でも、恋してる。
『誕生日プレゼント。最後だし、フンパツしといたから。じゃあ、これでサヨナラだな』
そう言い残し、呆けたままの菊美をおいて、バーを出て行った。九月七日。記念すべき二十七歳の誕生日だったはずなのに。結婚するから別れようなんて。自分は彼にとって一体何だったのか。
菊美はテーブルの上に置かれた箱を手に取り、包装紙を破って箱を開ける。中には指輪が入っていた。不意に視界が歪む。あっという間に涙が眼の縁に溜った。
『酷いよ……孝之のバカ』
そう呟いて。菊美は泣きながら酒を飲み始めたのだった。
小鳥の囀りが聞こえた気がして、浜名菊美は眠りからゆっくりと覚醒した。
重い瞼を開くと、白い壁が目に入る。菊美は小さく唸って、寝がえりを打った。シーツが微かに音を立てる。寝返りを打ってすぐに、菊美は大きく目を見開いた。菊美の目の前に、人の顔があったのだ。
「キャー」
菊美は悲鳴をあげて体を起こすと、隣に寝ている人物をベッドから蹴り落とした。
かなり、大きな音が部屋に響く。
「痛ってぇ」
唸るような声がベッドの下から聞こえてきた。菊美は壁に背をつけ、薄い掛け布団を引き寄せると胸に抱く。
「酷いよ、菊ちゃんベッドから蹴落とすなんてさー」
ベッドの下に落ちた人物が、ゆっくりと起きあがった。頭を掻きながらこちらを見るのは、整った顔立ちの若い男性。菊美はその顔に嫌というほど見覚えがあった。彼が幼稚園の時、菊美の家の隣に越してきてからの付き合いだ。もう、十三年になる。
「じゅ、純! な、何で隣で寝てるの」
「え? だって。ベッドこれしかないし」
純はきょとんとした顔をした。よくよく辺りを見回せば、ここは自分の部屋でなく、純が大学入学を機に借りたマンションの部屋だと気づく。
「だ、だからってねぇ、仮にも、男と女が同じベッドでなんて……」
菊美の声を途中で遮るように、純が笑い声を上げた。しばらく笑ったあと、菊美の方へ身を乗り出すようにしてベッドに肘をついた。
菊美の顔を覗き込むようにしてくるので、菊美はより一層壁に強く背中を押しつけなければならなかった。
「前はよく一緒に寝てたのに。ねえ、菊ちゃん。もしかして、俺のこと男として意識してくれんの」
からかうような口調を聞いて、菊美は漸く我を取り戻した。
「バーカ。そんな訳ないでしょ」
そう言って、人差し指で純の額をはじく。純は痛いと文句を言って、額を手で押さえた。
菊美は今更ながら、衣服をきちんと着こんでいることを確認し、安堵の息を吐いたところで、少し可笑しくなる。八つも年下の男の子が、自分に手を出してくるはずがないではないか。そのことに気づき、菊美は苦笑したのだった。
「憶えてないかな。菊ちゃん昨日振られた―とか言って、酔っ払って家に来たんだけど。家の前で大泣きするし。宥めるの大変だったんだからな」
言われて、思いだそうとするが、さっぱり憶えていない。
「ごめん、全く憶えてない。飲んでる途中までは、憶えてるのよ。ただ、どうやって、ここまで来たかは憶えてない」
情けなさそうに言った菊美に、純は呆れた顔を見せた。
そう言えば、昨日よりも随分気持ちが浮上している。酔った勢いで、純に愚痴ったせいだろうか。昨日の夜は、もう一生立ち直れないと思っていたのに。
「ごめん。迷惑かけて。お姉ちゃん失格だよね」
ついつい、上目使いで純を見ると、純は怒ったように顔を背けた。
「別に……。なあ、腹減らねぇ?」
唐突に聞かれて、菊美はお腹に手を当てる。
「そう言えば空いてるかも」
呟くように言うと、純は気を取り直したように笑顔を浮かべた。
「じゃ、俺のバイトしてる喫茶店行こう。モーニングおごってあげる」
昨日誕生日だったでしょうと、そう続けられて、菊美は嬉しくなる。誕生日、憶えていてくれたのか。それだけでも、菊美は救われるような気がした。
目的地は、純の住むマンションから徒歩二分程度の位置にあった。雑居ビルの一階にある洒落た喫茶店だ。喫茶コキアと小さな看板がドアの前に立っていた。
純は躊躇うことなく喫茶店のドアを押し開いた。開くと同時に来客を告げるベルが鳴る。落ち着いた雰囲気のある店内。朝早いせいか、店内に客はいない。
正面にあるカウンター席の奥から、いらっしゃいませと声が上がった。菊美がそちらに目を向けると、純と同じ年頃の綺麗な若い女性と目が合った。そして、その隣に立つ人物に目を向けて、本日二度目の大声を上げた。
「あ、古木くん!」
「浜名?」
チェックのシャツに、茶色いベストを着た男性がどちらかというと控え目に声を上げる。彼の横に立っていた女性が、軽く目を細めた。
「何、菊ちゃんマスターと知り合い?」
菊美は訝しい声を上げた純には目もくれず、耳に入った言葉を繰り返した。
「え? マスター? 古木くんが?」
驚きの声を上げた菊美に、古木くんと呼ばれた男性はゆっくりと頷く。
「いらっしゃい。入口に立たれると邪魔だから、こっち来て座ってくれる?」
およそ客に向ける言葉ではないことを口にして、古木は微笑んだ。古木に誘われるように、純と二人、カウンター席に座る。
「ねえ、菊ちゃんってば。マスターとどういう関係?」
何故かふてくされたような顔で、純が菊美に詰め寄る。菊美は、カウンター席の椅子から落ちるのではないかと思うほど背をのけぞらせた。
「た、ただの高校の同級生よ」
「そうそう。ただのね」
カウンターの奥から、古木が同意した。そんな古木に、純と菊美が同時に顔を向ける。古木は細い眼をさらに細めて笑顔を作った。
「ふっ、まさか。浜名が噂の菊ちゃんだったとはね。純くんに、小さい頃から仲良くしてもらってる大好きなお姉さんがいるって話、よく聞いてたからさ」
「ちょ、マスターやめてくださいよ」
拗ねた顔のまま、純はそっぽ向いた。菊美もなんだか恥ずかしくなって俯く。
大好きなお姉さんというフレーズが頭に残る。
「マスター、俺達朝食まだだからさ。モーニング二つね」
そう言った純を、菊美は軽く睨む。
「こら、純。敬語忘れてるわよ」
つい、いつもの調子で小言を口にしてしまう。すると、古木が軽く笑った。
「浜名、お姉さんっていうより、お母さんって感じだな」
そう言って、古木はカウンターの奥へ入って行った。厨房があるのだろう。
「純……ちょっと」
カウンターの奥で黙って立っていた女性が、冷たい眼を純に向けた。純は戸惑うような顔をしながら、店の奥へ向う女性の後をついて行く。女性は、ちらりとこちらを振り向いて、鋭い視線を菊美に投げた。
「何あれ……」
驚いて、そう漏らす。菊美はしばらく、店の奥で話している二人の姿をただ眺めた。
「あれ? 純くんは?」
古木がベーコンの好い匂いと一緒に戻ってきた。古木は、食パンの乗った皿と、ベーコンエッグの乗った皿を菊美の前に置いた。純の座っていた席の前にも同じ物を置く。お腹が鳴りそうなほど、好い匂いだ。
「あっちで、女の子と話してる。バイトの子?」
そう言って、店の奥を指差すと、古木は頷いた。
「ああ、亜紀ちゃんか。シフトの話かな。変わってもらいたいって言ってたし」
そうなのだろうか。亜紀は純に剣呑な眼を向けて何か言い、それに純が大きな身振りで答えている。菊美の目には、浮気を見つかった彼氏が必至に弁明している姿に見えるが。
「ねえ、もしかして。あの子、彼女なんじゃない?」
菊美が古木に尋ねると、古木は嬉しそうな顔をして頷いた。
「そうそう。よくわかるね。ラブラブだよ」
「あー、そうなんだ。彼女、いたの」
菊美はなぜか落胆するような気持ちで、視線を落とした。純だって、もう大学生だ。遊ぼうと菊美に懐いてきた幼稚園児ではない。
彼女の一人ぐらいいたっておかしくはなかった。
でも、教えてくれたっていいのに。そう思うと、なんだか、腹が立ってくる。
「食べないの? それとも純くん待ってる?」
聞かれて、菊美はベーコンエッグに視線を落とした。
「食べるわよ」
そう言って、フォークとナイフを手に取った。フォークでベーコンを突き刺し口に運ぶ。
「おいしい」
菊美が漏らした言葉に、古木は嬉しそうな顔を見せた。
「でしょう。美味しいもの食べたら、ちょっとは気分も晴れるんじゃない?」
菊美は顔をあげて、古木を見る。古木は相変わらずの人の好い笑顔を見せる。
「何で、落ち込んでるって分かったの?」
聞くと、古木は自分の細い眼を指差した。
「目、腫れてるよ。昨日泣いたでしょう」
「うん。二年付き合ってた彼氏に振られたの。目、そんなに酷い?」
聞くと、古木は首を横に振った。
「いや、よーく見ないと分からない程度」
顔を覗きこまれて、思わず赤面してしまう。
「ちょっとマスター。できてたなら呼んでくださいよ」
不機嫌なその声に顔を向けると、声と同じく不機嫌な表情の純が席に着くところだった。
純と話していた若い女性は、菊美を一瞥してからそっぽを向いた。かなり態度が悪い。菊美にやきもちでもやいているのだろうか。
そう思ったときだった。来店を告げるベルが鳴った。亜紀はそちらの方へ行ってしまう。
あらかた食事を終えて横を見ると、純は豪快な食べっぷりを見せていた。若い男の子の食事風景はなんだか爽快だ。
「はい、レモンスカッシュ」
不意に、菊美の前に、コップが置かれた。顔を上げて古木を見る。
「おごり。高校の時よく飲んでたよね。失恋祝い。ウチのは美味いよ」
失恋祝いって。と、思って苦笑した。
「マスター。失恋祝ってどうすんですか」
すかさず、純が声を上げた。古木は笑顔を崩さない。
「祝いでいいんじゃない? 浜名振るような男なんて、別れて正解。祝って当然」
高校の時と相変わらず、妙な理屈を口にする古木の言葉が気持ちを少し軽くする。
「ありがとう。いただくね」
そう言って菊美はストローを銜えた。
レモンスカッシュの甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
喫茶店を出ると、自宅へ帰るために純と並んで歩きだした。
「ねえ、菊ちゃん。惚れちゃった?」
聞かれて、菊美の胸が変な鼓動を打つ。
「な、何?」
「マスターのこと、好きになった?」
何だマスターか。そう思って、菊美は戸惑った。古木以外に菊美が惚れるような相手がどこにいたというのか。
「菊ちゃん惚れっぽいじゃん。さっきもマスターに顔覗きこまれて赤くなってたし」
どこか拗ねた調子の純を見ていると、何だかおかしくなってきた。
「何よ。お姉ちゃんとられたくないとか?」
「ばっ、そ、んなことないよ」
どこか慌てた調子の純が可愛く思えて、今度は笑い声を上げた。
「やーね。昨日振られたばかりで、そんなすぐに惚れたりしないわよ」
「ふーん。ならいいけど。亜紀にもさんざんあの女誰って聞かれたし」
「何それ。そんな話してたの?」
驚きと困惑が菊美を支配した。どうして、急にこんな暗い気分になるのだろう。きっと、純が亜紀の話をしたから。先ほど、純にお姉ちゃんをとられたくないのと聞いたが、自分の方こそ、弟分の純を取られたくないと思っているのではないか。そう気づいてしまった。
「菊ちゃん? どうかした?」
聞かれて、顔を上げる。初めて会ったときは、菊美よりもずっと背が低かったのに、今は見上げるほどに高い。
大きくなったら、お姉ちゃんと結婚する。そんなことを言っていた頃の純は、もういない。
大きくなったのよね。
もう、大学生だもんね。
菊美は、純から眼を逸らした。
「どうもしない。きっと、彼女。えっと亜紀さんだっけ? 私に嫉妬したのよ」
「あー。そうかも。なんせラブラブだし」
笑いを含んだ声でそう言われ、菊美はより一層暗い気分に落ち込むのだった。
今日もレモンスカッシュを頼んで、本を開いた。喫茶コキアの店内。最近、仕事帰りに、ここで読書するのが日課になりつつある。純に連れてこられてから一週間、ほぼ毎日ここに来ていた。
「お待たせいたしました」
亜紀がレモンスカッシュの入ったコップを菊美の前に置く。ありがとうと、顔をあげて言ったのだが、亜紀はさっさと定位置に戻ってしまう。菊美は嘆息して本を閉じると、何気なく辺りを見回した。今日は純の姿が見えない。休みなのだろうか。昨日はそんなこと言っていなかったが。
しばらく、本を読みながらレモンスカッシュを飲んでいたが、飲み終わっても純は姿を見せることはなかった。客足が途絶えて暇になったらしい古木と他愛ない話をしてから、菊美は諦めて喫茶店を出た。
すっかりと日が落ちた夜道。一人住宅街の道へと足を向けた菊美の背に、女性の声がかかる。
「あの、浜名さん。これ、忘れものです」
振り返ると、街灯の光に照らされた亜紀が見て取れた。近寄って来た亜紀から手渡されたのは、さっき鞄に入れたと思っていた本だ。
菊美は礼を言って受け取り笑顔を向ける。だが、亜紀は難しい顔をして、俯いてしまった。どうしたのだろうか。まだ、何か用があるのか。訝って声をかけようとしたとき。
「もう、店に来ないでください」
菊美は眉を顰めた。菊美が口を開くよりも早く、亜紀は続けた。
「不安なんです。あなたが来ると。彼を取られちゃう気がして」
ああ、そう言うことかと菊美は思った。亜紀は純の彼女だ。幼馴染のお姉さんが毎日のように来て、親しげに話しているのを見るのが辛かったのだろう。
「私、妊娠してるんです」
投げつけられた思いもしないその言葉に、菊美は息を飲んだ。
「え? だって、あなたまだ……」
「十八だって子どもは産めます!」
あまりの剣幕に、菊美は口を閉ざした。
「彼にも話しました。彼は、結婚しようって言ってくれたんです」
心の中に暗雲が立ち込めたような気がした。結婚、子供。頭の中を廻る言葉。
「結婚しようって言われても、あなたを見ると不安で不安で仕方ないんです。だから……」
亜紀の目に涙が浮かんだのを見て、菊美は我に返った。強がって見せても、彼女はまだ十八。きっと不安で押しつぶされそうになっているのだろう。
菊美は大きく息を吐き出して、涙を流す亜紀の肩に手を置いた。
「ごめんね。私が軽率だった。安心して、もう来ないから、本当にごめんなさい」
亜紀は泣きながら大きく左右に首を振った。
「ほら、もう店に戻りなさい。マスターが心配してるわよ」
亜紀は涙を拭って、菊美の言葉に頷いた。亜紀の背を見送って、暗い気分を引きずったまま踵を返した。だが数歩も歩かぬうちに、また呼びとめられる。
「あれ? 菊ちゃんもう帰っちゃうの」
今一番聞きたくない声だった。振り返った菊美の目に、純の笑顔が映る。急に泣きそうになって、純に気づかれないように顔を背けた。
「菊ちゃん? どうかした?」
近づいてほしくなかったのに、純は菊美の前まで歩み寄った。手には、スーパーの袋が握られている。買い出しにでも行っていたのだろうか。
「私、もう来ないから」
それだけ口にする。目を背けているので、純の表情は分からない。
「どういう意味」
抑揚のない声が菊美の耳を打つ。菊美は続けた。
「彼女と仲良くやって」
あまり長くしゃべると、泣きだしてしまいそうだ。こんな日が来るとは思っていた。いつか、自分の手を離して純が遠くへ行ってしまう日が来ると。
菊美は踵を返して走りだそうとした。だが、腕を強い力で掴まれてしまう。
「菊ちゃん、何言ってるか分からない。俺、彼女なんていないし」
「嘘つかないで! 私が彼と別れたばかりだから、気を使ってくれてるんでしょ。別に、そんなことしなくていいのよ。私純のお姉ちゃんなんだから」
言いながら掴まれた腕を振って、純の手から逃れる。
睨みつけるように見ると、純の顔から怒りが見て取れた。今まで、こんな顔を向けられたことのなかった菊美は、驚いて息を飲む。
「また、男できたんだ。だから、もう来ないなんて言うんだろ」
「何を怒ってるの?」
震えそうになる声を抑えようとして、低い声が漏れた。純は菊美から眼を逸らした。
「否定しないんだ。もう、いいよ。行けば」
突き放すような声。こんな冷たい声を聞くのは初めてで、体が竦んで動けない。
動かない菊美を軽く見やってから、純は動いた。菊美に背を向ける途中で動きを止めて、口を開く。
「俺、菊ちゃんのこと、お姉ちゃんなんて思ってないから」
そう言い残して、純は歩き出す。
菊美は無意識に純の背に向かって手を伸ばした。決して、届きはしないのに。
家に帰り、菊美は八当たりのように鞄を壁に投げつけた。鞄の中身が部屋に散乱する。
「何が妊娠よ、何が結婚よ。どうして黙ってたのよ」
彼に別れを告げられた時よりも何倍も辛い。別れ際の純の言葉が頭をよぎる。
お姉ちゃんだって思ってないって、じゃあ、何だと思ってたのよ。
ただのお隣さん? うざいおばさん?
もう、一緒にいられない。それが、辛くて、辛くて。どうしていいか分からない。純を拒絶したのは自分なのに。離れなければならないのに。どうしてこんなにも執着心を覚えるのか。
答えに気づく前に聞き覚えのあるメロディーが菊美の耳を打った。携帯電話の着信音だ。とっさに、純からだと思った。
菊美は辺りを見回して、ドア付近に落ちていた携帯電話を拾い上げる。その時、小さな箱が目に入った。これは、別れた彼からもらった指輪。まだ、持ってたんだ。きっと鞄に入れたままになっていたのだろう。指輪に気を取られている間も、着信音は鳴り続ける。
菊美は我にかえって、通話ボタンを押した。
『久しぶり、元気か?』
低い、男性の声が耳を打った。菊美は思わず手の中の箱に目を落とす。
「孝之?」
別れたはずの彼からの電話。なぜこのタイミングに。そう思って残った涙を手の甲で拭う。
『元気じゃないみたいだな。何かあった? それとも俺のせいか』
聞かれて、菊美は言葉に詰まった。彼と別れてまだ一月も経っていない。本当なら、彼のことばかり考えていたはずなのに、今は純のことばかりが頭を占拠している。
忘れなければ。純のことは。そう思ったからなのか。
『なあ、菊美。逢えないかな』
この言葉に、菊美は同意を示したのだった。
休日。待ち合わせした最寄駅で落ち合うと、孝之が歩きだした。菊美は慌てて彼の横に並んで小走りに歩く。
「最近この辺りで外回りしててさ。いい喫茶店見つけたんだよ」
孝之のその言葉に、嫌な予感が頭をかすめた。
「喫茶店? レストランも近くにあるのよ」
そう言ったが、孝之は聞く耳持たず、菊美の手を掴んで引っ張っていく。菊美の予想通り、孝之は喫茶コキアの前で足を止めた。
昨日、亜紀にもう来ないと言ったばかりなのに。
「ねえ、孝之この店はちょっと……」
「いいから、いいから。本当に美味いんだって、ここのコーヒー」
言いながら、孝之は喫茶店のドアを開いてしまった。そのまま菊美は店内に入ってしまう。
いらっしゃいませと、古木の声が菊美たちを迎え入れた。菊美は孝之の後で辺りを見回し、亜紀の姿も純の姿も見えないことにほっと胸をなでおろした。席を案内しようと、古木がこちらに向かってきたが、孝之は勝手に奥の席へと向かって腰を下ろしてしまう。仕方なく、菊美はその前の席に腰を下ろす。
孝之は勝手に、コーヒーを二人分注文した。こう言う強引なところが好きだったのにそう思って苦笑する。過去形になっていることに気づいたのだ。
古木が離れて行ったあと、孝之は端正な顔に微笑みを浮かべて菊美を見た。
「なあ、俺達、もう一度付き合わないか?」
菊美は目を見開いた。何を言い出すのだろうと思う。結婚するからと、一方的に別れを告げたのは孝之の方だ。
「結婚するんじゃなかったの?」
尋ねると、当たり前のように孝之は頷いた。
「するよ。もちろん」
「意味が分からないんだけど」
簡単なことだよと、孝之は告げた。
「俺、お前と別れてから気付いたんだ。まだ、お前のこと好きなんだって。だからさ、もう一度付き合おうよ」
なんて、無神経なんだろう。菊美は怒りに震えそうになる手を押さえた。結婚する。でも、付き合おう。それは、菊美に愛人になれということか。
「お待たせいたしました」
若い男性の声が横から降ってきて、思わず孝之と二人、声の方へ顔を向ける。
そこには、いないと思っていた純が無表情で立っていた。菊美とは目を合わせようとしない。純がテーブルにコーヒーを置いて、背を向けるのを待ち、孝之がまた口を開く。
「なあ、菊美。いいだろ?」
孝之はそう言って菊美の手を握ってくる。菊美は頭に血が上るのを自覚する。
菊美が口を開こうとしたとき、大きな音とともにテーブルが揺れた。幸い、コーヒーのカップは倒れなかったが、振動で中身が少しこぼれた。
驚いて、顔を横に向けると、凄まじい形相をした純がいた。純がテーブルを蹴ったのだと、ゆっくりと理解する。
「な、何するんだ」
驚きに呆けた顔をしていた孝之が、我に返ったように声を荒げた。
「それはこっちのセリフだ。おい、おっさん。さっきから聞いてりゃ、菊ちゃんのことなんだと思ってんだよ」
怒鳴る純を、不思議な思いで菊美は見詰める。
「知りあいなのか、菊美」
菊美が頷こうとしたとき、強い力で腕を引っ張られた。純が思わず浮かした菊美の腰に手をまわす。
「婚約者だよ」
何を言い出すのかと思って、純の顔を見る。孝之は冗談だろうと笑いだす。
「ずいぶん若い婚約者だな。菊美、そんな嘘ついて楽しいか?」
揶揄するような声。不機嫌な視線を向けられて体が震える。
「嘘じゃねぇよ、菊ちゃんは俺のだ」
純は真剣な表情で、孝之を睨みつけた。
「ちょ、純何を……」
「菊ちゃんは黙ってろ。あんたみたいな奴に、菊ちゃんは渡さない」
そう言い捨てると、菊美の腕を引いて純は歩き出した。強い力で逃れることができない。
菊美はスカートのポケットに手をつっこんで、指輪を孝之に投げつけた。
「それ、返す。もう二度と会わないから」
それだけ、言えた。純に引っ張られるように、歩かされ、いつの間にか純のマンションまで来ていた。玄関に入ってようやく、手を離される。
「ふざけんなよ、何やってんだよ菊ちゃん」
大声で怒鳴られ、いきなり腕を掴まれた。そのまま、引き寄せられる。
「じゅ……」
「あんな男のどこがいいんだよ、あんな男と付き合ったって、菊ちゃんが不幸になるだけだ」
菊美を腕の中に閉じ込めて、苦しそうに吐き捨てる純。菊美は戸惑いを見せる。言葉が何も出てこない。
純は菊美の肩に顔を伏せるようにして、声を洩らす。
「ねえ、菊ちゃん。俺じゃダメ? 俺じゃダメか?」
菊美はそれを聞いた瞬間、腕に力を込めた。懇親の力で純の体を突き飛ばす。
「ふざけないでっ、純もあいつと一緒じゃないの。亜紀ちゃんはどうなるの? 婚約者だなんて嘘ついて。彼女がどれだけ傷つくか分かってるの?」
菊美の脳裏に、泣きながら来ないでと訴えた彼女が映る。
「何言ってんの? 何で、今ここで亜紀の話が出てくるんだよ」
しらばっくれる気かと、菊美はさらに声を荒げる。
「付き合ってるんでしょう? 知ってるのよ。彼女妊娠したって、結婚するって、昨日亜紀ちゃん本人から聞いたんだから」
大きな声を出し過ぎたせいか、肩で息をする。興奮しすぎたためか、うっすらと目に涙まで浮かんできた。まずい、そう思い純から顔を背ける。
「菊ちゃん、ちょと、ちょっと待って」
そう言って、純は菊美の肩を掴む。
「いちいち触らないでよ」
怒鳴ると、純は一瞬傷ついた顔をして肩から手を離した。そんな顔をさせたことに、罪悪感を覚える。
「菊ちゃん。俺、本当に亜紀と付き合ってないって。亜紀が付き合ってるのはマスターだよ」
その言葉をすぐに理解することができなかった。亜紀が付き合ってるのはマスター? 頭の中で、純の言葉を反芻し、菊美は声を上げた。
「ええ? 違うでしょ、だって……」
菊美は混乱する頭で思い出していた。菊美は古木に彼女かと聞いたが、誰の彼女かとは聞かなかった。答えた古木も主語を省いていた気がする。亜紀自身も、彼という表現しか使っていなかった。純だと思い込んでいただけだったのか?
菊美はゆっくりと額に手をあてた。
「私、勘違いしてた?」
純は大きく頷いた。純は何かを思いついたようにはっとして、急に笑顔になる。
「ねえ、菊ちゃん。もしかして、嫉妬してくれた? 俺が、結婚するって思って」
言われた刹那、自覚する。そうか、亜紀から話を聞いて、妙に腹立たしくなったり、気分が暗くなったりしたのは、亜紀に嫉妬したからだったのか。そう思い至って、なんだか急に恥ずかしくなる。顔が熱い。
「し、嫉妬なんて、してないわよ」
自覚したのに、口からは否定の言葉が漏れた。純はゆっくりと手を伸ばし、菊美の手を握る。小さかった手は、いつの間にか、菊美の手よりも随分と大きくなっていた。
「俺はいっぱいしたよ。菊ちゃんが誰かと付き合うたびに、今度こそとられちゃうんじゃないかって不安だった。菊ちゃん惚れっぽいしさ」
「それは、お姉ちゃんがとられると思ったからでしょ?」
菊美が純を見上げると、純はゆっくりと首を横に振った。
「昨日も言ったろ。俺、菊ちゃんのことお姉ちゃんだって思ってないってさ。俺は、菊ちゃんが好きなんだよ。お姉ちゃんとかそう言うんじゃなくて、一人の女として、好きなんだ」
菊美は大きく目を見開いた。純がいつになく真摯な瞳を向けてくる。驚きすぎて言葉が出てこない。
「そんな驚いた顔しなくていいじゃん。俺、結構アプローチしてるつもりだったんだけど、全く気づかなかった?」
その問いに大きく首を縦に振る。純は苦笑した。そして、また抱き締められた。
「菊ちゃん、俺じゃダメかな」
「だって、私、もう二十七になったんだよ」
「知ってる」
「八歳も年上なんだよ」
「分かってるよ」
本当に分かっているのだろうか。誰が見たって、きっと恋人には見えないだろう。純が恥ずかしい思いをするのは目に見えている。
「俺、幼稚園の時言ったはずだけど。大きくなったら結婚してって。菊ちゃん言ったよね。大きくなっても気持ちが変わらなかったら結婚してくれるってさ」
それは、憶えている。憶えているが、それは幼い日の他愛無い約束。純が憶えているなんて思ってもみなかった。
「好きなんだ、菊ちゃん。俺と付き合って」
抱きしめられているせいで、純の言葉が体に響く。本当にいいのだろうか。本当に。心が揺れる。年が離れすぎているとか、似合わないとか。そういう口実を作って、自分の思いに蓋をしていたのではないか。大切な弟だと思っていた。でも、純に向けている気持ちは本当に弟への思いだったのか。
菊美は息をついた。一度目を瞑って、自分の気持ちを再確認する。
答えは決まっていた。
「私でいいの?」
そう聞くと、純は泣き笑いのような表情をつくる。
「菊ちゃんがいいんだよ」
より一層、背に回された腕に力が込められた。少し痛い。でも、心地いい痛みだ。
菊美はもう何も言わず、ゆっくりと純の背に腕をまわした。
純が職場放棄したことを謝りに行ったはずなのだが、喫茶コキアの店内で、菊美は亜紀から謝罪されていた。
「本当に、ごめんなさい。浜名さんみたいな綺麗な大人の人が、純みたいなお子様が好きだなんて思わなくって」
酷い言いようである。菊美は苦笑して、隣に目を向けた。隣で、菊美と同じようにカウンター席に座る純は仏頂面を作ったが、口を開こうとはしなかった。
「ごめんね、亜紀ちゃん。不安にさせちゃって」
古木が、亜紀の手を握ってそう言った。亜紀は潤んだ瞳を古木に向ける。
「違うわ、私が勝手に不安になっただけよ。だって亮君かっこいいから」
「亜紀ちゃんほど可愛い人は他にいないよ」
そう言って見つめあう二人。カウンターの中で始まったイチャイチャトークを、菊美は驚き呆れて見入っていた。これを最初に見ていれば、勘違いすることもなかったのにと、そんな思いが頭をかすめる。そんな菊美の肩を、純が人差し指でつつく。そちらに顔を向けると純はドアを指差した。
「そろそろ出よう」
言われて、菊美は頷いた。他にお客さんだっているのに、と思うが、きっとこの二人は誰にも止められないだろう。菊美はコーヒー代をカウンターの上に置くと、純と一緒に店を出た。
「すごかったわね」
純のマンションに向かって歩きながら、菊美は呟いた。
「だから、言ったじゃん。ラブラブだって」
「ああ、そういえば、本人も言ってたわ」
なんだか、妙に疲れた気分だ。
「ねえ、菊ちゃん」
隣を歩く純が急に足を止めて、菊美の手を握った。
「どうしたの?」
足を止めて尋ねると、いたずらっぽく笑った純の顔が近付いてきた。
「俺達もイチャイチャしよ」
「バカ」
そう、言いはしたものの、菊美はゆっくりと目を閉じる。
幸せな感触が唇に降る、その瞬間を待つように。
こちらはベタな恋愛を書こうと思って書いたお話です。
この作品を書いたとき、12000文字という制限がありまして。いやー。どうしようかと思いました(笑
最初このお話を書きあげたとき、14000文字ほどあったんです。それをどうやったら短くなるか。あれこれ考え、削除してできたお話がこれになります。
分かりにくくなっていないといいのですが。
それでは、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
また、お会いできることを願って。
愛田美月でした。