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おとないさん

作者:溝口智子
「おとないさんがくるよ」
 突然かけられた声に驚いて振り返ると、細く開いたドアの隙間から小さな男の子がこちらを覗いていた。
「あけっぱなしにしたら、おとないさんがくるよ」
 前髪をまっすぐに切りそろえた髪形の男の子は、下の部屋、一〇三号室の子供だった。引越しの挨拶に行った時に母親の後ろから片目だけを覗かせていたのだった。まだ三つか四つくらいだろうか。たどたどしい言葉からは感情が読みとれない。夏生は驚きが抜けないまま、ぎこちない笑みで男の子に話しかけた。
「おとないさんって、なあに?」
 男の子はさっと身をひるがえすとぱたぱたと足音を立てて一階への階段を駆け下りていった。夏生はチェーン錠だけかけて薄く開いているドアを見つめて首をかしげた。
 夏生がこの浦野ハイツに越してきてから一週間が過ぎた。女子大を卒業してなんとか潜り込んだ商社からほど近いこの古いアパートに居を構えたのは、交通の便よりも何よりも家賃の安さからだった。六帖の洋室と9帖の広いLDKは一人暮らしには勿体ないくらい広い。現に夏生の部屋の真下、一〇三号室には夫婦と先ほどの男の子の三人が暮らしていた。
「おとないさん」
 不思議な語感を味わうように口に出してみたが、夏生にはそれがなんなのか想像もつかなかった。少しだけ開けているドアから涼しい風が入ってくる。東向きのこの部屋は真夏の今でも玄関からベランダまで風を通せばクーラーがいらないほどに涼しい。いいところに引っ越しできた、と夏生は満足に思っていたのだった。

 夏生の職場は電車で二駅のところにある。朝早く、ぎゅうづめの電車に揺られてスーツを皺くちゃにしながら通勤する。背の高くない夏生は人の壁に押しつぶされるようにしてなんとか立っているので、電車を降りる頃には軽い酸欠状態になっていた。ホームで深呼吸をしていると会社の先輩の背中を見つけた。あわててスーツの皺を伸ばして、ぱたぱたと駆けていった。
「加納主任、おはようございます!」
 振り向いた加納隼人はいつものように優しく夏生に笑いかけた。
「おはよう、三枝さん」
 隼人は夏生が入社してすぐの新人研修を受け持ってくれた先輩だ。二十代前半で営業課の主任になった出世株だが、驕ったところは少しもない。研修が終わってからもなにかと夏生のことを気にかけてくれている。
「どう、新居にはもう慣れた?」
「はい! おかげさまで。静かですっごく居心地がいいです。いい不動産屋さんを紹介していただいて、本当に良かったです」
「そう言ってもらえたら嬉しいよ。山下にも伝えておくよ」
 夏生が引越ししたいと話したのを聞いて、隼人は自分の友人が勤める不動産屋を紹介してくれたのだ。知人割引ということで敷金・礼金などかなり安く抑えられた。
「また何かあったら、いつでも相談して。力になるよ」
 その言葉に夏生の胸はときめく。隼人は夏生にだけ特別なのではなく誰にだって親切で優しいと分かっていても、華やぐ気持ちは抑えられない。赤くなっていく頬をごまかすために、夏生は話題を変えた。
「そうだ、主任。『おとないさん』って知ってますか?」
「『おとないさん』? さあ、聞いたことないなあ。それがどうしたの?」
「ドアを開けっぱなしにしていると『おとないさん』が来るよ、って近所の子に言われたんです」
「しつけのためのオバケか何かなのかな。きちんとドアを閉めるようにって。ほら、寝ないとオバケが来るよ、なんて言うしね」
「そう言われたら、男の子の言い方、そんな感じだったかも。でも、かわいいですよね、オバケを信じて」
「三枝さんは信じないの?」
「もう大人ですもの。主任は信じてるんですか、オバケ」
 隼人は少年のように笑う。夏生の胸はどきんと高鳴った。
「オバケというか、うん。この世には色んな不思議なことがあるっていうことは信じてるかな」
 いつもとは違った隼人の笑顔が見られたことが嬉しくて、夏生は『おとないさん』に感謝した。

 八月に入って会社は繁忙期を迎えた。夏生は生まれて初めての残業を経験して、一人前の社会人になった気分を味わった。終電間際にやっと帰るような日もあり、連日の疲れが少しずつ溜まっていくのを感じていた。アパートに帰りつき玄関のカギを開けたが、電気を点ける気力もなくリビングの床に身体を投げ出した。床に頬をつけ、しばらく目をつぶっていた。うとうとと、そのまま眠りこんでしまいそうになって、なんとか目を開ける。こんなところで眠ってしまうわけにはいかない。立ち上がって寝室に向かおうとした時、ぎくりと動きが止まった。
 寝室のドアの隙間から誰かが覗いている。夏生の喉がヒュッと鳴った。どろぼう、という言葉が頭に浮かんだが、声が出ない。あわてて電気を点けると寝室は影になりますます暗く、ほんの少しの隙間からでは何も見えなくなってしまった。夏生は耳をすませてみたが隣の寝室との間の、少し開いた引き戸の隙間から聞こえる音は何もない。人がいるような気配がしない。足音をたてないように、そうっとそうっとドアに近づく。十五センチほどの隙間から暗い部屋の中の様子を見ることはできない。夏生は覚悟を決めて引き戸を思いきり開けた。
 がらんとした六帖、きれいに整ったベッド、いつもの見慣れた部屋に人影はない。作りつけのクローゼットをそっと開けてみたが、そこにも誰も隠れてはいない。もう一度ぐるりと部屋を見渡してみた。カーテンが開けっぱなしの窓に自分の姿が映っている。さっき見たのはきっとガラスに映った自分の姿だったのだと自分自身に言い聞かせた。カーテンをきっちりと閉めて、このことは忘れてしまうことにした。

「三枝さん、ずいぶん疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
 翌日の昼休み、デスクに座っている夏生のところへ隼人がやってきた。夏生が広げていたお弁当はほとんど手付かずのままだった。
「大丈夫です、ちょっと寝不足なだけで」
「最近、残業ばかりだものね。帰宅時間が遅いと、どうしてもそうなるよね」
「そうですね……」
 寝不足の理由がそれだけではない夏生は、すっきりとした返事ができなかった。隼人は夏生の顔を覗きこむ。
「何かあったの?」
「いえ、なんでもないんです」
 夏生は元気に見えるように、いつもよりも意識して笑顔を作った。隼人は何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに頷くと自分の席に戻っていった。

 それから一週間ほど、とくに遅くなる日が多かった。明かりの消えた住宅街を歩いていると、あの晩見た不可思議なものが思い出されてくる。自然と早足になり何かから逃げるようにアパートに向かう。ドアを開けたらまず電気を点けてまわる。すべての照明に照らされた部屋はまぶしいくらいで、その光の中にいると一人でびくびくしている自分がおかしくなってくる。カバンを放り出すとさっさとスーツを脱いでシャワーを浴びた。そういえば小さい頃は恐い話を聞いた後、シャンプーするのが恐かったっけ。目をつぶると恐いオバケがそっと忍びよってくるような気がして。思いだすと本当におかしくなって、くすくすと笑った。
 濡れた髪をタオルで拭きながらテレビをつけた。大好きな韓流ドラマが始まったところだ。目が画面に吸いつけられたまま冷蔵庫から缶ビールを取り出す。プルトップを起こすとプシュッと小気味よい音がした。ソファにあぐらをかいて喉を鳴らしてビールを飲む。ドラマの中ではヒロインが頬を染めて手紙を書いている。ピーピーピー、と冷蔵庫が警告音を発した。ドアがきちんと閉まっていなかったのだ。夏生はドラマに視線を置いたまま立ち上がって冷蔵庫に近寄り、後ろ手でドアを閉めようとした。ところが、なにか挟まったようで押し返されるような手ごたえを感じた。冷蔵庫のドアに顔を向け、夏生は「ひっ」と小さく叫んだ。
 ドアの隙間から大きく見開かれた目が覗いていた。夏生は慌てて力いっぱいドアを押した。今度は抵抗もなく簡単に閉まった。夏生は冷蔵庫から飛び退いた。喘ぐように息を吸い続ける。
 確かに目があった。覗いていたものは確かに目だった。夏生は深く息を吸って呼吸を整えると、冷蔵庫に近づきそっと手を伸ばした。ドアの取っ手に手をかけて深呼吸して気持ちを抑える。恐くない。大丈夫。恐くない。
 勢いよくドアを開けると、そこには何もいなかった。いつも通りの明るい庫内だ。取っ手を握りしめていた手から力が抜けた。へなへなと座り込み、冷蔵庫のドアはゆっくりと閉まって、少しの隙間が開いたまま止まった。夏生は慌ててドアを力いっぱい押して完全に閉め切った。
「おとないさん……?」
 夏生は冷蔵庫を見上げてつぶやいた。

 翌朝、寝不足で寝過ごした夏生はアパートの前階段を足音高く駆けおりた。いつもより十分だけ遅い出勤時間だ。走ればまだいつもの電車に乗れる。道路に飛び出そうとした夏生は、ふと足を止めた。自分の下の部屋、一〇三号室から女性が出てきて玄関のカギを閉めているところだった。仕事に行くような服装で、髪も化粧もきちんと整っている。引越しの挨拶に来た時に聞いた名前は確か森本だった。
そうだ、あの子が言っていたこと、母親に尋ねてみよう。夏生は小走りで女性に近づいた。
「おはようございます!」
 大きな声で話しかけた夏生に、森本は驚いて顔を上げた。
「ああ、三枝さん、おはようございます」
「あの、『おとないさん』ってなんですか?」
「え?」
 森本はきょとんとしている。夏生はあわてて言葉を継いだ。
「突然すみません。先日、息子さんから言われたんです。開けっぱなしにしてたら『おとないさん』が来るよ、って」
「息子……? うちには子供はいませんけど」
 夏生の顔から笑顔が消えていく。代わりに浮かんだ表情は恐怖だった。
「いない?」
「ええ。うちは主人と私だけです。ご近所のお子さんと間違われたんじゃないですか?」
「でも! あなたの後ろに立っていたんです! 部屋の中です! 間違いありません!」
 森本は眉を顰めると「急ぎますので」とだけ言って夏生の横をすり抜けていった。
「……じゃあ、あの子は誰なの」
 アパートの二階を見上げたまま夏生は動けなかった。

 遅刻した夏生が席につくと、隼人がわざわざ声をかけに来てくれた。
「どうしたの、具合でも悪いの? 顔色が悪いよ」
 夏生は硬い表情のまま隼人を見上げた。
「なんでもないんです」
「……そう。でも本当に、僕で力になれる事ならいつでも言ってくれ」
 思わずすがりつきそうになるのを、夏生は拳を握ってこらえた。隼人は夏生の頑なさをほぐそうとするように話題を変えた。
「そうそう。分かったんだよ、『おとないさん』のこと」
「本当ですか!」
 夏生は椅子を蹴って立ち上がる。その勢いに驚いたものの隼人は説明を続けてくれた。
「杉浦日名子さんという人が描いた『百物語』っていう漫画の中に出てくるんだ。開いている隙間からこちらを覗くんだけど、普通の人に話しかけるように何か話しかけてやると、すっと消えるそうだよ」
「話しかけてやる……。それだけでいいんですか」
「本にはそうあった。けどまあ、そんな状況にあって普通に話すことなんて出来そうにないけどね」
 夏生は曖昧に頷いた。頭の中ではあの冷蔵庫から覗いた目のことだけを考えていた。

 残業続きも一段落した休日、夏生は久しぶりに部屋の大掃除に取りかかった。家中のドアを開け放ち、洗えるものは片っぱしから洗濯機に突っ込み、すべてのものにハタキをかけて、掃除機をかけ、雑巾拭きした。真夏の暑い盛り、すぐに汗が吹き出し掃除を中断して何度もシャワーを浴びた。風呂場にいる間も窓は開け放したままで、玄関だけはチェーン錠をかけて薄く開き風を通していた。
風呂場から出てきて拭き掃除の続きを始めた。ベランダから涼しい風が入ってくる。ベランダからは塀を隔てて隣の庭が見える。いつも手入れの行き届いた芝生と高くこんもり茂った楠が熱気をやわらげてくれている。この風があればクーラーはいらない。夏生はまだ一度もクーラーをつけていなかった。
掃除が一段落して昼食を作ろうかと台所に向かった夏生は、玄関のドアから部屋の中を覗いている目を発見してぎくりと立ち止まった。けれどそれは、あの男の子が部屋を覗いているだけで、夏生はほっと息を吐いた。
「こんにちは」
夏生は玄関に行って男の子の目線に合わせてしゃがみこんだ。男の子は何も言わず、ただじっと夏生を見つめていた。
「君、どこの子? お隣かな?」
「あけっぱなしにしてるとおとないさんがくるよ」
 それだけ言うと、男の子は硬い表情のまま押し黙った。夏生は一瞬、怯んだが、すぐに男の子に笑いかけた。
「大丈夫。おとないさんが来ても、お話してあげたら帰ってくれるんだよ」
 男の子はじっと夏生の顔を見つめ続ける。夏生は居心地悪くなって立ち上がった。
「そうだ、君、おうちまで送っていこうか。お母さんがお昼ご飯を作って待ってるんじゃ……」
 夏生の言葉が終わらないうちに男の子はドアの向こうへ姿を消した。夏生はあわててチェーン錠を外して外に飛び出した。二階の通路に男の子の姿はない。階段から下を覗いても誰もいない。男の子は忽然と消えてしまった。夏生は自分の肩を抱いて腰が抜けたように座りこんだ。男の子は忽然と消えてしまった。夏生には何が起きているのか全くわからない。ただ、普通でないことが起きているということは薄ぼんやりと見えてきていた。

「いらっしゃいませ」
 不動産屋の自動ドアをくぐるとすぐに、カウンターに座っていた女性の元気な挨拶に出迎えられた。夏生は小さく頭を下げた。女性が用件を聞こうと口を開きかけた時、山本が夏生に気付いて声をかけてくれた。
「三枝さん、いらっしゃいませ。今日はどうなさったんですか」
夏生は山本の顔を見てホッと息を吐いた。引越し物件を探す時から担当してくれていた顔を見て緊張が解けていくのを感じた。スーツを着てネクタイまできっちり締めた山本はよく日に焼けて健康的だ。
「どうぞ、おかけ下さい」
 夏生はすすめられるままカウンターの端の席に座った。店内には他に客は居ず、ゆったりしたクラシック曲が流れている。夏生はカウンターに身を乗り出すようにして小声で話し出した。
「あのアパート、なにか事件とかなかったですか」
 唐突な言葉に山本は驚くこともなく誠実な笑みを浮かべた。
「事件、といいますと?」
「自殺とか、殺人とか、孤独死とか」
「当方では何も聞いておりませんが……。なにかあったんですか?」
 山本は笑顔のまま困ったように眉を寄せた。夏生はますます身を乗り出す。
「なにか、へんなものがいるんです」
「へんな?」
「隙間からこっちを覗く目があるんです」
「不審者ですか?」
「いいえ、隙間から覗いているんですけどドアなんかを開けてしまうと消えていて……」
「人間ではないということですね? 何か動物が入りこんで潜んでいるとか」
 夏生は力いっぱい首を横に振る。
「人の目なんです、確かに。でもすぐに消えてしまう。それに男の子。いるはずのない男の子もいたと思ったら消えてしまって」
 山本はますます困惑した様子だったが誠実な態度は崩さなかった。
「とにかく大家さんに連絡を取ってみますね。何か変わったことがなかったかどうか」
 そう言って電話をかけてくれたが大家とは繋がらず、夏生は帰って連絡を待つことになった。

鍵を開けてそっとドアを引く。顔だけ部屋の中に入れて様子をうかがったが部屋の中に異常はない。扉は隙間なくぴたりと閉じておいたし、窓も閉めてある。大丈夫だと自分を励まして部屋に入った。部屋の中は出かけた時のままだった。ただ閉め切っていたために蒸し暑くなっていた。夏生は勢いよく隣の部屋との間の引き戸を開け、窓を全開にして、玄関まで開け放った。涼しい風が通ってきてホッと息を吐く。全開だったら大丈夫、隙間じゃない。安心して振り返った時、どこからか視線を感じてぎくりと動きを止めた。ゆっくりと視線を動かす。冷蔵庫は閉まっている。引き戸は開いて隙間はない。隣室のクローゼットもきっちりと閉まっている。気のせいかと思ったが、どうにも落ちつかない。部屋の中の静けさに耐えきれずテレビをつけようとして、ソファと床の隙間に目があるのに気付いた。
「きゃ……」
 叫びそうになって両手で口を押さえる。叫んではいけない。話しかけるんだ。夏生は震える声で覗いている目に向かって話しだした。
「こんにちは……、暑いですね」
 ソファの下の目を夏生はじっくりと見た。
まぶたはない。黒目が小さく白い部分はやや黄ばんでいる。どろりと張りがなく今にも溶けていきそうだ。見れば見るほど気持ちの悪さがつのる。それでも夏生は目を離さずに喋り続けた。
「毎日、暑いですよね。雨なんかもう何日も降ってないし……」
 どれだけ話していても目は動きを見せない。消える様子もない。話しかければ消えるなんて嘘なんじゃないか? 本に書いてあったって本当のこととは限らない。話しつかれた夏生は黙りこんだ。目が夏生を睨みつけているような気がした。
「もう、嫌……、もう消えてよ! 消えて!」
怒鳴って外に飛び出そうとすると玄関口で何かにぶつかり尻もちをついた。
「大丈夫かい?」
 ぶつかったのは初老の男性だった。手を伸ばして夏生を立ち上がらせてくれ、慌てて夏生の顔を覗きこんだ。
「どこか怪我しなかったかい?」
 夏生は首を横に振る。
「どうしたんだ、急に飛び出してきて」
「何がなんだか分からなくて……、この部屋、変なことばかり起きて……」
 男性は困った顔をする。
「おかしいねえ。この部屋はこれまでそんな苦情はなかったんだが」
「苦情?」
「ああ、私はここの大家だけどね。不動産屋から連絡をもらって来てみたんだよ」
「見て下さい! いまそこにいるの!」
「いるって何が……」
 夏生は有無を言わさず大家の腕を引っ張りソファの方を指差した。
「何もないじゃないか」
 ソファの下の目は消えていた。夏生は呆然と立ち尽くした。大家は怪訝な顔をしてソファと夏生を見比べた。
「とにかくね、部屋は問題ないんだ。あんまり変なこと言わないでくれよ。他の住人にも噂がたったら困るんだからね」
 それだけを言い残して大家は帰っていった。夏生は大家の背中を見送って静かに玄関を閉めた。

「三枝さん、元気がないね」
 デスクでぼんやりしていた夏生に隼人が話しかけた。夏生は力のない目で隼人を見上げた。
「山本から聞いたんだけど、変なことが起きてるんだって?」
 心配そうに尋ねてくれた隼人の言葉に、夏生の目から涙がこぼれた。隼人は慌ててポケットからハンカチを出すと夏生に渡した。
「ちょっと休憩した方がいいよ」
 そう言った隼人に連れられて夏生は休憩室に足を運んだ。涙は止まらず、隼人は夏生の背を優しく撫でてくれた。
 しばらく泣き続けてようやく落ち着いたころ、隼人が口を開いた。
「話してくれないかな。君の力になりたいんだ」
 夏生は隼人の目を見つめた。白く澄んだ瞳に促され夏生は話しだした。
「おとないさんが来るんです」
「隙間から覗くっていう、あの?」
 夏生はうなずく。
「ドアや窓は隙間がないようにしたんですけど、ソファと床の間の隙間やテレビと壁の間の隙間から覗いてるんです。主任に教えてもらった通り話しかけてみたんですけど消えてくれなくて、私が逃げだすまでいるんです。信じられないでしょうけど……」
「君が言う事なら信じる。おとないさんのこと、もう少し調べてみるよ」
 隼人の力強い言葉に夏生はまた目頭が熱くなるのを感じた。

 それからピタリと目は現れなくなった。隼人にそのことを報告すると「良かった」と心底から喜んでくれた。おとないさんの新しい情報はなかったが、そんなことはもう気にする必要はないんだと夏生は安心して部屋に帰れるようになった。

 夏生は隼人と付き合うようになった。隼人は優しく明るく親切だった、初めのうちは。付き合っている間に次第に夏生に冷たい態度を取りはじめた。会社では無視され、連絡を取ろうとしても電話にも出てくれない。社内で隼人が二股をかけているという噂を聞き、トイレに隠れて泣いた。
 泣き疲れて顔をあげる。目があった。扉の薄い隙間から目が覗いていた。夏生は慌ててトイレから飛び出した。トイレの外は目で覆い尽くされていた。電灯と天井の隙間、窓の桟と壁の隙間、足元を見下ろすと、自分の靴と肌の隙間からも覗く目があった。デスクに駆け戻り引き出しを開けるとそこにも目があった。目だけではない、引き出しの中は闇のように暗く、そこから青白い女の手が伸びてきた。夏生は会社を飛び出すと部屋に戻りすべての隙間にガムテープで目張りをしていった。窓枠、クローゼットの扉、玄関もガムテープで留めてしまう。
ソファと床の間から青白い手が伸びてきて夏生の足を掴もうとする。慌ててクッションをソファの下に詰めてガムテープで貼り付ける。ベッドの下にも布団を詰める。
「おとないさんがくるよ」
 ぎくりとして振り返ると、部屋の真ん中に男の子が立っていた。
「おとないさんがくるよ」
 男の子が夏生の顔を指差す。指差された自分の目の端の方に何かの陰が見えた。夏生は洗面台に走り鏡で自分の顔を見た。目とまぶたの隙間から、もう一つの血走った目が覗いていた。夏生は自分の目をガムテープで覆う。
「おとないさんがくるよ」
 どこからか手が伸びてきて夏生の唇に触れた。冷たくてぬめる感触に鳥肌が立つ。夏生は口もガムテープでふさぐ。
「おとないさんがくるよ」
 ガムテープで耳をふさぐ直前、最後に聞いたのは甲高い女の嘲笑だった。



「どうしてこんな死に方をしたんだろう」
 夏生の死体を見下ろし、若い刑事はぽつりと呟いた。そばにいたもう一人の中年の刑事が相づちを打つ。
「不気味だな。自分で自分の顔をガムテープでぐるぐる巻きにするなんて」
 死体の頭部は隙間なくガムテープが巻かれ、窒息して苦しかったのだろう、喉元を爪で掻きむしった傷が幾筋もついて血を流している。爪の間には皮膚と血液がびっしりと詰まり、隙間をなくしていた。
「おや、君、ここに入っちゃだめだよ」
 若い刑事が玄関に向かう。しゃがみこんで何かに話しかけているようだ。
「おうちに帰ろうね。君、おうちはどこかな」
 もう一人の刑事が近づいて見てみると、そこには何もいない。
「お前、何してるんだ」
「何って、この子を家に帰そうと……」
「何もないじゃないか。大丈夫か、お前」
 若い刑事は目の前にいるはずの男の子を指差そうとした。しかしそこには何もいない。思わず目を見開く。その目の端の方に何か影のようなものが見えた。
「おとないさんがくるよ」
 その声は若い刑事の頭の中にこだました。

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