雅5(8月1日、5)
五
その後あたしは家に帰ると、暗い玄関で異様に目に付くハイヒールを見つけた。若干のタバコ臭さを感じる。
めずらしい。帰ってる。
小さく「ただいま」と言うと、洗面所に向かい、まず手を洗う。
「雅―、いるのー?」
居間から声がする。
あたしは一つため息をつくと、「何」と応えて、声のするほうに向かった。
ソファの端から黒いドレスのすそが流れ出ている。ソファの背もたれが手前側にあるため、それとだらしなくかかった白い手首だけが見える。その手はやせ細っていて、細かなしわが刻まれている。
「お水頂戴」
母はそう言うと、例の手首から先をひらひらと動かした。それに合わせてドレスのすそもゆらゆらと揺れる。
あたしは黙って洗面所に行くと、洗って食器棚に伏せていたグラスを一つとり、水道の蛇口を軽くひねる。カルキ臭いのは、仕方ないとする。
「うー、ありがと」
母は手首に感じた冷たさをまさぐるようにして、グラスをつかむ。その時、間違ってあたしの手を一緒につかんだ。
その冷たい手。あたしは反射的に手を引く。次の瞬間、グラスは所在を失って、なすすべなく床に落ちる。
カシャン。
そうして乾いた音とともに、それは複数の凶器へと姿を変える。
靴下のカバーが及ばない足首に、チリッ、と焼かれたような痛みが走る。
「痛っ」
あたしは小さくそう叫ぶと、足首を抱え込むようにしてしゃがみこんだ。
ソファの向こう側から声がする。
「雅、何やってんの? 早く水」
一瞬、洗面器に汲んできて頭からぶっかけてやろうかと思う。
でも
「分かってるわよ。ちょっと待ってよ」
いつだって口をついで出るのは、思っているのと逆のこと。
あたしはそうして水を持っていくと、掃除機を持って破片を片付ける。
「うるさいわね、静かになさい」
掃除機の騒音の合間に聞こえてきた、気だるそうな声。全く、誰のせいでこんなこと・・・・・・。
あたしは掃除機を止めると、軍手と、ビニール袋をとってきて、大きな破片を拾った。
「・・・・・・ここ、通らないでね」
あたしはそういい残すと、ビニール袋の口を締め、台所に持っていく。
そうしてそのまま自分の部屋へと向かった。
ドアを閉めると同時に、手の甲を押さえる。
鈍い痛みを伝える足首でなく、手の甲を押さえる。
そうしてぼろぼろと涙を流した。
「う、うーっ!」
ベッドに倒れこみ、突っ伏したままうなる。どうしようもないやるせなさで、押しつぶされてしまいそうだ。あの、氷のように冷たい手。身の毛のよだつ、大嫌いな手。
助けて、と願う。
怖い、怖い、怖い。
あたし、を通してみる世界は、地獄だ。
「飛鳥・・・・・・様ぁ」
助けを、求める。
暗い、暗い、深い闇から救い出してくれた人。
「あの時」と、どっちが怖いだろう。
「うぅーっ!」
声を、押し殺して吐き出す。
その時、遠く、微かに何かの音が聞こえた。
あたしは顔を上げて、入り口に置いたままになっているバッグを見ると、重たい身体を抱えるようにしてもそもそと立ち上がり、そのバッグを開ける。
受信メール一件。
内容はやはり用件を伝えるためだけの簡素なもの。
あたしはどくん、と鳴った心臓を押さえて、室内を振り返る。
机の本棚の上に乗っている、真っ赤なタコ。ぬいぐるみなど、顔のついているものの類は、どうしてもどこかに閉じ込めて置けなかったため、そこにいる。
そうして、それをいいことに、タコは容赦なくその存在を主張する。
〈海行こ〉
花火の夜のことを思い出す。
間近で見た鮫島先輩は、そうしてあたしの中にゆがんだ笑顔を残していった。
カーソルを下げ、内容を把握する。
あたしは力なく、返事を送る。
一人ぼっちはもう、嫌だった。
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