はじまりは雪のふる夜でした
それは冬の寒い日だった。真夜中。雪が降っていた。街の明かりを反射してキラキラと輝きながら降っていた。
真夜中の雪は静かに降り積もる。白く冷たい世界をつくりだす。
そんな日に一人の女の子が生まれた。
あなただ。
彼女はあなたを産むとき泣いていた。痛くて、つらくて、ひとりで寂しくて。心細くて。
でも、元気に生まれてきたあなたを見て涙をながした。
嬉しくて涙をながした、幸せな涙をながした。
その日、彼女は最愛の娘を授かった。
その娘は彼女にとってすべてとなった。
彼女にとってあなたはどれほど望んだ存在だったか。あなたは、どれほど望まれて生まれてきたのか。
あなたは知らない。
あなたにミルクを飲ませているときの彼女はとても幸せそう。
あなたを抱いているときの彼女はなんて幸せな顔をしているのだろう。
その日の夜、病院のベッドで眠るあなたを見て彼女は泣いていた。
「ごめんね、私しかいなくて。もっと大勢で祝福して上げられれば良かったのに、ごめんね」
この日、彼女はあなたに初めて謝った。
◇
あなたを抱いて初めて家に帰った日、彼女は満面の笑みであなたに語りかけた。
「私の小さな宝物、さあ、ここがあなたとわたしのお家よ」
彼女は願った、小さな家だけど笑顔と幸せで満たそうと。
彼女は誓った、あなたを愛する人は自分ひとりだけになってしまった。だからこそ他の人の何倍も愛そうと。
あなたが笑うと彼女も笑った。とても幸せそうに笑った。
夜、あなたは何度も泣いた。あなたが泣くたびに彼女は笑顔を向けた。疲れていても眠くても彼女は微笑んだ。
◇
あなたが寝返りをうとうとしたとき、満面の笑みで応援した。
「頑張れ、頑張れ。あと少し、ほら」
あなたが力尽きて寝返りを諦めたとき、少しだけ残念そうな顔した。でも、すぐに愛しそうに抱きかかえた。言葉なんて分からないはずのあなたに一生懸命話しかけた。
「頑張ったね、もう少しだったね。次も頑張ろうね」
あなたが始めて寝返りをできたとき、あなたを抱きかかえた。涙をながして喜んだ。
「凄い、凄い。本当に頑張ったね。よく出来たね」
その日、彼女はいつもよりも嬉しそうに日記を書いた。あなたが始めて寝返りの出来たことを綴った。とても幸せそうな顔をして。
どうしたの?
もしかして、彼女が日記を書いていたことを知らなかった?
彼女は毎日日記を書いていたの。
あなたが生まれたその日からずっと。
日記の最後のページはあなたの小学校の入学式の写真。あなたと彼女が一緒に映っている。二人とも幸せそう。
彼女の日記にはあなたの写真がいっぱい貼ってあるのね。
でも、あなたと彼女が一緒に写っている写真はほんの数枚しかない。仕方がないよね、だって一緒の写真をとってくれるひとがいないのだもの。
◇
ねぇ、彼女の書いた日記を見て。
疲れて眠かった日も、つらくて泣いた日も、悲しかった日も、どうしようもなくてあなたを怒ってしまった日も必ずあなたのことが書いてある。
毎日その日の終わりにあなたのことを書いた。
見て、その日記を。
幸せでいっぱいなのがわかるから。
◇
あなたが始めてお座りをできたとき、彼女は嬉しそうにほほ笑んだ。
でも、ゆらゆらと揺れるあなたを、少し心配そうに見ていた。
あなたが揺れるたびに彼女はあなたを支えようと手を出す。持ちこたえるあなた。彼女はそっと手を引っ込める。
またあなたは揺れる。支えようとする彼女。でもあなたは持ちこたえる。そして彼女はそっと手を引っ込める。嬉しそうな、寂しそうな表情でそんなことを繰り返していた。
あなたが始めて這い這いをしたとき、やっぱり彼女は嬉しそうに微笑んだ。
彼女が狭い部屋の端からあなたを呼ぶ。
手足を必死に動かして彼女のもとへと這っていくあなた。あなたはとても幸せそうな顔をしている。彼女もとても幸せそうな顔をしている。幸せな時間、あっと言う間に過ぎてしまった時間。
◇
這い這いしかできなかったあなたが、いつの間にかつかまり立ちをしたかと思ったら、歩き出した。よちよちとして頼りない。
あなたのことを心配そうに見ている。でも、凄く嬉しそうも見える。
「おいでー」
彼女が両手を前に出してあなたを呼ぶと、あそんでいたオモチャを投げ出して彼女のもとへと向かう。
頼りない歩みだ。今にも転びそう。
あなたの目には彼女しか映っていない。あの頃のあなたにとって世界は彼女だった。
幼いあなたが無条件に信頼して頼りとしたひと。
あなたは彼女のもとにたどり着くと満面の笑みで彼女の顔を見上げる。声を立てて笑っている。
彼女も微笑んでいる。
あなたは、どこか誇らしげな顔をしている。
◇
あなたは成長する。
あなたの世界で彼女がだんだんと小さくなっていった。
いつの頃からだろう、あなたはあなたのことを愛してくれる彼女を遠ざけるようになったのは。
次第に会話が少なくなっていったのはいつの頃からだろう。
まだ歩けなかったあなた。彼女はあなたを抱きしめていた。
歩けるようになったあなた。彼女は手を離さないでいた。
ひとりで走り出したあなた。彼女は目を離さないでいた。
あなたは前を向いてひとりで歩きだした。彼女の手を振り払って、目の届かないところをあなたはひとりで歩いた。
手をつなぐこともできない。あなたのことを見守ることもできない彼女。
でも、心だけは離さずにいた。
いつもあなたのことを思っていた。
だって、彼女にとってあなたは、いつまでも幼いままのあなたなのだもの。
どんなに生意気なことを言われても、冷たい言葉を投げつけられても、怒鳴られたって、彼女にとってあなたは愛しい娘。
成長したあなたの向こうに幼いあなたを見ていた。
思い出の中のあなたを。
もう、いるはずのないあなたを。
▽
▽
▽
寒い夜、冷たい雪が降っていた。真っ白い雪が積もり始めている。何時間後かには辺り一面を白く美しい世界に変えそう。
あなたの目の前には鮮やかな赤と冷たい白とが美しいコントラストをつくりだしている。
積もり始めた真っ白な雪の上に真っ赤な血が広がる。雪の白が血の赤に染まっていく。
今、あなたの目の前で血を流して倒れているのはあなたの母親。
あなたを愛したひと。
あんなに冷たくされたのに、あんなにつらい言葉を投げ掛けられたのに。それでもあなたを一番に愛した人。
今、あなたの目の前で、命が尽きようとしている。
あなたを庇って、あなたの身代わりになって刺されたから。
あなたを突然襲った不幸、通り魔。
彼女はあなたの盾となった。
あなたは叫ぶ。涙を流して必死に叫ぶ。
「助けて、お母さんを助けて」
道行く人も、犯人を捕らえた警察官も、誰もが目を逸らす。
だって、致命傷だもの。
あなたは私の存在に気付いた。
そして私にすがる。
「助けて、お母さんを助けて」
無理。
だって、何の代償も無しになんて助けられないもの。
あなたは問い掛ける。どうしたらいいの? どうしたらお母さんは助かるの?
答えはひとつ。
命の対価は命だけ。
あなたの中のときがとまる。
私は続ける。
もし、あなたが望むのなら、あなたの命と引き換えに彼女を助けてあげる。
あなたは、承諾した。
さあ、いきましょう。
◇
◆
◇
「こんにちは」
私はあなたの母に優しく声を掛ける。
そして、あなたの母がなぜそこに立っているのか、あなたがなぜ目の前に倒れているのか、その理由を伝える。
あなたの母はきっと泣くでしょう。
きっと気が狂わんばかりに泣くでしょう。
私はあなたの母に夢を見せてあげるの。
あなたとの楽しかった思い出を。あなたの母がどれほどあなたのことを愛していたのかを思い出させてあげる。
そしてあなたがどれほどあなたの母を愛していたかを教えてあげる。
そして最後にこう伝えるの。
「命の対価は命だけ。もし、あなたが望むのなら――――」
こうして私は永遠の幸せをあなたと彼女に与える。私が手にするのは二人の魂……幾度もの死を経験したとても価値のある魂。千回くらい頑張れるかしら?