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mosquito

作者:王生らてぃ
 文香と共同生活を始めたのは、ちょうど三か月前、僕がひとり暮らしを始めたのと同時だった。
 文香は僕以外の人間には見えない。けれど、確かにそこにいる。どこにでもいるけれど、どこにもいない。
 僕には特別、夢なんてなかった。けれど実家でずっと腐っているのもなんとなく性に合わなくて、ひとり暮らしを始めるいい機会だと思って大学は地元からそれなりに離れた場所を選んだ。離れているといっても新幹線で二時間とちょっとだ。引っ越しを終えてシャワーを浴び、ラジオに耳を傾けているとき、ちょうど文香が現れた。
「またラジオなんて聞いてるの?」
 文香は僕をからかった。うるさいな、昔からラジオが好きなんだよ。
「テレビとか、見ないんだ」
 テレビを見ないんじゃない。ラジオが好きなのだ。僕は小さいころに奇病に罹ったことがある。両親からは何も説明されないから、奇病とだけ言っておく。僕は九歳の七月から半年くらい、なにも物が見えなくなってしまった時期がある。ある日目を覚まそうとしたら、目が覚めなかった。瞬きもちゃんとできるのに、目の前が真っ暗になってしまったのだ。脳にも眼球にも異常が無くて、取りあえず点字を覚えさせられた。なんとか読めるようになるまでテレビの音声だけを聞いているのが苦痛で、ラジオを聞くことをおぼえた。それまではずっとテレビを見ていたけれど、見過ぎるということもなかったし、視力は両方とも一・五だったから、急に目が悪くなんてありえない。大人はずるい。子どもが正直なことを言えば問いただし、嘘を言えばうそをつくなと問いただされる。結局僕は何も言えなくなってしまった。目が見えなくなった原因は? なにかにぶつけたりした? いじめに遭ってない? 夜中にゲームをしたりは? ぜんぶ僕は口をつぐんだ。そんなの意味がないってわかっていたからだ。大人は何をするにも、自分に都合がよくないといけない。子どもだった僕は我慢をおぼえた。大人たちの足音を聞くと、すぐに自分の中に閉じこもった。ラジオから流れてくるのは、芥川龍之介の『歯車』の朗読だった。僕はこの番組が好きで、毎週テープに録音して何度も聞いた。そして、あくる年の三月のことだ。僕は入院していた病院を手すりを頼りに歩いていたら、小さな子どものような軽い足がはしってくる音を聞いて、ぶつからないように壁に寄り掛かった。しかし、それがまずかったのだろうか、どすんと僕に子どもの頭がぶつかり、運悪く近くの階段から転げ落ちて気を失ってしまった。頭を強く打ってしまったようで、それから丸一日僕は気を戻さなかったらしい。そして僕は目覚めた。その不慮の事故によって恐らく僕は、視力を取り戻したのである。その日初めて文香に出会った。
 文香は初めて会ったとき、僕と同じ十歳くらいの女の子だった。髪の色は、黒と青と緑が6:3:1くらいの割合で混じった、ちょっと深みのある夜の海の色で、瞳は緑と青と白と赤が5:2:2:1くらいで混じったエメラルドグリーン。背はとても小さかったけど、なんとなく可愛らしい顔立ちをしていることは気付いた。文香はいつも白いワンピースを着ていて、僕がふらりと出かける先どこにでも現れた。ある時は横断歩道の向こう、ある時は街路樹の陰、またある時は森の木陰から。そして、少しでも目を離すと忽然と姿を消してしまう。僕は最初、よくない幽霊にでも取り憑かれているんじゃないかと思っていた。けれど、なにも悪さをされないままで高校に入学し、三年間を終えた。
「本、読まないんだ」
 僕が引っ越し荷物の段ボールをまだほったらかしにしているのを見て、文香はよくからかった。
「あんなにたくさんあるのに。まだ読んでないやつもあるんでしょう。お金がもったいないと思わない?」
 うるさいな、と言おうとして振り返ると文香はもうどこにもいなかった。うんざりして僕は段ボールの封を開けると、そこには文庫本がぎっしり詰まっていた。どれも小遣いを溜めてこつこつと買いためてきたものだ。僕はラジオも好きだったけど、朗読番組を聞いているのは朗読が好きなんじゃなくて文学が好きなんだと気付いた。目のリハビリではないけれど、視力が戻ってからは浴びる様に本を読み漁った。僕が今文庫本を段ボールにしまっているのは、新しい本棚を組み立てる気力がいまいちなかったからだ。文香がうるさいのも厭なので、僕は同じように段ボールの城の鐘楼と化している本棚の箱を開封して組み立て始めた。ドライバーさえあれば小一時間で作り終わった。なんだ、意外と簡単じゃないか。家具のチョイスは離れて暮らす年の離れた姉に相談した。姉は僕とよくセンスが合う。逆に、僕と姉のセンスは合わない。昔から頼りっぱなしだった。
 木目調の塗装がなんともシックで安っぽい。目に優しい。今度は文庫本をそこに放り込んでいく作業だ。既に時刻は夜の十一時を回っていた。明日の講義に必要な文献をまだ買っていない。出版社ごとに段を分け、著者名のアイウエオ順に並べ、作品はそのレーベルから出版されている番号順に。こういう風に本を分類分けしていくのはとても楽しいものだった。全部入れおわるころにはちょうど良く睡魔と邂逅できた。僕はそいつに少し待ったをかけるべく少し熱めのシャワーを浴びて、森見登美彦の『四畳半神話大系』を寝物語にすることを決めた。
 僕の住んでいる部屋は洋室六畳で、四畳半の約一・三三三三三三三三三倍ある。
「寝ちゃダメだよ」
 窓の外から文香が現れた。ちょうど暑くなってくる季節だったし、と網戸を開けていたのが間違いだったか。無視していたけれど、文香の方から聞こえてくるちょっと違った色に僕は思わず目をやった。文香はいつもの白いワンピース姿とは違った、円い眼鏡に三つ編みの黒いセーラー服を着ていた。
なんてステレオタイプな文学少女像だよ。
「ねえ、退屈だ。私と遊ぼうよ」
 文香はふわふわと部屋の中を飛び回る。僕は辛抱たまらなくて、まともに読書に集中することも出来やしない。
 文香の姿は僕が成長するごとに、同じように成長していった。僕は十一歳で彼女に身長ダービーで追い抜かれるも、十六歳で追い越す。文香の身長は百六十センチちょうどで、服装は白いワンピースの他にもスーツやブレザー、ジャージ姿やエプロンなんてものも見せてくれた。彼女の身体つきはおおよそ女性らしさの面でいうと控えめだけれど、時折見せる笑顔は百合のように可憐である。
「さて、ここでクイズです」
 なんだよ。
「私の名字は一体なんでしょう」
 苗字――それは考えたことが無かった。本屋でもらえる安っぽい栞を挟んで本を閉じ、僕は鞄からノートとボールペンを取り出した。そういえば、僕はなぜ彼女の名前が文香だっていうことを知っていたんだ?
 部屋を見回しても文香の姿はどこにもない。いつもそうだ。姿を探してみれば、それはどこにも見つからない。出なくていい時に限って出てくる。文香はずっとそうだった。僕はそんな神出鬼没な文香と一緒に過ごしてきた。
 文香はまるで幼馴染のように僕の周囲を飛び回ってきたけれど、はじめて言葉を交わしたのは小学校を卒業する少し前のことだ。それまでは僕の前に現れては消え、現れては消え、まるでフラッシュ暗算のようだったけれど、僕は算数が苦手だったから――今でも数学は苦手だ、算数は出来るけど――彼女のことを何もわからなかった。ひとりで図書室で本を探していたとき、となりで同じように本の背表紙を見ている文香に出会った。
「背表紙ばっかり見てて楽しいの?」
 と、聞いたのは文香の方だ。僕は実際楽しかった、ような気がしたので、楽しいよ、と答えたけれど、その時にはもう文香の姿はどこにもいなかった。今になって思えば、あの時の僕は単なる暇つぶし、友だちと遊ぶクラスメート、部活に精を出すクラスメート、塾に通うクラスメート、いろいろなクラスメートたちの姿を目にしないために時間つぶしに本の背表紙を眺める遊びに興じていたのだから楽しくはなかった。ものすごく後ろ走りな理由で図書室にこもっていたのだから楽しいかと言われれば、それは全体を俯瞰したときは楽しくないのだ。マイナス方向を向く自分がプラスに進んだって、それはマイナスなのだ。という単純な演算も僕は出来ないくらい文系少年だった。これが最初に文香と交わした会話だった。
 文香の名字なんてどうでもよかった。文香は文香だ。けれど、ここで何も考えずに読書に戻るのは僕の心に居心地の悪いものを残すという確信めいたデジャブーがあったので、ノートに大きく文が香るという二文字を書き、そこに合う字面を考えることにした。僕の取るに足りない三文字の名字なんて文香には似合わないだろう。もっと小難しくて、一見して頭がよさそうだけれど実は何の意味もない名字がちょうどいいだろう。見ているだけで脳の血管が小刻みに振動して痒くなってくる、そういう字が良い。
「ねえねえ、分かった? 分かった?」
 文香は小うるさく部屋の中を歩き回る。セーラー服は黒くて半袖だ。白くて、細い腕が見え隠れしていた。スカートは長い。三つ編みの先端には、白い紐が結び付けてあった。
「ヒントのひとつもあげたほうが良いかしら」
 少し黙れよ。いま、考えてるんだから。
「ぜんぜん的外れ。なんて読むのよ、この名字」
 イクルミだよ。王が生きると書いて、イクルミと読むんだ。
「全体的に右上がりね。それも中途半端。もっといい名字よ」
 分かってるさ。君に似合う苗字だと思ってるよ。いま考えてるから、もうちょっと待てよ。
「ところで、このラジオ、もう消さない? つまらないんだもん」
 勝手にしろよ。無音になると落ち着かないんだ。
「それって後遺症のつもり?」
 そうだと思ってるよ。これなんかどうだろう。『轟』という。しかし車が三つ並ぶと、いかにも完全無欠な感じがして気に食わない。
「いつまでたっても、きみは進歩しないね。ずっと自分の中に引きこもってばっかりで。自分が『病人』だっていう肩書がなくなったら。きみはきっと何もできない。私からも見捨てられて、ほんとうに一人ぼっちになっちゃうよ」
 本当にうるさいな、――と、言おうとした時にどろんと雲隠れするのは、文香の得意技だった。つけっぱなしのラジオからは、ジャジーなメロディが流れている。音量を少しだけ下げた。部屋にはクーラーが備え付けられているけれど、電気代をかけたくないので極力つけないように、窓から吹き込む風と友だちになりたいんだと自分に言い聞かせて暑さを我慢していた。近所の人たちは、みな優しい。迷惑をかけないようにしなくては――
 惑う、という字は絶妙に不快感を煽る。
 楷書体が嫌悪感を催すのは、それがまるで虫みたいだからだ。まるで生きているように見えてくるからである。当然だ、楷書というのは筆脈を強調したフォントなのだから、そりゃあ生きているんだろう。楷書で『惑』という字を、じいっと見てほしい――これは決してダジャレではない――どうだ、この不快感。『或』という字だけでは駄目だ。そこに心が宿っていないと、このアンバランスさは生まれない。『惑井』――これだ。まどい、と読ませよう。惑井文香。うん、超感覚の気持ち悪さだ。これをノートに書いて満足し、僕は眠った。枕もとの森見登美彦には目もくれず眠った。
 次の日は少し早起きして、古本屋を巡って講義に使用するための文献を捜し求めた。僕は古本屋を巡るのが好きだ。僕のいま住んでいる街は戦時中から少しずつ規模を増し始め、いったん空襲で焼け野原になっても力強く復興してきたらしい。そんなこの街には昔からなぜか古本屋がたくさんあって、僕はふらふらそれらを回って、ただひたすら背表紙を眺めて暇をつぶしていた。お店に入って、ただ突っ立って背表紙だけ眺めていくのは失礼なので、必ず一冊か二冊、本を手に取って買っていく。この間は『ドグラ・マグラ』がものすごい安かったので上下巻ともに買った。ある時は『アルルの女』と『マクベス』を一緒に買ってみたりもした。最近は村上春樹ぎらいを克服しようと、一冊ずつ読んでいる。彼の文章は独特なリズムがあって、僕は思わず調子を乱されがちだ。相当神経を集中しないと、僕は活字酔いを起こしてしまう。『1Q84』は良かった。
 今日はそれまで見つけたことのなかった古本屋を見つけたので、好奇心もあって入ってみることにした。小さい二階建てのオフィスにちんまりと、古本屋この下、と指示された地下へ伸びる扉。地上の一階と二階はそれぞれカフェになっていて、数人の客が静かにコーヒーや紅茶をすすっている。
「コーヒーと紅茶はどっちが好き?」
 断然、紅茶だ。コーヒーは黒い。紅茶は赤い。それだけで理由は十分だ。
「意味わかんないなあ。私はコーヒーが好きよ。おそろしい眠りから私を覚まさせてくれるんだもの」
 だから君の髪の毛は黒いのだ。僕だって黒いけれど、文香には負ける。黒は闇の色、邪悪な色だ。あの薄気味悪い、苦々しい黒い液体が、僕のピンクの胃袋や、肉色の腸に流れ込んで吸収され、赤い血を黒く染めてしまうようで恐ろしい。
 その日の文香は、まるでジュリエットのような真っ赤なドレスに身をやつしていた。アニメの世界から飛び出してきたヒロインの様だ。頭には不思議な模様の頭巾をかぶって、長い髪を後ろで束ねている。文香の髪の毛は、みどりの黒髪という言葉がよく似合う。悔しいけれど、彼女に限っていうならば、黒という色は美しい。
「もしかして、自分の血は赤いと思っているの? それとも何色だと思う?」
 文香は言葉だけ残してどこかに姿を消した。何を言うんだ。僕の血は赤いとも、ミュータントじゃあるまいし。
「では、あなたは『赤』っていう色を、どういう色だと思う?」
 どういう色?」
「私の髪の毛は『黒』よ。黒っていうのは、全ての色を混色すればいつかは出来上がる色。あらゆる要素を内包した色のことを『黒』と呼ぶことにする。そして『白』はその反対ね、どんな要素も持たない色。ゼロでもアカシャでも空でも、いろんな呼び方があるけれど。じゃあ、『赤』ってどんな色? もちろん、血の色、なんて答えは駄目よ。だってあなたの血が赤いなんて、誰も証明できないんだもの」
 くだらない。それは詭弁だ。
 けれど階段を下りていくとき、不思議なことに僕は文香の足音を聞いた。僕の後ろにぴったりとくっついて、同じように階段を下りてくるのを感じた。ふり返ると、どうしたの、急に止まって――とでも言いたげな、ほころんだ笑みを見せた。彼女の足は、真新しい茶色のローファーに包まれていた。
 寒気がした。誰もいない部屋に、ただいま、と声をかけた時、ひとり暮らしの誰もいない部屋で返事がするわけでもないのにと肩をすくめていたら、本棚でも、窓でも、蛇口でも、あるいは部屋に侵入してきた虫でもなんでもいい、とにかく人ならざる何かが「はい、おかえりなさい」と笑顔で出迎えてくれるかのような、そういう不気味さだった。文香が僕の目の前でこうしていることが、たまらなく不自然だった。そして同時に不快だ。そのうちにある、ほんの微かな好奇心が、僕と彼女をつなぎとめている気がした。
 階段を下りきると、小さな木目の扉。小窓は擦り硝子になっていて、中の様子は分からない。僕は一瞬躊躇したけれど、隣で文香が待っているので、仕方なく勇気を出して扉を開いた。その店は懐かしい香りがした。四角い空間、八メートル四方くらいだろうか。壁一面に寄り掛かる本棚には、分厚いハードカバーやとてつもなく古い、そして名前も聞いたことのないような作家の全集、それだけでない、洋書やレコードまでがぎっしりと並んでいる。小島のように中央の空間に佇む二列の本棚には、文庫本や古い新書がずらっと並ぶ。しかし、それらは一見美しい配列になっているようで、実は出版社も作者名もばらばらだ。ただ紙のサイズに合わせた本棚をあてがって、そこに乱雑に放り込まれているに過ぎない。これは遊びではなく、ただの倦怠だろう。
 そういえば、文香が読書をしているところは見たことが無いけれど、どんな本を読むのかな。
「私、文字だけの本って嫌いよ」
 なんでさ。
「文字には、色が無いんだもの。私は絵を見たりする方がすき」
 それは、君に本を読もうという心が無いからだ――『読』という字はことばをうると書く。文字は無価値ではない。ただそこに放り投げられるだけのものではないのだ。本を読むということはすなわち、自分の持つ何かを代価にして、真剣に向き合うっていうことだ。
 顔がない人間はいない。服を着ない旅はない。そういう色や顔は、自分の頭の中でひとつひとつ想像していくものであって、他人に否定されたり、押し付けられたりするものではない。
 文香は、くすくすと気味悪そうに笑うだけ笑って壁に寄り掛かる本棚から英語で書かれた画集を手に取ってぺらぺらめくり始めた。表紙には大きく、水に浮かぶ女性が描かれている。僕は構わず本棚とにらめっこし続けた。何冊か、僕でも見たことのない本を見つけられたのもあって、僕はこの本屋がいっそう気に入った。何冊か手に取り、値段の書かれたシールを確認してから店員の元へこれを持って行こうと思ったとき、――そこで初めて、僕は気付いた。この本屋には、僕のほかに人間がいなかった。本棚の壁にそってぐるりと回ってみても、レジスターで気難しそうな顔をして眼鏡をくいと上げる店主も、エプロン姿のよくに合う年若いおばさまも、せっせとはたきで埃を払って本が黴ないように手入れを行き届かせるアルバイトの高校生もいなかった。代わりに、店の奥の奥、本棚と本棚の隙間にひっそりおさまる様に仏壇が鎮座していた。黒く光る石と、観音開きの扉の奥は金色に光っていて、まったく色褪せていない。丁寧なことに剥き出しのコンクリートの床の続く本屋の中で、その仏壇の鎮座する床だけは畳張りだった。店に入ったときの懐かしい香りは、ここから香っていたイグサの匂いだったのだ。僕はきっちり千五百円、その仏壇の前に供えるようにして置いてから本屋を出た。扉を閉める重厚な音が反響する。帰りにのぼる階段は、心なしか、下りる時よりも長く伸びているように錯覚した。


「ああ、お帰りなさい」
 いつの間にか姿を消していた文香は、家に帰るとあの画集を開いて床に寝ころんでいた。
「あんまり遅かったから、先に帰ってたわ」
 そんなに気に入ったのか、その画集。ちゃんと代金を払ってきたんだろうな。
「もちろんよ」
 僕はあの本屋が気に入った。それからも何度か足を運ぶようになった。なによりも、あの懐かしい本屋の香りが気に入ったからだ。もちろんその度、文香は僕についてきた。僕が本棚の背表紙とにらめっこしながら、文香は画集を開いたり、古い漫画を読んで笑い転げていたり、あるいはレコードをじっと眺めてにやにやしたりしていた。そして、何度行ってもその古本屋には人がいなかった。仏壇の前には僕の供えた代金が積み上げられていく一方で、まるで都合のいい、書斎の形をした貯金箱に入り込んでいくような気分だった。もちろん、それをとって行くようなことはしなかったけれど。
 僕と文香はひと夏使って、その本屋に足しげく通い詰めた。その度、文香の衣装は変わる。それを見るのがひそかに楽しみになっていることを、僕は認めざるを得なくなっていった。ところが、これを見ることができるのは僕だけなのだ。同じアパートの住人にも、文香のことはずっと秘密だ。なんて厄介な存在なんだろう。そこで、僕はひそかに文香に対するささやかな復讐を企てた。隣の二○三号室は空き部屋になっている。ここに次の住人が来るまで、表札に『惑井』と書いて張り付けておいた。
「つまんないの」
 それを見て文香はふん、と、けれど楽しそうに笑った。
「こっちが私の部屋? もういい加減に出て行けってこと? でも、出ていかないわよ。すっかり居心地が良くなってしまったんだもん」
 出ていけだなんて、そんなことはない。ただ、僕も彼女の持つ色というやつを、少しでも見せびらかしたくなっただけだ。今日も僕はこっそりと、ひとりで部屋を出る。そして、あの古本屋に向かって歩き出した。真夏の太陽から照り付ける熱は、脳みそまで沸騰させるかのような頭痛を誘発する。文香は長く姿を見せなかったが、僕は気にしない。
 古本屋の扉を開くと、いつもと違うことがあった。仏壇の前に供えていた、それまでの本の代金が綺麗に無くなっており、代わりに「ありがとうございます」と小さくメモ書きが残してあった。可愛らしい丸みを帯びたボールペン字だ。僕はまた何冊か本を買って、また代金を残して扉を閉じた。紙をぺらぺらめくると、ところどころ褪せたページの間から、畳と、それから線香のにおいがほのかに香っていた。

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