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未昇華の想い
作:nakoso



 ――日曜日。今日は、久し振りに完全フリーの日にした。

 何かをしたかった、というわけではない。
 むしろ、何もしたくない気分だった。

 三年前に大学を卒業して、順調に就職して、それからは安定至極の日々。
 本当なら今日も予定を入れるべきだったのかもしれない。
 しかし、自分の中の整理を行うためには、どうしても足を運んでおきたい場所があった。



 家から歩いて三十分ほどの所に流れている川。
 そこに架かっている橋の下は、ちょっとした広場――と言っても公園のようなものではなく、広い空間がある、というだけの――になっていた。
 鮮やかな模様(波をイメージしているらしい)ではめられたタイルの階段を下り、橋の真下に下りる。

 昼時前のせいで人の姿は見当たらない。
 俺は広場を真っ直ぐ横切って、川べりのベンチに座った。
 目の前を左から右にサラサラと流れる水面を、ぼぉっとして見つめる。
 風は強すぎず弱すぎず、温もりを持って首から上をくすぐる。

「――おはよっす」

 何をするでもなくただぼぉっとしていると、すぐそばから声をかけられた。
 左を振り向くと一人の女が、俺に笑顔を向けて座っている。

「久し振りじゃない、あんたがここに来るなんて? 
 ここしばらくあんたの姿見てなかったからさ、どうしたのかと思ってたとこなんだ」

 パステルブルーのワンピースが、春先のような彼女のイメージにピッタリ似合う。
 栗色の髪は肩にかかる程度の長さで、ほっそりした顔立ちは、どちらかというと美人の枠に入る――
 あくまで、俺の私的観点だけれども。

「ん〜、最後に来たのは二年前か。それから忙しい事が立て続けにあったからなぁ、ここに来るヒマがなくて」

 言った後、思わずあくびが出る。彼女が二重の瞳を細め、くすっと小さく笑った。

「まだ忙殺されてるらしいね。せっかくの日曜なんだから家でゆっくりしてればいいじゃない」

 二年前と同じ早い口調が心地良く聞こえるのは、きっと懐かしみのせいだろう。


 懐かしみ――チクッ――胸の片隅が痛んだ。


「せっかくの日曜だからこそ、こうしてわざわざここに来たんだよ」
「ぶっきらぼうな物言い、相変わらず」

 もし彼女を例えるなら、夏の空に浮かぶ霞み雲、といったところ。
 捕らえどころのない、捕らえても捕らえてもすり抜けられる、自由気ままな一筋の雲。

 こうして目の前にあるのに……

「俺も物好きだよな」
「何、いきなり」
「家から三十分も歩いてここまで来て。ただぼぉっとするためにだけ」

 水は流れる。
 流れ続ける。

 水平に見える地面も、実はわずかに傾斜している事に気付かされる。
 川の水を見なければわからない事実。

「私に会いに来てくれたんじゃないの?」
「そうだけど」
「意地っ張り」
「……そうです。会いに来たんです」

 満足そうに笑む彼女――こいつにはかなわない。

「でも、まさか会えるなんてね」
「どうして?」

 彼女は驚いたようだった。俺も驚いて、

「ここに来たから会えるっていう保証はないだろ? 
 今日だって、俺がここに来るなんて予想してなかったはずだ」

 彼女の顔に映った驚きが、ゆっくりと微笑みに変わる。

「ずっと待ってたもの」

 俺はア然とした。

「二年間、ずっと待ってたよ。
 あんたの性格だったらここに来ると思ってたんだけど、私ってばあんたの事を知ってるつもりだっただけみたい」

 悲しそうに笑う彼女から、俺は思わず目をそらした。

 肺が居心地の悪い空気を吸い込む。
 気まずくなって対岸を見やった。

 深呼吸すると少しだけ気が楽になった気がした。

「今日はどうして、ここに来る気になったの?」

 ゆっくりとした口調は、彼女から発せられたとは思えないほどに控え目だった。

 また、胸の片隅が痛む。

 言わないと――踏ん切りが付くまで、若干の時間を要した。


「……あのさ、俺、結婚するんだわ」


 彼女は黙って聞いてくれている。

「同じ職場の、1コ下なんだけど。今年の夏に結婚する」

 心臓が跳ね上がって鼓動する。
 まるで喉元に心臓があるみたいだ。
 息が詰まる。


「おめでとうっ!」


 ベンチの背もたれに寄りかかりながら見た彼女の顔は、まるで自分の事のように嬉しそうだ。
 その顔がまた、胸の奥に潜む罪悪感をうごめかせる。

「…………ごめん」
「な〜ぁに辛気臭い顔してんのよ」

 言いながら彼女の拳が俺の頬を小突いた。

「そんな顔して。結婚控えた新郎がそんなでどうすんの?」

 呆れの混じった言葉を吐いて、彼女はやおら立ち上がった。
 160センチの体を背伸びで伸ばす。

「倖せになりなよ。そんで倖せにしてあげな」
「ん」
「あのさぁー」

 振り返った彼女が腰をかがめて俺の顔を覗き込んで来た。

「どうしてそう、暗い顔になっちゃう? 私に負い目でも感じてるの?」

 ドンピシャだ。

「そうだとしたらほんとのバカ者だよ、あんた。
 目の前に倖せが待ってるっていうのに、どうしてこうも男ってのは」

 と、オーバーにため息をついてみせる。

 こいつはこんな女だ。
 何も変わっちゃいない。
 俺もそうだ。

 変わろう、変わろうと思ってみてもなかなか変われないのが現実。


 変わりたい。


「私、とうとう倖せにしてあげられなかったね」
「……いいよ。おまえのせいじゃない」

 そうとしか答えられない自分が憎かった。

「大丈夫。あんたなら、きっと倖せにしてあげられるよ」




「なぁ」

 おまえは倖せだったのか?――




 尋ねようとした時、ふいに風が力強く目の前を凪いだ。


「…………」



 俺は、言葉を失っていた。

 一陣の風が何食わぬ顔で過ぎ去った後、彼女の姿は消えていた。


 やわらかい流れのせせらぎだけが耳元に残っている。
 辺りを見回し彼女を探そうかと思って……俺は思い出した。

 そうだ。どうして俺は忘れてたのか。

 ユメかマボロシか。
 俺の現実と過去と、どっちがユメで、どっちがマボロシなんだろう?

 彼女はここにいるはずがない。だって彼女は……

 今まで俺と話していた彼女は、紛れもなく彼女本人だった。
 俺のよく知っている女だった。
 二年前と何一つ変わらない姿の。

「……何だよ、今の」

 呆然として呟く。頭の中を思い切り掻き乱されたような感じだった。




 俺の予定が決まった。
 少し遠いがヒマを持て余している休日にはちょうどよい外出だろうと思い、すぐに川べりを後にした。

 腕時計を見ると、四時を回っていた。

 電車を乗り継いで、二つ目の駅の近くにある高台に登った。

 車で来れば良かったのだけど、そこには駐車場がない。
 路上駐車して切符切られるなんて嫌だし、それ以前に、今俺の車は婚約者が使っている。

 柵に囲われた高台の頂上に踏み込むと、何か空気が変わった気がする。
 同じ春の風なのに、柵を境にして根本的な何かが変わっている。
 ここには何度も来ているが、この感覚がないという日はない。

「あ、こんにちは」

 足元から伸びる一筋の道をちょうどこちらに歩いて来る一つの人影を見て、俺は軽く会釈した。

「あら、こんにちは」

 五十代半ばの女性。
 コットンパンツに薄地のトレーナー、とラフな服装だが気品がある。
 すっかり真っ白になった毛髪――その顔は、俺の知る顔よりも痩せこけていた。
 背も幾分か曲がり始めている。

「家の方に行ったんですけど留守のようだったんで、こっちに来てるのかなと思いまして」
「あらあら、わざわざ家にまで来てくれたの?」

 笑顔満面で女性が言う。


 ……こんなにシワが多かっただろうか?


「はい。結婚が決まりましたので、その報告を」
「それはそれは。おめでとうございます」

 深々と礼をされ、慌てて俺も礼した。

「本当に良かったわね――娘にも報告してあげなくちゃ」

 言って、女性は自分が歩いて来た道を振り返った。

 いくつもの墓石が並ぶ様を、俺も女性越しに見やる。


 ここには何度も足を運んでいたからもうしっかり憶えている。
 女性の娘――彼女の墓は南西の日当たりのいい場所にある。


「娘の分まで、どうか倖せになってください。あ、迷惑だったかしら?」
「いえ、とんでもありません」

 涙ぐみ始めている様子の女性の胸中など、俺風情にわかるわけがない。

 ただ、これだけは言えた。

「倖せになりますから。
 ――今までお世話になりました」



 彼女の死に際に一緒にいた男として、これだけは。











 彼女は生まれ付き体が弱かった。
 特に、心臓が。

 小説などではもはや使い古されたネタであろうとも、現実として見つめるには相当キツイものだ。
 ましてや、俺は彼女の恋人だったんだから。

 俺は、彼女の父親から異常なまでに嫌われていた。
 男親として、たった一人の子供である彼女を思いやる気持ちはわかる。

 ましてや、彼女は将来を奪い取られた身だったんだから。

 父親はちょっとやそっとの男に娘に近づいて欲しくなかったんだと思う。
 いつ消えるとも知れない残り少ない人生の中、娘には穏やかに生きて欲しかったんだ。

 だから、父親は俺が彼女の見舞いに来る事を非常に嫌っていた。
 病院で俺と鉢合わせでもすれば、周囲などお構いなしに怒鳴り散らした。

 対して、母親は父親とは反対の立場に立ってくれていて、父親と俺が二度と鉢合わせにならないように見舞いの日時を調節してくれた。
 そのおかげで俺は、無難に彼女を見舞う事ができた。

 二年前のその日。
 ちょうど土曜日で、就職一年目の俺は休日だった。

 昼食を外で済ませた後、病院に直行した。
 彼女が買ってきて欲しいと言っていた女性ファッション雑誌(買うのにかなりの勇気が必要だった)をバッグの中に詰め込んで。

 病室(なんと個室!)にノックして入ると、看護婦さんがちょうど彼女に定期検査を行なっている途中だった。
 体温やら血圧やら脈拍やら、体が弱いと検査する事も多い。

「おはよっす」

 ベッドに横になっていた彼女が、看護婦さんの向こうで右手を上げた。
 俺も、同じく右手を上げて応える。

「ちょっと待っててね。すぐに終わるから」

 若い看護婦さんとは、もはや顔馴染だった。

「ごめんなさいね、せっかくの逢引の時間を縮めちゃった」

 しかも、あらかたのゴタゴタを知ってたり。

「今日もご苦労さんでしたー」

 検査器具の台車を押しながら退室した看護婦さんを見送り、彼女が手を振る。かと思いきや、

「みやげ」

 俺に向けて催促の手を差し出したり。

「これ買うの、かなり恥ずかしかったんだぞ? 感謝してくれよ」

 バッグの中の雑誌を取り出して、手近の丸イスに腰かける。

「感謝してるってば」
「うそつけ」
「ほんとだって」

 言いながら差し出した手を揺らす彼女に、俺は雑誌を手渡した。
 すると見るからに彼女は嬉しそうな顔をして、ページをめくり始めた。

 どうしてファッション雑誌なんか――リクエストされた時に思った疑問。

 だが理性が疑問を口に出させようとしなかった。

 いろんなファッションに身を包んで街中を歩く――彼女にしてみれば、それが夢なんだ。

 他の誰もがごく自然に送っている日常が、彼女にしてみれば憧れなんだ。

 少しでも、可能な限り1ミリでも、その夢に近づくためなら俺はどんな協力でもする。

「っと、おいおい!」

 雑誌を読もうと上体を起こした彼女を、俺は慌てて止めた。

「んー?」

 やや不機嫌そうに俺を見上げる彼女だが、引き下がるわけには行かない。

「おまえさ、自分の身を大事にしろよ。昨日の今日なんだしさ、体を少しでも休ませた方がいいって」

 やわらかい彼女の栗色の髪を撫でながら言う。

 昨日、俺が見舞ってた途中に発作を起こし、彼女は手術室に運ばれたのだ。
 面会謝絶にならなかったからこうして俺は見舞いに来れてるけど、今の彼女には少しでも休養が必要だ。

 本当なら今日、俺は来ないつもりだったのだけど、彼女がどうしても読みたい雑誌があると電話までかけて来て、
 こうして見舞いにやって来たわけだ。

「……ごめんね」
「何だよいきなり?」

 仰向けの胸の上で立てた雑誌を楽しそうに見つめる彼女の唇から、ふいに弱々しい声がこぼれた。
 心の底ではそんな彼女らしからぬ言動に戸惑ったけど、平静を装っていつも通りに応対した。

「あんただってさ、恋人ができたら二人でどっかに遊びに行ったりしたいでしょ? 
 こんな、ムードなんて縁遠い病室なんかじゃなくて……」

 胸騒ぎ。戸惑いが目眩を引き起こす。

「いいんだよ」

 努めて優しく、でも苛立ちぎみに言った。

 弱音を吐く彼女なんて見たくなかった。

 どんなに切羽詰った状況でも、何の根拠なしに胸を張って強気でい続ける彼女が見たかった。

「俺はおまえが好きなんだ。
 おまえと一緒にいられる、この空間が好きだから……その…いちいち気にするのはやめよう? 
 その事を俺が気にしてるわけでもないし、おまえが気にする必要もないし」

 胸騒ぎは、消えない。

 胸の中で、毛むくじゃらの何かがうごめいているようで。

「……ん、ごめん」

 彼女がパジャマの袖で目元をこすった。
 赤く充血した目が、窓の外を見つめる。


 秋。


 空は高く、雲の姿は少ない。
 剥いだ綿のような薄い雲がただ浮いていた。

「――ねぇ」

 呼びかける彼女の顔は笑顔に変わっていた。
 その唇が滑らかに動く。

「明日も、これからも来てくれるよね?」













 ……そう、言おうとしたのだと思う。


 現実の彼女の言葉は途中で止まった。
 止められた。
 発作のせいだった。





 今回の発作は前日のそれとは違って、手術でどうこうなるようなものではなかった。

 慌てふためく看護婦。
 必死に大きな声を張り上げて指示する医師。
 ガラガラと不器用に床を転がるベッドのキャスター。
 赤く灯る『手術中』のライト。

 目の前で起こるすべてが、まるで昔のフィルムを見ているようだった。

 フィルムであれば、よかった。

 けれどそれは紛れもない現実で。




「明日も、これからも来てく……」




 それが最後に聞いた、彼女の生身の声だったんだ。


















 ――日曜日。今日は、久し振りに完全フリーの日にした。

 何かをしたかった、というわけではない。
 むしろ、何もしたくない気分だった。

 三年前に大学を卒業して、順調に就職して、それからは安定至極の日々。
 一ヵ月後には、結婚が控えていた。

 本当なら今日も予定を入れるべきだったのかもしれない。
 しかし、自分の中の整理を行うためには、どうしても足を運んでおきたい場所があった。



 家から歩いて三十分ほどの所に流れている川。
 そこに架かっている橋の下は、ちょっとした広場――と言っても公園のようなものではなく、広い空間がある、というだけの――になっていた。
 鮮やかな模様(波をイメージしているらしい)ではめられたタイルの階段を下り、橋の真下に下りる。

 昼時前のせいで人の姿は見当たらない。
 俺は広場を真っ直ぐ横切って、川べりのベンチに座った。
 目の前を左から右にサラサラと流れる水面を、ぼぉっとして見つめる。
 風は強すぎず弱すぎず、涼しさを持って首から上をくすぐる。


 彼女は現れなかった。


 一時間ほどただベンチに座っていた俺は、すっくと立ち上がって思い切り背伸びをした。
 胸の中までスッキリした気分だ。
 俺は何を期待していたのだろう? 何も期待していなかったのかもしれない。


 ――違う。


 俺は一言、彼女に伝えたかっただけ。

「ありがとう」

 と、ただ言っておきたかっただけなんだ。



 それから二度と、俺はその川べりに行く事はなかった。


























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