桜恋
買ったばかりの赤いパンプスで外に出ると、暖かい四月の風が優しく頬を撫でた。大きな通り沿いに咲き誇る桜並木を横目に一人、溜息を吐く。約束の時間までもう五分を切っていた。いつも待ち合わせの際に使用していたベンチに腰を下ろし、ふと、靴底を見てみるといくつもの桜の花びらが貼りついてた。靴を地面と擦り合わせてみてもそれは剥がれる事無く、一層強く靴底へと貼り付いてしまう。その花びらが私の心情と重なり、やけに苦しい。
あの日から、二週間が経とうとしている。
「アズミ」
体の芯までに響く彼のその声。私の名前を呼ぶ度に、深い安らぎに包まれるように温かく、それがたまらなく好きだった。
「俺、好きな人っていうか一緒にいたい人がいるんだ」
いつものように、私の部屋で他愛無い会話を繰り返しお酒を飲んでいた時で、あまりにも突然の報告に口に運んだグラスを持ったまま静止した。どんな言葉を掛ければいいのか分からず、私は終始戸惑っていた。そんな私の気持ちを悟っているのか、彼の顔は酷く辛そうで見ている方が胸が痛くなるくらいだ。
「何でもっと嬉しそうにしないの? 彼女なんでしょ?」
押しつぶされてしまいそうな胸を、ゆっくりと深呼吸しながら落ち着かせようとした。けれども、じわりじわりと拡がる痛みに耐え切れず、今にも涙が零れてしまいそうになる。
「好きは好きなんだけど、なんだろ。彼女といても幸せになれる気がしないんだ。贅沢な悩みだって思うだろ?」
沢山の言葉が宙に浮いては消える。どの言葉を選べば正解なのか見出すことが出来ず、私は彼のうなだれる姿を黙って見ていた。祝福など出来るはずが無い。このドロドロしてしまった感情を何と言えばいいのか、何と表せばいいのだろうか。
先週まで降り続いた雨も綺麗に上がり、漸く春と呼べるような気温になった。桜色のストールを首に巻きなおし、目の前を通り過ぎていく人達の中から彼の姿を探す。携帯を開き時間を確認するも、心が浮かれる事はない。
川のせせらぎに耳を澄ましていると、キラキラと輝く水面にゆらりと体を預ける鴨。この心地良い景色の中でフラッシュバックのように押し寄せる記憶。そして何度もリピートされる彼の言葉。
後悔とは後になればなる程、大きく膨らみ自身を追い詰める。時間の経過と共に、あの日、感情をごまかし一人泣いた事を思い返す。
「そんな顔しないでよ。雅樹が溜息つくと心配だよ」
私はずるい。断ち切れない思いをぶつける勇気すらもないくせに、当たり障りのない言葉を並べ、自分が振られる事よりも今日までの雅樹との関係を失う事を恐れていた。
「私で良かったらいつでも話聞くし」
思ってもいない言葉と一緒に作り笑いを彼に向けると、ただ黙って頷いた。白いテーブルの上に置かれたグラスに残ったお酒。溶けた氷がカランと音を鳴らす。彼のポケットに隠れている携帯が振動し急かすように音を出した。それを留める術を私は知らない。
「……電話、でなよ。彼女でしょう?」
約束の時間から十五分程経過した時、後方から声がかかる。
「アズミ」
振り向かずとも、それが誰の声なのか分かってしまう。言葉尻下がるその癖に反応するように高鳴る心臓が、自身の決意を鈍らせていく。
「走ってきたの? ゆっくりで良かったのに」
呼吸を整えようとしている彼を、隣に座るように促した。横から見上げると彼の額には汗が滲み、頬は少し赤みを帯びていた。手を伸ばしてその頬に触れたいと思いながらも、鞄からハンカチを取り出し、彼に差し出した。
「桜、満開になってるな」
誘い出したのは彼の方だった。去年の今頃、二人で桜を見ようと話していた約束を彼は覚えていてくれたのだ。それだけで十分だったはずなのに、私はこれ以上何を望んでいたというのだろう。
雅樹は私にとって特別な存在だった。好き、なんて簡単な言葉では言い表せない程に。彼の隣にいるだけで、この小さな体の中の様々な思いが泡となり、そしてパチンと音を立て弾けていく。それが漸く言葉に変わる頃にはいつも、混ざり合って汚れてしまい心とは正反対の言葉を発してしまっていた。
けれど、それも今日が最後なのだ。
「雅樹、もう会うのやめよっか」
欲に溺れてしまう前に、私は彼から離れることを決めた。私の言葉に、なんでと雅樹の手が伸びる。触れた指先に感じた体温が、やけに熱くて離す事を躊躇してしまう。もう戻れなくなってしまう、と何度も頭に過ぎったけれど、辿り着く答えがどれももう一緒だったのだ。私と同じ感情を、雅樹が私に向けることはない。
「好きだったの。ずっと。幸せだって笑っててよ、雅樹」
ゆっくりと彼の腕に手を添えて、私の指先にある温度を引き離した。引き離してしまった箇所が雨に晒されたかのようにどんどんと冷えていく。こんなにも温かい手のひらを自ら手放す日が来るなんて思いもしていなかった。
歩き出した私の背中に、雅樹は何か声をかけていた。けれど、振り向いてしまえばまた戻ってしまいそうで、私はただ前を向いて歩いていた。大切にしていたものを自らの手で壊してしまったのだ。
一年前。私は一人で桜を見ていた。大きな樹に万遍なく咲き誇る桜。この景色を、好きな人と見れたらどれだけ素晴らしいことか。そんなことを考えていた。
「……馬鹿だな、私。桜なんか一緒に見たら、余計に切なくなっちゃったじゃん」
私は自分の気持ちだけを押し通し、一番大切な事を忘れていたのだと思う。目を閉じれば彼の姿が愛おしいくらいに思い出せるのに。どうしてそれを伝える事が出来ずにいたのだろう。
頭上にいくつもの桜の花びらが降り注ぐ。私の心を優しく癒やしてくれているかのようだ。柔らかな風に乗り、ひらりと舞う桜は、それは綺麗で、思わず緩んでしまった涙腺が目の前の景色を滲ませていく。堪えようと空を見上げた時、青空を舞う桜の中に、一際濃い色をした花びらが目に留まる。その花びらはふわりと漂い消えていった。まるで、行き場をなくしてしまった私の気持ちと同じように――。