雅1(5月4日、5)
五
「急いで、るんですよね」
はっとして目を見開く。背後から光を受けているためそこまではっきりとは見えなかったが、苦笑いをした水島が、きまり悪そうに言った。
初めてその表情が変化する。能面のようにまるで動かなかった顔にも、たしかに血は通っていた。しかしそんなことさえ気にしている場合ではないほど、確かに急いでいた。正確に時間単位に直すことの出来ない仕事量。だからこそ、実際はそこまでかからないとしても、多く見積もる必要があった。あたしに「間に合わなかった」は赦されていなかった。
「ごめんなさい」
頭を垂れる。そしてハンドタオルを押し付けるようにして渡すと、バッグを持ち直し、通りに出ようとしたその時だった。視界の一部が遮られる。
換気扇の音が聞こえる。車の音が聞こえる。通りを歩いていく人たちの話し声が聞こえる。そのすべてが、一瞬遠ざかる。壁に付いた手に目を捕られる。手首もやはり白かった。
「貸し、ですよ」
水島が壁に右手をついて通せんぼうしている。その手の内には、しっかりとハンドタオルが握られている。はっとしてその顔を見た。その声は嫌に頭に向かって響いた。
こっちの事情を知らずに絡んできたのは向こうで、あたしを怒らせたのも向こうで、その結果「手前にあった水をぶっかけた」のであって、それでチャラになったと思ってはいけなかったのかしら。口の中に残ったカフェオレがひどく苦く感じる。
その顔は元の仏頂面に戻っている。何も言わないでいると、
「次回の生徒会の集まりは六月九日でしたね。その前に一度会ってください」
そう付け加えた。
「・・・・・・急いでるのは分かってくれてるんでしょ?」
「はい。だから一度頷いていただけましたら、この腕をどけます」
肩にかけたバッグの柄を握りなおす。上目遣いにその顔を睨みつける。
「分かったわ」
あたしがそう応えると、水島は黙って腕を下ろした。そうして手をはたきながら言う。
「そうですか。では」
「暇じゃないの。あたしに合わせて頂戴」
その声を遮って、さっと取り出した手帳をめくる。
「十五。今月の十五日」
「時間は?」
「お昼」
「場所は?」
「生徒会室」
それだけ言うとその横をすり抜け、表通りに出た。またたく間に喧騒に飲まれる。
五月の十五日。今日は四日だからあと十日以上ある。あわよくば忘れてくれることを、と願う。男の人は手帳を持ち歩かない。勝手な先入観だけれど、水島が例外でなければ忘れてくれる可能性はその分高くなる。そして次回の集まりの時「忘れてたねー」と何事もなかったかのように振舞えばいい。
完璧だ。そもそもあの子に関わる必要がない。あと一年、たった一年頑張ればいいだけのこと。もう折り返し地点まで来ている。
深呼吸して前を見据える。本当の戦いはこれから始まる。
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