ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
雅2(5月20日、4)


  四

 太陽の光が消えていく。世界は紫。濃淡の美しい、グラデーションの紫。
その瞳に優しくなった光を感じて、鮫島先輩は目を開けた。そうしてあたしの方を向き直ると、急に起き上がった。
「あ、いやでも別に全部が全部その子のところに行っている訳ではないだろうし」
 先輩は超スピードのはいはいで寄ってきて、あたしの向かい側に座る。その拍子にその体に染み付いたタバコのにおいが舞って、あたしの体を通り過ぎた。自分が泣いているのに気付けなかったのは、この時が初めてだった。
「あ」
 顔を上げた拍子に左頬を伝っていた涙が拳の上に落ちる。鮫島先輩は本当に困っているらしく、眉が下がっていた。用もなくそわそわする。
「泣くなよ。ごめんて」
 自分の袖を手のひらでつかむと、それを左頬に当てられる。袖についたタバコのにおいを直に嗅いで、少し顔をしかめた。しかし、拭くというより、なでるといった力加減で、その優しさがいっそ滑稽なほど身にしみた。
 五日前、油断していたとはいえ、水島に抱きしめられたことが心を沈ませていた。飛鳥様が笑いかけてくれたら、別に事情を話さなくてもそれだけで大丈夫だと思った。
 早い話が、あの出来事自体なかったことにして浄化してしまいたかった。
 涙が止まらない。我慢していたものがここぞとばかりに一気に溢れていく。
 目を見開いたままぼとぼとと涙を落とすあたしに、鮫島先輩はもう一度だけ「ごめんな」と言うと押し黙った。
 いつしかぴたりと風が止んでいだ。あたしは自分の鼻をすする音が響き渡って恥ずかしく感じる。先輩に染み付いた臭いには、まだ慣れない。

 とっぷりと日が暮れる。今宵は下弦の月。
 屋上の、出入り口のある突出したコンクリートの上。何にも邪魔するものがなく、月の光が二つの影を完全な状態で地面に映し出した。
 鮫島先輩がようやくその腕を下ろす。先輩は先程に比べ随分落ち着きを取り戻していた。今はじっとあたしの口元を見つめている。そうして
「なぁ」
 目を上げる。鮫島先輩は、その細い目でしっかりとあたしを捕まえると、言った。
「雅ちゃんはなんで火州がいいの?」

 湿度の高い空気は肌に優しい。それはぴかぴに乾いた頬にありがたいものだった。
 月の光が一層強くなる。光に反射して、一瞬鮫島先輩はどこかこの世の人ではないような心地がした。女のあたしが言うのもなんだが、それほど白く、儚げだった。対照的に強い、存在として確かな目。
 ぽろり、と飛び出すタイミングを逃した涙が右頬を伝う。すかさず先輩の袖がそれをキャッチする。
「言いたくないならいい」
 先輩は目を逸らさない。その光に、あたしは嫌でも水島を重ねた。
 何も言わないでいるあたしを見つめながら、鮫島先輩は「雅ちゃんはかわいいから、そんなことで泣かんでいい」と言った。
 単語の意味は頭に入っていくのだが、全体がつながっていかない。ぼうっとその目を見つめる。月は南東。その目が光る。鋭利な目だった。
「泣かんでいい」
 先輩はもう一度そう言うと、ぽん、と頭をなでた。
「もう、帰ろう」
 あたしは黙ってその後について、屋上を後にした。途中で時計を見るともう十九時を過ぎていた。その日は帰ってお風呂も入らずそのまま寝てしまった。
 眠ってしまっては勿体ないほど、明るく素晴らしい月夜だった。






+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。