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西山正義の小説

観覧車

作者:西山正義
   観 覧 車

                    西山 正義


 四月なかばの月曜日。娘を連れて遊園地にやって来た。朝からどんより曇っていて、この時期にしては肌寒い。
 遊園地以外にはこれといって何もない、というより、もともと遊園地へのもう一つの玄関口として造られたその駅で降りたのは、私たち父娘のほかに二、三人いるだけだった。月曜日の朝っぱらから遊園地にくるような人種は限られている。新学期も始まったばかりだ。花見のシーズンはすでに終わり、ゴールデンウィークを来週に控え、行楽にはなんとも中途半端な時期である。天気も良くない。都心への通勤ラッシュを尻目に逆行してきたのだったが、あまり晴れがましい感じはしない。
「ねえ、ついたの? 遊園地はどこ?」
「そうあわてないの。あの山の上だ。あそこから登っていくんだ」
「ターリラリラン。うーれしいーな」とはしゃぐ娘の声だけが閑散とした駅の構内に響く。美奈子の声はひときわ甲高い。白々しさに輪をかける。
「あっ、おとうさん、見て、見て。木の字だ」
「うん。なんて書いてあるのかな」
「わかーんない」
「またそういうこと言う」
 ホームから見下ろせる斜面に植えられたツツジは、遊園地の名前をかたどって刈り込まれていた。今はまだ一つも花を付けていないが、来月には綺麗な花文字になるだろう。駅開業当時からほとんど変わらない風景だ。ふと、小学生の頃のことを思い出した。五年生くらいだったか、友だち数人でアイススケートをしに来た。スケートそのものよりも、「女子」をいかに誘うかがテーマだったのではなかったか。あと十年、いや六、七年で娘もそういう年頃になってしまう。
「あの字は読めるでしょ」
「どれ?」
「あれ」
「どーれ?」
「あれだよ」
「あー、美奈子の“み”だ」
「ピンポン!」

 改札口を出る。誰もいない。駅前ではよくアメリカン・クラッカーやヨーヨーを売っていた。屋台なんかも出ていたはずだ。まさか、休みなんてことはないだろうな、という疑念がよぎる。
 遊園地から見ればこちらの駅は裏門に当たる。丘陵を迂回して正門まで行くバスもあるが、通常はいわゆる「動く歩道」で登る。山道を歩いて登る気にはなれない。自動販売機で乗車券というのか通行券というのかを買い、もぎりの親爺に渡す。暇そうである。
「こわーい」
「大丈夫だよ。掴まってるから飛び乗って」
 けっこう急勾配である。下の方に市街地が広がるのが見渡せる。都心は靄がかかったように霞んでいる。片側のラインはメンテナンス中で、作業服の技師がベルトを剥がし点検している。そうだ普通は仕事をしている日なのだ。

 遊園地はやっていた。招待券があるので入園料は只である。入口をバックに写真を撮る。新調したばかりの一眼レフカメラ。シャッターを切る感触にしっくりとした手応えがある。
「ねえ、乗り物ないの?」
 受付でもらった案内図をひろげる。それによると、こちらのゲートからはしばらく散歩コースが続いていて、乗り物があるエリアまではかなり歩かなくてはならない。
「もう疲れちゃったなあ」
「なに言ってんだよ。これからだろう。がんばって」
 たしかに早くも疲れた。駅からこんなに遠かったっけ。
 所々に晴れ間が覗いてきた。若葉の生い茂る林。木漏れ日が美しい。園の外周を走るゴーカートの高架下を潜る。あのゴーカート特有のエンジン音は聞こえてこない。
 林を抜けると急に視界が開けた。花壇の向こうに遊園地の全景が広がる。
「ほら、あそこだ」
「わーい、ほんとだ」
「よし、駆けっこだ。競争しよう。よーい、どん」
「待ってよ。ずるーい」

 乗物券を買ったのはいいけれど、それにしても空いている。空いてるほうがいいに決まっているし、それを狙って来たのだが、これほどまでに人がいないと拍子抜けする。人間の心理なんて不思議なもので、行楽地や観光地に来て、混んでる混んでると文句を言いながらも、それなりに賑わっていないと気分が盛り上がらないらしい。娘もなんとなくそういう雰囲気なのか、さっきまでの気負った様子ではなくなっていた。
 静かすぎる。なにしろ並んでいる人が一人もいないのだ。乗り物も動いていない。観覧車だけがわずかに数組の客を乗せて廻っている。
 そうだ、あの観覧車だった。妻にプロポーズしたのは。あの鉄の駕籠のなかで、手に汗握りながら……。真夏だった。額からも大粒の汗が流れた。だが、それも今では苦い思い出になってしまった。
 ここへ来たらあれに乗らないわけにはいかないだろう。娘と二人虚しく。が、初っぱなから乗るのは避けたかった。さり気なく娘を別の方へ誘導する。
 アルバイトらしき係員の女の子が三人、それぞれの持ち場を離れて喋っている。これでは手持ち無沙汰であろう。私たちが来ると一瞬身を堅くした。
 さてどれから乗ろうか。いずれにしろ貸し切りだ。本当に乗ってもいいのだろうかと思ってしまう。

「あれ、乗ったよね」
 娘のいつにない低い声に、私ははっとした。
 それは、かぶと虫の形をした四人掛けのボックスが何台か輪になっていて、ぐるぐる廻るだけの最も単純なアトラクションだったが、前回、二年近く前に来たとき、美奈子はこれが気に入り、というより、まだ小さ過ぎてあまり激しいものには乗れなかったせいもあって、二回乗っているのだ。最初はお父さんと。二度目はお母さんと。二人目を妊娠中の妻もこれなら大丈夫だった。
 そのとき写した写真が二枚ある。ぴったり同じ構図の二枚の写真。一枚は、私のよこで、伸びはじめたばかりの髪をなびかせている娘の図。やや緊張している。そしてもう一枚は、妻とともにVサインを送る娘の図。もう緊張していない。動きが緩慢なので、乗り物に乗っている写真のなかでは一番良く撮れていた。
 この二組の写真は、下の児が生まれるまでのしばらくの間、二つ折りの写真立てに飾られ、テレビの上に置かれていた。一年ほど前まで娘も常に目にしていたし、乗り物の形状もわかりやすいので、娘の記憶にも深く刻まれていたのであろう。
 美奈子の脳裏に何がよぎったか。それは、お母さんと一緒に乗った記憶だろう。しかし、きょうこれに一緒に乗ってくれるのはお父さんしかいない。お母さんはもういない。ママは、弟と出ていった――。

「うん。あれから乗ろうか」
 娘は首を振り、
「あっちがいい」と反対側の乗り物を指さす。
「あれはまだ危なくないかい」
「美奈子、もうだいじょうぶだよ」
「そうかあ?」
「あれがいい」
 さきほどの三人組が私たちの動向に注目している。どういう親子に見えているのだろう。美奈子が指さした方向に私たちが歩きだすと、そのうちの一人が小走りに操縦室のボックスに駆けていった。
 券を六枚ちぎって渡す。どの座席に乗っても自由だ。手前のに乗ろうとすると、美奈子が「赤いのがいい」と言うので、二つ後ろのベンチに移動する。軸の回転につれ、遠心力で空中ブランコのようにベンチが浮き上がるという仕組みだ。シートベルトを締め、手すりを胸元に引いて固定する。係の女の子が、私たちがきちんと乗ったかどうか確かめにくる。
「降りるときは、完全に停止して、ブザーが鳴ってから降りてください」
 そう言うと、また操縦室に走っていった。高校を卒業したばかりのフリーターといったところか。通常は二人一組で、一人が各お客の乗車を確認し、もう一人が操縦室からマイクでアナウンスするのだろう。
 発車のブザーが鳴り、軽快な音楽とともに動きだす。
 私たち二人だけのために、こんなものを動かしていいのだろうか。なんだか間が抜けているようにも思えるし、お父さんとしては気恥ずかしい。電気代はいくらかかるのか。これでは採算が取れまいと、妙な心配をしてしまう。

 それから立て続けに四つの乗り物に乗る。竜を模した列車状のものが、上がったり下がったりしながら回転するもの、船で水上を巡るもの、自動運転による回転とは別にレバーを操作すると自由に急上昇や急降下できる宇宙船、そしてキリギリスをロボットにしたような形の乗り物。いずれもメリーゴーランド式の単純なもので、大人はたいして楽しめないが、幼稚園児にはこのくらいが丁度いいのである。この遊園地には、そうした小さな子供向けのアトラクションが比較的揃っている。子供用のは料金も安い。
 そうこうしているうちに、若い男女のカップルや女の子の二人連れ、ベビーカーを牽いた母親のグループと行き交うが、まだぱらぱらといった感じで、それぞれが別々の乗り物に乗るため、貸し切り状態は続いていた。
 ひととおり乗ったところで、
「のど渇いた」
 と美奈子が言う。そろそろ言うころだと思った。私は煙草に火を点ける。
「お父さんはお腹空いてきたなあ」
 きょうは水筒もお弁当も用意していない。朝食もろくにとらずに来た。少し早いがお昼にする。
「あそこに行ってみよう」
 それらしい白い建物をめざして娘の手を引く。ゲームセンターと一緒になっている。入口付近にはおみやげのおもちゃが展示されている。そこはなるべく娘に見せないように足早に通り抜ける。セルフサービスの軽食喫茶。案の定お客は一人もいない。四十くらいの女の店員が頬杖をつきながらテレビを見ている。昼のワイドショーだ。
「美奈、メロンジュース」
「またあ、……しようがないな、小さいのだよ。食べものは?」
「うーんと、焼きそば」
 私は、かけうどんとアメリカン・ドッグを注文する。うどんの器はプラスチックである。なんとも侘しい昼食だ。節電しているのか照明も暗い感じで、テレビの声だけが静かに流れている。それでもまずくはなかった。フライド・ポテトとアイスコーヒーを追加し、一服する。
「おとうさん、くさい。煙がくるよ」
「ああ、わるい、わるい」

 ゲームセンターの方から一組のお客が入ってきた。花柄のワンピースを着た女の子が、自分でベビーカーを押してくる。美奈子より下だろう。幼稚園でいえば年少組さんに入ったばかりというところか。いや、ベビーカーに乗っているということは、まだ二歳くらいなのかも知れない。美奈子は小柄なので、体格はさして変わらない。
 父親がウーロン茶とおでんを頼み、私たちの斜め横のテーブルに座る。そして持参のおにぎりを食べ始める。母親はいない。本当にいないのか、単に来なかっただけなのか。首からカメラをぶら下げた親父。まるで鏡を見ているようではないか。
 もちろん世の中には、父子家庭も母子家庭も珍しくはないだろう。自分がそうなってみてはじめて意外に多いのを知った。しかしそれにしても、よりによって遊園地の食堂のたった二組のお客が、若い父親と幼い娘のカップルとは。
「なにか見てくる」と美奈子。
「あんまり見ないほうがいいよ」と私。
 時間が止まったようだ。ここはいったいどこ、というような感じ。お互いに相手がなんとなく気になるのだが、話しかけたりはしない。妙な雰囲気だ。
 美奈子が棚に陳列されたおもちゃをいじっていると、向こうの子も寄ってくる。肩を並べるとやはりその子の方がだいぶ小さい。「さわっちゃいけないんだよ」などと、自分は触っているくせにそんなことを言っている。
 これと同じようなシチュエーションには覚えがある。日曜日などの公園ではよくあることだ。会社が休みの日、母親に代わって父親が子供を公園に連れてくる。(近頃の親父は子育てには結構まめなのだ)。子供同士は特に友達でなくても、適当になかよく遊んでいる。親父たちは所在なげに距離をとって公園のあっちこっちに点在している。別に牽制しあっているわけではないのだが、帰り際に会釈をする程度で、接近することはない。幼稚園の送り迎えに父親が行った場合も同じである。母親たちと違って、親父たちはみなシャイというのか、話すきっかけを掴めないのだった。
 遊園地オリジナルのファンシーグッズ売場はほかにあって、ここにはたいしたものは置いていない。ひと巡りすると、美奈子はふんふんというように戻ってきて、
「あれ、なんだろうね」とカウンターの上を指さす。その声にはすでに媚が含まれている。そしてからだをすり寄せてくる。
「どれ?」
「あのぶらさがってるの」
「さあ、なんだろうねえ」と私はとぼける。
「ポップコーンでしょうよ」
 美奈子は怒ったように言う。もちろんそんなことは分かっている。私は煙草を揉み消す。
「そうみたいだねえ。だからなんなの」
「パパ、買ってー」
 甘える時だけ「パパ」になる。
「お父さんにもくれる?」
「やだ」
「じゃあ、買わない」
「わかった。あげるから、買ってよー」
 ポップコーンひとつと言って、小銭を出す。二百五十円也。棚に吊るされたポップコーンの箱を取ろうと、女店員が背伸びをする。短い袖口から脇毛が見えた。
 美奈子は歩きながらさっそく食べ始める。思ったよりたくさん入っている。うまそうだ。
「お父さんにもちょうだいよ」と私も手も出す。
「でも、ちょっとだよ」と娘。
 騒々しい連中が入ってきた。たぶん高校生だろう。みな流行のだらしない格好をしている。茶髪の女の子も混じっている。それを潮に、私たちはそこを出る。
 さっきまで曇っていたが、いつの間にか晴れ渡っていた。青空のもと、眩しいくらいの日差しがコンクリートの路面に反射している。屋外で遊ぶには丁度いい暖かさになった。気持ちまで晴れてくる。さすだに昼頃になると人の数も増えた。ゆっくり家を出てきた近隣の人や、どこかで待ち合わせをして集まってきた人たちがようやく辿り着いたのだろう。テラスでは、ベビーカーを連ねた若いお母さんのグループが弁当をひろげている。一時もじっとしていない子供たち。大騒ぎだ。子供らの歓声や泣き声が響いてくる。やっと少しは遊園地らしい雰囲気になってきた。
「さあ、お待ちかねのメリーゴーランドに乗ろう」
「わーい。やったー」

 メリーゴーランドは女の子に人気がある。美奈子もこれをたのしみにしていた。人出が増えたといっても、並んで待たなければならないほどではない。
 広場を横切ろうとしたとき、急に娘が私のベルトを引っ張った。そして、
「おかあさんだ!」
 と叫んだ。
「おかあさん……」
 美奈子は私のベルトを掴んだまま、もう一度そう言った。
 振り向くと、ベビーカーを押した白いワンピースの女が茫然と立っていた。
「奈津子……」
「タカシもいるよ」
 どうしたらいいんだと思う間もなく、美奈子は「ママ、ママ」と言いながら走っていった。と、急に視界から消えた。やった。ポップコーンをぶちまけて、いきなり転ぶ。平坦な道なのにいつもながら派手な転び方だ。思わず目を覆いたくなる。それでもお構いなしだ。笑っている。
 ひとしきり母親のスカートにまとわりつくと、ベビーカーごと弟を揺すり、ほっぺたを抓る。久し振りに対面するお姉ちゃん。隆志も覚えているのか、その手荒い挨拶に泣き出すどころか歓んでいる。
「お久しぶりね。こんなところで会うなんて……」
「ああ」
 なんて言ったらいいのか。私は、美奈子が撒き散らしたポップコーンを拾い集めながら、
「元気そうじゃないか」
 と言うのがやっとだった。
 鳩が二、三羽やって来た。残りはそいつらにやる。さらに集まってきたので、手の中のものも放り投げてやる。するとたくさんの鳩がどこからか舞い降りてきた。
 それを見ていた奈津子が微笑む。その風情はどこから見ても、洗練されたいいところの若奥様に見える。そんな女と、かつては一緒に暮らしていたのだということがにわかには信じられなかった。
 妻から突きつけられた離婚届けにサインをしたのが半年前。妻は八か月の息子を連れて出ていった。娘も引き取りたいと言っていたのだが、それだけは勘弁してくれと、美奈子は私が引き取ったのだ。それからきょうまで一度も会っていなっかった。
 妻は時々娘の様子をうかがいに幼稚園を訪ねていたようで、美奈子は何度か母親に会っていた。その都度、「ほんとは内緒なんだけど……」と言いながら、私にばらしてしまう。全然内緒話になっていないのだが、園長先生や妻と仲の良かった母親からも話は入ってきていたので、私も妻や息子の様子をある程度知ることができた。
 それでも一度だけ、やはり気になって、妻と息子の住むアパートを見に行ったことがある。離婚してもしっかりした実家があるので、その点は案じていなかったが、実家には帰らなかったのだ。帰られない理由はないはずだった。慰謝料も養育費もいらない、隆志は自分が育てると言った。が、いよいよ離婚という時、妻名義の郵便貯金に当座の生活費を入れ、その後も月々わずかながら養育費を送っていた。さすがに突っ返すことはしなかったし、何かあった時のために連絡先だけは教えておいてくれと言ってあった。引っ越していった数日後、差出人の住所と電話番号しか書かれていないはがきというものを私は初めて受け取った。
 アパートの場所はすぐに分かった。彼女が小学校から大学まで通った学校がある街。同じ学校に私も中学から通っていた。なるほど実家にも近いわけだが、私の家からもバス一本で行ける。生憎というのか幸い外出中だったので、住まいをじっくり観察できた。比較的新しいこざっぱりとしたアパート。暮らし振りは想像できた。もちろん実家からも援助があるのだろう。私が悪いに違いないが、それにしても、妻の方から離婚を言い出し、あっさり出ていったのには一抹の疑念がないわけではなかった。だが、男の影はなさそうだった。部屋は一階で、裏へ回ると庭のようになっていた。隆志の洗濯物がたくさん干され、片隅にはおもちゃのダンプカーや手押し車がきちんと置かれていた。そして色とりどりの花が植えられたプランターがたくさん置いてあった。それを見て、ひとまず安心して帰ってきたのだった。
 半年ぶりに見る妻は、若返ったようで、私には新鮮に見えた。当然のことかも知れないが、憑きものが落ちたような穏やかな表情をしている。目映いくらいだ。離婚までの刺々しさはすっかり消えている。よその奥さんを見ているようだ。もっとも今は自分の妻ではないのだから、それもその筈だが……。
「隆志はずいぶん大きくなったなあ」
「もうやんちゃで。さっきも、あそこの下り坂をどんどん走っていっちゃうのよ」
「お父さんのこと忘れちゃったかな」
 と覗き込むと、案の定息子は怪訝そうな顔をしている。
「せっかく連れてきたのに、いまは乗り物より、階段の登り降りのほうが面白いみたい」
「美奈子にもそういう時期があったなあ」
「ええ」
 都庁の長いエスカレーターを何度も登り降りさせられたことが蘇ってくる。地下鉄千代田線の東洋一長いというエスカレーターの時は本当に参った。水族館に行った時も、魚より階段で、ちょっと目を離すと、いつの間にか上の方に登っていたりする。
 美奈子が勢いよく突進してきて、隆志に頭突きをくらわす。
「こらっ、なにするの」
「美奈も痛かった」
「ばかだね」
「ばかって言っちゃいけないんだよ」
 隆志は泣き出すが、すぐに泣き止んだ。息子を抱きあげていいものかどうか迷っていると、手すりの下をするっとくぐり抜けて、ベビーカーから這い出してきた。そしていきなり逆方向に駆け出した。転ぶかと思ったところで、危うく態勢を立て直し、そのまま鳩の群れに突っ込んだ。鳩どもが一斉に飛び上がった。
「わ-、すっごーい」
 思わず奈津子と眼を見交わす。さて、これからどうしたものか。一瞬茫としていると、
「ねえ、ねえ、パパ」と美奈子が叫ぶ。
「もーし、もーし」
「なに?」
「メリーゴーランドは」
「ああ、そうだったね」
「おかあさんと乗る」
「え」
 私は奈津子を見る。彼女も困ったような顔をする。
「ママと乗るの。男の人は乗っちゃいけないんだよ」
 娘は母親の手を引いて、
「ママ、こっちだよ。はやく、はやく」
 とずんずん行ってしまう。
 私は息子を抱きあげる。一歳二か月。ずっしり重くなっている。バギーを引き寄せ、二人を追いかける。こうなったら成りゆきに任せるしかない。

 ブザーが鳴り、音楽とともにメリーゴーランドが動き出す。嬉しそうな娘の顔。恥ずかしげな妻の顔。どちらも上下している。私はある種の錯覚に把らわれた。デジャ・ビュというのとも違う。過去にこれとそっくり同じことなどあろうはずがない。息子はまだ生まれてなかったのだから。隆志を抱いたまま私は立ち尽くしていた。
 首に下げたカメラを隆志がいじっている。げっ、新品のカメラが涎だらけだ。それで我に返る。慌ててポケットからハンカチを出し、涎を拭い、片手でカメラを構える。が、私は一度挙げた腕を降ろした。前に来たとき、メリーゴーランドに乗っている写真がうまく撮れなかった。だから今回はばっちり撮ろうと目論んでいたのだが、妻、いや元妻も一緒に写る。撮っていいものかどうか、なんだか憚られた。私はカメラを握り締めた。メタルのボディが手に冷たい。

「パパ、おもしろかったよ」
 と娘が戻ってきた。奈津子はきまりが悪そうだ。
「よかったね。ママと乗れて」
「うん、そうだよ。次は、あれに乗ろう。今度はタカシと乗る」
 美奈子が指さしたのは、T型フォードを模したようなクラシックカーだった。これなら隆志も乗れるしよろこぶだろう。
「お父さんとでもいい?」
「いいよ。でも、運転はわたしがするからね」
 大人ひとりと子供二人分の切符を渡すと、一人分返された。そうだ隆志はまだ無料なのだった。パステル・グリーンの車がきた。ガタンといって走り出す。
「ワッホー」
 美奈子の髪が風になびく。隆志もなにやら声をあげる。からだを揺すって喜びを表現する。あまり飛び跳ねるのでしっかり抱き直す。美奈子はめちゃくちゃにハンドルを切る。左へ曲がるところで右に切ったりする。もちろん軌道の上を走っているのだから、ハンドル操作とは関係ないのだが、車を運転する身からすると妙な感覚になる。
 折り返し地点からプラットホームが見えた。木立の向こうに女が立っている。奈津子だ。私の妻だった女だ。恋女房といってもいい。手を振っている。私は胸が詰まった。どうしてこんなことになってしまったのか。
 離婚の原因は、いたって単純だ。はやい話、私の浮気。いや、そう思っているのは私だけで、本当はほかにもあるのかも知れない。ただ、私にはほかに思いあたる節がなかった。もっとも、妻の立場からすれば、それだけで充分だともいえるが……。
 すべては男の側の勝手な論理なのだが、一口に浮気といってもいろいろあるだろう。私の場合、いわゆる不倫と言えるほど発展したものではなかった。しかし、そもそも何をもってして浮気あるいは不倫というのか。たとえば、各種の風俗へ行ったり、水商売の女にちょっかいを出したり、あるいは最近ではもうその手の女と素人との区別はないに等しいが、行きずりの一夜限りの、アバンチュールともいえないような性的交渉、それらはどう捉えられるのか。個人的にそういう〈遊び〉をしている者も多いだろうが、仕事が絡んでくることがある。ここで〈仕事〉を持ち出してくるのが、男の常套手段で、かえって世の女房族の怒りを買うことになるのだが、実際問題、口実というのではなくそういうこともなくはない。だが、一夫一婦制というのが、近代社会の社会通念だからといのではなく、それを倫理ととるなら、少なくとも配偶者以外の異性(同性でもいいが)との性的接触は、どういう形であれやはり不倫に違いない。なら、性的、物理的交渉が一切ない場合は? さらには想像の世界や無意識の領域は? そうなるとやはり、キリスト教でいう〈姦淫〉の定義を持ち出してこなくてはならなくなる。しかしそうなってくると……。また翻って、誰が一夫一婦制を絶対の倫理などと言い始めたんだと、理屈では何とでも言える。実際、スワッピツグ等に限らず、男女ともにそんなもの屁とも思わない、さまざまな形態をとっているカップルはいくらでもいる。
 いずれにしろ、この際そういう一般論的な大きい問題を持ち出すこと自体間違っているので、要は、その人個人個人の捉え方である。というよりもっと端的に言えば、生理的反応であって、私たちの場合は……。
 私は、部屋の掃除くらいはしても家事は一切やらないに等しかったが、子供の面倒はわりとまめにしていたし、夫婦生活もうまくいっていると思っていた。妻もそう思っていたに違いない。これは私の一方的な解釈ではないはずだ。いや、だから尚のこと、それを裏切られたと、私のことを赦しがたかったのだろう。交際期間を含めれば、長い年月ともに過ごしてきたのだ。銀婚式を迎えるというような夫婦にはかなわないだろうが、それでもそれなりの苦楽をともにしてきた。それに私が胡座をかいていたということもあるのかも知れない。だが、やはり一番は、生理的な問題だろう。逆を思えば、考えるまでもないことなのだった。

 一周が終わる。車から降りる。隆志を奈津子にあずける。美奈子が足にまとわりつく。こうしていると、まるで本当の家族のようではないか!
 いつまでもこうしてはいられない。家族合わせという言葉が思い浮かぶ。遊園地を舞台に疑似家族を演じるなんて莫迦げたことだ。だが、このまま別れるのも不自然だった。第一、いくら広いといっても、これだけ空いている同じ敷地内にいるうちは、再び出会う可能性はおおいにある。どちらかが帰らない限り、それこそばつの悪い状況が再び展開されることになる。

 私たち四人は、誰からともなくまた別の方向に歩き出した。まだ午後の日は頭上高いところにあった。向こうからアベックが歩いてくる。彼らともすでに三回くらい擦れ違っている。水中バレエやアシカのショーを演っている建物の前を通る。アシカ・ショーはちょうど開演中だ。次回まで一時間ある。美奈子はすかさず売店に走る。反対側にトイレがあった。奈津子は隆志のオムツの状態を確認して、「ちょっと」と言って隆志を抱いてトイレに入る。
「美奈ちゃんもおしっこ行こう」
「行きたくない。これ見てるの」
「しといたほうがいいってばあ」
「まだ出たくないもん」
「いいから行こう」
 娘をトイレに連れてゆく。売店から引き離すためでもあったが、案の定たくさん出る。
「ほら、いっぱい出た」
 オムツを取り替えてもらった隆志はご機嫌で、ひとりで勝手に歩いていってしまう。三人で追いかける。ブランコやすべり台が置いてある一角に出る。その一角は乳幼児向けのスペースで、百円コインで動くごく簡単な乗り物も数台ある。美奈子と隆志はゾウさんのすべり台に興じる。結局、二人ともまだ近所のふつうの公園にあるようなもので充分なのだ。自分でからだを動かして遊ぶ方が楽しいのだった。私はベンチに座り、煙草をくわえる。
「仕事は順調?」
 と奈津子は子供たちから目を離さずに訊いてきた。
「まあ、ぼちぼちと言ったところかな」
 隆志が生まれるすこし前、私はそれまで勤めていた編集プロダクションを辞め、フリーの編集兼取材記者として独立したのだった。個人事業の事業主というわけで、平日に遊園地なんかに来られるのだ。もっとも今もこうして携帯電話を持っていて、いつ仕事が入ってくるか分からない。幸い今のところかかってこない。ここは丘陵だ。もしかしたら圏外かも知れない。念のためポケットベルもベルトにつけているので、携帯電話に繋がらなければそちらに転送されるだろう。離婚して母親がいなくなってからも、娘を保育園等ではなく幼稚園に通わせていられるのは、私が自由業で自宅を事務所兼仕事場にしているのと、両親と同居しているからである。幼稚園の送り迎えに私が行けない時は、母に頼んでいる。私が娘を引き取ったのは、そういう環境が整っていたからで、妻も最終的にはそれで呑んでくれたのだ。
「きょうは幼稚園は?」
「なんでも創立記念日とかで休みなんだ。春休みは忙しくてどこへも連れていってやれなかったから。それで、たまたまタダ券もらったんで……。きょう、雨降ったらどうしようかと思っていたんだ。天気予報では雨だったろう。美奈子、たのしみにしていたから。ほんとはディズニーランドに行きたいって言ってたんだけど、あそこはもう少し大きくなってからでないと……」
 途中から奈津子はもう聞いてはいなかった。隆志がすべり台を逆から登ろうとして額を打つ。すかさず駆け寄る妻。腰まわりがスリムになっている。身のこなしが軽やかだ。そこへお姉ちゃんが上から滑ってくる。ぶつかる寸前で妻が息子を抱きあげる。
 美奈子に追い回されて、隆志がこちらに駆けてくる。満面の笑みだ。ベンチの背に攀じ登る。空を見上げる妻。木漏れ日が妻の輪郭を縁取る。どこか翳りを秘めた美人人妻といった風情ではないか。こちらへ振り向く。私はどきっとする。「おまえ、随分きれいになったなあ」ということばを私は呑み込んだ。

 娘がもう一回メリーゴーランドに乗りたいというので、私たちは再び歩き出した。途中、バンジー・ジャンプを見物する。障害を持った子供たちも、引率の先生方と一緒に宙を見上げている。目の前をお祖父さんとお祖母さんに連れられた小学生の兄弟が横切る。ソフトクリームを舐めている。しまった、と思ったが遅かった。美奈子の目がみるみる輝きだした。
「アイス食べたい」
「あれはアイスじゃないよ。ソフトクリームだよ」
「あ、そうだった、そうだった」
「でも、もう売り切れみたいだよ」
「あそこにあるじゃん」
 目敏いやつだ。一度言い出したら利かないのだ。
「甘やかしすぎたかなあ」
「いいじゃない、遊園地に来た時くらい」
「いや、家でもしょっちゅう食べているんだ」
「いいわ、お母さんが買ってあげる。その代わり隆ちゃんにも少しあげてね」
「うん。いいよ」
 赤い三角屋根の売場にむかう。奈津子がソフトクリーム二つと言う。最初の一つを娘が受け取る。そしてもう一つを私に渡しながら、
「どうせ、お父さんが好きだから、美奈子にも食べさせているんでしょ」と痛いところを突かれる。
「わー、助けて、タカシが」
 美奈子が叫ぶ。隆志がいきなりソフトクリームを手で掴んだ。その手を口にもっていく。顎のあたりがクリームだらけだ。
「ひげ爺さんみたい」と美奈子。
「トントントン、ひげ爺さん。トントントン、ひげ爺さん」と拍子をとる。
「そんなことしてると、落っことすぞ」
 奈津子は、あらあらと言いながら濡れタオルを出し、隆志の顔についたクリームを拭いてやる。「お手てもべたべたじゃない」と隆志の手をひろげる。そして、しゃがんだそのままの姿勢で、
「北原さんは、再婚しないんですか」とおもむろに言う。
「北原さん?」一瞬誰のことかと思った。
「もうしてるかと思った」
 裾を払い、立ち上がると、まともに眼を合わせてそうも言った。
「再婚なんか、するわけないだろ。そんな予定もないし。……それはそうと、その北原さんていうのなんとかならない。なんだか背筋がむずむずするよ」
「だって、北原さんは北原さんでしょ。他になんて呼べばいいの? いまさら私が広志さんて言うのもへんでしょう。それとも、キタ先輩?」
「うん、まあそうだけど……。おれは、きみのことなんて呼んだらいいんだ。昔はなんて呼んでたっけ」
「手塚、て呼び捨て。みんなは、なっちゃん、なっちゃんて呼んでくれてたのに、あなただけは最初から呼び捨てだった」
「そうだったっけ?」
 二つ年下の奈津子は、同じ学校の出身であるから、後輩ということになるが、中学・高校は男子部と女子部に大学のキャンパスを挟んで別れていた。しかし、大学で、男子部の高校にはなかった弓道部に入ると、同じ道場に女子部の生徒がいて驚いた。なぜ男子部に弓道部がなかったか。それで理由が分かった。女子部との接触を避けるためだ。なら、女子部の生徒は、もっと危険な男子学生と接触してもいいのかということになるが、もともと弓道部は女子部が創設したもので、大学の方が後らしい。で、そのなかに奈津子もいたというわけだ。彼女は高校二年生だった。女性上位のクラブで、ほとんどが初心者の男子学生は、女子部の高校生に手解きを受けたりした。男子部出身の友人からは、うまいことやったなとよく言われたものだ。
 そういえばこんなことがあった。結婚二年目くらいだったか、初めての浮気がばれた日、夜家に帰って玄関を開けると、目の前に袴姿で弓を構えた奈津子が立っていた。冗談でも余興でもなかった。瞬間、意味を理解した。私は驚き、「うわっ」と叫んで、鞄を投げ出し後ずさりした。勢い余って玄関の扉で頭をしたたかに打った。私の驚き様とその姿があまりにも滑稽だったので、その時はそれで済んでしまった。いや、その後すぐに私はひたすら謝ったのだ。奈津子にしてみたら、思い詰めた末の行為だったのかも知れないが、もうなかば赦した、一種の茶目っ気ともとれたし、妻としての余裕でもあったろう。だが、仏の顔も三度というやつで……。
「亀田さんがねえ、キタ先輩が私だけ呼び捨てにするのは差別だって言ってたのよ。どうしてだと思う?」
「……さあ」
「彼女はあなたに呼び捨てにしてもらいたかったのよ。彼女の気持ちは知ってたんでしょう」
「まあ、薄々はね。でも彼女、五島君にも気があったろう」
「そうね。二人にふられたって、やけ起こしていたこともあったわね」
「亀ちゃんかあ、彼女も、もう結婚したろうね」
「ようやく二か月前にね。何がなんでも三十前に結婚するんだって、ぎりぎり誕生日の数日前に結婚式をしたの。お相手はなんとお医者さん」
「へえー」
 年下だと思っていた連中も、みんなそんな歳になったのかと、今更ながら妙な感慨に陥った。
「五島さんっていえば……」
 と、そこでひと呼吸おくと、奈津子は俯いて、こう続けた。
「……あの後、お電話いただいたわ。内野さんからもね」
「えっ、君のところへ? なんで電話番号知ってるんだ。内野君とは電話で話したことあったけど、五島君とはここ数年全然会ってないし、年賀状とかでもそれらしいことは……。内野だな、君の実家にでも電話したんだろう」
「友人の元奥さんにも気を遣う、優しいお友達を持って幸せね」
 その言い方には何か棘があったので、内野は独身だし、なんか裏でもあるんじゃない、と悪態をつこうとしたが、やめた。そんなことはまずありえないことだった。内野は、奈津子との交際の最初の証人だし、弓道部で一緒だった五島は、お互いの長女同士がほぼ同じ頃に生まれている。それで気になったのだろう。しかし私には何も言ってこなかった。旧友の気持ちが胸に沁みる。
「内野さんからおもしろいこと聞いちゃった」
「あーあ、だからやなんだ、古くからの友人ていうのは。どうせ碌なことじゃないんだろう」
「何もあなたのことだとは言ってませんけど」
「そうに決まってるよ」
「あ、そうそう、それで亀ちゃんの旦那さんが、武田さんにすごく似ているのよ。でもね、あちらはいかにも慶応ボーイなの。そこが武田さんとは正反対で、なんだかおかしくって。武田さんとは相変わらず?」
「ああ、彼とはね。ついに動き出したよ。彼、また同人雑誌をやりはじめたんだ。それで、例の如く息巻いているよ」
 食べかけのソフトクリームを、つい昔の癖で奈津子に渡そうとしてしまった。金がなかった頃、よく分け合って食べたものだ。別々の料理を注文して、半分ずつ二種類食べられるようにしたこともあった。そこで一瞬、話が途切れた。私はこう言わずにはいられなかった。
「おまえ、いや、手塚……さんこそ、再婚しないのか」
 そう言うと睨まれた。しばらくそういうことはないだろうということは分かっていた。だがその一方で、彼女の若返りというのか、二児の母親らしからぬ若々しさは只事ではないような気もしてくる。化粧の仕方が変わったのか。いや、元々きれいだったのだ! 美人というより可愛いといったタイプの、まだあどけない少女少女していた頃のイメージがいつまでも残っていたが、結婚式のとき惚れ直したのではなかったか。同僚だった男に、おまえの奥さん美人だよなと、お世辞でなくしみじみと言われたこともあった。
「生活費はどうしてるんだ? おれが送ってる養育費じゃアパート代にもならないだろう。といっても、あれ以上はちょっと無理だけど」
「ご心配なく。実家からも少し貰ってるし、パートもしているし」
「なんのパート?」
「お花屋さん」
「そういえば、花がいっぱいあったなあ」
「え?」
「あ、一度、アパートに行ってみたんだ」
「………」
「いや、べつに偵察というわけじゃないんだけれど……。そうか、花屋さんか。ガーデニングとかブームだものね」
「昔から憧れてたの。でも、いざやるとなると大変で」
「それはそうだろう。相手は生き物だし」
「けっこう大きなお店なのよ。造園とかもやっていて、植木屋さんに近いわね」
 花々に囲まれて、生き生きと立ち働く奈津子の姿が目に浮かぶ。
「パパ、ママ、なにごちゃごちゃ言ってるの。もう食べちゃったよ。はやくメリーゴーランド乗ろう」
「はい、はい」

 四時をまわった。私たちは、傾きかけた西日に向かって歩いていた。背後では、ジェット・コースターの悲鳴が湧き上がる。隆志を乗せたバギーを押して、奈津子が前をゆく。私はふいに猛烈な嫉妬にかられた。いったい、何に対する嫉妬なのか。凶暴な情慾さえ覚えた。奈津子を後ろから抱きしめたい!
 美奈子が母親のスカートを掴んでいる。本当に親子だ。たとえ離婚しようが、私の精子と奈津子の卵子が結びついて生まれた子供に違いない。美奈子と隆志の遺伝子には、間違いなく私たち二人のDNAが受け継がれているのだ。不思議な感じもするが、この結びつきだけは永遠に不変なのだ。
「そろそろ帰りましょうか」
 奈津子は隆志にだけ言うようにそう呟く。
「まだ帰りたくない。まだ遊んでるの。やだ、やだ。絶対やだ」
 すかさず美奈子がぐずる。
「隆ちゃんきょうはお昼寝してないから、もうくたくたなの。ほら、あくびしてるでしょ」
「でもー」
 娘の我が儘はいつもの我が儘とは違う。美奈子が駄々をこねる気持ちは痛いほど分る。帰るといっても、帰る家が違うのだ。このまま永久に日が暮れなければいいのに、と私も思った。しかしそういうわけにもいくまい。
「もう朝からいたんだよ。いっぱい乗ったじゃない。もうじき暗くなっちょうし」と私も娘にいい聞かせるが、「帰ろう」とは言えなかった。
 いったい、この先どうやって別れればいいんだ。
「でもー、まだあれに乗ってないよ」と美奈子が空を指さす。「あれに乗りたい。絶対乗るの。そうだった、パパ、最後に乗ろうって言ってたじゃん。約束したよね」
 それは観覧車だった。
 丘のうえに聳え立つ観覧車を見上げた瞬間、私はもうどうにも抜き差しならぬ思いに把らわれた。
 そうだ、観覧車だ。いつも観覧車だった。
 奈津子を初めてのデートに誘ったのは、この遊園地ではなかったが、同じ多摩丘陵にあるやはり遊園地だった。そして最初に乗ったのが観覧車。私たちはほとんど一言も喋らずに一周した。なんと初々しかったことか。私は大学二年で、奈津子は高校三年生。降りる時、手を貸すふりをして、初めて彼女の手を握った。女に対してすでにウブではなかった私も、彼女には慎重だった。この時、電流が流れたような気がした。握り返されたその手を、私はしばらく離さなかった。
 その半年後の冬の終わり、弓道部の合宿に、すでに大学進学が決まっていた奈津子も参加した。最終日は後片付けだけで練習はなく、帰京の途上、みんなで遊園地に寄った。あれは富士の裾野だった。ほかの連中を出し抜き、二人きりで観覧車に乗り、ちょうど頂上に到達した時、私は初めて奈津子の唇を奪った。月並みな表現だが、それはあらかじめそうなることが決められていたかのように、自然に合わさった。
 そして、それから五年後の夏、この遊園地の、まさにあの観覧車のなかで、私は奈津子に結婚を申し込んだのだった。彼女は即座に返事した。「はい」と。
 観覧車だ。あの観覧車だ。
「よし、乗ろう。四人で乗ろう」
 私は、ベビーカーから隆志を抱きあげ、肩車をし、先に歩き出す。つとめて奈津子を見ないようにしていたが、美奈子が奈津子の手を引いてくるのが眼の端に写った。空になったベビーカーの軽い車輪の音が跡を追ってくる。券が足りなかったので、必要な分だけ買いたす。もう携帯電話もポケットベルも電源を切ってしまおう。
 観覧車よ。おまえが一周するあいだに、何かが変わるだろうか。あの頃に戻れるだろうか。
 ゲートを通過する。私たち四人は、ゆらゆら揺れる観覧車の、小さな箱に乗り込んだ。
 ドアが閉じられた。
                      (了)
『観覧車』西山正義
〔第一稿~第三稿=初出稿42枚〕
起筆・平成八年五月二十三日
擱筆・平成八年六月十六日午前二時三十五分
*第二稿までの表題は『月曜日の遊園地』
【初出】『日&月』第二号・一九九六 夏(平成八年七月発行)
〔第四稿49枚〕大幅に加筆削除改稿
平成十二年五月十六日~五月十九日午前三時
【改稿版初出】ウェブサイト「西向の山」平成十四年四月
(C)1997 Nishiyama Masayoshi

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