トイレスリッパでイケメンを殴りたい
※お読みになる際は、頭の中でヒーローの語尾に適切な量の☆をつけると、より一層お楽しみいただけると思います☆
「あのね、さやちゃん」
ミホちゃんが言った。
赤茶けたレンガの敷かれた通学路を、わたしとミホちゃんはのんびりと歩いていた。左側は住宅地になっていて、コンクリートの高い壁の向こうに、たくさんの黒い瓦屋根とその他少数のカラフルな屋根が覗いている。車道と歩道の間は白いガードレールで仕切られていて、街路樹と街灯が交互に並んでいた。今日は六年生だけの委員会の集まりがあって、学校を出た時には四時半をまわっていたけれど、日が落ちるにはまだ早い。太陽を黒い布ですっぽり覆ってしまいたくなるような暑さだった。アスファルトが熱を反射して、スカートの中がまるでサウナみたいだ。
すぐ隣をシルバーのオデッセイが走り過ぎていく。それをやり過ごしてから、わたしはミホちゃんに聞き返した。
「なあにミホちゃん?」
「うん……あのね」
そう言ったきり、もじもじとして中々その先を言おうとしない。下を向いてしまったミホちゃんの顔が赤くなる様子が、わたしにははっきり見えた。
ミホちゃんはとっても美人だ。春の身体測定で教えてもらった身長は、一七〇センチだった。そのくせ、座高はわたしとほとんど変わらないという。小さい顔の上に配置されたパーツのバランスは完璧で、艶のある長い黒髪と合わせると人形みたいにかわいかった。
映画館に行くと小学生だと思ってもらえないし、ランドセルも全然似合わない、とミホちゃんは時々悲しそうにこぼす。そのたんび、わたしは大げさな程に首を振って、ミホちゃんは素敵だよと、ミホちゃんが呆れて笑い出すまで繰り返し熱弁するのだ。
こんな素敵な子がわたしの親友なんて、とってもラッキーだよね。
今もミホちゃんが恥ずかしそうに口ごもる姿を、わたしは微笑ましく見守っていた。歩調を少しゆるめながら、言いだしてくれるのを待つ。内容は大体予想がついていた。
「あ、あのね……今日の算数の宿題のことなんだけど」
「うん」
「さやちゃん、一緒にやってくれる……?」
無表情で黙っていると、ミホちゃんは目に見えて慌てだした。「ま、ママがケーキ買ってきてたから、きっとおやつに出してくれるよ。あと、えっと、ジュースも飲み放題だよっ」と、必死に付け足す様子は、偶にやって来る営業マンにそっくりで、思わず声をあげて笑ってしまった。
「ごめんごめん!もちろん行くよ、ケーキとジュースがついてなくても行くつもりだった」
「さやちゃん意地悪ね」
ミホちゃんは怒ったふりをして頬をふくらませてみせた。そのあと何度か謝ると、すぐにもとの控えめな笑顔に戻る。一〇メートルほど前にある歩行者信号が点滅しはじめたのに気づき、わたしたちは急いで走り出した。ランドセルがガタガタ揺れるので、わきの下の肩ひもをぎゅっと掴む。ところが、横断歩道の一個目の白い帯に足をおいたところで、ミホちゃんが急に立ち止まった。呆けたようにしているので、慌てて腕を引っ張る。結局信号は渡れなかった。目の前を車が行き来し出す。赤い車の排気口から、白い煙が吐き出されて後ろになびいていた。
「どうしたの、急に。危ないよ」
「ご、ごめんね。その、公園に……」
「公園?」
わたしたちが歩いていた歩道の向かい側には、小さい公園がある。公園と言っても遊具は鉄棒とブランコしかなくて、ほとんど空き地みたいなものだ。そこで同い年くらいの男の子が二人、野球のグローブを手にしてキャッチボールをしていた。片方の顔はよく知っている。
「おーい、ケイスケー!」
ボールをキャッチした男の子が、びくっとして振り返る。
「おーい!」
手を振ると、ぱっと表情を明るくして、手を振り返してきた。
わたしとミホちゃんは寄り道することに決めて、先程とはちがう横断歩道を渡る。公園に辿り着くと、もう一人の男の子と話していたケイスケが駆け寄ってきた。
「姉ちゃん、今帰りなの?」
「うん、今日委員会だったからね。放送かかってたでしょ」
「そうだっけ」と、ケイスケが後ろの友達に尋ねる。友達が「お昼の放送聞いてなかったの?」と呆れた顔をした。ケイスケの馬鹿は、周知の事実らしい。小さくため息を漏らす。
「まあ、いいじゃん!オレには関係ないことだし。姉ちゃんはこのあとどっか行くの?」
「ミホちゃん家で勉強会」
「え……」ケイスケの視線がうろうろと泳いで、わたしの斜め後ろをちらちらと気にし出した。ミホちゃんの存在に気が付いたらしい。「今日って、うちでご飯食べる日じゃなかったっけ」
「そうだよ、だから六時半までには帰るから。ケイスケもそれまでには帰ってきなよ」
「わ、わかってるよ!うるさいな、もう」
急にツンケンし出した弟に、わたしはまたため息を吐く。ミホちゃんの前だから大人ぶりたいのは分かるけどさあ。
当のミホちゃんが、わたしの後ろから(いつのまにか背中に隠れていた。隠れきれてないけど)そろりと顔を出して、ケイスケに話しかける。「あ、あの。ケイスケくんは、野球の練習……?」
「う、うん」真っ赤になるケイスケ。ミホちゃんと、わたしより身長の低いケイスケが向き合うと、わたしとケイスケより余程姉弟みたいだった。後ろの友達がからかいたいのをこらえてうずうずしている。話し終えたら好きにしていいから、もうちょっと待ってやって。
「ら、今週末試合だもんね」
「うん……」
「わたしも、さやちゃんと一緒に応援に行くから」
「うん……」
「あの、お弁当、さやちゃんのお手伝いして作る予定なの。だからその……」
「うん……えっ、本当?!」
首振り人形と化していたケイスケが、ようやく人間の心を取り戻してくれた。ミホちゃんとの会話もはずみはじめる。にやにや笑っているケイスケの友達を牽制し、わたしはそうっと後ずさりした。
ケイスケとミホちゃんは今年のバレンタインデーに晴れて恋人になった。ミホちゃんから告白したのだけど、幼稚園の頃から彼女にぞっこんだったケイスケは泣いて喜んだ。誇張表現ではなく、その晩響き渡るむせび泣きに、ケイスケを拳で黙らせなきゃいけなかったほど。
ケイスケは野球と熱血とミホちゃんへの一途さくらいしか取り柄のない不肖の弟だけど、それでもやっぱりかわいい弟だ。それに、ケイスケとミホちゃんが結婚したら、わたしとミホちゃんは姉妹になれる。それってとっても素敵にちがいない。だからわたしは、二人が良い雰囲気の時はなるたけ気を利かせているつもりだった。
(がんばれよケイスケ。ミホちゃん泣かせたら家から閉め出すからな)
心の中で脅しと励ましをかけながら、わたしは微笑ましいカップルから視線を外し――目にしたものに体を凍りつかせた。
視線の先、横断歩道をまたいだ向こうの歩道に、一人の男子高校生がこっちを向いて佇んでいた。どうして高校生って分かったかって、着ているYシャツに刺繍された校章が県下一の進学校のものだったからだ。まあ、今はそれはどうでもいい……。
問題なのはそいつの体勢だ、ポーズだ。両足を若干前後にずらして立ち、両手を胸の前でクロスさせて、揃えた指先はバレイダンサーみたいにピンと反っている。微かに右に傾げられた首、そこから生える顔は恐ろしいほどに整っていて、その彫刻のような顔が悩ましく歪んでいる。スーツを着てせかせかと歩いていたおじさんが、ぎょっとしてそれを避けていった。
ランドセルの半円型の隙間に手をつっこみながら、わたしは足早に横断歩道を渡り、そいつの背後に回り込んだ。短い黒髪が太陽に照り輝いて、天使の輪っかを作っている。ばれる心配はないと分かっていた。そうしておもむろに背中から愛用の得物を引き出し、高校生の尻を渾身の力を込めてひっぱたいた。
スパーン!!
小気味良い音が響く。驚きの声をあげて高校生が姿勢を崩す。わたしは片手に得物をぶら下げたまま、じろりとそいつを睨み上げた。
「コタロウ、何やってんの」
「さや花、さや花じゃないか」
その高校生――コタロウが尻をさすりながら、わたしを見て笑顔になった。
「今日は学校が終わるの遅かったんだな」
「まあね。それよりさ、歩道の真ん中で何やってたの、人様の迷惑だよ」
「ああ、それはな」コタロウは白い歯を見せて微笑み、少し離れた所にあるカーブミラーを指さした。丁度わたしたち二人の姿がぐにゃりと歪んで映し出されている。
「カーブミラーがどうかしたの」
「いやな、カーブミラーに映る人間ってのは、普通おかしな生き物のように見えるだろう?」
「まあ、だってそういう目的じゃないし。飛び出し確認のためとかにあるんだから」
「だろう?だけどさ、俺はふと気付いたんだ」
嫌な予感がひしひしとした。コタロウは己の体を抱きしめるようにして高らかに主張する。
「カーブミラーに映っているときすら、俺はなんて美しいんだろう……!って」
「埋まれ」
低く唸ったが、コタロウはまるでわたしの言葉が聞こえないかのように。いや、実際のところ聞こえていないのだろう、無駄にきらびやかな笑顔がますますきらめきはじめた。
「どう?ぜひともブロンズ像にしたくなる美しさだと思わないか」とコタロウ。
「石膏がはがれないまま窒息して死ね」
「分かる分かる、呼吸も覚束ないほどの美少年だからな。ミロのヴィーナスもびっくりだ」
「ヴィーナスの微笑みに見下ろされて死ね」
この、ナルシスト野郎。
わたしは何かの奇跡が起きて、今すぐ身長が三〇センチほど伸びないだろうかと願った。そしたらコタロウの頭を地面に叩きつけてやれるのに。この相棒のマイ・スリッパで。
――マイ・スリッパ、長い年月を共に戦ってきた相棒は既に六代目に入っている。スリッパの中でも選ばれしスリッパ、分かりやすくいえばトイレスリッパ。小学校のトイレによくある、ピンクとか水色のプラスチック製のダサい奴。
その昔、まだ私が小学校低学年だった頃。コタロウ成敗のお供はお手製の巨大ハリセンだった。軽快なリズムでコタロウの太ももやひざ裏を叩きながらも、わたしは言い知れぬ不満感を感じていた……本当にこれでいいのか、と。
そしてある時お笑いテレビ番組を視聴して、わたしは戦慄した。その時のわたしは、膝の上におかれたハリセンを驚愕の目で見下ろしていたと思う。
(これは、コタロウ成敗の得物じゃない。ただの漫才のツッコミ用の道具だ)と、気付いてしまったからだ。
わたしはコタロウのツッコミをするつもりは毛頭なかった。わたしがあのナルシストを拗らせた男に伝えたいことは、最上級の軽蔑の気持ちだ。お前などゴキブリ以下だと示したくて、来る日も来る日もハリセンを振るってきたというのに!
悔しさに歯噛みしながら、わたしは近所の商店街にある雑貨屋に駆け込んだ。おじさん、かくかくしかじかなんだけど、どうすればいいと思う?涙ながらに相談するわたしに共感する所があったらしい、雑貨屋のおじさんは、小学生のわたしでも購入できる低価格の商品を棚から出してきてくれた。
それが、わたしとトイレスリッパの運命の出会いとなった――。
ハリセンで鍛えた手首のスナップをきかせて、スリッパをコタロウの尻に振り下ろす瞬間、わたしはうっとりと悦に浸る。わたしが普段足で踏みつけているもので、コタロウを成敗する。それってとっても素敵なこと。勿論、叩く用のスリッパは未使用のきれいなものにしてあげてるけどね。
そういうわけで、まだコタロウの頭を叩けるほどの身長を手に入れていないことだけを惜しみながら、わたしはもう一度コタロウの尻を横殴りにした。「ぎゃ!」とか「ぐえっ!」とか情けない悲鳴の一つや二つや五つぐらい上げてくれれば溜飲も下がりそうなもんだけど、そうはいかないのがコタロウだった。
「あっ……痛いな、さや花……俺のパーフェクトボディが羨ましいのは分かるけど、加減ってものを知らないと」
ふっと流し目をされて、わたしの二の腕に鳥肌が立った。ついでに腹も立った。お腹の中でふつふつとマグマを煮えたぎらせていると、コタロウは手鏡を取り出して、さっきの流し目をチェックしはじめた。顎を動かしたり、眉を上げ下げして、理想の表情作りに余念がない。
こんなナルシスト野郎、わたしだって好き好んで関わっているわけじゃない。コイツが……コイツがミホちゃんの兄(あに!)でさえなかったら、とっとと再起不能にして二度と近くに寄りつかないに決まってる。家が隣なのはしょうがないとして、徹底的に無視する自信もある。それなのに、ああそれなのに。わたしがコタロウを抑えておかないと、きっとミホちゃんとケイスケの恋路を邪魔するに決まってる。だからわたしは、げんなりする気持ちをかなぐり捨てて、毎度毎度コタロウを取り押さえに行くのだ。
唐突にコタロウが呟いた。
「今日って十八日だよな」
その日付にわたしはドキリとする。もうすぐわたしの特別な日だった。
「今日はうちに夕飯食べに来る日だったか?」と、聞かれる。手には手鏡を持ったままだ。今突進すればあの手鏡を割れるだろうか。
「木曜日だから違うよ」
不穏な考えを押し隠して、わたしは素知らぬ顔で答える。コタロウがこんなようなことを聞くのは、珍しいことではない。
わたしとケイスケの神山家と、ミホちゃんたち牧原家はお隣同士だ。両親が共働きで家を空けていることが多い我が家は、牧原家にいろいろな面で助けてもらっている。一週間に三回、わたしとケイスケはお隣の家で夕飯をいただく。牧原のおばさんは毎日来てくれてもいいのよと言うけれど、さすがに申し訳なくて、わたしは三年生のころには台所に立って料理をしていた。
「もう作ってあるなら別だけどさ、よかったらうちに食べに来いよ。朝、母さんが今日の夕飯は三つ葉を添えたクラムスープだって言っててさ。さや花好きだったよな」
コタロウの申し出は実にありがたかった。好物を覚えてくれていたのも嬉しかった。宿題を終えてから夕飯を作るのは結構手間だし、ケイスケは猫の手程にも役に立たない。どっちみちミホちゃんと勉強会をするつもりだから、そのまま食べていっていいと言われて、断る理由はなかった。
コタロウの前だと無意識に下がる口角を無理やり上げて、わたしは「ありがとう」とお礼を言った。でも、でもさ、コタロウ。
(三つ葉を添えたクラムスープって……)
「普通にあさりの澄まし汁って言えよ!!」
笑顔を張り付けたまま、わたしはトイレスリッパでコタロウを殴った。
その晩は、結局牧原家でごちそうになった。
土曜日はよく晴れていた。
水分を極限まで吸い取ったようにカラカラに乾いた天気の中、わたしはお財布を握りしめて商店街へとやって来ていた。お父さんは金曜から出張、ケイスケは明日の試合に向けて朝から練習、お母さんはお休みだったけれど、屍のようになってベッドで眠り込んでいる。つまり、わたしは昼ご飯と夕ご飯のための買い出しにきているわけだ。
腕を組んで大股で闊歩しながら、献立を組み立てる。うん、明日はケイスケの大事な試合だし、やる気を出してもらうためにもケイスケの好物を作ろう。まあ、ミホちゃんが応援に来てくれるというだけで、すでにやる気は十二分だろうけど。
八百屋でおじさんと立ち話しながら玉ねぎを二玉手に入れ、そのあと肉屋に行ってウインナーを買った。お昼はお母さんと二人だけだし、お素麺をゆでればいいだろう。卵は冷蔵庫にあったはずだから、これで夕飯にオムライスを作れる。ケイスケはハンバーグも好きだけど、それは明日のお祝いメニューにとっておかなければならない。試合相手の西小はなかなか手ごわい敵だが、ケイスケならやってくれるにちがいないと思っていた。
「ふん、ふふふん」
鼻歌を歌いながらスキップで商店街を逆戻りする。大体の店を素通りしたけど、ケーキ屋さんの前では足を止めた。ショーウィンドウの中に陳列された綺麗なケーキを見ると頬が緩む。一番大きなチョコレートクリームのホールケーキが目に留まった。「誕生日ケーキ用のメッセージプレート受け付けます。」の文字が私の心をこの上なく弾ませる。ケーキ屋を離れた後のスキップのリズムがさらに軽やかになった。それから、途中でお母さんと買い物に来ていたレイナちゃんとユカリちゃんに会った。二人は双子で、とっても仲がいい。わたしに向かって手を振ってくれたあと、お母さんを挟んで手を繋ぎながら三人母子は靴屋へ消えて行った。
(なんだか羨ましい)
無性に家が恋しくなって、足の動きをスキップから駆け足に変える。ところが、商店街の入り口付近でものすごい行列ができていた。人が大勢群がっていて、ちょっとしたバリケードみたいになっている。計算外の事態にわたしは足踏みをした。
時計をちらりと見たわたしは、不覚、と呻いた。そういえば今日明日、服屋でバーゲンセールをやるんだっけ。そして運の悪いことに、お昼前のこの時間は向かいの中華料理屋も混雑しはじめる。
――遠回りするの、めんどくさいな。
ためしに無理やり体を押し込んで人ごみを突破しようとすると、あっという間に弾き出された。おばちゃんたちのパワー凄い。肉団子みたいな体にもみくちゃにされる未来図が容易に想像できて、わたしはぞっとした。やめよう、遠回りする方が安全だ。
くるりと踵を返し、どの横道から抜け出そうかなと考えていると、突然わきの下にニュッと手が差し込まれて体がふわりと浮きあがった。
「う、うわ!何だ?」
真昼間の商店街で誘拐事件か!と慌てる。じたばたともがくわたし。右足のキックが命中した。「やめろよ、さや花。俺だって!」と聞き覚えのある声がして、わたしは暴れるのを止めた。
「何だ、コタロウか」とがっかり気味に言う。軽く首を回すと、相変わらず綺麗な顔が目の前に現れた。きゅっと眉間にしわが寄り、それに連動して細めの眉が僅かに下がった。
「何だとはなんだ。一体誰だと思ったんだよ」
「変質者」とわたしは答える。そういえばコタロウも変態だから、最初の予想は案外外れてはいなかったわけだ。
「そういえばこないだ回覧板で、変質者が出没したって回って来たな。まあ、俺と居る限り安全だろう。さや花と俺が並んでたら、どんな変態だって俺を選ぶだろうから」
「変態はコタロウを選ぶだろうけど、まともな思考をもつ人だったらわたしを選ぶと思うよ」
憐れみを込めた視線を送ったが、コタロウはすでにわたしから興味をなくしていた。服屋の行列を熱心に見ているコタロウにムカついて、鞄から取り出したトイレスリッパでスパーンと左肩を叩いてやる。いつも尻しか叩けないのでせいせいした。
「コタロウ、ついに女装趣味に目覚めたの。あそこ婦人服のお店だよ」
「そんなこと知ってるって。何年この商店街に通ってると思ってるんだよ。そうじゃなくてさ、あのマネキン」
「マネキン~?」
思いっきり怪訝な声が出た。
「どう思う?」とコタロウが真剣に聞いてきた。
「どう思うって、ただの白いマネキンじゃん。金ぴかでヒョウ柄の服着てるから、派手といえば派手だけど」
「マネキンってさ」コタロウが語りはじめた。わたしの意見は無視された。「他人から見られるために、客を引き寄せるためにあるわけだろう。つまりあのスタイルはさ、人間の理想のスタイルってわけだ」無視されてむくれていたわたしは、相槌も打たなかったが、コタロウは気にしなかった。「現にご婦人たちが、夢中になって争っている。マネキンから服をはぐ猛者もいる。それほどまでの魅力があのホワイトボディにつまってるってわけだ」
「その体のことボディって言うの止めようよ。すごくうざい」
「でも、俺は思う」
ここら辺に来て、わたしはコタロウの言いたいことの九割方に予想がついていた。コタロウとの付き合いは生まれた時からと言っても過言ではないから、予想できない方がおかしいのだけど。
(多分、『人類の理想は低すぎる。あんなマネキンより、俺の方が素晴らしいスタイルを持っているというのに』とか言うんだろう)
「何てことだろう。人類の理想は低すぎる。あんなマネキンより、このコタロウの方が素晴らしいスタイルを持っているというのに。それとも、俺のスタイルが完璧すぎて、マネキンにするには畏れ多いと言うことだろうか……」
「思ったより三割増しうざかった!」
もう一発スリッパ攻撃をお見舞いする。今のはすごくうざかった。ここ一カ月で一番だ。
コタロウは叩かれても大して効いている様子がなかった。むしろにっこりとほほ笑んだままなので、わたしはかねてから抱いていた「コタロウ、エム疑惑」を募らせる。真偽の見極めのため、もう一発食らわせようと思ったが、そこでコタロウに抱き上げられたままだったことを思い出した。これじゃあ、わたしまで変態に見られかねない。
「コタロウ、もう降ろしてよ。ていうか何でいきなり抱き上げてきたのよ」
「だって、さや花。ここを通りたかったんだろう?」
コタロウはわたしを抱き直すと、スイスイと人ごみを抜けていった。あまりにあっさりとバリケードを突破することができて唖然とする。これが小学生と高校生の違いか……。
「コタロウも偶には役に立つんだね……」
とてもショックを受けた。しばらくしてコタロウがわたしを地面に下ろした。すでに商店街のアーケードを通り抜けたあとだった。「ようこそ、桜町商店街へ」という文字が頭上に見える。
「あとは家に帰るだけか?」
「うん、そう」
「じゃあ一緒に帰ろう」
「いいよ」頷いて、歩き出したコタロウの横に並ぶ。「そういえばコタロウは何してたの」
「シャーペンの芯が切れてたからさ、あと電池買って来いっていわれたから」
「いいね、荷物軽くって」
「持ってやろうか?」と、わたしの荷物に目を向ける。
「大丈夫。コタロウの手助けなんていらないよ」
ビニール袋一つぶらさげるくらい、何てことない。強がりじゃなく、わたしはそう答えた。慣れた道すじをコタロウと雑談しながらさっさと帰って行く。家の手前の交差点に差し掛かり、わたしは気になっていたことを尋ねた。
「コタロウ、来週って暇?」
「来週のいつ?」
「うーんと、金曜日」
コタロウは首を傾げて、「ケイスケの試合は明日だよな?」と言い、来週の金曜日の予定は分からないがもうすぐ試験だから勉強に忙しいかもしれないと言った。
「何か用でもあった?」と気遣わしげに聞かれて、わたしはぶんぶんと頭を振った。「何でもない」本当に何でもなさそうに見えるように振る舞ってみせた。
家の前でコタロウと別れて玄関の扉を開けると、顔色のよくなったお母さんが出迎えてくれた。お昼はお素麺だから、と伝えるとお母さんが嬉しそうに笑った。
「良いわね、胡麻とネギをたっぷりかけましょ」
「お母さんの素麺、ほとんどネギで見えなくなるもんね」
「健康的でいいじゃない。明日はケイスケの試合、応援に行かなきゃいけないし。野球の応援ってパワーいるのよね」
「だからお弁当はわたしが作ってあげるって言ったんじゃない」
「お母さんが作っても良かったのに。ミホちゃんともお話しできるし。さや花にはいつも家のことお願いしてるから……」
「お母さんもお父さんも忙しいんだからしょうがないって」
「忙しい、確かにそうねえ」お母さんが首を左右に曲げると、コキコキと骨が鳴った。「来週なんて、もう死んじゃうんじゃないかと思うくらいスケジュール詰まってるし」
「え?」
冷蔵庫に袋の中身を仕舞おうとしていた手が止まる。わたしは呆然として聞いた。
「……来週、忙しいの?」
「ん?そうなのよ、さや花とケイスケの顔が見れるかも怪しいわー」
お母さんはわざとらしく嘆いた。普段通りそれを適当に慰める余裕もないほど、わたしの心は荒れ狂っていた。真っ黒い雲が空を覆い隠して、嵐の前のように黄色い雷を落とす。沈んだ気持ちを悟られないように、わたしはそそくさと元の作業に戻った。(お母さん、来週は……)そう思いかけて、すぐに止めた。(ううん、きっと大丈夫だよね)冷蔵庫から流れ出る冷気が、心をまた冷やしていくようだった。
ケイスケの試合が喜ばしい結果で終わった、次の週。
金曜日は大雨だった。
実際のところ窓の外は晴れていたけれど、わたしは暗雲立ち込める気持ちで目覚めなければならなかった。アラームが鳴る前の目覚まし時計のスイッチを切り、のろのろとベッドから這い出す。ベッドの横には弟から譲り受けた木製の野球バッドが立てかけてあった。対コタロウ最終兵器ケツバット用なのだが、今のところ使ったことはない。今後も使うことがなければいいと思っているが、今日ばかりはこの凶器を振り回すべき日かもしれない。
棚の上に置かれた化粧鏡の前に立つと、見事にむくれた神山さや花の顔が映し出された。セミロングの黒髪があちこち束になって跳ねている。眉間に寄った皺は、周りのお気楽な小学生にはないような苦悩に満ちたものだ。一度ぐっと顔をしかめると、わたしは頬をパチンと叩いて、普段の顔に戻そうと努力する。タンスを開けて、お気に入りの水色の水玉模様のワンピースを着ると、少しだけ心が慰められた気がした。
固い髪質に悪戦苦闘した後、何とか二つ結びにまとめる。階下に下りていくと、ひっそりとした空気に直面せざるを得なかった。
テーブルの上にはお母さんからの伝言メモが置いてあった。わたしの中で少し期待の頭が持ち上がった。
――昨日も顔を見れなくてごめんなさい。朝ごはんはいつも通りパンを焼いてね。戸締りとガスの確認だけお願いします――
何度読み返してみても、書いてあるのはそれだけだった。イライラして、感情のままにメモ用紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ入れた。
(お母さんのバカ、お父さんのバカ!)
叫びだしたいのをぐっと堪える。
(今日は、わたしの誕生日なのに……!)
突っ立ったまま怒りに震えていると、階段の方から足音が聞こえた。ケイスケが台所に顔を出す。「おはよう……」と挨拶してわたしの形相に気付いたようだ。ぎょっとして、扉の向こうに引っ込む。おそるおそる再び顔を覗かせて、小声で聞いてきた。
「姉ちゃん、どうしたの。機嫌悪いね」
「そう見える?」
「う、うん……。あの、姉ちゃん、た……」
ケイスケは何か言いたげだったが、わたしは構わず用意してあったランドセルを引っ掴んだ。ドスドスと床を踏み鳴らして台所から廊下に出ると、そこで固まっていた弟をギロリと睨み付けた。
「わたし、今日は早く学校に行かなきゃならないから」
「ええ?朝ごはんは」
「いらない、お腹空いてない。戸締りはやっておくから、玄関の鍵だけはちゃんと閉めなさいよ。あとガスは触っちゃダメだから」
戸惑うケイスケの様子が伝わって来たけれど、まともに話し合える気分じゃない。
「あ、姉ちゃん、いってらっしゃい」
弟の控えめな言葉を背に、わたしは家を飛び出していった。完全な八つ当たりだと分かっていたけど、どうしようもなかった。
その日一日中、わたしは不機嫌だった。ミホちゃんは開口一番に「お誕生日おめでとう」と言ってくれたあと、「何かあった?」と心配そうに聞いてきた。人目も構わず、わたしは親友に抱きついた。ミホちゃんは事情を打ち明けてほしそうだったけど、それはしなかった。ミホちゃんを困らせてしまうのは嫌だ。
悶々と授業を受けて、放課後を迎えた頃には、気分は最底辺を漂っていた。今日は学習塾に通う日だから、と言ってミホちゃんとは校門前で別れることにした。ミホちゃんは最後までわたしのことを心配していて、「六時までには帰らなきゃだめよ」と念を押した。暗くなるから、と付け足して。わたしはそれを約束する。ミホちゃんだけはわたしの味方なんだと信じられた。
学習塾に通う日、というのは半分嘘で半分本当だった。授業がある日ではなかったけれど、塾の先生は宿題で分からない所があったら毎日でも来て下さいね、と口癖のように言っている。先生と雑談したところで気分が晴れるとも思えなかったので、わたしは自習室に駆け込むと猛然と宿題をやりはじめた。計算ドリル、漢字の書き写し……無我夢中でやったのがいけなかったのか、宿題は一時間もすれば終わってしまった。これで、塾にいる理由もなくなって、家に帰らなればならない。
いやだいやだと思っていたら、自然と足は商店街の方に向いていた。五時を過ぎているので、夕飯の材料の買い出しに来ている主婦の姿が圧倒的に多い。小学生の姿もちらほらあった。ふらふらと歩いていたわたしは、先週と同じ店の前で足を止めた――ケーキ屋だ。
お母さんは、わたしのバースデーケーキ、用意してくれたのかな。忙しいから、忘れちゃってるんじゃないかな。
悲しいことにその可能性は高かった。
黄色い財布の中身を確認すると、千円札が三枚入っていた。慎重にショーウィンドウの中身と見比べる。
「おばさん、四号のホールケーキありますか。チョコレートクリームの」
ケーキ屋のおばさんは、痩せた顔を曇らせた。
「ごめんなさいね、チョコレートのは売切れちゃったのよ。普通の白いのじゃ駄目かしら」
「じゃあ、それで構いません」
二千円払うと、おつりが来た。おばさんは丁寧にホールケーキを箱に詰めると、保冷剤と、おまけにカラフルなキャンドルを付けてくれた。十二本のキャンドルを見て、ハッとした。そっか、わたし、今日から十二歳なんだ。
大きめの白い箱にはケーキ屋の金色のシールが貼ってある。スベスベしたシールの表面を撫ぜながら、わたしは再び商店街をふらつき、気付けば家とは反対方向のアーケードを通り抜けていた。そろそろ足に疲れを感じて、近くの公園のベンチに腰掛ける。ケイスケたちがよく遊んでいるところとは別の場所だから、鉢合わせることもないだろう。六時のチャイムには、まだ時間があった。
買ったばかりのケーキの箱のシールを丁寧にはがして、ちらりと中身を覗き見る。真っ白いクリームと、ルビーみたいなイチゴ。わたしの名前が書いたチョコプレートこそのっていなかったけれど、立派なバースデーケーキだ。
「ケイスケには、悪いことしたなあ」
ケーキを大きめにカットしてあげよう。
「お母さんたち、今日も遅いのかな。わたしの誕生日、本当に忘れちゃってるのかな」
でも、それも仕方がないことかもしれない。一つため息が落ちたけれど、次のため息は喉の奥に押し戻した。二人が毎日一生懸命働いているのは、誰よりもわたしとケイスケが知っている。わたしたちが二人をいたわってあげないで、一体誰が二人をいたわってくれるというのだろう。
暗い気分が少しずつ持ち上がってきた。ミホちゃんの「おめでとう」の言葉を思い出すと、さらにぐぐっと気分が上がる。休みが明けたら、ミホちゃんにも心配かけてごめんねと謝らなきゃ。
ケーキの蓋をしっかり閉めて、わたしは家に帰ろうと決心した。いつまでもうだうだしてるなんてらしくない。明日は休みだし、どんなに遅くてもお母さんたちを待って、おめでとうって言ってもらえばいい。忘れられていたら、わたしが申告すればいいのだ。
ところが、「おい、神山」と、思いもかけず名前を呼ばれた。腰を上げかけた中途半端な状態で、わたしは動きを止める。クラスメイトの男子二人の姿を認めて、わたしはゲッと胸中で呻き声を上げた。
「お前今日珍しく塾に来てたな」と坊主頭の男子。わたしはぶっきらぼうに言い返した。
「それが何?別におかしなことじゃないよね」
「だってお前、いつもは授業日以外こねーだろ?てっきり、オレたちとはアタマの出来が違うって、きどってやがんのかと思ってよ」
わたしは呆れかえって、ふんっと鼻で笑ってやった。
「わたしが授業日以外行かないのはね、アンタたちみたいな奴が馬鹿みたいに騒ぎまくってうるさいからだよ。家の方がよっぽど落ち着く」
わたしの軽蔑しきった目の色に気付いたらしい。男子二人の顔色が変わった。真っ赤になって猿みたいだ、とでも言ったら余計に怒るのだろう。いつものわたしだったら、賢明な判断を下していただろうが、帰りかけたところに水をさされたせいで機嫌が悪かった。
「猿みたいに赤くなって、バッカじゃない」
次の瞬間、わたしは強い力で突き飛ばされた。ランドセルの重みに引っ張られてドサッと体が横倒れになり、抱えていた荷物が吹っ飛んだ。砂利の敷き詰められた地面がむき出しの二の腕と足をこすり、すぐにヒリヒリとした痛みが襲いはじめる。
「どっちがバカだよ、バーカ!」
「アタマが良くても、お前なんか皆に嫌われてるんだよ」
凶暴な台詞を吐きながらも、男子二人はわたしがなかなか起き上がらないことに慌てているらしかった。じりじりと後退し、あっという間に走り去って行ってしまう。わたしは地面に倒れたまま、にじむ視界の中の彼らを散々に罵った。
六時を知らせる音楽が、公園のスピーカーから流れ始めた。なじみのある童謡は、妙に哀愁漂って聞こえる。公園にはわたし以外誰もいなくて、倒れたままぼうっとしていたら、だんだん日が暮れはじめた。だらんと伸びていた膝を片方引き寄せてみると、皮が擦り剥けて血がにじんでいる。そこに砂利が入り込んで、じくじくと痛みを放っている。うつろな視線を前方に投げると、なんて間抜けなことしたんだろう、一度はがしたケーキのシールは緩くなっていて、地面に転がった箱の中から真っ白いケーキが飛び出ていた。ここからでも、形がつぶれて砂まるけになっているのが分かる。潰れてしまったのだ、わたしのバースデーケーキ……わたしのバースデー。
(もうやだ)と、ひび割れた胸の奥から、低いうなり声と一緒に、そんな言葉が聞こえてきた。黒くてドロドロとした液体が、わたしの脳裏を侵食してく。朝からかかって、ようやく自分を落ち着かせて、何とか納得して、笑顔で家に帰ろうと思えたところなのに。
本当は、全然納得なんかできていなかったのだ。
なんで自分の誕生日なのに、自分でケーキ買って帰んなきゃなんないの。なんで誰も祝ってくれないの。ケーキも台無し、誕生日もさんざん。さっき男子に言われた通りなのかもしれない。皆わたしのことなんてどうでもいいんだ、嫌いなんだ……。
「ちくしょう」
悔しがっている振りをしたけど、本当は悲しくて、お母さんやお父さんやケイスケのことが恨めしくてたまらなかった。腕も足も痛かったけれど、それ以上に胸が張り裂けそうだった。
「馬鹿、ばかばか、皆大嫌いだ」
汚い言葉でめちゃめちゃに罵る。みんな、みーんな嫌い。
そんな風に叫びだしたい衝動を抱えていたので、視界に息を切らしたコタロウが現れた時、わたしはありったけの罵詈雑言を引き出して、コタロウに浴びせかけた。彼は面食らった表情をした。
「コタロウのばか、あほ、ナルシスト、ドエム、ばか、大きらい。あっちいって!」
胸の内に溜まった澱を吐き出した途端、怒涛のように涙が溢れかえった。情けない嗚咽がのどを引きつらせ、頭も回らなくなる。バカ、バカ、ナルシスト野郎……ついには浴びせるかける言葉も尽きてしまった。ただ、醜い顔を見られたくなくて、「あっちいってよ」と馬鹿みたいに繰り返す。首振り人形のケイスケよりもっと酷い有様だ。トイレスリッパを投げつけて追い返したくとも、相棒のいるランドセルに手を伸ばす気力さえなかった。
コタロウは、黙り込んだまま、まずはもう食べられなくなってしまったケーキを片付けはじめた。クリームがついた砂利ごと箱につめて、ゴミ箱に捨てに行く。それからわたしを無言で抱え上げて、水道まで連れて行ってくれた。オシャレな模様が彫り込まれた四角い大理石の側面に蛇口がついている。コタロウの大きな手がそれをひねって、わたしの膝から砂と血と、いろんなものを洗い流してくれた。わたしはその間ずっとすすり泣いていた。我ながらいつもの強気は何処へ行ったんだと不思議なくらい。
「さや花」と、ようやくコタロウが口を開いた。しゃがみ込んで、わたしに視線を合わせる。「おばさんたちが心配してる。今、何時だと思う?」
「分かんないよ、そんなこと」
「もう七時だよ。ミホと六時までに帰るって約束したんだろう」
わたしがうんと素直に頷けたのは、コタロウの口調が全く咎めるような雰囲気を孕んでなかったからだ。コタロウの髪が汗で湿って首筋や額に張り付いていた。いつもきれいに結んでいるネクタイも、不格好に首元にぶら下がっている。
コタロウがわたしの体を軽く抱きしめた後、背中を見せておぶさるように促した。おずおずと近寄ってから地面が遠ざかるまでは三秒もかからなかった。
コタロウは制服のままだったけど、鞄は持っていなかった。そのことを尋ねると、「神山のおばさんたちに預けてきた」と返される。しばらくの間、しゃくりあげるわたしを負ぶって、コタロウは商店街へとつながる道路の歩道を、ゆっくりと歩いた。ゆらゆらと背中で揺れながら、だんだんと落ち着きを取り戻すわたし。「膝は痛い?」「痛くない」「そっか」という会話のあと、わたしは勇気を振り絞って話しかけた。
「六年生にもなって負んぶなんてかっこわるい……」
必死に絞り出した言葉がこれってどうなんだろう。でも、いつもこんな感じだから、コタロウとしんみりした空気になるのは慣れていないのだ。
「友達に見られたら恨んでやる、ケツバットだ。トイレスリッパの刑だ」
コタロウは一度止まって、ずり落ちかけていたわたしの体の位置を直した。
「俺の尻に青あざなんてできたら、日本の損失だからやめなさい」
「あざなんて残さないよ。骨を、くだく」
「噛み締めるように言うなよ。でも、包帯の美少年ってのも儚げでいいかも……さや花、左腕にひびを入れるくらいなら良いぞ、一カ月ぐらいで完治する程度な」
「やっぱりドエムなんだ。コタロウの全身の骨を粉砕してやりたい」
「お前まだトレーニングしてるのか、握力がまた……腕がきしんでる」
「とかいって全然焦ってないコタロウがむかつく。偶にはわたしに屈服してよ」
「天は俺の上に人を作らなかった」
「いつかその顔面を汚い上靴で踏みつけてやる」
馬鹿みたいな会話は、わたしをほっと安心させる。昔から、優しくてまるで普通の男の人みたいなコタロウは嫌いだった。コタロウがそうなるのは大抵わたしの心が弱っている時で、わたしはコタロウの前で何度無様な泣き顔を見せたことだろう。
日はすっかり暮れてしまって、ポツリポツリと立つ街灯が帰り道を教えてくれる。ほの白い灯りの下を通るたび、わたしを背負ったコタロウの長い影が、ふっと白いの円の中に現れる。
「さや花」コタロウが、わたしの嫌いなコタロウの口調で言った。「俺の前では、いくら泣いたって構わないんだからな。人ごみの真ん中でさや花が泣き喚いたって、皆が注目するのは俺なんだから」
「コタロウ……、慰めるの下手くそすぎ」
不満げな声を出しながらも、わたしの目にもう涙の膜はなかった。コタロウの背中に突っ伏してくぐもった笑い声をあげると、「くすぐったい」とコタロウが背中を揺すった。
「さや花!」
家に帰り着いた途端、玄関の前で待ち構えていたお母さんが駆け寄ってきた。手前の交差点で、皆に見られる前にコタロウの背からは降りていた。ぎゅっと抱きしめられた後、わたしの全身をじろじろと見る。膝の怪我に気が付いて、お母さんはもう一度わたしを強く抱きしめた。
「無事で良かった……」
お母さんは心底ほっとしたという声でそう言った。言葉には涙が滲んでいた。わたしは「ごめんなさい」と謝ったあと、後ろで涙ぐんでいたミホちゃんとその隣のケイスケに軽く手を振った。堪らず駆け寄ってくるミホちゃん。大人身長の二人に抱きしめられて、わたしは嬉しくもあり、苦しくもあった。呼吸がね。
何とか酸素を確保しようとしていると、ケイスケが寄ってきて耳打ちした。
「母ちゃんもミホちゃんもすっげー心配して、泣いてたんだぜ。姉ちゃんが約束破ることなんて滅多にないから、誘拐されたんじゃないかって」
「なにそれ」
「最初は父ちゃん、落ち着いたふりしてたんだけどさ、二人が騒ぎ立てるから結局不安になって、牧原のおじさんと一緒に探しに行ったんだ。まあ、見つけたのはコタロウみたいだったけど」
ケイスケがコタロウをちらりと見てから、わたしに視線を戻した。急に居心地が悪くなって、わたしはぷいとそっぽを向いた。その、「オレには誰が見つけるか分かってたよ」みたいな表情を今すぐやめてほしい。
抱擁がようやく外れ、お母さんが弱りきった顔をわたしに向けた。
「さや花、ごめんね。お誕生日おめでとうって、朝言えなくて。急いでたから、メモにもうっかり書き忘れてて……お母さん本当に駄目ねえ」
「もういいよお母さん。忙しかったの知ってるもの」
ケイスケが付け足した。「姉ちゃん、誕生日忘れられたと思って拗ねてたんだろう?オレ、朝ちゃんと言おうと思ったのに、姉ちゃんさっさと学校に行っちゃうから」
「悪かったよケイスケ」
弟の頭を乱暴に撫ぜた後、わたしはこの状況の奇妙さに気が付いた。
「ていうか、お母さん……お父さんも仕事は?今週は忙しいんじゃなかったの」
お母さんとケイスケ、ミホちゃんとコタロウまでもが顔を見合わせる。一様に困っているみたい、どうしたんだろうか?
ケイスケとミホちゃんが何やら頷き合った後、一緒に進み出てきた。いつも二人揃うと見つめ合っているから、一斉にこちらの方を見られる経験はそうあったもんじゃない。
「本当は、もっと盛り上げてから渡すつもりだったんだけど、姉ちゃんにサプライズは向かないって今回のことで身に染みたよ」
ケイスケは、芝居がかった様子で肩をすくめた。ムカッとして文句を言おうとすると、ケイスケとわたしの間にミホちゃんが割り込んできた。真剣な表情のミホちゃんはいつもに増して綺麗だ。
「さやちゃん、今度何かあったら絶対ミホに言ってね。約束よ。いつもミホばかり迷惑かけてるから、ミホだってさやちゃんの役に立ちたい」
「ミホちゃん」
「これね、ケイスケくんと二人で選んだのよ。喜んでくれると嬉しい」
手渡されたリボン付きの小包の封を開けて、わたしは歓声を上げた。水色で水玉のペンケース、わたしの今日の服とお揃いだ。
お母さんが、ふうと小さく息を吐いた。
「あのね、さや花。こうなったからにはばらしてしまうけど、今日はあなたのバースデーパーティーを開く予定だったのよ。牧原さん家も呼んで」
「じゃあ、お母さんとお父さんが急に忙しくなったのって……」
「今日と土日に仕事が入らないようにするためよ――初めてのサプライズパーティーだったからお母さんたちも舞い上がっちゃって、まさかそれでさや花を傷つけるだなんて、本末転倒も良いところだわ」
「そんなことないよ!」
わたしの大声に、皆びっくりした顔をした。恥ずかしくなったので、声を小さくして続ける。
「わたしがもっと察しが良ければよかったんだから、別にお母さんたちは悪くない。ケイスケの言う通り、わたしの性格がサプライズに向いてないのが悪いんだ」
「サプライズに向きも不向きもないと思うけど……それに察しが良くても困るわ、それじゃサプライズにならないもの。来年はもっと上手くやって見せるからね、さや花!」
お母さんは拳を握って高らかに宣言したが、それってわたしの前で言っちゃ駄目だよね。ケイスケと目を合わせて、二人で苦笑した。
「よし、気を取り直してパーティーを開きましょう。お父さんたちもそろそろ戻ってくると思うし、ご飯を温め直さなきゃ。さや花は手伝わなくていいからね」
「分かったよ、でも火傷しないように気を付けてよね……お父さんたちにも謝らなきゃな」
「そうそう、それからコタロウ君にもちゃんとお礼言うのよ。一生懸命探してくれたんだから」
痛いところを突かれたわたしは、ひるんで立ち止まった。お母さんは気付かずに、「さあ、やるわよ」と張り切って家の中へ消えて行く。ケイスケとミホちゃんがそれにつづいた。あと一人、わたしの後ろにいるのが誰かって、そんなこと分かってる。
「コタロウ……」
コタロウはまだ玄関の外にいたから、暗くて顔がはっきりしなかった。それを良いことに、わたしはさっさとお礼を済ませてしまおうとする。
「ありがと、その……いろいろと」
「いいって、別に大したことしてないし。さや花が公園で倒れてた時はかなり驚いたけど、無事で良かった。部屋に帰ったら絆創膏張りな」
「うん、分かった」
「よし、良い子だ」
あんなに大泣きした後だと気恥ずかしくて、
「コタロウは悪い子だ」
と、わたしは意地悪に言い返した。先週の土曜日のことが、急に頭に蘇ってきたのだった。
「金曜日が忙しいなんて、嘘ついてさ」
「サプライズのためだったんだ、仕方ないだろう。根に持つなよ」
わたしがまだブスッとしていたので、コタロウは少し考える素振りをしてから、ポンと軽くわたしの頭に手を置いた。わたしは寸の間息が詰まった。
「まだ言ってなかったよな――ハッピーバースデー、さや花」
――なんでそれをここで言うかなあ……。
コタロウは今やわたしの隣に並んでいて、その顔は玄関の照明に明るく照らし出されていた。夜風にさらされて乾いた前髪が、いつもと違って斜めにかき分けられている。穴が開くほどその広い額を見つめ続けていたら、コタロウに首を傾げられた。
(コタロウは、どうしようもないナルシスト野郎なんだから)
わたしは込み上げてくるものを押さえつけるために、急いで俯かなければならなかった。マイ・スリッパを取り出して、家に入ろうと前を歩くコタロウのお尻を軽く――それでもバシッと鈍い音が響いたけど、私としては冗談みたいな弱い力で叩く。コタロウはいつもより綺麗に微笑んでいた。やっぱりドエムなんだ。ナルシストな上にドエムとか本当に救えない。正面切って罵ってやりたかったし、もう一発くらいスリッパで叩いてやりたかったけど。でも今日は勘弁してやろうと思う。顔を上げた瞬間に、茹でダコのように赤くなった頬を見られてしまうから。振り向くと、玄関からもれる光に照らされて、ごつごつとしたアスファルトの地面が黄色と黒の真二つに分かれていた。だけれど、玄関の扉を閉めれば、あとは明るい光だけに満たされる。
その夜ひらかれたバースデーパーティーはいつにもましてにぎやかだった。コタロウは途中から我が家の姿見の前でポーズを決めるのに夢中だったので、わたしたちはコタロウを放って、おいしくケーキをいただいた。ケーキは何と、商店街で見たチョコレートクリームのホールケーキだった。真ん中には「さや花、誕生日おめでとう」と書かれた白いチョコプレートが刺さっている。お母さんが事前に予約しといてくれたんだって。わたしが自分のお金でケーキを買ってしまったことは内緒にしておいた。
ケーキを食べ終わっても、コタロウはまだ鏡の前から離れなかった。「やっぱりコタロウはコタロウだ。ナルシストめ」そう言って軽蔑した目を向けるわたしの隣で、ミホちゃんがくすっと笑って、わたしの胸ポケットをちょいちょいと指さした。そこには、ノック部分にうさぎのキャラクターがついたシャープペンシルが入っている。コタロウがくれたプレゼントだった。赤くなる頬を隠そうとしたけれど、ミホちゃんにはお見通し、逆に笑われてしまった。
「さやちゃん、これからもたくさん遊ぼうね」
「うん」
「ミホ、さやちゃんがうちのお隣の家に生まれてきてくれて、とってもうれしい」
「わたしも、ミホちゃんが親友でいてくれて嬉しい」
わたしとミホちゃんが微笑み合うと、シャープペンシルの頭についてるうさぎの頭まで、幸せそうに笑った気がした。そこへコタロウが「新しいポージングができた!」と叫びながら突っこんできたので、わたしは懐からトイレスリッパを取り出してソファーの上に立つと思い切り振りかぶった。スリッパがくるくると回転しながら飛んでいき、コタロウの脳天に着地する。その間抜けな姿に、わたしたちは腹を抱えて笑った。
玄関に立って牧原家の面々に別れを告げる時、素敵なバースデーパーティーだったねと、ミホちゃんと二人、また笑いあった。四人を見送りながら見上げた夜空には、いくつか知っている星座が浮かんでいた。コタロウが「星々も美しいが、遠くにある美しさより近くにある俺だよな」と感慨深げに呟いたが、牧原のご両親に両側からどつかれて黙り込んだ。
今夜はきっと、コタロウの頭上から星が山ほど降り注いで、コタロウを埋めてしまう夢を見るだろう。わたしはそれを高見から見物して、ひとしきり笑ったところで、トイレスリッパ片手に埋もれたコタロウを助け出してあげるのだ。
神山さや花、小6、147センチ
神山啓介、小5、144センチ
牧原虎太郎、高2、176センチ
牧原美帆、小6、170センチ
さや花(ケイスケって本当、ミホちゃんのこと大好きだな)
ケイスケ(姉ちゃんってほんと、物好きだよなあ)