序
『8月10日
―――最近、恭司の様子がおかしい。
いや、そもそもあの男が何を考えているかなど私にはどうしたところで理解できようもないのだが、以前にも増して不可解極まりない気がする。
私達が日常を取り戻してから、ほんの十日。それは想像していた以上に平凡で、私自身、戸惑う事のほうが多い。
恭司は、少なくとも私よりはこのセカイに寄りかかって生きてきたのだと思うと、やはり私が慣れるべきなのだろうとは思う。
当たり前に毎日を過ごす。
ただそれだけで事足りる時間は、狂気に怯えて周囲を遠ざけていた『昔の日常』とはかけ離れたものだ。誰に気を遣うわけでもなく、ありのままの私がそこに在る。三年前の私だったら、そして恭司に出会う事が無かったら、きっと御伽話を聞かされている気分になっただろう。正直、短くなった髪共々まだ違和感を拭い去れてはいない。
まあ、それはいい。私の事は時間が解決できる類のものだし、一朝一夕にどうこうしなくても問題はない。
問題なのは、恭司の方だ。
私と恭司はその、いわゆる世間で言うところの恋人同士というものなのだし、三年ぶりの再会の勢いに任せてキスまでしたし、いや、それが嫌だったというわけでは決してないけれど―――
とにかく、私達は恋人同士だ。
恋人とは、つまるところ全てを許す存在―――だと、私なりに解釈している―――なのだから、隠し事とか、不穏な態度とか、そういうものはあってはいけない。例えそれがどんな重大な事だろうとも、私は寛容に受け止め、恭司の支えとなるつもりだ。本人に面と向かって言えと言われれば憚られるものがあるけれど、それくらいの覚悟は出来ている。
……いやもちろん、浮気の相談など言語道断だ。他の事ならいざ知らず、私以外の女を見る事など、どんな理由があろうと許しはしない。……あれだけ熱心に私にちょっかいをかけて、そのせいで―――あるいは、そのおかげでこうして相愛になった以上、とことん最後まで責任を取るのが当然というものだ。そこに疑う余地はない。もしもそんな馬鹿げた事を言い出し始めたら、一体どうして反省させようか―――
ああ、話が逸れた。何だったか……そう、恭司の様子についてだ。
事細かに詳細を語るのは得意ではないが、ざっと私の感覚で記しておこうと思う。
強いて言うなら直感に近いのだが、妙に恭司の態度がよそよそしいのだ。
具体的にそう思ったのは、昨日。飽きもせず二人であちらこちらと散歩していた時だ。
そう……例えば姉である詩音さんと話す時には至って普通の恭司だ。それこそ飽きる事なく繰り返されるあの姉弟のやりとりは嫉妬してしまうくらいに微笑ましいもので、恭司に言えば困った顔をされそうだが、それでも二人の仲の良さを推し量るには十分過ぎるくらいの馬鹿馬鹿しい会話やスキンシップの応酬が見て取れる。
が、私と話す時は打って変わってぎこちない。少なくとも私相手には免疫が出来ていると思っていたものだが、まるで出会った当初―――いや、それよりもさらにぎくしゃくとしたような、何とも言えない態度が見え隠れしていた。本人はそれを悟られまいとしているのだが、腫れ物に触る……違う、壊れ物を扱う……違う。どうも私の語彙では説明しようがない。第三者が見れば普通、で済ませられるレベルの相違だったのかもしれないし、本当を言うと私自身も自信をもって断言はできない。感覚的なものが多分であるから、そもそもが怪しいという事もあるのだけれど。
最初は三年間の空白が作り出した相互のずれのようなものが原因かとも思った。だが昨日までの恭司に対しては、雰囲気の差はあれど昔と変わらないという印象を持てていたのだ。それが今日になっていきなり遠慮し始めたとか、そんな不思議な話もないだろう。
他に考えるならば……詩音さんが、何かロクでもない事を吹き込んだ。これはなかなか可能性のある推測だ。むしろ可能性の筆頭と呼んでも差し支えない。大体恭司がらみの面倒はあの人を基点にするものだと、この十日というわずかな時間ですら存分に認識できた。そのせいで二人きりで過ごせる時間が減って―――いや、何でもない。
とにかく、今後私がとりうる行動としては二通り。
一つ、恭司が隠そうとしているのだから、その気持ちを汲んで、いずれ向こうが話し始めるまで待つ。まさか再会して十日で浮気しているという話でもないだろうし―――いやまさか。そう、恭司に限ってそんな事はない。ないはずだ。
こんな事は疑い始めたらキリがない。それこそどんな行動にもこじつければ、あっという間に恭司は女たらしに早変わりする。そんな意味のない妄想で遊ぶほど私も暇ではないのだ。
……気を取り直して二つ、徹底的に追及する。押せば倒れるような恭司の性格だ。私が本気になって問い詰めれば、例えどんな事であれ自白するだろう。それくらい私は彼の中に踏み込めていると思っている。……少なくとも恭司が私の中に踏み込んでいる程度には。
どちらにしろ、この居心地の悪さは良くない。無用な遠慮をされているようで、何となく気に入らない。
ふと、思う。
こんな風に当たり前に自分の恋人の事を想って、一喜一憂して、当たり前に明日の事を考える。これがどれほど恵まれた事なのだろうかと。
……まあ、いい。
もう、そんな風に思う事自体が、昔の私を引きずっている証明に他ならない。それは私に対しても――そして恭司に対しても、あまりいい感情とは呼べないだろう。
思い出は、思い出。私が『ああ』でなければ今の私には繋がらなかったはずで、だけれどそれは、もうとっくに過ぎてしまったセカイの姿。
―――立ち止まる事を許しても、後ろを向く必要はない。
だから私は、顔を上げて、前を見て、そして恭司の隣に立つのだ』
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