春光ロマンス
この小説は、『第二回 犯罪が出てこないミステリー大賞』に応募させて頂いた作品です。
この町の桜並木は、絶品だ。春が訪れたなら、途端に花びらたちは淡く、だが美しく色付く。
その光景を求める来客達、例えば蝶々、例えば猫や犬、例えば妖精、それらはそこで宴を楽しみ、やがて夜桜に惚れる。この桜並木から溢れ出す、優しく柔らかなものは、通り行く人を忽ち虜とさせる。それは、例えるなら“愛”のように温かい。
無意識に鼻歌をしながら並木の下を歩いていると、やがて一本の木を見つける。その木は、周りを取り囲む他の桜木とは違い、花も芽も無く、裸であった。しかし葉の一枚も付けずに逞しく伸びる枝が、木の健やかさを示していた。決して枯れているのでは無いその一本の桜の木は、数年前、突如その花を散らし、以降一切、美しく咲き誇った姿を見せることは無くなったのだ。だがそれでも、その木は自身の姿を恥じる事無く、ましてやその理由など告げずに、ただただその他、美しく咲き誇る桜並木の中で、凛と立っていた。
私は幼い頃――この町に越して来た当初に、祖母からこんな話を聞いたことがあった。
桜には妖精がいて、その妖精は、春夏秋冬絶えること無く自分達の受け持った桜の木に愛情を注ぎ続ける。そうしてやがて春になると、積もり積もった妖精の愛が、花を咲かせるのだそうだ。それはそれは美しく。
ただし、妖精の注ぐ愛情は、受け持った桜の木との関係が良好でなくては、生まれることができないのだそうで、妖精と桜の木の終わりの無い恋が、絶えず永遠に、美しく満開の桜を咲かせることが出来るのだという。
そんな話を思い出しながら、私は桜並木を歩いた。
いつ見ても、此処の桜は絶品だ。咲き誇り、舞い、散る桜の美しさは、かつての冬の寒さや寂しさ、切なさ、心細さ、そんな悪夢を、全て忘れさせてくれるのだ。
だが。やはり、不思議でならない。一本の木を前にして、そう思う。なぜ突如花を散らしてしまったのだろうか。“その木”に掌を這わせ、私は目を閉じ、考える。
……空を見上げれば、そこには。冬の終わりを告げる、澄んだ空が広がる。
だがそんな清らかな景色とは正反対であるかのように、俺達の関係は歪んだものであった。本当は、歪んでなどいなかったのかも知れないが、少なくとも以前のそれとは程遠い。
それは遙か昔の出来事でありながら、今でも思い出される記憶。
「ねぇ貴方、この関係なんて、所詮脆く儚く保障の効かない、未来の見えないものなのに、どうして続ける必要があるの?愛なんて、目に見えないものなのに」
そうとだけ言って静かに瞳を閉じる彼女に、俺は何ら掛ける言葉が見つからなかった。それは、いつの日だったか。そんなことすら忘れてしまいそうなほど、遠く儚い記憶であるのだろうか。少なくとも、今日のように、春の優しい光に照らされた日和ではなかったのだけは覚えているが。
すぅと、空気を吸う。もう、辺りは春であった。
愛すべき存在を失った頃も、このように独り耽たものだ。それは、隙間を。心か何かの隙間を埋めるために。自分で自分を欺くために。
だがそれでも尚、彼女の言葉は、俺の頭の中で繰り返される。
“なんで”
そう問われても、それに答える術など見つかるはずもなく、或いは初めから答えなどなく、はたまた自分にはそんな難題を追究し明確にする権利などがあるのかすら曖昧であり。
あの頃の俺達は、ただただ傷を付け合っていた。絶えず生まれ、記号化した愛情はやがて“焦燥感”という名の寄生虫に生まれ変わり、その寄生虫は、心に住み着く。そうすればもう、互いが互いに、それ無しでは生きていけぬ存在となってしまい、自己の存在を示すべく、相手の心を食い尽くそうとする。そんな風にして心の隙間を埋めようとするうちに、やがて辿り着いた先は、“無償の愛”。
無償の、永遠の愛、そして確かな未来。それ無くして“幸せ”になどなれないのだということが、臆病で依存的な心に刻まれた。
ただただ機械的に、求め続けた。確かに存在したはずの愛情は、どこか遠くに追いやられてしまったかのように。
あの日。隣にふと目をやると、彼女は瞳を閉じていた。彼女は小さく口を開き、囁いた。
「貴方のこと、大好きなの。でもね。ただ、怖いの」
あなたと一緒に居られなくなることが、と。
桜が春風に舞う。
この桜並木の桜は、いつでも絶品であった。その美しさは、かつての冬の寒さや寂しさ、切なさ、心細さ、そんな悪夢を、全て忘れさせてくれるのだ。今年も綺麗に咲くことができた彼女を見上げ、俺は心から喜んだ。これまでの苦労など忘れてしまいそうな程に。それはさながら、ようやく赤子に出会えた母親のように。
「怖いの。ごめんなさい……」
そんな訳の分からない謝罪を、彼女は瞳を閉じたまま、繰り返す。
見えない未来、保障の無い愛。
そんな障害物が、いつでも二人の隙間に蔓延るが故に、ただただ愛すればいいものを、絶えぬ恐怖がそれを遮るのだった。彼女の抱く、“美しく咲き誇れなくなる”ことの恐怖は、一層その重量を増して行く一方であり。
だからと言って、俺にはどうすればいいのかなど、分からなかった。
確かな未来や、無償の愛があれば、何ら困難などないのかも知れないが、それらをどうして作り上げれば良いのか、知る由も無かった。故に、無造作に“愛する”努力をするにつれ、いつしかその虚しさは、重く苦しく感じられるものとなっていた。彼女の方から別れ話が切り出されたのは、ちょうどその頃だった。
彼女を失って、何もかもから解放されたようだった。“相手のため”を思ってしてきたこと、例えばそれは、偽りの無償の愛、偽りの未来。それら全ての重荷が、一瞬にして消え去った時、もう決して、何かにこの身を捧げることは無いだろう、などと考えた。
だが、やがて。何かが心に募り始めた。かつては見えなかったもの、それはつまり、彼女への愛がゆっくりと、その姿を現し始めたのだった。
心に住み着いた寄生虫が死に、やがて視界が広がり始める。蝕まれた傷口は徐々にかつての純粋さを取り戻し、深く葬られてしまっていた感情は、再びその形を取り戻した。
『ねぇ貴方、この関係なんて、所詮脆く儚く保障の効かない、未来の見えないものなのに、どうして続ける必要があるの?愛なんて、目に見えないものなのに』
彼女が残した言葉が求める答えは、未だ見つけられはしない。いや、そんなものは、見つけてはいけないのだ。“愛する”ことに、理由など必要無いだろう。
「綺麗だな」
暗い空を、幻想のように舞い散る桜の眺めて、呟いた。
「そう思うだろ?」
彼女に、問い掛けた。
「あら、知っていたのね。私が瞳を開けていたこと」
「毎年してる約束だからな」
この桜並木の、他のどの桜よりも美しく咲き誇ろう、という約束。
互いに顔の見えぬ、言葉のみの再開に、夜桜が舞う。
「綺麗ね」
彼女は小さく囁き、「久しぶり」と、付け加えた。
それは夜に消えてしまいそうな声であったが、やはりどこか懐かしく。
「ああ、綺麗だ」
そう言って、空を見上げれば、そこには。透き通った黒をした空に、舞う桜が星のように。
「こうして降り注ぐ桜のように、愛すれば良かったんだよな」
深呼吸する。春の空気は、どこか切ないが、それでもどこか、柔らかい。
「無償の愛なんて、無いんだよな。愛は、努力して、駆け引きして生み出すものじゃない。自然と、或はいつの間にか、募って行くものなんだ。この花びらみたいに」
はらはらと舞う花びらを眺める。そう、“愛する”ことに、理由などは必要無い。
「それに、あらかじめ未来が用意されてたり、知ることが出来るものだとしたら、それは相当虚しいんじゃないか。次はもっと綺麗に咲けるはずだ、とか、いつしか一番魅力的になるんだ、とか、そんな幸せな未来を勝手に予想して生きていくから、辛くても二人で歩いて行けるんじゃないか」
舞い続ける桜に包み込まれながら、俺はそう言った。彼女を失ってから気付いた、自分自身の答えだった。
「私ね、貴方が居ないとやっぱり駄目みたい」
彼女は泣きながら、しかし僅かに微笑みながら言った。
「貴女が居ないと、咲けないの。どうしても」
でもね、と彼女は続ける。
「この気持ちに保障が無くても、咲き誇る花が永遠じゃなくても、私は貴方を好きだって。貴方を失って、そう思ったの」
桜の花は、何かに左右されることも、影響を受けることも無く、散りゆく。それは、自身の意思に関わらず、ただただ、自然に。
愛とは、努力の結晶とは違う。この桜並木の桜のように、自然と降り注がれるものなのだ。
「また、一緒に咲かせたいんだ。他の、どの木よりも、深い愛を育みながら」
ぽっかり空いてしまった隙間を埋めるように、ただただ彼女を抱き寄せる。
「嬉しいわ。でもね、今は、咲くために一緒に居るんじゃない。ただ、好きだから、一緒に居たいと思うからよ」
「嬉しいよ」
……ゆっくりと瞳を開く私の頬には、涙が伝っていた。
目を擦りながら見上げれば、そこには満開の桜の木が、春の風にその花びらを散らしていた。
淡く色付く花びらの中に、ふと木漏れ日に似た小さな光が見えたような気がしたが、無数に舞う花びらが、私を目隠しする。
「咲けたんだね……」
私は花びらを払いながら、一人そう呟いた。
この町の桜並木は、絶品だ。春が訪れたなら、途端に花びらたちは淡く、だが美しく色付く。
その光景を求める来客達、例えば蝶々、例えば猫や犬、例えば妖精、それらはそこで宴を楽しみ、やがて夜桜に惚れる。この桜並木から溢れ出す、優しく柔らかなものは、通り行く人を忽ち虜とさせる。それは、例えるなら“愛”のように温かい。
無意識に鼻歌をしながら並木の下を歩いていると、やがて一本の木を見つける。その木は、周りを取り囲む他の桜木とは違い、艶やかな花びらを持ち、幻想のような花吹雪を起こし、眩い光を放った。それはまるで、溢れ出す愛が止まらないように。かつてその一本の桜の木は、突如その花を散らし、しばらくの間、美しく咲き誇った姿を見せる事が無くなっていたそうだ。
それでも今は、その木は自身の姿を誇らしげに、そして全ての物語など告げることなく、ただただその他、美しく咲き誇る桜並木の中で、より一層の愛を放ちながら凛と立っている。