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さて、ここからは多分に私情を挟むので、些か見苦しいところがあるかもしれない事を断っておく。
突然星野骨董店に現れた恭司。まあそこまではいい。詩音さんの知り合いであって、同時に恭司の知り合いでもあるという話は理解できる。だからゆかりさんと既に知り合いである事に口を出す気は無い。
……が。
私に挨拶もそこそこに、いきなりゆかりさんと話しこみ始めるというのは果たしてどうだろうか。
……用があるからこそ、ここにやってきたのだという事くらい、頭では分かっているけれど。
しかし目を合わせようとすらしないのはいくら何でも不自然だろう。逆に会話の最中でも私の事が気になって仕方ないくらいでないと張り合いが無い。
他の誰かにとってどうあれ、これこそが昨日から私の感じている違和感なのだった。
「こんにちはゆかりさん。頼んでいたものが入荷したって聞いたんで」
……ゆかりさん?
「はいこんにちは恭司くん。またしばらく見ないうちに男らしくなっちゃって。品物なら今すぐでも用意できるけど……久しぶりなんだし、少し世間話にでも付き合ってよ」
……恭司くん?
沸々と込みあがってくる得体の知れない衝動。それは見た事もないほどに真っ黒な形をしていて、少しでも気を抜くと私の中から破裂して、あちらこちらに爆弾の一つや二つ撒き散らしてしまいそうな、そんな爆発の勢いを秘めた感情の塊。
ゆかりさんが恭司の事を名前で呼ぶのは不思議な事ではない。元々詩音さんと知り合いなのだし、苗字が同じなのだから個人を区別するのに名前を呼ぶのは不自然でもなんでもない。
だが恭司はどうだろう。個人的な知り合いにしても、別に特別親しいわけではない……と思うし、だったら別に星野さんでいいのではないか?
そこまで考えてからふと我に返る。
……なんて了見の狭い事を言っているのだろう。
我ながら呆れ果てたほどの思考暴走。……いけない。恭司が絡むと私はすぐこれだ。
冷静になれ。別におかしな事なんてない。私はいつもの私でいればいい―――
「それにしても恭司くん、詩音に聞いたんだけど、七瀬ちゃんと付き合ってるんだって? わたし今日初めて会ったけど少し驚いたな。七瀬ちゃんはすごくいい娘だと思うけど、意外っていうか。恭司くん―――昔と女の子の趣味変わった?」
……何を?
今聞き捨てならない台詞を聞いた気がする。いや確かに聞いた絶対聞いた間違いなく聞いた。
頭の中でぷちっ、という音が残響する。思いのほか大きな音で残響する。
次いで襲い来る感情の波。一旦は鳴りを潜めたはずのソレは、瞬く間に私の中の優先順位を書き換え、脳内を蹂躙していく。
荒々しく、静まる事を知らない、一際以上に私を刺激してやまない情動。
私はどこか遠く、瞼の奥のさらに奥のほうでその正体をしっかりと意識する。
それはきっと……嫉妬心。
はっきりと意識出来たのはつい最近。私はこんなにも器の小さな女だったかと思い知らされる瞬間。
しかしそれでも……恭司を独り占めしたいと思ってしまうのは、私だけを見ていて欲しいと我儘な事を思ってしまうのは、自分ではどうしようもない。
これを堪えるのは難しい。かつて狂気の衝動を抑えていた頃よりも遥かに強靭な忍耐力を必要とするだろう。
「おやおや七瀬ちゃん、ぶすっとしちゃってどしたのさ?」
「いえ、お気になさらず」
詩音さんへの返事もおざなりに、私はそれをどうにか耐え切る。この場で噴火したところで事態は詩音さんが喜ぶようにしか展開しない。今は耐え忍ぶ時だ。耐えて耐えて抑えて抑えてそして堪える。そうすれば、いずれ打開策は目の前に現れるのだ。
私が見つけられる感情の捌け口など、つまるところ一箇所しかない。
……後で覚悟なさい、恭司。
昔の女の趣味とやら、たっぷり聞かせてもらう事にしよう。
と、そんな事を心中で息巻いてみたが、
「何言ってるんですかゆかりさん。その趣味って姉貴と一緒になって勝手に言ってたやつでしょ? 二人の友達にことごとく『あなたみたいな子が詩音の弟の理想のタイプらしいよ』って吹き込んでその気にさせて僕をからかって……僕から好きって言ったみたいな流れになって、毎回毎回事情を説明するの大変だったんですからね」
む。
何故だか妙に納得して頷いてしまった。
現金な感情は一瞬にして凪の時間を迎え、我ながらその変わり身が恐ろしくなるほどに平静さを取り戻す。
……そうか、そういう展開か。
それならば別に異を唱える事はない。……相手側はそこそこ乗り気だったらしいと推測出来るが、そこは寛大な心で許すのが私だ。恭司が相手ならそう思ってしまうのも無理はない――というのは惚気が過ぎるだろうか。
「七瀬ちゃん、頬が緩んでるよ」
「いえ、お気になさらず」
すっかり蚊帳の外に置かれて退屈した詩音さんのにやけ顔も、今の私には気にならない。残念だが獲物役は別の誰かに頼んでもらいたい。
ちぇっ、という不貞腐れたような舌打ちは、私以外の耳には入っていないようだ。
「でも恭司くん、年上好きじゃない」
「いやまあ……別に嫌いじゃあないですけど」
「わたしは恭司くんの好き好き視線を一身に浴びていたという自負があるわよ?」
「そんな勝手な」
苦笑する恭司だが、特に気分を害しているという様子でもない。あるいはそういう付き合い方が板についているのか、単に慣れの問題なのかもしれない。
ちらり、と詩音さんの横顔を眺めやる。
からかいや冗談なら上には上がいるわけだし、免疫など吐いて捨てるほどの堅牢さにまで築かれているのだろう。この程度のあしらい、恭司なら出来て当然と考えるのが普通か。
むしろそんな事よりも、だ。
……いつの間にかゆかりさんが小悪魔キャラになっている。
さっきまで私と話していた時とは別人のようにいきいきと会話に熱を上げる。何だろう、この違和感は。
注がれる恭司への視線。親しみが込められているのはまあいいとしても、少しだけ熱っぽいというか。友人の弟、という種類の眼鏡を通しているとは思いがたい。
下手をするとあれは、私と同種の―――
そこまで思ったところで、恭司と会話を続けたまま、ゆかりさんがほんの一瞬だけこちらに視線を寄越し、
意味ありげに、微笑してみせた。
「なっ―――!?」
驚いて問い詰めようと思った矢先には、ゆかりさんは再び恭司との会話に戻っていた。私を見たのは瞬間的な事。恐らくずっと話していた恭司でさえ今のやりとりに気づいたかどうか。
いよいよを持って疑念が膨らんでいく。
……ゆかりさんも、恭司の事を?
まさか、そんな。
ならばどうして私をアルバイトに雇うなどと。そんな恋敵を自分の傍に置くような真似をしてどんなメリットがあるというのだ。
あるいはそうして人知れず制裁を加えようとでもいうのか。
わざと店の品を隠して私が盗んだと主張するとか。
わざと店の品を壊して私が落としたと主張するとか。
「何て、卑劣なの―――!」
宣戦布告なら面と向かって受け入れるくらいの度量はある。私だって恭司に好きでいてもらうための努力を惜しんでいるつもりはない。ならば同じ努力の末に競う事に何ら文句は無いのだ。それで最終的に恭司が私を選んでくれればいいというだけの話なのだから。そうなって当然―――そう声を大にできるくらいの自負はあるというものだ。
ゆかりさんへの認識がどんどん黒く上塗りされていくのが自分で分かる。
だがそれも無理はない。
他の何を置いても。
恭司に色目を使うという事は即ち、私の中の『触れてはいけない領域』に手を触れるという事に他ならないのだから―――!
「まったく一人で忙しいね七瀬ちゃん。……顔、顔。何だか凄く怖いことになってる」
「いえ、お気になさらず」
「そういうわけにも。ほら、鏡見てごらん」
詩音さんに言われるままに手鏡を取り出し、自分の顔を見てみる。
……なるほど、そこには悪鬼羅刹の類が映っていた。
嫉妬とはかくも人の本性を曝すものかとある種感心してしまうほどの変わりよう。私も愚かになったものだ、なんて他人事のように納得してみる。
だが今は私自身よりあの二人の会話が気になって仕方ない。
「ゆかりさんは相変わらずですね」
「褒め言葉として受け取っておくわね。相変わらず若くて綺麗ってことで」
「否定はしないですけど……」
「七瀬ちゃんとどっちが綺麗?」
「またそういうことを」
そうやって苦笑を崩さないまま、しかしどちらとも明言しない恭司も恭司だと思うのだが、私の意見は一般的ではないのだろうか。どちらも傷つけないようにという配慮なのは分かるが、そんなところまで公平でなくていいのだ。曖昧に濁す方がかえって傷つくこともある―――主に私が。
「さて……あんまりのんびりしているのもあれですし、そろそろ品物を渡してもらえますか?」
「ちぇ、つれないなぁ、恭司くんは」
不承不承といった体で、ゆかりさんは口を尖らせる。それでもちゃんと注文の品を明け渡しているあたり、商売をする者としてはプロなのだろう。
品物を確認し、満足そうに受け取った恭司は、ようやくこっちを向いて、
「あー、えっと、それじゃあ七瀬」
「一緒に帰りましょう」
え、という声が確かに聞こえた。
「何か不満があるの?」
「いや、そんなことは……ないけどさ」
いつもと違って歯切れ悪くそう答える恭司だが、表情からして嘘を言っている様子はない。本当に不満だという事はないと私が断言しよう。
だが。
「七瀬の家、もうすぐそこだけど……?」
何かを隠している、というのは間違いない。
恭司の姿を常に目で追っていた者として、恋人として、そこに確信の判を押せる。
ああやって恭司が恐る恐る言葉を言う時、そこには必ず言葉とは違う思考を頭の中に展開している。
私に言えないのか、言いたくないのか。
どちらにしろ、今言う事に不都合な何かがそこに隠されているのだ。
……どうせ言う事になるのに、ね。
最後まで隠し通せるとは本人ですら思ってはいまい。私が追及する、という事もあるし、こういう場合、恭司が考えている事は十中八九私に関連した何かだ。その種明かしを渋るという結果は有り得まい。
「一分でも長く貴方と居たい、というのは迷惑な感情かしら」
仰け反るようなリアクションは、さすがに失礼だと思う。
……まあ、確かに人目のあるところでの私らしくない言動ではあるが。
視界の端で詩音さんがお腹を抱えて笑っているのは、まあ見なかった事にする。
ゆかりさんなどは大げさに瞬きを増やして、
「へえ、七瀬ちゃんってそういう……ふーん」
何を納得したかは知らない。が、無用に口を挟まれるよりはいいとしておく。
「ほら恭司、七瀬ちゃんもこう言ってるんだし、家までエスコートくらいしてやんなって」
馬の尻でも叩くように恭司をせっつく詩音さん。どんどん言ってやってもらいたい。
いつもならこれで恭司が言いなりになってはいお終い、という流れなのだが。
どういうわけか今回は、趣が異なっていたようだった。
「―――ごめん、七瀬。やっぱり僕は先に帰るよ」
「……え?」
気の抜けたような声を出してしまったのは、あまりにその答えが意外過ぎたからだ。
……恭司が、私と一緒に帰るのを拒否した?
言ってしまえばたったそれだけ。
たったそれだけの事で、私の思考は完全に停止した。
別に、彼の全てを束縛しようと思っているわけではない。そんな事は土台無理な話だし、そう出来るなどと思い上がった事は言わない。
だが、それでもだ。
「たった五分、私を家まで送っていく事が、そんなに嫌?」
自分でも情けないくらいに、縋るような声を出してしまった。
それを聞いて恭司がわずかにたじろぐ。
分かっている。私の我儘を、結局恭司は断れないのだと。私が本気で頭を下げるなり何なりすれば、どうしたって彼の心を揺さぶれるという事を。
分かっている。あと一言も追い打てば、鐘が響くくらいの当然さで、恭司は私に折れる。
それを分かっていて。
どれほど自分が嫌な女かを痛感した。
引き止める言葉など、これ以上をぶつけられるわけがない。
……私は、弱くなった。
恭司の隣に立てばそれだけで空でも掴めると思えるほどに強くなれるのに、それがなくなるだけで途端に脆い私が顔を覗かせる。
一人を気取っていた時には持ち得なかったこの想い。
それが私を翻弄する。
そしてそれに抗えるほどの芯は、この私にはない。あるいはあったとしても、その芯ごとへし折ってしまう威力が、彼の拒絶にはあるのだった。
大げさな事だ。
何もかも大げさな事だ。
それでも私にとっては―――半身から離されるというのが、これほどまでに心に痛い。
「ご、ごめんねっ、七瀬っ」
私の表情を見ていられなくなったのか、この場から逃げるようにして店から去っていく恭司。
その後姿を、私は追えない。
足が竦んで……動けない。
この上なお彼に突き放されたら。……そう思うと指一本動かせはしない。
「あーらら、偉くなったもんだね、うちの弟くんも」
景色でも仰ぐように額に手を当て、恭司の出ていった方を見やる詩音さんの口調は軽い。
「いきなり修羅場なんて、人生どうなるかわからないものよね」
ゆかりさんまでも真剣さの欠片さえ含ませずに状況を楽観している。
……所詮、外野にとってはその程度。
しかし私にとっては、そう簡単に割り切れる事ではない。
私が抱いた小さな違和感は、いよいよ本格的な齟齬に発展した。僅かにぎこちないだけだった態度が、はっきりと私を避けるように。
「七瀬ちゃん、分かってるとは思うんだけど」
「……分かっています。私が弱いというだけの事です」
こりゃ思ったより重症かな、と肩を竦める詩音さん。
頭では……理屈では分かっている。
二人が言うように、大した事ではないのだ。恭司が何か私に隠し事をしていて、その発覚を恐れているが故にあんな態度を取っている。その隠し事自体でさえ、私を傷つけるような事ではあるまい。大方無用な気遣いをさせまいという類か……あるいはもっと明るい材料か。
そう思うには理由がある。と言うのも、恭司という男の性格からして、もし私が傷つくような事ならばなおさら、それを隠そうとするような真似はしない。傷つけると分かっていて、その傷口が化膿しないように、治療が早く出来るように、あえてでも口にするのが恭司という人間だ。
こうして冷静に順序立てて並べていけば、分かっている事ばかりなのだ。
だが。
実際にそれを理由として彼のあの態度を許容できるかという話になれば……本当に情けない事だが、首を振らざるを得ない。現にこうして私はあれこれと余計な事を溜め始めている。
弱くなった、というのはそういう事だ。
昔の私なら、半身として恋人として寄り添う立場に無かった私なら、あるいはもっとシンプルに彼の行動を分析して、簡単に受け流していた事だろう。
しかし今はそうはいかない。
心から信じている―――だからこそ、不安になるのだ。
絶対的な信頼は揺るがない、などというのは聖人君子が決めたルールだ。人間の感情はそうまで杓子定規に出来てはいない。心の揺れ幅はどれほど相手との距離を詰めたところでゼロにはならない。こと、心というものに関して言えば、信じる事と疑う事は決して矛盾しないのだ。
ましてそれが……自分に最も近しい存在であれば。
蓋を開ければ拍子抜けするような結末を予想できたところで。
その前提すら突き崩すような『何か』が未来を覆うイメージは切り放せない。
だからこれは私の問題なのだ。
『あの娘』に散々注意された、物事を悪いほうに悪いほうに考える癖。
……三年。
この空白がなければ、あるいは私は平然としていられたのだろうか。
「ねえ詩音。どうしたの? 七瀬ちゃんは」
「ただいま自分の中の天使と天使で葛藤してる、ってところかな。ま、珍しいっちゃ珍しいものを見たし、どっちにしろ天使が勝つんだから大丈夫だろうけどねー」
「難しい年頃なのね」
「色々あったからね、この二人も」
口々に勝手な事を言う二人に対し、順々に軽く視線だけを流す。
例えば最悪な想像だ。
恭司が浮気しているとか。
その相手が実はゆかりさんだったりするとか。
詩音さんまでもが一緒になって私と別れさせようとしているとか。
いくらでも悪い予想は立てられるものだ。
―――なんて。
「……馬鹿ね」
全く、本当に馬鹿な話だ。
「結論は出た? 七瀬ちゃん」
さして心配していた様子もなく、詩音さんが尋ねてくる。
「ええ。自分の思考のネガティブさに呆れ果てていました」
「いや、いいんじゃないのかな、そういうのも。ほら、乙女心ってのは複雑なのが相場だし」
「あなたが乙女心を語る日が来るなんて、長生きはするものだわ」
ゆかりさんの大仰なリアクションに、詩音さんが小突くようにして茶々を入れる。
私はそんな二人を真っ直ぐに見つめながら、
「恭司が何を考えているかなんて、私にはまったく分かりません。でも―――彼がああするのには何かの考えがあるだろう、という事なら私にも分かります」
……そう。
考えるのも馬鹿らしい話。
最初から自分で言っていたのだ。
理屈では分かっている、と。
「それがどんな結果であれ、きっと最後に私は笑っていられるでしょう。―――そういう男だから私は、彼の隣を選んだんです」
ゆかりさんが驚いたように息を呑み―――やがて溜め息と共に呆れを吐き出しながら、
「……この自作自演自嘲自爆ノロケ、もしかしてこれからずっと続くのかしら」
「責任持ちなよ、ゆかり。あんたが雇いたいって言ったんだから」
けらけらと笑う詩音さんを見ていると、何か悪い事を考えるというのがどれだけ愚かしい事なのかを痛感できる。
「覚悟して下さい、ゆかりさん。私は思い込みが激しくて、おまけに嫉妬深い女です。恭司に手を出したりしたら、どんな復讐を考えるか自分でも分かったものではありません」
だから私は、これからも私の環境を支えてくれる人達に向かって。
私を受け入れてもらう為の儀式を行うのだ。
「だから復讐すら考えないほどに―――自分の心ばかりを責めるように日和るようであれば、どうぞ。思う存分に私の背中を押してやって下さい」
ゆかりさんは心底楽しそうに笑った。つまりそれが答えという事。
それだけで自分でもあっけないほどに、心のスイッチが切り替わる。
もう、恭司へのわだかまりなどどうでもよくなるくらい―――私は自分を認めてもらえた事が嬉しかった。 |