ひとつ置いた隣のテーブルで、ひと組のカップルが向かい合っていた。
互いに身を乗り出し、まるでそこが二人だけのプライベート空間であるかのごとく、10センチの距離で見つめ合う。
「ねぇ、あんなの、あり?」
私は向かいの娘に、目で指す。
興味深げに視線を走らせた娘は、案の定爆笑した。声を殺して。
『なしでしょ! ありえないってー!』
「だよね。何が楽しくって、あんな距離で……」
再び見ると、男女はそれぞれの飲み物を口にしながら、深く座っていた。
「あれ……?」
だが、男が「そうそう、この前さ」と話しかけた途端、また引力が発生する。
互いの鼻だか顎だかがグイーンと引っ張られて、またその密室が出来るのだ。
「なんかさ……見ているだけで、くたびれない?」
『っく、っく――笑わせないでよ、お母さん!』
呼吸困難を起こしかけている娘に、昔話をひとつ。
「いたのよ、前の仕事仲間の女同士の中に一人だけね。アフターファイブのビル陰に、彼氏をいつも迎えに来させててさ」
「あーん、クルシィ。――それって、アッシーなわけ?」
指先で涙を拭いつつ、話についてきてくれる。
「あんた古い言葉知ってるね。さすがあたしの娘。褒めてつかわす」
「ラブラブだったんでしょ?」
「もっちろんよ。だって、鼻先2センチで話していたのよ? 口臭もろかぶりの距離なんて、H以外の時で信じられない。それをさ、女6人のすぐ脇でやっちゃっていたんだから、ある意味すっごいよね」
そう言いながら、私はまた左をチェックする。
今度は手も繋ぎ合っていた。
テーブルの両サイドからの指が、恋人絡みでだ。
私は一瞬天井を見て呆れ、肩で溜め息をついた。
「それで? その二人、当然結婚した?」
「ううん、“当然”別れた」
「ええ? そんな付き合いなのに、別れちゃったの? なんで? わかんないなー!」
「まだ青い女子高生には、到底わからないでしょうよ。燃えすぎて疲れちゃったんじゃないの? 多分ね。もしかしたら、彼氏のほうはまだ学生だったから、社会人になった彼女と、感覚がずれちゃったのかも知れないし」
サンドイッチの残りを一口で詰め込んだ私。モグモグと動かしながら、ストローの袋を三つに折り畳んだ。
その両端を中央で外側に折り返し、占いのスタート。
「なに、それ」
『“あの二人”の今後を占ってしんぜましょう』
アイスコーヒーをストローの先1センチほど含ませる。
占いネタの中央に静かに運び、一滴垂らした。水分の応援を借りた両端が、腹筋運動のようにツイッと立ち上がる。
「さぁ、どうでしょうかねぇ……」
娘と私の注視の中、45度、60度と近づいていく“二人”。
――逢いたかったわ、あなた!
――もう離れないよ、おまえ!
とでも言っているかのごとくだ。
だが、ラブ率100%の結果に数ミリを残し、はたと動きが止まった。
濡れた自身の重みで、また両脇に開いていき、こと切れた。
「あーぁ、残念。うまくいかないってことだよね」
遠慮を忘れた声に、注目された気配を頬に感じた。
私も娘に負けじと言う。
「そうみたい。勢いだけはよかったんだけどねー」
さすがにちょっと気が引けて、付け足した。「もう20年も前の話よ。何が理由だったんだか」
一言で表すなら“相性”となるのだろうか。
ラブ率などにかかわらず、結婚してうまくいくには、互いが空気のようになれるかどうかも大きな鍵だろう。
毎日が灼熱では喉が渇く。
淡々ぼんやりではつまらなそうだが、毎日はきっと無事に過ぎる。
かく申す私はどうか。
自分のストロー袋を差し出した娘。
「ねぇねぇ、じゃ今度は、お父さんとお母さんを……」
「やるだけ無駄よ」
軽くあしらう。「さ・て・と。40分だったわね。そろそろ着くわよ」
「あ、そうだね。お出迎え、お出迎えっと」
「今日もよろしく」
笑顔の娘に手を引かれ、私たちは新幹線改札口へと向かった。
「あー、来た、来た。――お父さーん!」
娘が先に手を振る。私の肩口をちょんちょんと突きつつ。
いつもの東京土産を提げ、大きなバッグを背負った夫が、私たちに気付いてちょっと目を逸らした。
口元に浮かんだ一瞬の照れ笑いは、どちらに向けたものか。
1メートルの目前に立ち止まった夫。
「おう、美和子。今日は塾ないのか?」
「休み。夏期講習は明後日からだし。今日はサンダル買ってもらったの。ね、お母さん」
「お帰りなさい。疲れたでしょう。混んでいた?」
タタタッと喋り、顔色を見る私。
返事はない。いつものことだ。
ろくに「ただいま」も言ってくれない夫の視線を避けて、一歩後ろを歩き出す。
大きなカバンは娘が引き受け、土産は私が。
だが今日は、思い切って夫の背中に話し掛けた。
頑張って腹筋を意識し、なるべく明るく。
「ねぇ、今晩のオカズはね! お父さんの好きなナスの揚げ浸しと、肉じゃがと……」
振り向いてもくれない。
足が止まりかける。
すかさずフォローにまわる娘。
「ねぇねぇ、お父さん。今日はお父さんの好物ばっかりだって。ちゃんと、聞いてあげなよ」
「聞いているさ。ビールは冷えているか?」
父娘のやりとりは続く――
人前で2センチの距離など近づいたことはないが、これも夫婦。
娘を通じての会話でも、成立すればOK。
「羨ましかったのよね、さっき……」
つぶやきで形にした想い。「聞いて欲しいよね。よくわかるよ」
前を行く二人には聞こえない程度に、そっと自分をなだめてやった。
「でも、無事に生活が出来ているんだから、感謝しなくちゃ」
幸せが当たり前すぎて、多分そのありがたみを見失っている私。
更年期のせいにしたり、幸せのせいにしたりしながら、今週末を過ごす。
山ほどの洗濯物だけが、妻であることを実感させてくれる。
(創作:短編)
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