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今日も今日とて、と言われてしまえば黙る他ないが、私は恭司と駅前で待ち合わせをしていた。
一ノ木市は大都市とはお世辞にも呼べない都市だが、それでも駅前のターミナルは人でごった返し、ましてそれが天気に恵まれた夏休み中ともあれば、その密度たるや見るだけで酔いそうなものだ。かく言う私もそんな人の群の一角ではあるのだけれど。
まだまだ熱気の衰えない八月。基本的に長袖を身につける習慣を残したままの私には些か堪えるが、それでも気分は悪くない。それはきっと、私が夏という季節を少なからず特別な季節だと思っているからなのだろう。今の私が私になれたのは、この季節の出会いがあったからこそ。それならば好ましく思う事は当然で、私が夏を厭うようになったらきっと、私と恭司の関係も……いや、何を考えているのだろう。そんな意味のない妄想をしてどうするというのか―――しかも少し不愉快になる。
心中だけで、ふん、と鼻を鳴らす。馬鹿げた話だ。そんな未来など実現するわけがない。
……どうも余計な事を考えすぎだ。それもこれも恭司が悪い。いきなり挙動不審になるからこうして私があれこれと頭を悩ませる事になるのだ。
話を戻そう。
恭司に会おうとしているのは、彼の真意を測る、という理由もあるが、まあ、うん。有り体に言ってしまえば、会いたいから、以外の理由は野暮というものだろう。
私がこちらに戻って来てからまだ十日ほど。三年の空白を埋めるには、些か足りない。そう思うのは、果たして我儘だろうか。
そんな事を思いながら、私は目の前に立つ人物に対して僅かばかりの疑念を込めた視線を送る。
「……それで、どうして詩音さんがここに居るんですか?」
「あたし? それはほら、監視だよ監視」
ともあれ、約束を取り付けた以上、今更キャンセルする意味もその理由もありはしない。奇しくも、いつかのデートを再現するかのように、気持ちばかり待ち合わせより早くやって来てみた私は―――何故か恭司との待ち合わせ場所でさも当然とばかりに泰然と待ち構える詩音さんに遭遇したのだった。
いつものように飾らない格好でそこに立ち、それでいてなお人を―――特に異性を―――惹きつける姿の持ち主である彼女は、事あるごとに言い寄ってくる軟派男を面倒くさそうにあしらいながら、私との会話に興じる。……獲物に選ばれた私の苦労など、誰が知る事もなく。
「……何故そんな必要が?」
監視など、穏やかな話ではない。私の狂気の治療を終えたと言ってもまだ十日。もしかしたらまだ私の中には人を傷つけかねない獣の火種が残っているのかもしれない、そしてそれが今になって発覚した―――そんな風に思ってしまうのも、仕方のない事だと思う。
心持ち緊張を混ぜた私の問に対し、しかし詩音さんはその美麗な栗色の髪を払いながら、
「だってさあ、三年間もおあずけくらって色々と盛んなうちのアホ弟が無理矢理七瀬ちゃんを押し倒そうとするかもしれないじゃない? そんなことで必死になって取り持ってきた二人の関係が壊れちゃってもしょうがないし、ここは一つ姉であり保護者であるあたしが恭司の欲求の鎖になってやろうと思ってね。まさかいくら発情期の獣でも、このあたしの目の前でコトに及ぶようなこともないだろうし」
がくっ、と私の中の芯のようなものが崩れていく。
―――この人に対して、心配などという感情は無用だという事を失念していた。
私はにやにやと笑う詩音さんに、無駄だと分かっていても一応の抵抗を試みる。
「必要ありません! 恭司はそんな事はしないですし、したところで私達の関係はそんな事くらいでは壊れません!」
思っていた以上に大きな声になってしまったのは、強いられた緊張の反動だと思いたい。
「おっ、何それもうお墨付きってこと? じゃあ恭司に教えてやらないと。七瀬ちゃんは準備オッケーだって」
「ああもうっ、ああ言えばこう言うんですから!」
恭司の苦労が思いやられる。こんな人と姉弟として長年を生きてきたのだ。さぞかし日々が疲労との二人三脚であった事だろう。
今となっては、私もその走者の補欠要員である。断るような真似は出来ないほどに大きな恩もある。これからは残りの人生をかけて、彼女のいい玩具になるのだろう。
はぁ、とこれみよがしに溜め息など吐いてみせたところで、詩音さんが気に病む事などあるまい。
「それで、本当のところはどうなんですか?」
「それなんだけどね」
一転して、詩音さんの声色が変わる。全く、出来るなら最初からそうしてもらいたいものだ。
私だって最初からそんなふざけた理由だけで詩音さんがわざわざ足を運んでくるなどとは思っていない。……いや、可能性だけで言うならいくらでも理由づけなど出来るのだが、詩音さんは基本的にものぐさな人だ。よほど自分にとって面白い事か、あるいは―――余程重要な何かが絡まない限り、そうそう腰を上げる事はない。それこそ魔術とか、狂気とか、本当に必要な話にだけ、ちょっかいを出してくるのだ。毎度毎度気の長い前置きを用意するのは、私やあるいは恭司が不必要に深刻に構えないようにする彼女なりの思いやり……だと思いたい。趣味と実益を兼ねて、という話もあながち的外れではないのだろうけれど。
とりあえず、詩音さんに真意があると疑う理由として、何よりも大きな前提がある。
―――詩音さんは絶対に私と恭司のデートに介入しない。
詩音さんの普段の性格を考えれば、意外に思われるかもしれない。
しかし事実として、詩音さんが私達の邪魔をした事は一度たりともない。三年前の初デートにしてもそうだし、ここ十日を見てもそう。本人も『恋する二人の間に立って、どんな顔してればいいのかわからないしねー』と苦笑しながら言っていた。本当にそう思っているのかどうかはともかくとして、予めそうだと予定を告げておけば、彼女がデートの最中に茶々を入れる事は皆無なのだ。
その前提があって、では何故詩音さんがここに居るのか、という話に戻る。私の狂気の事でもなさそうだし、かと言って他に用件も思いつかない。
まあ、少なくともいきなり本題に入らないのであれば、さほど心配を要するほどの案件ではないのだろう。それくらいの機微を察知できる程度には、私も詩音さんと時間を共有している。実際のところ、私は恭司と過ごした時間よりも詩音さんと居た時間の方が長い事でもあるし。
だから恭司の考えている事は分からない、などというのは、言い訳になってしまうんだろうか。
いいえ、と心の中だけで頭を振る。それもこれも、恭司と共に居れば分かる事だ。疑うだけならいくらでも出来る。同じ感情から生まれるのであれば、私は信じるという想いを選びたい。
「―――話を振っておいてぼーっと考えごとかい? 七瀬ちゃん」
「えっ? ……あ、すいません」
苦笑した詩音さんの声で我に返る。……いけない。安心に任せて距離感をおざなりにするのは私の悪い癖だ。
よし、と私なりに気合を入れる。これからデートもあるわけだし、腑抜けた顔を恭司に見せるわけにもいかないのだから。
と、そんな事を思っていたのだが。
「まあいいや。これから恭司とデートなんでしょ? じゃあとりあえずそれはヤメってことで」
「はい?」
「だからさ、ちょっと恭司じゃなくてあたしに付き合ってくれないかなって話」
「は、はあ」
この人が突然なのはいつもの事だが、しかし今回はまた予想外の角度から攻めてきたものだ。たった今話したばかりの前提をさっさと覆されては、いちいち説明した私が馬鹿みたいだ。無論、誰にとは言わない。
しかし私もはいそうですかと頷くような素直な人間ではない。物事には優先順位というものがある。
「詩音さんの頼み事でしたら私もお付き合いしたいと思いますが、それが恭司とのデートに勝るほどの用かどうかは判断しかねます」
詩音さんは意外そうな表情で私の顔を覗き込むと、
「七瀬ちゃんってそんなに素直な娘だったっけ……デレ期ってやつ?」
「何期だかどうだか知りませんが、私は本心を言ったまでです」
失礼な事を言われた気がするのだが、生憎と私の語彙では理解出来ない。
「ふーむ、一体どうしてあのバカ弟がここまで七瀬ちゃんのハートをがっしりと掴んだのやら」
「貴女も原因の一人だと思います」
ま、そりゃそうだね、と何故かふんぞりかえって納得する詩音さん。
「でもまあ、恭司にもちゃんと連絡するし、あたしの用事は七瀬ちゃんにとって悪い話じゃないと思うよ」
「そこで核心を避け続けるという事は、実際に私を連れて行くまでは内容を話す気はないという事ですね」
「ご明察。あたしとの付き合い方にも慣れてきたじゃない」
器用に煙草を咥えながら口の端だけを吊り上げて笑う詩音さん独特の笑み。心底楽しそうにそんな顔をされては、断るに断れないし、憎むに憎めない。
……まったく。
「では、ご一緒しましょう。恭司には私から連絡します」
「ん、そーして。……どーせ後でわかることだし」
「何か?」
「いや、こっちの話」
思わず首を傾げる。詩音さんの言葉尻がいまいちよく聞き取れなかった。何故だろう、とても重要な部分だった気がするのだけれど。
考えても仕方のない事だ、と諦める。詩音さんの優位に立つという行為がどれほど無謀で無為な事かは重々分かっている事だ。
とりあえず恭司に連絡する事から始めよう。
いきなりデートは中止、と言ったら、果たしてどんな反応をするだろうか。
わずかばかりの好奇心を躍らせながら、携帯電話を手に取る。呼び出す番号は、メモリーの一番最初。と言っても、大した数が登録されているわけでもない。
お決まりのコール音を耳で弄ぶ。その間所在の無い気分になって詩音さんを見やれば、彼女は再び寄ってきたどこの馬の骨とも呼べない男を軽くトラウマになりそうな言動で追い払っていた。つくづく目立つ人だ。……まあ、彼女がそうやって余計な虫を払ってくれているおかげで、私へのとばっちりは皆無になっている事実には素直に感謝しなくてはならない。
面倒そうな顔を隠しもしない詩音さんに苦笑しつつ、恭司の応答を待つ。
ややあって、
『もしもし? 七瀬かい?』
その声を耳にするだけで少しだけ心臓の鼓動が高鳴る。そして少しだけ手が汗ばみ、少しだけ呼吸が苦しくなる。
あれだけ恭司の態度がおかしいなんて頭を悩ませていたくせに。
そんな事はどうでもいい事なのだと心が全身を窘めるように、自分でも形容し難い想いの波のようなものが心の底からせり上がってくる。
いつまで経っても慣れられない気がするこの感情を、きっと忘れてはいけないのだろう。
「ええ、そうよ。名前が表示されるのだから当然でしょう」
『それでも声を聞くと安心するからね。君でよかった、って』
なかなか嬉しい事を言ってくれる。
頬が緩みそうなのを堪えた私を褒めて欲しいところだ。これといって我慢しなくてはならない理由もない事はこの際置いておこう。
『ところで、どうしたんだい? 今待ち合わせ場所に向かってるけど、もう着いたのかな?』
……恭司って、電話口で話すと意外にいい声をしているのよね。
思わず誰かに自慢したくなるような、つい最近の発見だ。
『早く着いた君が、遅い、って僕をせっつく電話かと思ってたんだけど……って、七瀬? どうしたのぼーっとして』
「……いえ、何でもないわ。大丈夫よ」
電話で喋っているだけで呆けていたのが悟られるだなんて、一体どうしたものか。顔も見えていないのに。
それに私の行動を完全に予測しきっているあたり、侮れない。どことなく悔しいとも思うが、心地良いという気分の方が大きい。
そういうのも悪くない、と思えるようになったのは、果たして成長と呼べるのだろうか。
……いけない、考え事ばかりではまた心ここにあらずなどと言われてしまう。
「その、今日のデートの事なのだけれど」
『うん。今日はどこに行こう? まだ暑い日が続くし、一回七瀬と海を見に行ってみるのもいいかもしれないね』
ああ、その、デートが実施されるという事を微塵も疑っていない口調が今の私の心には痛い。
それに『海に行く』ではなく『海を見に行く』という、恭司のさりげない優しさが心に染みる。水着など着れば私の傷痕を曝す事になってしまうだろうから、という無言の心遣いに、私はどういう顔をすればいいのだろうか。気にしなくていい、と言うべきか、ありがとう、と言うべきか。……それとも盲目故の単なる考え過ぎか。いずれにしろ、この後無下に断らなければならない事を考えると、無理矢理にでも誘いに頷いてしまいたいくらいだ。
私だって、まだまだ恭司と行きたいところがたくさんあるのだから。
とは言え詩音さんを蔑ろにする、というのも選択肢としてはあり得ない。何故なら―――その後の報復が恐ろしいからだ。やるからには徹底的に、を信条にしている彼女にとって手加減などという言葉は詐欺師の冗句にも等しい。彼女にとってそんな妄言は最初から考慮に値しないのだ。
だからやる。きっとやる、ここで詩音さんを無視してデートを強行すれば、それが絶対害悪か何かのように糾弾され、そう信じ込まされた上で次のデートの機会を遠くするという結果だけを残すに違いない。
……だから、これは仕方のない事。
望みと相反する言葉を吐かなくてはならない事に身を裂かれるような思いを抱えつつ、しかし私はそんな心をきつく戒めて、努めて何気ない風を装う。
「恭司、私から会おうと言っておいて悪いけれど、デートは次の機会にしてもらえないかしら?」
『え? ああ、うん。それは構わないけど。どうしたの? もしかして具合悪い?』
「いえ、そういうわけではないわ。安心して」
そう、良かった、と呟く恭司の声に滲む安堵の感情。胸に手を当てて大げさに息を吐く恭司の姿が目に浮かぶようで、無用な心配をさせてしまった、と私の心に罪悪感が芽生える。今度ちゃんと埋め合わせをしなくては。
『よければでいいけど、理由を教えてもらえる?』
少しだけ遠慮する口調。全く、私相手にそうまで気を遣う事はないのに。
「詩音さんに捕まったのよ」
苦笑しながら、私は正直に理由を話す。特に隠すような話でもない。
『あー、それじゃあね……』
たった一言で合点がいったのか、納得した中に同情を含ませて恭司が答える。私にとってそうであるように、恭司にとっても詩音さんの存在はジョーカーなのだ。
『でも珍しいな。姉貴がわざわざデートの日に用事を合わせてくるなんて。昨日電話で話した時にちゃんと今日も会うって言ったんだけど』
「奇遇ね。私もそう思ったわ」
『七瀬のほうに姉貴が用事か……想像もつかないけど、僕のほうに話がないってことは『狂気』関連のことじゃないんだろうね、多分』
「そうね」
『あるいはあんまり僕らがしょっちゅう会ってるんで、構って欲しくなっただけなのかも』
言っていて自分でおかしくなったのか、電話口から恭司の笑い声が漏れる。確かに詩音さんにはそういうところがあるし、そこまで子供っぽい事でなくても、戻ってきてから毎日のように恭司とばかり会っているから、治療後の調子とか、たまには落ち着いた話がしたいという事なのかもしれない。
『まあ実際のところ姉貴が何を考えているかなんて、それこそ考えるだけ無駄だから仕方ないのかもしれないけど』
実の姉に対して容赦のない弟だ。あるいは弟だから容赦がないのか。結論が出ずともそれだけさっぱりと処理できるのは、やはり詩音さんとの付き合いにおける年季の違いなのか。あれこれと理由を勘繰ってしまう私とは一味違う。
……考えるだけ無駄、ね。
暗に恭司の挙動を不審がっている自分を窘められているような気がして、まさかね、と首を振る。それこそ勘繰りというものだ。
現に今こうして電話で話している恭司に違和感を覚える事はない。まったくもってお人好しの、単なる私の……恋人。
思いながら、まだ少し照れる。我が事ながらどうもその響きにしっくりと来ない。一足飛びが過ぎたのか、それとも私が幼いだけなのか。いずれにしろ、慣れなくてはならないのだけれど。
『それじゃあ、今日は別行動だね。……うーん、どうしようかな、せっかく出てきたんだし』
「悪いわね。何か別の用事を見つけてくれると助かるわ」
『そうする。それからあんまり気にしなくていいよ。七瀬が悪いわけじゃないんだから』
最後に恭司は、せいぜい姉貴のお守りをよろしく頼むよ、と冗談交じりに言って電話を切った。
……やっぱりただの杞憂かしらね。
別段変わるところのないやりとり。昨日感じた不和は、一体どういう事だったのか。
「恭司は何だって?」
電話を終えたのを見て、詩音さんがこちらに話しかけてくる。
とりあえず恭司の事は保留にして、私はありのままに電話の内容を伝える。
「詩音さんのお守りをよろしく、との事です」
「ははあ、言うようになったねえ。三年間でおねーちゃんの怖さを忘れちゃったのかな」
これは再教育が必要だ、と意気込む詩音さんを見ているのはどこか微笑ましい。
私に付き合って三年もの間治療に専念してくれていたのだ。本当はもっと言いたいこともあるだろうに、そういう憎まれ口も親愛の印なのだろう。
「それじゃ、行こっか。目的地はここから近いから、ゆっくり話でもしながら歩こう」
「詩音さんさえそれでよければ構いません」
「あ、バカにしてるね。出不精がよく歩く気になったもんだとでも思ってる?」
「いえ、そういうわけでは」
全く詩音さんの言う通りだったが、そう言えば不貞腐れるのは目に見えているのでわざわざ本音を言う事もない。
ふーん、とまだ何か疑いの視線を向けてくるが、私はそれを軽くあしらう。これが三年で身に馴染んだ私達の距離だ。
首を傾げつつ歩き出す詩音さんについていく。歩幅が違うから少し急がないと置いていかれてしまう。基本的な意味で人に無頓着な詩音さんはそういう配慮は全くしてくれない。
ある程度汗をかく事は覚悟しなければならないな、などと思っていると。
ふと気づくと、にやり、と笑った詩音さんの顔が目の前にあった。
……嫌な予感がする。
「まずは……そうだね」
「……何でしょうか」
口調からして怪しい。何故そうもうきうきとしているのか。たかだか会話の入りとしてこれほどまでに不自然な事があるのかと声を大にして言いたいくらいだ。
そしてもちろん―――詩音さんが私の悪い予感を裏切る事など、ありはしないのだった。
「恭司ってキスは上手いの?」
「……ノーコメントです」
素直に用事など断ればよかったと思ったのは、言うまでもない。 |