ただいまヴァンパイア見習い中
【20:00】
月の右半分が輝く半月、いわゆる上弦の月。
そんな月夜を窓越しに眺めながら、青年は紅茶を片手にソファーでくつろいでいた。
彼はイーレフト・アザル。海を渡ってここ日本へとやってきた、誇り高きヴァンパイアである。もうかれこれ50年以上も日本に住んでいるので、日本語はペラペラだ。むしろ今では母国語よりも日本語の方が染みついてしまっているくらいだ。
しかも人外の存在ゆえなのか、ヨーロッパ系とアジア系の中間めいた、独特の顔立ちをしている。色白で非常に整った顔の日本人、と言われればそう見えなくもない。それに加えて、彼の髪と瞳はまるで血で染めたように紅い。その現実離れした雰囲気が、彼の妖しさをより一層引き立たせていた。
肩まで伸ばした紅い髪を夜風になびかせ、秋の訪れを肌で感じていると。
「イーレさん、クッキーはいかがですか?」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると、キッチンから一人の女性が現れた。手にはチョコチップクッキーの載った皿を持っている。
おっとりとした大きな瞳と腰まで届く長いストレートヘアーはどちらも黒曜石色に染まっている。
彼女の名は櫻井美月。美しい満月の夜に生まれたからそう名付けられたこの女性は、イーレフトの婚約者である。彼女は元は人間だったのだが、イーレフトの力により、今は彼と同じヴァンパイアとしての生を歩んでいる。
「うむ、頂こう」
彼は彼女からクッキーを一枚受け取ると、満足そうにサクサクと食べ始めた。
ヴァンパイアとて血以外の物も食す。特にこの二人は『一番星屋』のチョコチップクッキーが大好きだった。
このチョコチップクッキーは「安い」「美味い」「量が多い」と、近所のコンビニやスーパーで大人気であり、常に品薄の状態である。
ある日近くのコンビニで残り一箱となった『一番星屋』のチョコチップクッキーに手を伸ばした時、お互いの手と手が触れ合った。なんとも少女漫画じみた展開だが、それが二人の出会いだった。
ちなみにその後二人は互いにどうぞどうぞと譲り合い、埒が明かなくなったので、レディーファーストが信条のイーレフトは半ば強引に美月にクッキーを押しつけると、さっさとコンビニを出て行ってしまった。
どこか別のコンビニかスーパーに売っていれば良いが、などとこの近辺の地図を思い浮かべながら歩いていると。
「お、お待ちください!」
背後から呼び止められた。振り向くと、先程の少女が慌てて追いかけてきている。手には『一番星屋』のクッキーの箱を抱えている。袋詰めしてもらう時間もなかったのか、箱には購入した証のテープが貼り付けられているだけだった。
彼女はイーレフトに追いつくと、すぐさま箱の蓋をピリピリと開け始めた。
『一番星屋』のチョコチップクッキーは蓋を開けると三つのパックに分かれている。そしてその一パックを美月自身に、もう一パックをイーレフトに差し出す。勿論イーレフトは遠慮しようとしたのだが、それを遮るように、彼女はすぐ目の前にある、舞い落ちるイチョウの葉で鮮やかに彩られた公園を指差しながら。
「この最後の一パックなのですけど…その、もし宜しければ…そこのベンチで一緒に食べませんか…?」
小さな声ではにかみながら言う彼女。それを見た瞬間、季節外れにも春のありとあらゆる花々が一斉に咲き誇った。勿論イーレフトの脳内でだけだけれども。
ヴァンパイア特有の白く冷たい肌が火照るのを感じた…。
「…ところで美月、君は最近ちゃんと血を飲んではいるのだろうな?」
「ええ、勿論ですわ」
美月はそれなりに裕福な家庭で育った為か、婚約者に対しても敬語かつ上品な言葉遣いをする。
「月に一度、この保存血を頂いておりますわ」
美月はキッチンに戻り冷蔵庫から赤い液体の入ったパックを取り出した。
この血液パックは医療機関で輸血用に使用されている物だ。ヴァンパイアは彼ら独自の裏ルートにより、こういった特殊な品も入手する事ができるのだ。
「ふむ、ならば良いが…だがそろそろ新鮮な生き血の摂取も必要になってくる頃だろう」
「ええ!?これだけ飲んでいれば良いのではないのですか!?」
「あのな美月よ…。今君がその手に持っているのは赤血球用の保存血だ。君は既に知っているだろうが、血小板用の保存血という物が別に存在する。赤血球だけの摂取では栄養バランスが偏ってしまうのだよ」
ちなみに言うと、赤血球よりも血小板の方が遥かに値が張る。家計的にも輸血用保存血による血液摂取はあまり宜しくなかったりする。
「それに保存血はあくまで非常食のようなものだからな、普段は【吸血】により新鮮な生き血を摂取するという事が前提なんだ。何より一人前のヴァンパイアとなる為には、やはり【吸血】の技術はマスターしておいてもらわねば…。よし、そうと決まれば早速今夜、実践訓練とゆこうではないか」
「え、でもそれって、首筋に噛みつかなければならないのですよね?見ず知らずの人にそのような大胆な事、わたしにはとても…」
美月は両頬に手を当て、顔を赤らめた。
大胆とかそれ以前に傷害罪に当たるわけだが、そこを気にしなくなった辺り、見習いとはいえ彼女もすっかりヴァンパイア脳になってきているらしい。
「…それはつまり、普段からそのような大胆でハタ迷惑で悪趣味な事をしている我ら一族に喧嘩を売っているという事か…?」
血色の瞳でジロリと睨む。
「い、いえそういうわけでは…というか別にそこまで言っては…あの、そ、そのう…」
むしろ自覚あったのですね。
「…とにかくだ、これから【吸血】をしに行くぞ。早く準備をしろ」
もうこうなってしまっては彼を止める事は出来ない。
普段の彼はとても優しく、女性への気遣いがバッチリの素適男性なのだが、一度こうと決めたら何が何でも実行する頑固者でもあり、特にヴァンパイア指導においてはかなり厳しい。
ここに紳士系亭主関白というニュージャンルが確立した。
「…わかりましたよ。それに早く立派な吸血鬼にならないといけませんしね。だからわたし、緊張しますけれど…頑張ります!頑張って今日こそ吸血鬼見習いを卒業致しますわ!!」
ぐっと拳を固めて決意する美月であったが。
「…『吸血鬼』ではなく『ヴァンパイア』、もしくは『ヴァンピール』と呼べ。いつも言っているだろう」
我々は『鬼』とは違うと、自分の種族に誇りとこだわりを持っている彼はこの呼称を嫌っている。
「はい、すみません…」
婚約者兼師匠にピシャリと言われ、しゅんと肩を落としながら出かける準備をする。
そんな彼女の後ろ姿を見て、思わずフッ、と笑みがこぼれる。しかしその微笑はどこか寂しげなものを宿していた…。
【21:00】
「さて、どいつを狙おうか?」
隣町にある、とある15階建てのマンションの屋上から、イーレフトが道行く人々を品定めする。ヴァンパイアは非常に視力が高く、また夜目も効くのだ。
彼らは今、イーレフトはスーツ、美月はドレスに身を包んでいる。どちらも黒を基調としており、またさらにその上に漆黒のマントを羽織っている。イーレフトいわく、これが【吸血】の際のヴァンパイアの正装なのだそうだ。
ちなみにこのマント、表は漆黒だが裏地は真紅に染め上げられている。つまり後ろ姿ならともかく、前から見ると割と目立つ。
さらにイーレフトに関しては髪も真っ赤である為、少しでも誰かの視界に入ろうものなら、すぐさま不審人物としてロックオンされてしまう事だろう。そのような彼がこれまでどのようにして【吸血】を成功させてきたのか、全くもって不思議な事この上ないが、恐らくこれが年季の入ったプロの実力というものなのであろう。
「あの小太りの青年なんてどうだ?脂が乗っていて旨そうだぞ。あちらのサラリーマンも血色がいいな。…ふむ、どうせならばなるべく健康そうで血が濃そうな者が良いが…。美月、君はどんな奴が良い?」
「あの…殿方に噛みつくというのはちょっと…なるべくなら女性のほうが良いのですが…」
女性はきっと貧血を起こしやすいだろうから、血が濃そうな者には当てはまらないだろう。出来るならば避けてあげたいところだが、美月は箱入り娘として育てられてきた為か、異性への免疫があまりない。チョコチップクッキーの出会いの際、イーレフトに声を掛けた時だって、どれ程の勇気を振り絞った事か。
それに健康そうな人を選ばねばならないと言うのならば、もし仮に今、通りすがりのボディービルダーの男性が現れてしまったとしよう。その場合、彼をターゲットとしなければならない事になる。
だがはたして彼の血を吸いたいと思えるだろうか。はっきり言ってご遠慮願いたい。むしろ首筋とはいえ、その厚い筋肉に牙が通るのかどうかさえ疑問である。下手をしたら折られてしまいそうだ。
「……うむ、そうだな…女性の方が良いかもしれないな…」
少し間を置きつつも、イーレフトもうなずいてくれた為、美月は少しほっとした。
別に彼までボディービルダー云々を考えていたわけではない。ただ単に、自分の婚約者が他の男の首筋に唇を押し当てる姿を想像してしまっただけである。
男のターゲットは駄目だ!絶対に駄目だ!何が何でも却下だ!!
自分で提案しておいて自分で蹴った。
そんなこんなで女性の通行人を探していると。
「お、あいつなんて良いのではないか?」
イーレフトは路地裏を歩く一人の女子高生を指差した。部活帰りなのか、こんな時間にスマートフォンをいじりながらとろとろと歩いており、非常に無防備で不注意な状態である。曲がり角からふいに自転車が現れたら間違いなく衝突事故を起こす事だろう。
「あの女性ですか…顔色も良さそうですし、良いかもしれませんね…」
運動部で目いっぱいスポーツをしてきた後なのか、うっすらと顔が赤く、また夏はとっくに過ぎ去ったというのに、パタパタと手で煽いでさえいる。
「よし、ではあの娘で決まりだな。…では行ってきなさい」
頑張れよ、と狩り場に向かう彼女の背中に、師匠はエールを送った。
【21:15】
女子高生は絵文字だらけの長文メールをようやく彼氏に送り終わると、スマートフォンを鞄の中にしまった。あとは帰路を急ぐだけである。
今聞こえるのは自分の足音のみ――――いや、もう一人。背後から徐々に近づいてくる。
もしや痴漢か?であるならばすぐにでも助けを求めなければ。恐る恐る振り返ると。
そこにいたのは女性だった。痴漢ではなさそうなので少しほっとした。
だがその雪のように美しい肌も、流れるような鴉の濡れ羽色の長髪も、暗闇で見れば生気のない顔をしたおどろおどろしい真っ黒髪の幽霊にしか見えない。しかも普通の日本人はまず愛用する事のないであろうマントと、さらにその下には何やら喪服のようなものまで着こんでいる(彼女には黒いドレスがこう見えた)。
先程とは別の意味での悲鳴を上げようかと一瞬迷っていると。
「あ、あの、少々宜しいでしょうか」
思わずどもってしまう程のおどおどとした声。
――――良かった、この人はちゃんと生きてるっぽい。
女子高生は再びほっと胸を撫で下ろし、はい、何でしょうと言いかけたその時。
「貴女の血、頂いても宜しいでしょうか?」
「え?」
答えを聞く前に、美月は少女の首筋に牙を立てた。
ヴァンパイアは吸血と同時に催眠術をかける。そうして眠りに落ちた相手から心置きなく血液を頂くのだ……が。
「いっったぁああぁ!!?何この女!?お、お巡りさ~ん!ここに通り魔が、いや変態が、変質者が~!!」
女子高生は世のヴァンパイア全てを敵に回す言葉をわめき散らしながら走り去って行った。それを追い駆けることも逃げ出すこともせず、美月はただその場に立ち尽くしていた。
「おい、美月、大丈夫か?まだ術がうまく使えなかったか…。だが気に病むことはない。何度もやればじきに慣れ…美月?」
それまで美月の狩りを屋上から見守っていたイーレフトは、ふわりと地面に降り立ち、彼女の後ろ姿に声をかけたが反応はなかった。
不審に思い彼女の顔を覗き込もうとした途端、美月はくらりと倒れ込んでしまった。幸い抱き支える事が出来たものの、彼女の顔は真っ赤になっており、ぐでんと脱力状態に陥っていた。その口元には先程の女子高生の血が微かに付着している。そしてそこからは――――恐らくヴァンパイアにしか嗅ぎ取れないくらい微かなものだが――――独特の匂いが漂ってきた。
「まさかあの女、十代のくせに飲酒していたのか!?まったく、これだから最近の若い者は…!」
イーレフトがどこぞのカミナリ頑固親父のような発言をしていると、その最近の若い者は「お巡りさん、こっちです!」と、最近の若い者には珍しい積極的な行動を起こしていた。
「む、まずい、逃げるぞ!」
しかし美月は既に酔い潰れて深い眠りに落ちていた。
どちらが催眠術をかけられたのかわかったものではない。そもそもたった一口啜っただけの血中アルコールでどうしてここまで酔えるのか。
色々とツッコミどころが大ありだが、今はそれより何よりサツを撒かねば。
イーレフトは美月を抱き抱えると、月夜の空へと飛び去っていった。
【22:00】
家に着き、まだ気を失ったままの美月をベッドに寝かせる。
まるで高熱を出したかのように真っ赤な顔の彼女を覗き込みながら、イーレフトはかつての事を思い出していた。
彼女と付き合い始めた頃、彼はまだ自分の正体を隠していた。そもそもこのご時世に「自分は実はヴァンパイアなのだ」と告白したところで、盛大にギャグを滑ったか、はたまた行き過ぎた中二脳を持つイタい人としか思われないだろう。
どちらにしろ残念な人のレッテルを貼られる事は想像に難くない。
それでもやはり恋人にだけは真実を告げねばならないと思った。その為に彼女が自分の元を去って行く事になったとしても…。
勿論そのような衝撃告白に美月は驚きを隠せなかったが、すぐに落ち着きを取り戻した。そして「何をくだらない冗談を」とか、「頭おかしいんじゃないの」とか「何この慢性中二疾患患者」とかの、オホーツク海の流氷の如き冷たい言葉を浴びせ…る事はなかった。
彼女は彼の述べた事を信じてくれた。それどころか、定期的に生き血を吸わなければならない事を伝えると、自分が彼に生き血を提供する【献血者】になると申し出てくれさえしたのだ。
――――嗚呼、なんと純粋で優しく健気で大らかで温かい心の持ち主なのだろう!
これが日本に古くから伝わる大和撫子という奴か?
これが今時の言葉で言うところのマジ天使という奴か!!?
イーレフトの脳内に知りうる限りの日本語の褒め言葉が飛び交った。
だが実のところ、美月は以前から彼の正体に薄々気が付いていたのだ。
イーレフトは外出の際は極力日陰を歩き、食事はニンニク料理を避け、また貧血対策の為の栄養剤と称してしょっちゅうスッポンの生き血のドリンクを飲んでいた。それに加えて、彼の血色の髪と瞳は、染めているわけでもなければカラーコンタクトレンズでもなく、全て生まれついてのものだという。
日光に当たったり十字架に触れただけで灰になるなど、物語や伝説で語られていることが全て当てはまるわけではないが、それにしても共通点が多すぎた。流石に勘づくというものである。
それでも美月は彼の恋人で在り続けることを選んだ。それはヴァンパイアだの人間だのといった事はどうでも良く、ひとえに彼女が、その頑固さゆえに一途で真摯で純真である、「イーレフト」という存在を愛していたからだった。
美月は月に一度、イーレフトに血を捧げた。勿論イーレフトは彼女の健康を害さないよう、最低限の吸血量にするよう努めた。
しかしある日、彼女の血の味が妙に薄くなっていることに気がついた。いわゆる貧血である。実はここ一週間ほど前から、美月はしばしば立ちくらみを起こしていた。だがそれをイーレフトに伝えてしまったら、彼はきっと【吸血】を遠慮してしまうだろう。だから今まで秘密にしていた。その結果、彼女はこの吸血後にめまいと倦怠感により寝込んでしまった。
当然イーレフトには叱られた。ベッドで安静にしている身にはいささか長く厳しく激しい説教だったが、これも自分を想っての事だと、彼女は素直に反省した。
ともあれ、今回はたまたま体調が悪かっただけだ、そこに追い撃ちをかけるように【吸血】をしてしまったのがいけなかったのだ、二人はそう思っていた。
だが体調は一向に良くならなかった。それどころか微熱まで生じるようになり、それが幾日も続いた。
生来楽観思考である美月は、「このくらい大した事ございませんわ、そのうち良くなりますよ」と、それほど気に留めてはいなかったが、イーレフトは何やら胸騒ぎを感じ、一度病院で診てもらったほうが良いと彼女を促した。
美月はしぶしぶうなずくと、近医を受診し、血液検査を受けた。すると医者は固い表情をしながら、「大きな病院で精密な検査をしてもらって下さい」と、他院への紹介状を彼女に渡した。ポジティブが信条の彼女も流石に少し不安がよぎった。
彼女は血液の病気だった。血球が著しく減少する事で貧血や免疫力の低下等の症状が現れ、またそれにより感染症が起こりやすくなるというものだった。
そのまま緊急入院となり、内服及び点滴による抗生剤の投与、そして輸血による治療が開始された。
赤いパックは赤血球。黄色いパックは血小板。
ヴァンパイアお馴染みの非常食として、イーレフトが何度も見てきたものだ。
――――それを今、何故人間である彼女が投与されているのだ?
私に血を分け与えてくれていた美月が、何故他者から血を与えられる側になっているのだ?
解せない。わからない。何故こうなってしまったのか…。
美月が入室している部屋は個室である為、希望すれば夜中でも付き添いをする事が出来る。美月の両親は出来る限り彼女のそばにいてあげた。父も母も彼女の元に行くことができない時は、代わりにイーレフトが付き添いをした。
この頃はまだ婚約こそしていなかったものの、彼女の両親とは積極的に交流を重ねていた為、割と良好な関係を築けていた。だから「君がそばにいてくれるなら、きっと娘も安心できるだろう」「あなたがいてくれて助かったわ」と、あくまで他人であるはずの彼の付き添いを許可してくれた。
朗らかで温かみ溢れる夫妻。この両親の間に生まれ、育てられたからこそ、今の美月が在るのだと改めて実感した。
この二人にはまだ自分の正体を告げてはいない。だが美月の容体がひとまず落ち着いたら、彼等にも本当の事を話そう。
いくらあの温和夫婦でも「お前のような化け物と娘との交際を許せるはずあるか!」などと言って憤慨するかもしれないけれど。まあその時はその時だ。
ともあれ美月には早く元気になってもらわないとな。話はそれからだ。
――――そう思っていたのに。
彼女の容体は悪化していくばかりだった。高熱が続き、呼吸苦も出現し始めた。どうやら感染症を合併し、肺炎を発症してしまったらしい。適宜酸素吸入も行われるようになり、投与される薬剤も増え、輸血の回数も増えた。
最初は腕にのみ入れられていた点滴のチューブが、今は胸の辺りからも挿入されている。恐らく太い血管に直接薬剤を投与する為だろう。それ程彼女の病状は思わしくないという事なのか。この日の夜は三人全員で付き添う事にした。
美月はどこか虚ろとなった目で窓の向こうを見た。漆黒の夜の中にぽつりと、下弦の月が浮かんでいる。この月はこれからさらに欠け、やせ細り、やがては全く見えなくなってしまうだろう。丁度美月が生まれた夜とは正反対に。
「わたし…死にたくないです」
消え入るような声で、彼女はぽつりと言った。
「でも、このまま苦しみながら生きていたくもないんです…」
目尻から雫が伝い落ち、枕の生地に染み込んでいく。
「頑張らないといけないのに…頑張るしかないのに…!辛いのは、もう嫌なんです…。努力できない弱い子でごめんなさい…後ろ向きで弱音吐いて…駄目な子でごめんなさい。でも、わたしは、もう…頑張れないの……っ!」
ぜーぜーと息切れを起こしながら嗚咽を漏らす。
母は流涙し、父は溢れ出しそうになる涙にじっと堪えていた。
皆が皆泣いていた。ただ一人を除いては。
「一つだけ…方法がある」
皆は一斉に声の主に目を向けた。
「その為に多くの物を失う事になるかもしれないが…その覚悟があるならば…」
血色の瞳が鮮紅色に輝いた気がした…。
翌日から、彼女の容体は驚くほど回復していった。その劇的な変化に医者はただただ目を丸くするばかりだった。
だがあまり何度も確認の為の再検査をされると面倒な事になり兼ねないので、「具合が良くなったからこれからは近医に通院する」と言って、半ば強引に自主退院し、また実際には渡すつもりのない紹介状を書いてもらって病院を後にした。
美月の病気は血球を作り出す臓器の仕組みが壊れてしまった事により起こっていた。
物語の中のヴァンパイアは、ほとんどがいわゆるゾンビだ。死人が甦って人々を襲うのである。
実際のヴァンパイアには、既に魂の抜けてしまった存在に再度命を吹き込むことはできない。しかし機能に異常をきたした、もしくは死んでしまった細胞を再び正常化、及び復活させる程度ならば出来る。その為美月の造血機能は元の…いや、それまで以上の活力を取り戻す事が出来たのだ。ヴァンパイアであるイーレフトの血を飲む事によって。
――――彼女の「人間」としての生を引き換えに…。
【23:45】
「う~ん…」
「気がついたか」
うっすらと目を開けると、見慣れたわが家の天井。そして愛しき婚約者の顔。
「ごめんなさいイーレさん。わたし、失敗してしまいました…」
「気にするな、焦る必要はない。時間はいくらでもあるのだから。何と言っても我々は不老のヴァンパイアなのだからな」
だから大丈夫だ、と優しく微笑する彼だったが、その笑顔はどこか憂いを帯びていて。
「…だが、後悔していないか?」
「え?」
「ヴァンパイアとなった事を」
本当は、彼女には人間のままでいてほしかった。
彼女は人間として生まれてきたのだから、人間として生きて、老いて、寿命を迎えるべきだった。先に逝かれてしまうのは寂しいけれど、それが摂理だと思っていた。
だが彼女がいざ死の間際に立った時、思った。
そんな摂理などクソくらえだ!と。
それは美月の両親も同じだった。
子は親より先に死んではいけないというのに…まだ振り袖すら着ていないというのに…いくら何でも早すぎるではないか。
彼女の両親も、そして彼女自身もそう思ったからこそ、美月はヴァンパイアとしての生を受け入れた。
皆の合意の上でおこなった事。けれども。
「君の父君も母君も友人も、皆年を取り、死んでゆくだろう。時の止まった君を置き去りにして。寂しくはないか…?」
彼女は元は人間だ。生粋のヴァンパイアである自分とは違う。縁の深い者達との別れも多かろう。
「…確かに、皆が先に亡くなってしまうのは悲しいです。でも、ちゃんと覚悟は出来ていますから。ヴァンパイアになる事を決めた、あの夜に…」
むしろあの時イーレフトに助けてもらえていなかったら、自分はその寂しさと悲しさを周りの人達に振り撒いていた事だろう。美月にとってはその方がずっと辛い事だった。
「それに少なくとも、皆が生きている限りは会いに行けますもの。確か年相応に見せる催眠術もあるのでしたよね?」
不老の彼らはこれから数十年経っても若いままだ。イーレフトにも勿論子供時代というものがあったが、この見た目まで成長して以降は全く年を取っていない。彼らが自分の年老いた姿を見る事は未来永劫ないだろう。
しかし特殊な催眠術を掛ける事で、そういった姿を一種の幻覚として相手に視せる事ができるのである。
「その術を使えば同窓会等にも気軽に参加できますわよね!」
「まあ、写真などを撮らなければな…」
この術はあくまで、術者が相手の「認識」に対し直接働きかけるものであり、写真や鏡に映った像には効果が無い。調子に乗って集合写真でも撮ろうものならどうなるか、もはや説明するまでもない。
「それにですね、医療技術は日々進歩しているのですから、もしかしたら普通の人間も200年300年簡単に生きていける時代が来るかもしれませんよ?」
確かにイーレフトが今まで見てきた限りにおいても、人間の寿命は随分と長くなった。だが流石にそこまで飛躍的に延びるというのはいささか難しい気もするのだが…。
美月の相変わらずの楽観思考に思わず苦笑してしまう。
「何より、わたしは独りではありませんから…イーレさんがいますから。貴方がずっと一緒にいてくれるなら、寂しくなんてありませんわ」
はにかみながら、彼女は言う。出会ったあの時と同じように。
「……それにいずれは家族が増える事だってあるかもしれませんしね」
「…そうだな………ん?」
彼女がぽそりと付け加えた一言に、一瞬思考が遅れる。
――――これはつまりあれか?そういう事と考えていいのか?ベッドでこのまま…とかそういうシチュエーションの奴なのか??
しかしイーレフトの期待も虚しく、美月はひょいとベッドの上から降りると、キッチンに向かって行ってしまった。どうやら酔いは完全に醒めたらしい。
――――うん、彼女が元気になったようで良かった、ヨカッタ…。
戻ってきた彼女は、再びあのチョコチップクッキーと、二人分の紅茶を盆に載せて持っていた。
「先程はお召し上がりの途中で出掛ける事になってしまいましたから…。ティータイムの続きといきませんか?」
「……そうだな、頂こう…」
少しふて腐れていた彼だったが、クッキーを一口かじってチョコの甘さが口いっぱいに広がると、とたんに機嫌が直ってしまう。
クッキーを食べながらふと窓の外を見る。上弦の月はすっかり傾き、西の空に沈み込もうとしている。
あの月はこれからどんどん満ちてゆき、そのうち真円を描く事だろう。美月が生まれた日の夜と同じように。
「…それと、先程は『焦る必要はない』と言ったが、なるべくなら早めに一人前になってくれよな?」
向かいに座る美月の顔を見つめ、そして言う。
「その時こそ、私は正式に君を妻として迎えられるのだから。ヴァンパイアとなった以上、半人前のままの奴を娶るつもりはないからな」
イーレフトは口の端を吊り上げてニヤリと笑った。そこには年季の入った、鋭く長い立派な牙。
「…はい、花嫁修行、これからも頑張ります」
美月もつられて笑う。
未熟な見習いヴァンパイアの、まだまだ小さな牙がちらりと顔を覗かせた…。