第二部 第六章
雨は紫色の夕闇が街を包みこんだあとも降り続いていた。とてもやみそうにない雨だった。アスファルトの舗道もコンクリートのビルディングも、マールボロの巨大な広告塔も信号機も、ごみ箱を嗅ぎまわる痩せこけた犬も、みんな雨をたっぷりと吸い込んでいた。まるで流されてしまわないように必死で地表にへばりついているように見えた。1982年6月#日、各局のニュースは本格的な梅雨入りを伝えていた。
僕は最後のダンボール箱をガムテープでしばり終えると、煙草とライターと小銭をポケットに突っ込み、ボリス・タッカーの『その歩みを停めるとき、人は明日を見ない』という長いタイトルの本と透明のビニール傘を持ってアパートを出た。
雨脚はますます強くなっていた。50メートルと歩かないうちに、右肩と足元はずぶ濡れになった。冷たい雨だった。身体の芯から熱を奪ってしまうような冷え冷えとした雨だった。やっとの思いで近所の喫茶店に駆け込むと、キリギリスの心境がほんのちょっぴりわかったような気がした。
店は雨宿りの客でいつになく混雑していた。僕はいちばん奥に空いたテーブルを見つけて座った。すぐそばで業務用のエアコンディショナーがウシガエルのいびきのような音を立てていた。
水とおしぼりを持ってきてくれた女の子がごめんなさいと言って頭を下げた。いつも長い髪を輪ゴムで束ねた、僕より3歳年下の可愛らしい女の子だ。輪ゴムの色は見るたびに違った。ピンク、水色、緑色、黄色、黒・・・・・。
「みんな、雨がやむまでコーヒー一杯で時間稼ぎをするつもりなの」彼女はトレンチで口元を隠しながら小声でそう言った。
「かまわないさ」と僕は言った。「誰だって考えることは同じなんだから」
「でもね、中には4時間も前からお水のおかわりだけっていう人もいるのよ」
「4時間?」僕はメニューから顔を上げて彼女を見た。彼女はトレンチを胸のところで抱くようにして、カウンターの端のほうを眼で指した。そこでは35歳くらいのスーツ姿の男が、週刊誌のページをめくっているところだった。
「ねえ、ひとつ訊いてもいい? サラリーマンってそんなに暇なお仕事なの?」
「どうして?」
「だって、2時ごろからずっとあの調子なのよ」彼女はかがみ込んで顔を近づけて、小声で続けた。「お仕事はどうしたの? 奥さんや子供は? おうちに帰らなくてもいいの?」
僕は彼女の素直な意見に思わず苦笑した。「わからないな。でも、彼はサラリーマンとは限らない。自営業の人かもしれないし。ひょっとすると単身赴任なのかもしれない」
「たんしんふにん?」彼女はまるでクレオール訛りの英語のようなイントネーションで言った。「なにそれ?」
僕は話がややこしくなりそうな気がしたので、つまり迷惑をかけてしまう人も待たせてしまう人もいないということだよ、と言って話を濁した。そのときカウンターの中からマスターが彼女を呼んだ。彼女は元気のよい声で返事をすると、いまひとつ納得がいかないなといった顔つきで僕の注文を取って仕事に戻っていった。僕はチキンのコルドン・ブルーとロールパンとバドワイザーを注文した。ここのコルドン・ブルーはなかなかいけるのだ。
##
東京最後の夜を、僕は冷たい雨とちっぽけな喫茶店のコルドン・ブルーとバドワイザーで祝杯を挙げながら、誰にも迷惑をかけることのない、誰からも待たれることのない人生を想像してみた。実体はうまく把握できなかったけれども、それはなんだかとても素敵な人生に思えた。
僕が料理を食べ終わるころ、雨は小降りになり、店の客は僕を除いてひとり残らず出ていってしまった。女の子は呆気にとられて窓から見える通りを見つめた。それからダスターをカウンターに放り出しながら、信じられないと言った。マスターは仕方ないなといった感じで笑って、それから女の子に、あがってもいいよと言った。彼女は元気な声で返事をし、エプロンをはずしながら僕を見た。僕が笑みを返すと彼女は一瞬ためらう素振りを見せ、それから決心して僕のほうへやってきた。
「座ってもいい?」
「どうぞ」
彼女はありがとうと言って僕の向かいに腰かけた。それから僕が持ってきていた本を手に取った。
「なにを読んでいるの?」
彼女はぱらぱらとページをめくったあと、僕の顔を見た。僕はコルドン・ブルーの最後のひときれを口に放り込みながら首をかしげた。
「読んでないの?」
「3分の1だけ読んだ」
「どんな内容?」
「さあ。あげるよ、それ。大した本じゃないけど」
「ほんとに? でも、まだ途中なんでしょう?」
「いいさ」
彼女は少しのあいだ考えた。「だったら、読み終わったら返すわ。来週でもかまわない?」
学生風の男がふたり入ってきてカウンターに腰かけた。彼女が立ち上がろうとすると、マスターがいいよと右手を振って合図した。
彼女は椅子に座りなおして、もう一度言った。「来週でもいい、返すの?」
「来週はいないんだ」
「いない?」
僕はビールを飲み干しながら頷いた。
「どこか旅行でも?」
「帰るんだ、いなかに」
「こんな時期に?」
「そう」
「じゃ、あなたが帰ってきてからでもかまわない?」
「もう帰ってこない」
彼女は大きな瞳をしばらくのあいだ瞬かせ、それから深い海の底をのぞき込むような眼で僕を見た。まるで長いあいだ一点を見つめすぎて思考回路が途切れてしまったかのような瞳だった。
「うそ、でしょ?」
僕は首を横に振った。
「いやだ。私のこと、子供だと思ってからかってるんでしょ?」
僕はもう一度首を振った。「からかったりなんかしないよ。嘘じゃない」
「だって学校は?」
「辞めた」
彼女はまるでこの世でたったひとつだけ信じていたものに裏切られたとでも言いたげな眼で僕の顔を見つめたあと、探し物でもするみたいにあたりをきょろきょろと見回した。話の流れ上しかたなかったこととはいえ、彼女にこんな話をしてしまったことを僕はとても後悔した。彼女には関係のないことなのだ。僕は何でもないふうに煙草を取り出して火をつけた。
彼女はすがるような眼で僕を見ていた。
「ほんと、なの?」
僕は頷く以外になかった。彼女は本を膝に置いてがっくりとうつむいた。彼女の反応は僕にしてみれば驚き以外のなにものでもなかった。彼女とはそれまでたった一度だけ英語の試験勉強を見てあげたことがあった程度で、挨拶がわりの世間話くらいしかしたことはなかったのだ。
マスターがサイフォンのコーヒーを竹べらでかき混ぜながら、心配そうにこちらを見ていた。僕と目が合うと、彼は困惑した表情を浮かべたままコーヒーをカップに注いで客の前に出した。
「ねえ」と彼女はうつむいたまま言った。「いなかに帰って、それからどうするの?」
「まだ決めてないんだ」
「そう」彼女はゆっくりと顔を上げた。彼女の眼は真っ赤に充血し、瞼が小刻みに震えていた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」彼女は瞼を押さえて無理やりな笑みを浮かべた。「ただ、ちょっと信じられなくて」
彼女の気持ちはわからないでもなかったが、今これ以上の問題事を抱えるわけにはいかなかった。
「また遊びにきてもかまわないかな?」僕は後ろめたさを感じながらも、心にもないことを口にした。
「また英語を教えてくれる?」彼女は声を絞り出すようにしてそう言った。
僕は頷いた。
「約束よ」
「ああ」
帰り際にマスターは、上京したときには顔を出しなよと言ってくれた。彼女は待ってるからと言った。僕はありがとうと言って、それから別れを告げて店をあとにした。店を出てからふと、僕は彼女の名前も知らなかったことに気づいた。
雨はふたたび強くなっていた。僕はなにも見えない空を見上げ、傘をさして通りへ出た。通りは家路を急ぐ人でごった返していた。小さな男の子が顔をくしゃくしゃに歪め、青い傘を振り回しながら母親に引きずられていった。まるでよいことはすべて終わってしまったのだよと言わんばかりの、黒いこうもり傘の下の疲れ切った表情の中年の男性。僕と同じ世代の男女5人グループが、雨のことなど気にかける様子もなく、時折はじかれたように嬌声を上げながら他の通行人をかき分け進んでいく。僕は“Step by step,but like Rolling”と描かれた彼らの背中を何を見るともなく見つめ、それからアパートへ急いだ。
植え込みの濡れた紫陽花が車のライトを浴びてミラーボールのようにきらきらと光っていた。僕は近くの自動販売機で煙草を2箱買ってアパートへ帰った。アパートの前の通りには路上駐車の車がまるで巻尺でぴったし計ったように隙間なく並んでいた。
ポストを開けて何も残っていないことを確認し、ネームプレートを抜き取った。エレベーターは4階で停まっていた。エレベーターが降りてくるあいだに煙草を開け、一本抜いて口にくわえた。操作盤のすみには、僕が酔って帰ってきたときに鍵の先か何かでつけてしまった引っかき傷が残っていた。エレベーターは音もなく上昇し、ごく小さな振動とともに4階で停まった。エレベーターから降りてから煙草に火をつけた。
僕の部屋の前には人影があった。その影は僕のほうを見ていた。淡い、今にも闇に溶け込んでしまいそうな不思議な影だった。廊下を半分まで来たところで、蛍光灯の明りの下でそれが啓奈だとわかった。
彼女は頭のてっぺんから足の先まで雨に濡れていた。額には前髪が貼りつき、頬には水滴がまだ残ったままになっていた。紺色のブレザーはたっぷりと雨水を吸い込み、黒く変色してしまっていた。
「どうしたんだ?」僕はひどく驚いて思わずそう訊ねた。「傘は?」
「車を停めるところがなくて」彼女は薄明りの中でもはっきりとわかる、どこか弱々しげな笑みを浮かべた。「それで走ってきたの」
「とにかく、乾かさなきゃ」
僕はドアを開け、彼女の腕を掴んで部屋に入ったところで、彼女には何も知らせてなかったことを思い出した。部屋の中はダンボール箱で溢れ返っていたのだ。
僕は啓奈には黙って東京を離れるつもりでいた。悪いとは思ったけれども、そのほうが彼女のためによいような気がした。岸本だけには伝えた。明日の朝も彼が東京駅まで送ってくれることになっている。そして、啓奈にだけは知らせないでくれと頼んでおいたのだ。
玄関先で躊躇していると、彼女の手が僕の背中にそっと触れた。
「気にしなくていいよ」彼女は僕の背中に寄り添いながらとても静かな声で言った。「全部わかっているから」
僕は振り返って彼女を見た。彼女は相変わらず微笑んでいた。彼女の持つ光が翳りかけているような気がしたが、それでも優しさに満ち溢れた笑顔に変わらなかった。僕は必死に弁解を考えたが、彼女の前ではそれもまるで無意味だと気づいた。彼女がわかっていると言えば、すべてわかっているのだ。疑問の余地はなかった。それでも僕は訊ねた。
「岸本から聞いたの?」
彼女は頷いた。「でも、わかっていたの。お話を聞く前から」
あらためて僕と彼女の違いを思い知らされただけだった。訊ねなければよかった。知らないほうがよかった。
「とにかく、服を乾かそう」
僕は彼女を部屋に入れて、着替えを探すためにダンボール箱のひとつを開けはじめた。
「いいよ、せっかく詰めたのだから」
「だめだよ。そのままだと風邪をひく。気に入るのがあるかどうかわからないけど、びしょ濡れの服よりはきっとましだよ」
3個めのダンボール箱にまだ一度しか着たことのない薄いグレイのパジャマが入っていた。僕はそれを取り出して彼女の前で広げた。
「なんだか濡れ鼠みたいだけど」
彼女は笑ってありがとうと言った。
6個めのダンボール箱にバスタオルとハンガーが入っていたのでそれも彼女に渡した。それから4個めの箱に入っていたマグカップを持って僕は台所へ行った。
台所のドアを開けて啓奈が顔だけのぞかせた。手には僕が手渡したバスタオルを持っていた。
「お湯が沸くまでそこにいるの?」
僕は翌朝のために残しておいたティバッグの封を開けながら、聞こえない振りをした。
「中にいてもいいよ」
僕はカップをもう少しで取り落としそうになった。彼女は笑いながらドアを半分開けたまま奥へ引っ込み、着替えはじめた。
「それにしても、こうやって荷物にしてみるとひとり暮らしにしてはずいぶんと多いね」
「心配性なんだ、うちの母親は」
「ご実家から持ってきたものをそのまま持って帰るのね」彼女は顔だけのぞかせて、もういいよと言った。
「コーヒーカップと茶碗がひとつづつと、靴下が一足減った。カレーライス用のスプーンと文庫本が何冊かと、ブルックス・ブラザーズのブレザーが一着仲間に加わった」
「それだけ?」
「そう、それだけ」僕は両手にカップを持ち、半分開いていたドアを肘で開けた。
「二カ月なんてそんなものさ。とっておきのブレザーを着る暇もない」
彼女はありがとうと言ってカップを両手で受け取った。「どう、似合う?」
「濡れねずみというよりは、一頭だけ小屋に入り損ねた羊といった感じだな」
彼女はにっこりと笑った。「悪くないわ」
いくつかのダンボールを移動させて、ふたりが座れるだけのスペースを作った。僕と啓奈はそこに座り、長い時間をかけて紅茶を飲んだ。ふたりともひとことも喋らなかった。半分ほど飲んでから、僕は煙草に火をつけた。カーテンレールには彼女の脱いだ服がかけてあった。薄いブルーのブラウスは透け、ブレザーとチェックのスカートは重たい色に変色していた。それらは僕をとても哀しい気持ちにさせた。
「引越のことだけど」僕はその先をどう続けたものかよくわからないままそう切り出した。彼女はカップを両手で包みこんで口元につけたまま僕を見た。「こんなことは言うべきではないのかもしれないけれど―――」
「なにも言わないで」
彼女はとても優しい口調で僕の言葉を遮り、それからふと思い出したようにカップを絨毯の上に置いて、そばの開封されたダンボール箱を引き寄せた。小説やら雑誌やらが入っている箱だ。その中から彼女は一冊の文庫本を取り出してパラパラとページをめくった。レイモンド・チャンドラーの『高い窓』だった。
「チャンドラーは好き?」彼女はページに見入ったままそう言って、それから僕を見た。僕は頷いた。彼女は満足そうに首を振って、私も好きよと言った。
部屋の中には僕の言葉が行き場のないままに浮かんでいた。それはまるで東側の上空でコントロールを失った新型の宇宙船のように力なく漂っていた。僕はそれを回収することも撃ち落とすこともできずにいた。
よそう。今さらなにを言ってもはじまらない。僕はもう決めてしまったのだ。そもそも、彼女に対してなにが言える? なにかを言えたところで、その言葉にどれだけの意味があるというのだ。僕はもう一度彼女の洋服を見て、それから彼女を見た。彼女はトルーマン・カポーティ―の『愛のゆくえ』を手にしていた。
「カポーティ―は?」彼女は本に視線を落としたまま訊いた。僕は答えなかった。彼女はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
「なぜ、なにも訊かない?」
彼女は『愛のゆくえ』を箱の中にためらいがちにそっと戻した。
「なぜ、僕を責めない?」
彼女はうつむいてパジャマの裾を左手の人指し指に巻いたりほどいたりしていた。半乾きの前髪が額の前で揺れた。僕と彼女とのあいだの静寂が、そっと僕の中に入りこもうとしていた。
「それは――」彼女はうつむいたまま唐突に言った。「あなたが決めたことだから」
目覚し時計の時を刻む音だけが聞こえた。彼女はゆっくりと顔を上げた。
「あなたが、あなた自身で決めたことだから」
彼女の瞳はスポットライトを浴びたかのようにきらきらと輝いていた。その光は今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。
「ごめんなさい」彼女は手の甲まであるパジャマの袖口で慌てて目元を押さえた。「ごめんね・・・泣くつもりなんてなかったの」
堰が切れてしまうと、あとは止めどがなかった。彼女は一度溢れてしまった涙を止めるほどの気力を、どこかに置いてきてしまっていた。両手だけでは拭いきれずに、腿の上にも涙の粒が落ちた。
僕は思った――啓奈が悪いわけじゃない。君に落ち度はまったくないのだ。ただ、僕が君に追いつけないだけなんだ。どれだけ頑張っても、君にはとうてい追いつけない。僕にはそれをうまく言葉で表現することさえままならない。
僕は啓奈を愛していた。彼女と過ごした暖かな二ヵ月間に誓ってもいい。僕は彼女を心の底から愛していた。彼女もまたこんな僕のことを愛してくれていた。神戸から帰ってきて僕はそのことに気づき、優子からの電話で確信した。僕は悩んだ。眠れない日々が続いた。食事も満足に取らず、おかげで体重も7キロおちた。そして、東京を離れることを決めた。4週間後のことだった。
それから僕は彼女へ伝える術を探した。結論は出なかった。なにを言ったとしても、それは出口のないあの森と同じだった。僕は黙って彼女の元を去ることにした。そうすることが、当時の僕が考えられる最善の、そして唯一の方法だった。
僕は啓奈と知り合ってからどんどん駄目になっていった。見るも無残なほどに落ちぶれていった。しかし、それは決して彼女のせいではない。実のところ、僕は駄目になんかなってはいなかったのかもしれない。問題は、僕がそう感じはじめてしまったというところにあった。
彼女の偽りのない純粋な心に触れるたびに、その思いは強くなっていった。原因のひとつは、僕と彼女の育った――決して埋めることのできない――マリアナ海溝のように深い環境の溝にあった。僕は自分を見捨てることはできなかった。その“隔たり”をいつも心のどこかで感じながら、このままうまくやっていく自信はなかった。これから先解消される問題でもなかったから、僕の自信がふたたび確立されるめども立たなかった。啓奈にとって、僕の存在価値はないに等しかった。僕が彼女に与えられるものは何ひとつとしてなかったのだ。
「それでも」彼女がかすかに聞き取れるくらいの声でそう言ったのは、ずいぶんとあとのことだった。「あなたのことが好き。大好き。たぶん、これからもずっと・・・」
その夜、僕は啓奈を抱いた。そうすることが正しかったのか間違っていたのかは、今でもわからない。ただ言えることは、僕も啓奈もそれを望んでいたということだ。ひょっとすると僕は、心のどこかで正直に心情を吐露する手段をセックスに求めていたのかもしれない。
彼女にとって僕の作りかけの模型のような言葉はまるで無意味だった。口に出してしまえば、僕はもっと楽な気持ちで東京をあとにすることができたのかもしれない。しかしそれは彼女をよりいっそう困惑させてしまうことでもあった。それだけは何としてでも避けたかった。それが彼女に対して僕ができるただひとつの思いやりだと、少なくとも当時の僕はそう思った。
「あの森のことは憶えてる?」不意に啓奈が訊ねた。裸のまま抱き合い、眠りに落ちる寸前だった。
「憶えてる。忘れるわけがない」
「私にはまだわからないの。どうしてあんなことが起こったのか」
「僕にもわからない。あまりに非現実的すぎる」
「でも、あれは夢ではないよね?」
「夢?」
僕はなぜ急に彼女が森の話をはじめたのか、わかったような気がした。
「私はあなたのことをはっきりと憶えていたのだから。あれは、絶対に夢じゃない」
僕は啓奈を見た。彼女は僕の肩口をじっと見つめていた。そして、僕を見た。
「あなただとすぐに気づいたの。成田で“再会”したとき」
僕の全身を小さな泡が包んだ。胸が悲鳴をあげた。涙が落ちそうになった。彼女の右肩を掴んだ手に無意識に力が入った。言葉を探した。必死で探した。
「夢じゃない」僕は言った。「決して夢なんかじゃない」
彼女は笑顔を作って鼻先を僕の肩にこすりつけた。「ありがとう。そう言ってくれると嬉しい」
翌朝、目が覚めると身体のあちこちがひどく痛んだ。狭いスペースに不自然な恰好で眠ったからだった。僕は瞼を指で押さえ、それから煙草に火をつけた。カーテンをはずされた窓からはルーペンスの絵のような朝陽が差し込んでいた。昨日の雨が嘘のようだった。屋根から落ちる水滴が光をちょうどよい角度で反射して、眩いばかりに輝いていた。
テーブル代わりに使ったダンボール箱の上に、スマイソンのダイアリーのページを破ったメモが置いてあった。僕は寝転んだままそれを読んだ。
『ごめんなさい。
あなたのことを最後まで見ていたかったのですが、やっぱり帰ることにします。お見送りにはいけないと思います。また泣いてしまいそうなのです。あなたが思っているほど、私は強い人間ではないのです。本当にごめんなさい。
私はいま、あなたにとても感謝しています。そしてあなたと出逢えたことを誇りに感じています。(岸本君と優子には今度食事をご馳走してあげます。)
昨夜はとても素敵でした。ちょっぴり恥しかったのですが、あなたはとても優しかった。思っていたとおりでした。
あなたのことは決して忘れません。本当にありがとう。
6月□日 5時12分
啓 奈 』
7時過ぎに引越業者のトラックがやってきた。まるでラインバッカ―のような体格をした運転手とラクダにそっくりな顔をした助手だった。慎重に扱ってほしい荷物を伝えると、彼らはさっそく作業に取りかかった。
ラインバッカ―がダンボール箱を3段重ねで出ていくと、ラクダが残りの荷物を玄関先に積みはじめた。ラインバッカ―はエレベーターの前に箱を下ろして戻ってくると、今度は2段重ねで出ていく。その作業は4往復で終った。次にラインバッカ―は冷蔵庫を、ラクダは洗濯機をそれぞれ抱えて出ていった。なかなか戻ってこないので玄関へ出てみると、彼らはすでにダンボール箱と冷蔵庫と洗濯機をトラックに積み込んでいるところだった。実に手際がいい。
その様子を眺めていると、岸本の赤いアルファGTV6が角を曲がってやって来るのが見えた。岸本はトラックの前に車を停め、もの珍しそうに業者の男たちを見ながらアパートの中へと消えた。
ほどなくして岸本とラインバッカ―とラクダがいっしょに4階に上がってきた。
「なかなか気持ちのよい朝じゃないか」岸本はマクドナルドの紙袋を差し出しながら言った。「食えよ」
僕達のわきを洋服ダンスを背負ったラインバッカ―とラクダが出ていった。
「手伝わなくていいのか?」岸本は紙袋からエッグマフィンとコーラを取り出しながらそう言う。
「ああ。彼らだけのほうが仕事がやりやすいみたいだからね」
岸本はなんとなくわかるといった風情で3回頷き、それから居心地悪そうに首をぐるぐると回す。なんだかコネクターの調子を確かめているみたいだ。僕もエッグマフィンとコーラを取り出す。岸本はラインバッカ―とラクダが戻ってくると、食べないかと言って紙袋を差し出した。
「いいのかい?」ラインバッカ―が顎を引いてそう言う。
「飲み物はないけどね」
「うれしいね」とラクダ。
ふたりはエッグマフィンを口にくわえたまま扇風機やら掃除機やらを運び出す。なんとも頼もしい作業員だった。
僕は廊下のコンクリート塀にもたれ、マフィンを齧りながら街並を眺めた。にわかに動きはじめた車の列や人波の音がどこからか聞こえてきたような気がした。煙草屋の前の舗道には水が撒かれ、パン屋の前には緑色の箱が何段にも積まれた。魚屋の前では黒いゴムの前掛けをした男が木箱を洗い、新聞配達の少年は最後の一部を庭先に投げ込む。そんな光景がぼんやりと頭に浮かんでくる。世界はいつもと同じ朝を迎えていた。前夜の雨が嘘のように、よく晴れた平和な朝だった。
「なんだか奇妙な感じだ」
岸本は無言のままパンくずを払い、煙草に火をつける。
「そうは思わないか?」僕はそう言って岸本を見る。
岸本は黙って遠くを見つめている。煙草の煙が僕の前を横切り、そして溶けていった。
東京駅では優子が待っていた。僕たちは出発までの時間を地下のコーヒーショップでやり過ごすことにした。店内は出勤前に慌しく朝食をかき込むビジネスマンやら、いかにもといった感じの大きなサングラスをかけた女性やらでほとんどの椅子が埋まっていた。
「怒らないで聞いて」紅茶が運ばれてくると、優子が神妙な顔つきで口を開いた。
「啓奈に伝えたの。あなたが帰ってしまうこと」
僕は何も答えなかった。
「あなたが帰ってしまうこと、わかっていたみたい、彼女。でも、お見送りには来ないって」
僕は優子を見た。
「来れないって。泣いてた、啓奈」
「よせよ」岸本が咎めるような口調で言った。「松本だって――」
「いいんだ」僕は言った。「ぜんぜんかまわない」
「私にはわからない」優子は僕をきっと睨みつけて言った。「どうしてなにもかもを終わりにしなくてはならないの?」
僕は敢えて口を開かなかった。
「いいじゃない、遠く離れていたって・・・」
優子の声は何かに吸い込まれるようにして途切れた。彼女は泣いていた。いくつもの涙の粒が彼女のかたく握った手とテーブルの上にこぼれ落ちた。
「そろそろ時間だから」
僕は伝票を持って立ち上がった。
優子は岸本に支えられて駅の階段を上がり、長いプラットホームを歩いた。彼女の大きな瞳からは涙が溢れ続けた。正直言って、優子がここまで取り乱す理由が僕にはわからなかった。
僕たちはホームの端まで並んでゆっくりと歩き、それからひとことも喋らずに新幹線を待った。彼女は小さな声で泣き続けた。行き交う人々の好奇な視線に何度も晒された。
2本めの煙草を半分まで吸ったとき、新幹線が滑るようにして入ってきた。僕はうしろに並んでいた乗客を先に行かせ、最後にボストンバッグを掴んで乗り込んだ。
「本当に行ってしまうんだな」
僕は笑みを浮かべて頷いた。それから、優子に声をかけた。優子は肩を震わせ、僕を見た。
「いろいろとありがとう」と僕は言った。「短いあいだだったけれど、とても楽しかった。君たちと出逢えて本当によかったと思っている。どれだけ言葉にしてみても伝え切れない。それくらい感謝している」
優子は濡れた瞳で僕を見た。僕は小さく頷きながら、優子に微笑みかけた。ベルが鳴った。
エア・コンプレッサーの音とともにドアが閉まり、列車はゆっくりと動きはじめた。岸本と優子は列車の速さに合わせてホームを歩いた。すぐに彼らの姿は視界から消えていった。
わずか70日足らずの東京での学生生活はこうして幕を閉じた。6月の、少しばかり季節はずれによく晴れた、ある朝のことだった。 |