真琴1(4月7日、4)
四
再び唖然とした。
「勝負」の意味を脳内で検索にかけても、状況に一致する定義が一切インプットされていない。呆けた顔で見つめる先には、その人が制服の袖を捲り上げている姿が映っている。
え、と、まぁあれだ。確かにあれですよ。実はあたしに強烈なファンがついていて、引っ張り出されて「俺と付き合ってくれー」なんてワイルドな感じで言われちゃうのかな、なんて乙女な妄想したことは謝るよ。あと、ちょっくらかわいいから拉致されちゃった☆なんてことも全く考えてないなんて言ったらうそになるよ。
いやでもほんと、すっごい真剣に謝るんで。すっごい真剣に謝るんで、ここで使われている「勝負」の意味を誰か教えて下さい。お願いします。
ガッ。
全身を強張らせる。顔の左側からぱらぱらと細かいものが落ちていく音がする。実際白い粉のようなものが落ちていくのが視界の端に映った。ペンキを塗った壁の匂いを途端に強く感じる。喉が、干上がる。
分からない。何故この男があたしに関係するのか。一体何の理由があって呼び出されたのか。どうしてあたしとの「勝負」を望むのか。
膝が金縛りにあったようにびくりと固まる。そのくせ芯を走る神経は、常にないスピードで脈打ち始めた。
例えば「何らかの基準を定め、その優劣を決めるもの」が「勝負」だとしたら。例えばこの場合、殴り合いとかいった喧嘩の類のことをあたしに求めているとしたら。
お門違いでしょう。選ぶ相手を完全に間違ってる。そもそも女である自分に何を望むというのだ。
この人が自分に何を求めているのか。それだけを脳内で血眼になって探した。目の前にある顔の眉間にしわが寄る。
「おい、手加減するんじゃねぇぞ」
検索ワード追加。「手加減」の意味も一緒に考える。それはある程度力があって、その力を制限する時に使う単語。勿論あたしに至っては、そんな言葉を使うようなキャパシティを持ち合わせていない。
眉間にしわは寄ったままだが、その目にふと戸惑いの色が現れる。もう少し待てば首を傾げそう顔をしていた。その頭の上に確実にハテナが出ていた。まっすぐ見つめる。
「お前、草進真琴だよな?」
その長い髪が風にふわりと揺れる。あたしはやっとの事で目を逸らすと、一度だけ深く頷いた。
「西中の出身か?」
何故この人があたしの出身中学校を知っているか分からないが、もう一度深く頷く。
「俺、見たことないか?」
その人は自分を指差してそう尋ねた。「いや、覚えてないんならそれでもいいけど」とも言った。もう一度見上げてみたが、どう考えてもこんなやんちゃしそうな人と関わりを持った覚えはない。首を横に振った。
春の風は柔らかく、すべてを赦し、受け入れ包む。葉をこすり合わせて笑う木々、植えられたばかりの花壇の花は前提、はたまた凍りつくようなこの空気でさえも。
たっぷり十、数えた。肩越しに緑が舞うのが見える。その人は長くゆっくり息を吐くと、あたしの左側に埋まっていた右手を下ろした。再びぱらぱらと微かな音がする。ひどく、複雑な表情をしている。そうしてあたしから視線を外さず首をかしげた。
それはこっちのセリフ・・・・・・じゃなくて行動だ。
もう一度かさかさと葉の鳴る音がした。近くで小さな鳴き声がする。鳥がいるのだろう。こんなことがなければ完璧な昼だ。その声が去って、ようやくその人が口を開く。
「お前」
「先生、こっちです!」
はっとして二人で壁に張り付いて、そっと声のしたほうを覗いてみると、職員室がありそうだと思った棟の方から慶子が先生らしき人を連れて来るのが分かった。
「やべ」
その人はそう言うと、「悪かったな、それ」とあたしのスリッパを指差した。
「一応新しいの汚しちゃ悪いと思って言ったけど、考えてみりゃあっちの方が汚れたら嫌だな」
あたしはぼうっとその姿を見ている。思考回路の修復には時間がかかりそうだ。
「こら、火州!」
「じゃな」
その人はそう言い残すと、先生らしき人が来る方と真逆の方向に向かって走り出した。先生らしき人はようやくあたしのところまで来ると、息を切らせながら「大丈夫か? 何かあったのか?」と聞いた。おでこにうっすら汗をかいている。メガネを外して、袖でそれをぬぐう。
「いえ、何も」
軽く笑って見せ、つい先ほど軽く校舎の壁が一部削られたという事実は、その後自分が少し左に移動することによって隠蔽した。面倒なことには巻き込まれたくない。
「そうか。ならよかった」
メガネをかけなおすと、先生はにっこり微笑んだ。さっきまでと顔つきがまるで違う。普通にしていればいい人なんだろう。あたしは「あの、」と口を開く。
「あの人は?」
「なんだ、君知り合いじゃなかったのか?」
逆にあたしの方が聞きたい。首を振る。「新入生なんで」と付け加えた。
「あいつは火州飛鳥。今年三回生になるんだけど、いっこうに落ち着く気配がなくてねー。困ってるんだよ」
いやいやいやいや。困ってるんだよって・・・・・・。
「真琴ごめん。職員室探し回って遅くなっちゃった」
慶子はそうして手を合わせた。あたしも目でさっとありがとうを伝える。
「さぁさぁ、今日は早くお帰りだよ」
その後子どもをあやすようにそう言われ、先生にポンと背中を押された。膝が軽く音を立てる。その時初めて今まで自分がどれだけ同じ姿勢でいたかを知った。違和感がある。でもまだその場で崩れ落ちるなんてことはなかった。そうして立ったままの状態で膝を片方ずつ後ろに曲げ伸ばしした。
ヒシュウアスカ。得体の知れない音だけが残った。漢字変換はしてみたが、自信がない。その時ふいに、「脱いで来い」の意味に気付く。
〈考えてみりゃあっちの方が汚れたら嫌だな〉
ああ、「靴を」ね。
・・・・・・謝るところ間違ってない? 膝以上の違和感を覚えた。
気付かなかったが、見上げるといつの間にか眼前にはすっきりした青空が広がっていた。もう一度、今度はちゃんと慶子にありがとうを伝えた。
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