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青い空

作者: 氷砂糖

インターハイの県南部ブロック大会、最終日。

慈健女子高校陸上部の三年生、端手衣子は自身の出場する種目の為にアップを終え、部のテントで着替えていた。

 高校総体県南部ブロック大会、最終日。この大会で上位八名に入ったものが県大会に出場でき、さらに県大会で六位以内のものが四県大会に進める。インターハイへの大事な初戦だ。

 端手衣子は砲丸投げに出場するためのアップを終え、チームのテントの中でユニフォームを着ているところだった。赤一色のユニフォームは遠目でもよく目立つもの。慈健女子高校陸上部は、少数精鋭といえば聞こえがいいが、実際のところは陸上に特化した高校でもなく、「たまたま」強い選手が数人進学している高校だ。一日目の女子槍投げで、衣子は優勝している。去年の県新人戦で優勝した衣子は、県大会でもいい記録を残すだろう。ユニフォームの上から衣子はチームおそろいの黒いジャージを着た。

「衣子ちゃーん、いるー?」

 呼びかけにテントから出ると来原商業高校の新村邦子が来ていた。

「はーい、どうしたの?」

「いや、一緒に召集行こうと思って」

 来原商業陸上部は慈健女子高校とは違い、大所帯のチームだ。ほとんどの競技に上限の三名を出場させている。新村はそこの三年生。衣子と同い年だ。衣子とは中学時代から同じ競技で顔を合わせていたので仲が良かった。

「新村先輩、さっきも来てましたよね?」

 食事をしていた慈健女子二年の得沢うきはが声をかける。

「うん、衣子ちゃんと一緒にアップ行けたらと思ったんだけど、衣子ちゃんもう行っちゃってたから」

 新村は笑った。

「ちょっと、誰、ここにドリンク剤飲みっぱなしで瓶放置してるの……!」

 衣子が気付いたのは、テント横、慈健女子陸上部としてブルーシートを敷いているエリアだ。三年生や、三年でなくても着替えなどでテントを使うが、それ以外はこのブルーシートが主な待機所となっている。とはいえ、常に人がいるわけではない。燃えるゴミ、燃えないゴミ、各自荷物、差し入れ、とそれぞれ置き場が決められているのが慈健高校流で、差し入れ置き場に瓶が放置されていたのだ。差し入れられたものらしい四本の二リットルのスポーツドリンク、封を切られたドリンク剤の箱。その横の瓶を手に取った衣子はその説明書をざっと読んだ。

「これ、ドーピングに当たるんじゃないかな」

 麝香の表記を見つけてつぶやいた衣子。だが同時に考える。犯罪でもないそれが何だというのだろう。予選レベルの大会ではドーピング検査など行われない。フェアな大会にするためには個々人が気を使わなければならないことではあるが、そもそもドーピングの内容自体を知らない選手も大勢いる。海外製らしいドリンク剤だが、日本語の説明が明記されているので一般に販売されているものなのだろう。

「衣子ちゃん、招集行かなきゃだよ」

 新村が声をかけ、衣子は得沢に誰が放置したか特定することを命じて砲丸投げの召集に向かった。


 砲丸投げ、女子決勝。

 三投目までで衣子と新村が三位以下をかなり引き離していた。衣子が数センチの差でトップ、二位に新村がつけていたが、六投目。新村の砲丸は遠くまで伸び、衣子の記録を抜いた。衣子は六投目で記録を伸ばすことは出来ず、二位となった。


 衣子が慈健女子陸上部のテントに戻ると、間寧寺朱里がいた。間寧寺は本来百メートルハードルの選手なのだが、三人の出場枠には記録で入れず、この大会ではマネージャーとして立ち回っている。

「得沢たちから聞いたけど、瓶、犯人わかったよ」

 間寧寺がいう。後ろから済まなそうに一年の鵜狩が頭を下げる。

「先輩すみません、私がハードルの召集行く前に飲んでそのままでした」

「そう、以後気をつけてね。あと、間寧寺、ちょっとテント来て」

 怪訝そうな顔ではあったが、間寧寺はテントについてきた。ところでテントの中ではキャプテンの穂柄夏帆がずっと寝ていた。衣子がアップ終わりに着替えをしているときからだ。

「穂柄、あんたずっと寝てたの?」

「だって副キャプテン、何でもやってくれるじゃん」

 のっそりと起き上がりながら穂柄は答えた。副キャプテンとは衣子のことである。

「それはまあ、あんたが何にもやってくれないから……、ってそれはそれとして」

 衣子は三年全員――といっても三人だが――が集まったことで本題に移った。

「鵜狩が飲んだドリンク剤、あれ、どうもドーピングに当たるものっぽい」

 二人は無言で顔を見合わせたが、穂柄が口を開く。

「ドーピングったって、こんな地方の予選じゃ、どうせ検査もないし、そう大きな問題にすることではないと思う」

「誰が持ってきたのかわかる? 部室になかったものみたいだけど」

 衣子が訊くと間寧寺が答える。

「ドリンク剤は、私がたぶん記録を取りに本部前に行ってる間に差し入れられたみたい。差し入れられてるのに気付いて得沢たちには訊いたんだけど、あの子ら、名前しか控えてなかったのよね。いつも誰から何を差し入れてもらったか控えておくようにいってるのに」

 間寧寺はプログラムを取り出す。記録用を書き込むためのプログラムだ。雑多にいろいろと書き込まれた裏表紙の隅に三名の名前も書いてある。 乃木先輩、浴田部お母様、木屋お母様。名前はその三名分だ。

「一応、名前だけ、これにも写しておいたけど。うーん、誰からかってのはちょっと。一年二年は部の荷物を持ってくるから、一緒に持ってくるのは難しいと思う」

 乃木先輩は陸上部OGで、三日間とも来てくれたらしい。まだ競技場にいるかもしれない。浴田部、木屋のお母様というのは、今日の百メートルハードルに出場した二年生二人の母親のことだ。競技は既に終わり、二人の母親はもう競技場にはいないと思われる。誰が差し入れたにしても、ほぼ間違いなく善意だろう。追求は難しい、そう衣子は思った。

 奥まった位置に慈健女子高校はスペースを取っているので、全く何の関係のない人物が訪れていたら目立つ。声をかけなければ誰でも気付かれずに置けるかもしれないが、その可能性は限りなく低い。ただ、荷物の盗難等を防ぐことを考えるとどうにかしなければならないのかもしれない。今回は「置かれた」だが、「取られた」にならないとも限らない。

「まあとりあえずは、再発防止。それと、残りを誰かが飲まないようにしておくこと、かな。ドリンク剤、どうしようか。監督にでもあげちゃう?」

「監督にあげるの賛成」

「同じく賛成」

 衣子の発言に穂柄と間寧寺は同意した。

「しかし鵜狩も飲むかね。ドーピングって一応私がパンフレット部室に置いてたんだけどなあ」

「そんなの誰も読まないって」

「私は読んだもん」

「私読んでないよー」

「あんたは一事が万事適当なんだからあんまり参考にしても」

「まあまあ」

 衣子と穂柄の応酬を間寧寺が抑えて、三人は落ち着いた。


「ちょっとこれ、問題があるからテントに引き上げておきます。勝手に飲まないように」

 衣子はテントから出ると、そういってドリンク剤をテントに入れた。幸い、飲まれたのは鵜狩が飲んだ一本だけのようだ。

 来原商業の新村が来ていた。

「衣子ちゃん、お昼食べた?」

「邦子、あんたは自分とこ居なくていいの?」

「いいのいいの、うち、いっぱい人いるでしょ? スペースに居たら逆に狭くて。何かあった?」

 新村が訊くので、スタンドでお弁当を拡げながら、衣子は今までのことをざっと話した。後輩が差し入れのドリンク剤を飲んだまま放置していたこと、空のドリンク剤を見るとどうやら差し入れがドーピングだったこと、ドーピングの周知徹底ができていなかったこと、差し入れの管理もできていなかったこと。

「副キャプテンって大変だねー」

 サンドイッチをつまみながら新村は笑っていた。確かにそう深刻になることでもないかもしれない。

「私はさ、今日、衣子ちゃんに勝てたからすっごく上機嫌なのよ」

「県大会では覚えてなさい」

 そういって衣子も笑った。

「それにしても」

 衣子が続ける。

「ドーピングって気にしないもの?」

 新村は少し考えてから口に出した。

「うーん、私はやらないように気をつけてるかな、正々堂々と試合したいし。でも他の人がどう、とかまでは気にしてる余裕ないかな。自分の記録を伸ばしたいっていう気持ちもよくわかるし」

 新村はパックの牛乳を飲む。

「衣子ちゃんは再発を気にしてるかもしれないけど、意外と気にしてもしょうがない話かもよ? つまり――知識のない善意は抑えられない」

 新村は続ける。

「だってそうじゃん、実際ドーピングやるのって基本的には記録を伸ばしたいっていう動機だし、差し入れた誰かっていうのも記録伸びて欲しいと思った人が差し入れちゃったんだと思うよ。それに、ドリンク剤のどれにドーピングの成分がって気を付けてないとわからないと思うし、毎年細かく変わるし」

 衣子は無言でお弁当を食べ続けた。

「事故だよ、事故。あんまり気にしちゃいけないよ」

 喋りながらであったにも関わらず、もう新村はサンドイッチを食べ終え、デザートのヨーグルトを開けていた。衣子もお弁当を食べて終えると、二人並んで競技を観戦した。


「新村先輩!」

 声に振り返ると来原商業の女の子たちだった。

「そろそろ片付けますけど、荷物引き上げてもらっていいですか?」

「ああ、私もう持ってきてるのこれで全部だから、お願いね」

「はい! あ、それと津留のお母さんが持ってこられたドリンク剤って二箱で合ってますか? パッケージが開いた箱が一箱分しかなかったんですけど」

「たぶん男子が飲んじゃったんでしょ。で、たぶん誰か捨てちゃったんだと思うよ」

 わかりました、と女の子たちは元気な返事をして戻っていく。わいわいと話をしながら。楽しそうだ。

 衣子は新村の顔をじっと見た。新村は気まずそうに目を逸らす。

「あんたまさか、うちにわざわざドリンク剤置いていってないよね?」

 問いながら衣子は疑問に思っていた。そんなことをして何になるというのだ。検査のない大会でドーピングをするというのは、新村本人がいったように、記録を伸ばすだけだ。飲んだのは百メートルハードルの一年。砲丸投げの新村に何の利点もない。

 新村はしばらく黙ったままだったが、ぽつりぽつりと語り始めた。


「衣子ちゃんはさ、県大会でも上位入賞狙えるじゃない。砲丸じゃなくて、槍で、さ。私は砲丸が専門だし、南部ブロックで上位でも、他のブロックに強豪校多いしさ」

 黙って耳を傾ける衣子に新村は続ける。

「私は砲丸と、あとサブで円盤やってるけどさ、やっぱり本命は砲丸でさ。でも、衣子ちゃんはサブで砲丸やっててさ、なのに記録あんまり変わらなくてさ」

 新村は下を向いていた。声もぼそぼそと聞き取りにくいけれど、衣子は真剣に新村の話を聞いた。トラックではリレーが行われていて、周りの歓声でかき消されそうになっている新村の声だったが、衣子は一言も聞き漏らさないように聞いていた。

「勝てると思ったの」

「勝てる?」

 衣子は問いかけた。

「今日、後輩のお母さんからドリンク剤の差し入れがあって、何の気なしに説明見たらドーピング成分入ってて。勝てると思った」

 納得いかない顔をしている衣子が黙っていると、新村は言葉を継いだ。

「慈健女子のスペース、いっつも人が見てるんだか見てないんだかって状況で、差し入れ装っていたら衣子ちゃんがドリンク剤、飲むかなって。ドリンク剤飲んだ衣子ちゃんに負けるなら、それは公平な結果じゃないからなって、そう思って」

 狙われていたのは迂闊な百メートルハードルの一年生ではなく、衣子だった。その事実に衣子は、一つ、大きな深呼吸をして新村にいった。

「勝ったじゃない、邦子。ドーピングしてない私に勝ったじゃない」

 新村は無言で頷いた。

「邦子は、勝ったよ。正々堂々と勝ったよ」

 その後は二人、どちらも言葉を発しなかった。トラックは最終競技、男子のマイルリレーが発走するところで、スタンドには人が多く出てきていた。よく晴れた空は太陽が西からトラックを強く照らしていた。

 無言。

 湧き上がる周囲の歓声。各高校の声援。

 無言。

 八人の選手たちがゴールを超える。わあっと盛り上がるスタンド。

 衣子は新村に右手を差し出した。新村は戸惑う様子を見せながらもその手を握る。

「県大会では、負けないから。正々堂々と」

 二人は見つめあい、歓声が静まる頃、手が離れた。


 衣子は誰にも新村が犯人だとはいわなかった。九本のドリンク剤は、誰かからの差し入れということで監督の手に渡った。試合後のミーティングで、慈健女子高校陸上部チーム全員が差し入れの管理をきっちりとやっていないことで監督から叱責を受け、ドーピングの理解について勉強会を開くことが決まった。

「県大会に行くものも行けなかったものも、日々の練習に励むように。三年生、間寧寺は県大会での出場はないが、県大会までは三年全員がチームメイトだ。しっかりやれ」

 監督の檄が飛び、解散となった。


 これから夏が始まる。


<了>

この物語はフィクションです。

実在の地名、団体、個人等とは一切関連がありません。


【参考文献/サイト】

 ・知っておきたいアンチ・ドーピングの知識2014年版

 ・第62回大分県高等学校総合体育大会 陸上競技実施要項

 ・株式会社LSIメディエンス公式サイト

 ・ミステリー -wikipedhia


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