁止されていたのだが、その辺の微妙なやりとりには思いもよらなかったし、背に腹は換えられなかった。閉店後、取引先の酒屋の留守番電話に初回と同数のウィスキーとハイネケンを注文した。3日めの開店前にはダンボール4箱分の食材で冷蔵庫の中は溢れ返っていた。
――結果、その後4週間は酒類の仕入れが必要なくなった。保存のきくもの以外の食材はほとんど廃棄処分となった。3日めの客数は3人だった。
考えてみれば何ら不思議なことではなかった。開店前にこれといった宣伝をしたわけでもない。タウン誌に広告をうつことなど思いもよらなかった。我々のしたことといえば、それぞれのアドレス帳に書き込まれた電話番号を片っ端から回しただけだった。3件の取引業者に手書きの挨拶状を書いただけだった。当然の末路である。
僕たちのごく近しい知人10人ばかりが入れ替わり立ち代り来店するといった状態が続いた。反応はその客たちのほうに先に顕れた。何人かは居心地悪そうに酒を飲み、何人かは取ってつけたような明るさを振りまき、何人かは不安げな眼差しでさして広くもない店内を見渡した。そしてほとんどすべての客たちがまた来るよと言ってばつの悪そうな面持ちでそそくさと引き上げていった。まるで身内だけのさえないパーティーを毎晩飽きもせずに繰り返している――まさにそんな感じだった。 |