その日、柳田はいつものように喫茶店を開けた。そしていつものように朝方の常連相手に世間話をした。冬も深まったが、今年は暖冬のせいか雪を見かけない。そんな話が主だった。このあたりはそう頻繁に雪の降るところではない。ただ、それでも一月の中ごろを過ぎても雪を見ないのは珍しいことだった。今日も朝から良い天気で、雪など降りそうに無かった。
にわかに外が曇りだしたのは、昼を少し過ぎた頃だった。降りそうだな、そう思う間も無く空からチラチラと白い雪が舞い落ちてきた。この時期になってやっと初雪か、そう思いながら柳田は少しだけ外に出てみた。大した雪ではなかったが、外は充分に冷え込んでいた。十五分ほどで寒さを覚えて柳田は店内に戻った。
自分の体を温めるためにココアを入れていると、来客を知らせるドアベルが音を立てた。同時に冷たい空気が店内に流れ込む。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
入ってきたのは女性だった。柳田の視線はその顔に引き寄せられた。お客様の顔を凝視するなんて失礼なことだが、目が離せなかった。美しい女性の顔がそこにはあった。透き通るような白い肌と細面の整った顔立ち。やや俯きがちなその顔は、彼の記憶に引っかかった。確かに彼女を知っている。
「コーヒーを……」
水とお絞りをテーブルに置く柳田に、女性はそう注文した。伝票に書き付け、一礼してからカウンターに引き返し、コーヒーを入れる支度をする。テーブルにそれを置くと、女性はゆっくりと味わうように飲み始めた。柳田はその間中ちらちらと彼女の顔を盗み見ながら、必死で記憶を探っていたが、結局思い出せなかった。女性は、コーヒーを飲み終わると店を出て行った。女性が店を出て行くと同時に柳田はほうっと息をついた。
それから女性は何度か来た。彼女が来るときは、いつも決まって雪が降っていた。おまけに誰もいないときに必ずやって来る。そして、コーヒーを一杯だけ注文して、それを時間をかけてゆっくりと飲んで帰っていく。その度に柳田は必死で考えて、結局答えの出ないままに二人の時間を終える。そんなことが繰り返された。
ある時、女性が帰った後でカップを片付けながら、ふと座席にハンカチが一枚落ちているのに気付いた。慌てて表に飛び出してみたが、そのときには既に女性の姿は影も形も無かった。仕方なく店内に戻り、改めてそのハンカチを眺めてみる。薄いピンクのレースで縁取りのしてあるハンカチだった。
「S.Yukina」
隅っこに刺繍でそう縫い取られていた。その時、まるでパズルのピースを合わせていく様に、柳田の脳内にあたかも一枚の絵が出来上がった。
「そうだ、白瀬雪菜だ。白雪だ」
白瀬雪菜は柳田の小学校時代のクラスメイトだった。三年生のとき、初めてクラスメイトになった。二年生から彼女と同じクラスだったクラスメイトからは、白雪と呼ばれていた。おとなしい優しい子だった。肌の色や性格などから見ても、白雪と言う呼び方はとても彼女に似合っていた。彼女は雪が大好きだった。三学期のある日、雪が降った。その日、白雪は一日中窓から校庭を眺めていた。その目はとても輝いていて、とても嬉しそうな笑顔は最高に可愛かった。
柳田は白雪に好意を抱いていた。けど、そんなことが他のクラスメイトに知れればからかわれるのは分かっていた。話かけられても、ちょっとつっけんどんにしてみせた。そんな時、白雪はとても悲しそうな顔をした。
四年生が始まる前日、柳田は祈った。生まれて始めて真剣に神様に祈った。神様、お願いします。白雪と同じクラスになれますように。そしたら、もう仲良くします。そう寝る前に必死で祈った。翌朝、学校に行くのが怖かった。
奇跡は起きた。四年生のクラスメイトの中に白雪がいたのだ。神様に誓ったとおり仲良くしよう、そう決めて、そうした。一学期は瞬く間に過ぎていった。クラスメイトに噂されて恥ずかしかったけど、白雪と喋るのは楽しかった。そして二学期。白雪の姿はクラスにいなかった。転校した、と先生の口からそんな残酷な言葉が飛び出した。せっかく仲良くなったのに、自分に何も言わずに行ってしまった。それはショックだった。若干十歳、初めての失恋だった。
次に来たとき、このことを言って驚かせてやろう。それでこのハンカチをちゃんと帰そう。それから、懐かしい話しも出来るといいな。そんな思いに胸を膨らませ、柳田は次の来店を心待ちにしていた。
ところが暫くの間、彼女は姿を見せなかった。雪も一度も降らなかった。雪が降れば彼女が来るのに、いつしか柳田はそんなことを考えるようになっていた。
そして二月の中頃、ついに久しぶりの雪が降った。そして、彼女が現れた。
「いらっしゃいませ」
彼女はその言葉に小さく会釈して、それからいつものように窓際の二人掛けの席に腰掛けた。
柳田は精一杯の心を尽くして、一杯のコーヒーを入れた。それは、懐かしい再開を祝するためと、それから忘れていたことへの謝罪、その両方が込められていた。
「お待たせしました」
彼女の前にコーヒーを置く。それから、ハンカチをコーヒーカップの隣にそっと置いた。
「これ、お忘れでしたよ。……白雪」
白雪はそのハンカチを少し見つめた後、微笑んでその顔を上げた。
「その名前で呼ばれるのは久しぶりね」
ちょっと悪戯っぽい笑顔だった。多分彼女は気付いていたのだろうと、柳田は直感的にそう思った。
「この刺繍を見てね」
「そう……。嬉しいわ」
彼女は最高の笑顔を浮かべてそう言ってくれた。それから柳田は懐かしい話を沢山した。急に転校して悲しかったことも話した。そしたら、気付いてくれなかったくせにとやり返された。それから、ちょっと悲しそうな顔をして、家の事情でね、とぽつりと言った。柳田には、それ以上そのことについて聞けなかった。
「相変わらず、雪は好きなの?」
「ええ、好きよ」
そう言って、彼女は窓の外を見た。雪が降り続いている。それを少し眺めた後、不意に柳田のほうを振り向いた。
「……私、雪なの。……だからね、春には溶けちゃうの」
そう言った白雪の顔はとても儚く、本当に今にも消えそうに見えて柳田は言葉を失った。
「……なんちゃって」
彼女はそう言って、もう一度悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「吃驚したよ」
「ふふ、ごめんね」
そう言う白雪の両目から、不意に涙が零れ落ちた。それをハンカチで拭いながら、彼女は立ち上がった。
「私……、そろそろ行かなくちゃ」
「あ……」
何か言おうとして、何と声を掛けたら良いのか分からなかった。
「あなたにもう一度会えて良かった」
彼女はかすかに微笑み、そう言って店を出て行った。ドアベルの音までが寂しげだった。ドアが閉まると、突然店内は静けさに包まれた。
引き止めなくちゃ。そんな思いに突然駆られ、柳田が慌ててドアを開いたが、白雪の姿はもうどこにも無かった。
それっきり、その年は雪は降らず、彼女も姿を見せなかった。
白瀬雪菜の訃報を柳田が人伝に聞いたのは、それから一ヶ月ほどしてからのことだった。十二月頃から癌で入院していた彼女は、結局病院から出ることなくこの世を去ったということだった。
それならば、幾度と無く店に現れた彼女はなんだったのか。雪が彼女の願いを聞き入れたのだろうか。それにしても何のために。
分からない事だらけだった。
「春が着たら溶けちゃうの」
そんな言葉をふと思い出した。
次の年、雪が降っても二度と彼女は姿を表さなかった。
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