惨劇の序章
西暦2017年3月19日 16時00分
人権保護団体〈蒼き清浄なる地球のための人権連盟〉の活動員、大島 夕子はこのとき、福岡市中央区の福岡ドーム前に来ていたにいた。
福岡ドームは1993年開業。野球球団、福岡ダイエーホークス(現:ソフトバンクホークス)の本拠地として建設された。総建設費は、800億円ほど。建築面積約7万平方メートル。延床面積約18万平方メートル。最大高は約84メートル。
日本最大規模のこのドームのもつ最大の特徴は、屋根が開閉可能であること。これは日本の野球球場としては、唯一の施設設備である。ただし、4メートルもの分厚い屋根を動かすにはそれ相応のコストが必要。いちど開閉するだけで100万円もの費用が掛かってしまうという致命的な欠点も抱えていたりする。
さて、そんな福岡ドームに大島が来ている理由。それは、ヘイトスピーチ・デモの様子を監視するためだ。
ヘイト・デモを行っているのは、〈部落解放戦線〉という過激な団体。名前からすると人権保護活動団体のようにも見えるその団体は、実際には差別集団だ。
インターネット空間の検閲を政府に要求したり、出版物の事前検閲を要求したり。それに、メディア規制の要求も出している。最近では、街頭デモの強力な規制をつよく要求しはじめている。
おおよそ、正気とは思えないような主張ばかりだ。これで人権団体とは! へそで茶が湧くではいか!
一応、表向きの理由は、それなりに取りつくろってはいるようだ。インターネット空間には差別的な書き込みが溢れているから、というのがネット規制を要求している理由だ。
なるほど確かに、名目だけは立派だ。だが、そんなことは建前に過ぎないのは明白。
きっと裏では、検閲大好き、三度の飯より国民統制が好物な右翼団体とでもつながっているに違いなかった。
だいたい、差別的な書き込みをネットから削除するなどと言っても、それが間違いなく差別的な書き込みであるなどと、誰がどうやって証明するというのか?
政府がインターネット規制をやり、それが正当であると政府自身が証明するとでもいうつもりなのだろうか?
莫迦げている! 自分で、自分の正当性を証明するなどとは! それでは何の証明にもなっていない! そんなことを認めては、検閲し放題ではないか!
政権与党に対する批判をネット空間から削除し、それを差別書き込みの削除だと強弁する。もちろん、すでに削除された情報は閲覧不能。だから、証拠もなにもない。かりに誰かが、そのページの記録を取っていて、それを公開したとしても、それでどうなるのだ? 証拠のでっち上げだと強弁して、それで終わりではないか!
第三者委員会を設置するという意見もあるようだが、それも怪しげだ。大体、第三者委員を任命するのは結局のところ政府だ。しかも、第三者委員などに任命されるのは御用学者ばかり。政府の息のかかった連中。
そもそも論として、大学教授などというものは全員、赤の他人ではないか! そんな連中をどうして信用できるというのか?
出版物の検閲なども、論外。
〈解放戦線〉いわく、「〈地名総鑑〉は被差別集落の地名が載っている! 出版禁止にすべき! 反対する奴は差別主義者!」。
とんでもない! 無茶苦茶な主張だ! 出版の自由こそ、言論の自由の根幹。それを制限しようなど、正気とは思えない。
大体、その〈地名総鑑〉に乗っているのが被差別集落であるなどとは、どうして言えるのか? もしかしたら、極右政党〈自由民政党〉の支持基盤について書かれた、地名本なのかもしれないではないか?
いや、そうに違いない! 〈自民党〉政権を支持する集落について、アレコレとその見識の無さを皮肉っている啓蒙本なのだ!
当然、自民党からすれば、自分たちの支持者を皮肉る本など出されては、面白いはずもない。それで、解放戦線と共謀。差別だのなんだのと騒ぎ立てて、情報統制を試みているのだ!
正義感溢れる独身中年女性、大島は義憤にかられる。
まったくもって、どしがたい話だった。“人権団体”を自称するくせに、政府と結託しているとは!
しかも、こんな連中が、人権問題に貢献しているとして政府から補助金を貰っているのだ。
政府から金を貰って活動する“自称”人権団体が、国民の自由と権利を制限するよう政府に働きかける。まさにマッチ・ポンプの典型例である。
もはや世も末といえた。
そんな訳で大島も所属する、真の人権をうれうる“正当な”人権保護団体〈蒼き清浄なる地球のための人権連盟〉は、孤独な戦いを強いられていた。
しかし、〈蒼き清浄なる地球のための人権連盟〉の活動は差別主義者たちからすれば目障りなのだろう。〈人権連盟〉に対し〈解放戦線〉は、たびたび嫌がらせを行っている。
つい先日など、大島自身、唾を吐きかけられたぐらいだ。
だが、つらいとは思わない。それは正義の活動だからだ。正義を為すのに、一体なにを躊躇する必要があるのだろうか? むろん、ない。
そんな訳で今日も、大島は地道な活動を継続。ヘイト・デモを行う差別主義団体の様子をカメラで撮影していたのだった。
撮影機材はハンディカメラ。SONY製で、二年ほど前に購入したもの。購入価格は、10万円近く。潤沢とは言えない〈人権連盟〉の活動費を考慮すれば、超のつく高級品といえる。
そんな、カメラの液晶画面を見ながら差別集会を撮影していた大島は、ふと気付く。
「え? 帆船?」
カメラに妙なものが映っていることに。映っているのは、三本マストの帆船。それも一隻や二隻ではない。十数隻はあるかという大船団だ。
帆船団は、福岡ドーム近くにある海浜公園。そこへ向かって一直線に航行しているように見えた。
「は?」
思わず、大島はカメラから視線を外す。直接、肉眼で船団を目撃。間違いない。帆船だ。妙に古めかしい。ところどころで舗装がはがれているし、帆も傷んでいるようだ。それに、船体に陥没が出来ているようにも見える。
なんで帆船? そんなイベントがあるなんて聞いてないけど。
そう疑問に思いながら、スマホを起動。グーグル・アプリでイベント情報を検索。そのような行事予定があるかを確認しようとする。だが、そんな大島のスマホ画面が表示してくるのは無情な文字列。
“サーバに接続できません”。
それを見て一瞬、差別主義者たちが妨害電波でも出しているのかしらと思う。
だが、どうやら違うようだ。同じく帆船に気付いたらしい差別主義者たち。彼らもまた、ケータイやスマホを見て圏外だと騒ぎだしている。
そうこうしている内に、帆船は海浜公園に到着。人工的に作られた砂浜へと強引に接岸する。
砂浜に帆船がのり上げる。これだけでも十分に非現実的なのに、その後の展開はさらに常識を外れていた。
次々と船内から男達が現れ、船べりからロープを垂らしていく。そして、そのロープを使って上陸を開始。
そんな男たちのファッションはかなり奇抜だった。黒汚れた衣装はところどころ破けている。中には、上半身裸の男もかなり混じっている。ぼさぼさに伸びた髪。しかも髭も伸ばしている。顔中毛だらけ。毛むくじゃらの男たちだ。まるでハリウッド映画に出てくる海賊みたい。
おまけに、男たちは手に手に、武器を持っている。剣や弓、槍のようなものだ。
「なにあれ? 映画の撮影?」
「さあ?」
「エキストラかな?」
「分かんない」
「ふっけつー」
「すっごいくさそう」
「確かにな」
「風呂に入ってないんじゃね?」
差別主義者たちが口々に感想を述べあう。人を見かけで判断するとは、差別主義者らしい評価基準だ。
そう大島は思いながらも、内心では別のことも考える。
あの男たち、一体どこから?
不審に思った大島は周囲のようすを観察。どうやら、デモの誘導に当たる警察官たちも困惑しているようだ。電話が通じないとか無線もダメだ、とか言ってる。
そこで、ん? と思う。
そういえば結構前から、警官たちが何やら無線が通じないとか言っていたような気がするな。ビデオ撮影に熱中しすぎて、完全に頭の片すみに追いやってしまっていた。
「うーん?」
大島は考える。警官たちの狼狽具合からいって、どうやら帆船が上陸するという話は、権力の犬どもにも知らされていなかったらしい。
しかし、そんなことがあり得るのだろうか?
いくらまだ三月で海水浴客がいないからと言って、多数の帆船を砂浜に上陸させるというのはかなり危険な行為だ。
海浜公園は夏場以外でも、観光客や散歩する住民があるていどいるからだ。当然、住民の安全を考えれば、しっかりとした事前の周知か、そうでなければ海浜公園を封鎖する等の措置が必要になる。
なのに、どちらもない。
それに、この通信障害。何かがおかしい。大島のサバイバル本能が、現在の状況を危険と判断。頭の中でガンガンと警鐘を鳴らす。そして大島は、自分の本能を否定するような女ではなかった。
三十六計逃げるに如かず。こういうときは逃げるのが一番。
そう考えた大島はスマホをバッグに直して、近くのタクシーを呼ぶ。帆船と群衆。それらをビデオで撮りながらタクシーに乗った大島は、運ちゃんに「とりあえず出して」と指示。
そのときだった。
「きゃああああああああああああああ!!」
「いやあああああああああああああああああああああああ!!」
「ヒイイイイイイイイイイイイイイイ!!」
海浜公園で次々に悲鳴が上がる。尋常ではない様子だ。
「え?」と、運ちゃんと二人で顔を見合わせる。そして、しばらくして。見つめ合っている場合ではないことに気付く。
「だして! はやく!」
大島の指示。
「は、はい!」
タクシーは慌てた様子で急発進。福岡ドームから離れて行く。後ろへと流れて行く車窓から、ちらりと海が見える。
そこでは、海岸付近で散歩をしていただろう人々がいた。ただし普通の状況ではない。彼らは、次々に殺されていた。
「は? 殺してる? 映画よね? これ?」
大島は茫然と呟く。だが、映画であるなどとは全く思っていない。映画の訳がなかった。もしも映画だとしたら、なぜ逃げる必要があるのか。
「運ちゃん!」
思わず、鋭い声を出してしまう。
「は、はい。何でしょう」
運転手の方も緊張しているようだ。背中からでも、肩がこわっているのが分かる。
「遠くへ。とにかく海から遠いところまで行ってちょうだい。海には近づかないで」
大雑把な指示を出す。
「もちろん、了解です。というか、海に近づけなんて言われたら急にストライキを起こしたくなりますんで、その辺はご勘弁を」
運転手の返答。その表情は奇妙に引きつっている。どうやら、冗談を言っているつもりらしかった。まったくもって笑えないけど。
こうして、福岡市襲撃事件は始まった。
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ちなみに完全に余談だが、このタクシーが福岡県田川市に到着したとき、運転手は料金メーターを動かしていなかったことにようやく気付いた。
だが、それは最早問題ではなかった。このタクシーの所属する〈平成天神タクシー株式会社〉本社が暴徒による襲撃を受け、社長以下多数の役員が死亡。会社自体がそのまま自然消滅に近い形で倒産してしまったからだ。
一方で、おめでたい話もある。吊り橋効果と言う奴だろう。この二人はこれをきに交際を開始。そして、一年後には結婚。二人の子供をもうけることになるのだった。
問 『なぜ、左翼は内ゲバばかりやっているのか?』
答 『左翼の主張それ自体に根本的な矛盾が存在しているから』