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ライバルは17才  メチャクチャ成長が遅い私の記録  下

作者: 麻真

 新学期が始まり、新しい生徒たちが入学してきた。お茶目な悪ガキたちを見送った寂しさはまだ付きまとっているけど、気持ちを切り替えて頑張ろう。せっかく引き続きここにいられることになったのだから、この一年をまた大切にしなければならない。

「ねえねえ、一年生すごいんだよ! 私らが通るとき、道あけるんだよ。私ら一年のとき、先輩が来てもよけなかったよね。」

二年生になったグリたちが、授業中こんな話をしているのが聞こえてきた。全然すごくなんてない。それが普通なのだ。思わず吹き出しそうになった。

 マユは、この前紹介してくれた彼と一緒に暮らすため、施設を出た。近々結婚するつもりらしい。彼氏はいい人みたいなので、うまくいってくれればいいと思う。

 ミヒロは小学校に入り、宿題をやらなくてはならなくなった。平日のレッスンの日は学校が終わってすぐ高速バスに乗り、帰ると夜中だから、バスの中で宿題をやる。みんなに迷惑をかけていることもあるし、これがいい区切りかとやめることを提案してみたけれど、ミヒロはやめたくないと言った。

 だけど、その後次々とイベントの予定が決まり、そのたび毎日レッスンに来いと言われるようになった。毎日来るのが無理だからイベントに出ないと言えば、イベント用に変更された通常のレッスンも見学になる。月謝と交通費を払って見学だけでは通う意味がない。

「やめたくないなら、ばあちゃんに頼んで毎日連れてきてもらう?」

ミヒロに聞くと、

「ううん。これ以上がんばれないから、もうやめる。」

本人が決断し、結局七月いっぱいでタレントスクールはやめた。生活の中心になっていたものがなくなると寂しくなるので、代わりに前からやってみたいと言っていたドラムを習わせることにした。運のいいことに、週に一度、腕がいいと評判の先生が、小学校のすぐ近くの音楽教室に通ってこられていた。今度は学校帰りに歩いて通うことができる。

 

 今年は三年の美術選択者がおとなしい。これが普通の状態なのだろうけど、去年があんなふうだったから、なんだか物足りない感じがしてしまう。三年の授業は週二回あり、一緒に過ごす時間が多いから、この授業の雰囲気で私の生活もずいぶん変わるのだ。

 三年生六人の選択者の中で、一番元気がいいのはアイちゃんだ。彼女はギターを抱え、友だちとストリートで歌をうたったりしているらしい。

「私も曲作ってみてるけど、人前で歌ったことってないんだよね。」

私が言うと、

「先生も一緒にやってみる?」

アイちゃんが誘ってくれた。私の歌を聴いたことがあるのは、通信のテープを添削する先生だけ。ミヒロにもまだ聞かせたことはない。自分がどれだけ通用するのか試してみたい思いは持っているけれど、そういう場所が見つからないでいる。ステージに上がって発表する機会のない私にとって、ストリートは興味のある方法だった。でもこれもルールがあるはず。場所や時間を守らないといけないと聞いたことがある。

「どんなとこでやってるの?」

「いろんなとこでやってるけど、駅が多いかな。」

ちなみに、いちばん近い駅まで、車で二十分近くかかる。

「へえ。うるさいって怒られたりしない?」

「怒られたら、すいません!って逃げるんだよ。」

気の小さい私にはできそうにないな。それに、私が生徒と一緒にそんなことをしていたら、問題になるかもしれない。やってみたいけど、やめておいたほうがよさそうだ。

「アイちゃんは将来、プロのミュージシャンになりたいの?」

「わかんない。先のことはまだ決めてないんだ。もう、ちゃんと決めないといけないんだけどね。」

もう三年の二学期だから、担任からも進路を決めろとせかされているに違いない。

「今のことが精一杯で、先のことなんて考えられないんだよね。先生は絵が好きだから美術の先生になったんでしょ?」

アイちゃんが私に聞いてきた。

「…ちょっと違うかな。」

私は絵が好きだから美術の先生になったのではない。だけど、私が今の仕事を選んだのには、はっきりとした理由があった。

「え? じゃ、どうして美術の先生になったの?」

「若い子たちと一緒にいたくて、学校って職場を選んだんだ。自分が高校の頃つらい思いしたから、同じような悩みを持ってる子の役に立てないかと思ってね。教科は何でもよかったんだけど、勉強つめ込む役になるのが嫌だったから美術にしたの。中学の時、絵で大きい賞をもらったことがあったし。」

「へえ、そうなんだ。先生も悩みがあったんだね。どんな悩みだったの?」

「話すと長くなっちゃうよ。」

「聞きたいよね。」

アイちゃんが同意を求めると、他の子たちの視線も私のほうに集まった。

「そう? じゃ…どこから話したらいいかな。」

これから話そうとしている過去の中に、私がいまだに高校を卒業できないでいる理由がある。


 中学に入学した頃、新しい人間関係になじめず、私は教室の中で小さくなっていた。二年生になるときのクラスがえで周りの雰囲気ががらりと変わり、気分が楽になった。すると急に成績が上がり、単純な私はそれが面白くて、解答用紙の空白を埋めるのが趣味になる。校内暴力や非行が毎日話題にのぼる時代。うちの中学もかなり荒れていたから、勉強ばかりしていい子のレッテルを貼られていた私は、周りから浮くこともあった。だけど、学校という場所では、勉強さえできれば一目置かれ、身の置き場がない思いをすることはないことを知った。中学を卒業するまで、私は成績がよいということだけをたよりに、自分の居場所を作っていくことになる。

 ところが、高校に入ると、私程度にできる人間はたくさんいた。高校生活自体を楽しもうと希望をふくらませていたのに、入学してすぐ聞かされたのは大学受験の話ばかり。一週間で高校をやめたいと思った。

 勉強ができるということ以外に何も持たなかった私は、中学入学当時のように、また居場所をなくしてしまう。人とうまく関わることもできず、高一の終わり頃には教室にいることさえ苦痛になって、授業をサボるようになっていた。

 その頃、父親のワンマンでやっていた小さな会社がつぶれ、父親が家にお金を入れなくなった。私と中学生の妹は、母の内職の収入で生活するようになる。あれこれ理由をつけ働かない父親と、母は毎日けんかをしていた。母に養ってもらっているくせに、私たちを上から見下ろし説教をする、そんな人間を親と呼ぶ気にはなれない。私と母と妹は、家の中でできるだけ父親とすれ違わないように生活した。思わず出くわし、親づらしてものを言われると、言葉にできない怒りで身が震えた。刃物を持っていたら刺してしまうかもしれない、と、何度思ったかしれない。鏡に映る自分の姿に、父親に似たところを見つけると、思わず自分の手首を切り、身体中の血を全部捨ててしまいたい衝動にかられる。私たちを苦しめる、父親に関わるものすべてが憎かった。

 学校にも家にも気持ちが安らぐ場所はない。そして、この世にそれ以外の世界があることも、その頃の私は知らなかった。ぐれてやろうと思ったけれど、近くにそんな仲間もいない。優等生でもなくなり、不良になりたくてもなれない自分が、どうしようもなく中途ハンパでくだらなく思えた。気がつくと、「その辺の家に火をつけたらおもしろいだろうな」などと、とんでもないことを考えていたりする。かなりヤバイところまできていると自分でもわかったけど、相談する相手はいなかった。

 どうせわかってはもらえないと、誰にも自分のことなど話さずにいたのに、担任の先生だけは私の様子がおかしいことに気づいていた。二年に上がるときクラスがえがあったけれど、担任の先生は同じ。問題を抱えた私を、先生が引き続き面倒見ると言ってくれたのだと直感した。

 学校へ行く意味だけでなく、生きていることの意味も見つからなかった。だからといって積極的に死のうとするわけでもなく、本当は生きるということに強く執着している自分がいることも知っていた。生きたかった。何かに一生懸命になりたかった。だけどその何かが見つからなくて、イライラしながらただ時間をつぶした。授業中、文芸部の部室にかくれて、マンガを読んだり居眠りをしていたこともある。別にそれがしたいからではなく、やりたいことが見つからないからとりあえず、である。そのもやもやした気持ちを詩にして文芸部の部誌に載せることが、唯一自分を表現する手段だった。これが私の十七才。

 二年の半ばになると進路の話が具体的になってきて、なりたい職業を決め、進学する学校を探せと言われ始めた。今何がしたいかわからない私に、将来やりたいことなんか聞かれても答えられるわけがない。五年後や十年後なんて生きてるかどうかもわからないのに、そんな先のことを考えるのは、現実離れしたことに思えた。家庭の状況を考えると、大学や専門学校に進学するのは無理な話。妹はまだ中学生だし、私が高校をやめて働いた方がいいくらいの状態なのだ。

 父親はその頃、私に「芸大へ行け」と言っていた。中学の写生大会で描いた絵が、文部大臣奨励賞という賞をもらったことがあったからだ。ご飯も食べさせてくれないくせに、特別金のかかる芸大などと、よく言えたものだとおかしかった。

 家の状態を話し、進学なんか考えてないと言ったけれど、担任は私にどうしても大学へ行けと説得し続けた。私の性格だと、大学に行かなければ必ず後悔するというのだ。お金がないなら奨学金や授業料免除の制度もある。寮に入れば生活費も節約できる。バイトもすればいい。あらゆる手段を探し、とにかく大学に行って、自分が納得する仕事につくべきという。放課後毎日呼ばれ、同じ内容の話が繰り返される。私はそれを、ウザイの半分、暇つぶし半分で聞いていた。だけど、二年の終わり頃にはその言葉もこたえるようになってくる。今どうにかしなければ、私に未来はない。

 十七才の私は、大学に行くことを前提に、自分が充実してやっていけそうな仕事は何かを考え始めた。まず、進路の本を見て、これはやりたくないという職業を消去していく。一日中机についてする仕事は向いていない。とっさの判断とすばやい行動を求められる仕事は無理。退屈な仕事は続かない。取り替えのきく歯車になるのはいやだ。ほとんどの仕事が候補からはずされていく。

 毎日変化のある職場。心を病んだことが役に立つ場所。だれがやっても同じ答えが出るのじゃなく、私がやったら私なりの答えが出る仕事。必死で探して、たどり着いた答えは、案外身近なところにあった。私の思うすべての条件を満たす職場は、私の嫌いなこの学校という場所だった。

 教員になろう。教科なんて何でもよかった。できれば勉強を教えるよりも、生徒とたくさん話がしたい。最初に浮かんだのは養護教諭だった。

「養護教諭は今、ほとんど採用がないよ。」

担任の言葉であっさりあきらめ、何の教科にするか考えた。受験勉強を詰め込む役はしたくない。じゃ、美術はどうだろう。心にたまっているものを吐き出させながら、生徒と関わっていくことができるんじゃないだろうか。中学の時賞をもらった経験もあるし、これなら人に教えることもできそうだ。

「県内に戻るなら、美術もほとんど採用がないよ。小学校教員の課程に入って副専攻で美術を取れば、中学と高校の美術の免許が取れる。小学校で採用試験を受けて就職して、何年か勤めてから中学に転勤希望を出せば、いつか変われるよ。中学美術で大学を受験するならデッサンの実技試験があるから、今からじゃ、もう間に合わないし。」

担任は言った。いったい何年かかるんだろう。全く興味のない小学校を経由する遠回りなどしたくはなかったけれど、目的の場所にたどり着かなければ何も始まらない。ここはおとなしく、先生の言う通りにすることにした。

 そこからいきなり、受験勉強に火がついた。経済的なことを考えると、受けられるのは国立だけ。二年になってから授業もかなりさぼっていたし、成績も下がっていた。厳しいけれど、私が私として生きていくには、このハードルを越えるしかない。大学に合格することだけ考えて、ひたすら勉強するのみだ。

 中学の頃に自宅学習の習慣がついていたから、目標さえできればさほど苦もなく勉強に取りかかれた。平日は帰宅してから五時間くらい、休みの日は八時間くらい勉強する。何も迷うことなく、ただ勉強すればいい生活は、迷っている頃よりずっと楽だった。入試は無事通過。美術の教員になるための最初の切符は手に入った。

 受験が終わって振り返ってみたら、高校時代、私が本気で取り組んだのは、受験勉強だけだった。そのおかげで教員免許を手に入れ、今それを使って、生徒たちに囲まれ、幸せな生活を送っている。だけど受験勉強で詰め込んだ知識は、社会に出て役に立たないものが多かったから、充実感はそれほどなかった。青春と呼ばれる、一生のうちで一番美しい思い出を残すはずのとき。何かに夢中になりたいという若さゆえの情熱は置き去りになり、私の高校生活は不完全燃焼のまま終わった。

 大学では寮に入り、奨学金や授業料免除の制度に助けられたので、少しバイトをすれば仕送りはしてもらわなくてすんだ。

 ここでもやはり人間関係をうまく築くことはできず、落ち込んでばかりいた。文章を間にはさんで、間接的に若い子たちと関わることを夢見るようになったのは、そんな理由からだった。けれど、意志の弱い私は、断片的に文章を書きなぐってみただけで、ちゃんとした作品にまとめることはしなかった。遠い山のてっぺんに手を伸ばし、届かず挫折するのもいやだったし、そういう方向に進んで言い訳のできないところに追い込まれていくのも怖かった。

 行動しないくせに、教員採用試験の時期になってもその夢は捨てられず、試験は一度見送った。卒業して家に帰り、近くの中学に産休の代理で勤めてみると、案外生徒たちとの人間関係はうまくいった。どんなタイプの子たちとも、それなりにつっこんだ会話ができるし、大変なできごとがあっても、生徒がらみならなぜか踏ん張れる。特に、少し悪ぶった子たちといる時間は楽しかった。生徒たちと過ごしている私は、学生時代になりたくてもなれなかった自分そのもの。きちんと生徒たちと向き合うことで、初めて人としての幸せを感じた気がした。

 人間関係がうまく築けなくて文章に頼ろうとしていたのだから、それができるなら文章の力を借りなくていい気もしてくる。だけど、夢を捨ててしまうこともできなかった。そのまま臨時教員を続けながら夢も追おうと欲張ったけれど、日々の忙しさや充実感で、いつの間にか夢は薄れ、消えていった。だけどそれは、何かの拍子に思い出したように頭をもたげ、しばらく私の頭の中を支配する。そして、忙しくなるとまた波間に見え隠れし始め、やがて見えなくなって、そんなものがあったことさえ忘れてしまう。何度もそんなことを繰り返してきていた。そして去年、サオリが作った本を見たとき、やっと気づいたのだ。迷うのは形にした後だということ。作品も作らずあれこれ心配していた私は、今思うと滑稽だ。

 そのときやりたいことを、何ひとつやってこなかった私。何もしなかった後悔は、何かして失敗した後悔よりもはるかに大きい。その痛みはいまだ癒えることなく、卒業できない夢となって私にのしかかってくる。その状態から脱出するには、やりたいと思っていてやらなかったことを、これから実行していくしかない。

 半分なりゆきで絵を描いているけれど、私にとっては絵よりも言葉の方が、自分の気持ちを伝えやすい。私が一番やりたいことは、今でもやはり、言葉による人との対話だ。長い文章でなくていい。歌詞という形で思いを伝えていきたい。今追いかけている夢は、あの時の夢の続きでもあるのだ。


 「…今私がここにいるのは、こんな流れからなんだ。」

ひと通り話し終わると、絵を描く手をとめ、アイちゃんが言った。

「へえ、思ってたのと全然違ったな。先生もいろいろあったんだね。」

「みんなは私みたいな後悔をしないように、今やりたいことを一生懸命やってね。」

「うん。頑張ってみるよ。」

授業終了のチャイムが鳴り、アイちゃんたちは帰っていった。

 自分の言葉のように言ったけど、最後の言葉はここにきて私が生徒たちに教わったことだ。今を生きるということ。こんな大切なことを、この年になるまで知らないで生きてきた。誰かの役に立ちたいと思い、この仕事を選んだはずだったけど、逆に生徒たちから教えられてばかりだ。

 臨時の私は、いつまでもここにおいてはもらえない。私も生徒たちと同じ。ここで立ち止まってはいられないのだ。生徒たちと一緒に、道に迷いながら行き先を探している今の状況は、私にとって百点満点で二百点くらいの、満たされた状態。だけど、高校をきちんと卒業して新しい自分になれたら、今よりもっと充実した、三百点の生活にたどり着ける気がする。


 「ママ、私、赤ちゃんができたみたい。」

マユから電話がかかってきた。

「わぁ、おめでとう! もう病院には行ってみたの?」

「それがまだなの。彼が女の先生にしか診てもらったらダメっていうから、女の先生がいる病院探してるんだよね。」

「へ?…あ、そう。急がないといけないね。私も調べてみるよ。」

「ありがとう。これを機会に、ちゃんと籍を入れることになりそうなんだ。」

「それがいいね。体調に気をつけて、赤ちゃん大事にしてね。」

「うん。」

電話の声から、マユの幸せが伝わってきた。お医者さんにヤキモチやくくらいだから、大事にされているのだろう。そして彼女は、高校時代望んでいたお母さんになる。


 二年目はあっという間に過ぎて、この学校に来て二度目の卒業式を迎えた。今年は退場の音楽をかけてから階段を駆け下りることはせず、放送室から卒業生を見送る。

 アイちゃんは就職が決まり、街へ出て行く。彼女が胸を張って「自分が選んだ」と自慢できるものが、そこで見つかるといい。そして私も、次に彼女に会うまでに、漠然とした夢を少しは形にしていたい。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 四月。私はもう一年同じ条件で勤めさせてもらうことになり、私が来た年に入学したグリたちは三年生になった。今年は文化祭でアコースティックライブをするのだと、グリとヤスコが張り切っている。女子のライブは初めての試みらしい。

「学校でも練習したいんだけど、毎日ギター持ってくるの大変なんだ。先生のギター、学校に置いといてもらえない?」

私がひそかにギターを練習してることを知っていて、グリとヤスコがやって来た。

「わかった。明日持ってくるから、いつでも使って。」

私のアコギは、次の日から準備室に置くことになった。


 今度の一年生は全体的に落ち着いているが、一人ちょろちょろして目立つやつがいる。柴田という。遅刻してくることもあれば、来ないこともある。美術だけでなく、どの教科もそんな調子らしい。あまりしゃべらないけど、いつも顔は笑っていて、外見は他の子たちよりおとなびている。失礼な言葉を使えば、老けている。たまにボソボソとしゃべる声が低くてよく響き、「この子、歌をうたったらいいような声をしてるな。」なんとなくそんなことを考えていた。

 三時間目から一年生の授業。今日は柴田が最初から来ている。例によって何もせず、教室の中をうろうろと歩き回っては、人にちょっかいを出し、ニヤニヤ笑う。

休憩時間、準備室にいたら、柴田がドアをそっと開けて、中をのぞき込んできた。

「あ、ギターがある! 誰の?」

準備室に駆け込んでくると、ギタースタンドに立てたギターをいろんな角度からながめる。

「私のだよ。三年の女子がライブの練習するから持ってきたんだ。」

「ライブかぁ、いいなあ。オレも弾き語りとかやってみたいんだよな。ちょっと弾いてみていい?」

「どうぞ。」

やっぱり歌をやってるのか、と思ったら、ギターをさわるのは初めてのようだ。

「どうやって弾くんだろ。先生弾けるの? なんか弾いてみてよ。」

「私? 私もあまりうまく弾けないよ。」

ギターを弾いている姿を人に見せたことは一度もなかったから、弾いてみせることにかなり抵抗があった。だけど、コイツはまだやったことがないんだから、下手でもわからないか。柴田からギターを受け取ると、尾崎豊の曲の最初を少しだけ弾いてみた。

「へえ。やっぱ、ギターっていい音が出るね。」

私が弾いてもいい音に聞こえたようだ。ちょっとホッとした。

それにしても驚いた。まるで、私が「やってみれば?」とでも言ったかのように、「歌をうたえばいいのに」と思ったそのままの展開になってきている。柴田は学校に来ている日は毎日、昼休憩にギターを弾きに来るようになった。まともに弾けない私が、教える側になってしまった。

 

 六月に入り、文化祭の準備も本格的になってきた。

「教室はクラスのイベントで使ってるんだ。練習する場所がないから、準備室でやらせて。」

グリとヤスコがやってきた。

「いいよ。私は荷物運んでくるから、ごゆっくりどうぞ。」

今年は壁や天井、床などをきれいにする大きな工事が入っていて、文化祭前までに美術室と準備室にある荷物を全部運び出さないといけないのだ。準備室の方はもうほとんどカラになっていて、音がよく響くので、気持ちよく練習できるだろう。

 今回の工事、引越し業者を頼む予算がないから、自分の担当する場所は自分で全部運ぶことになっている。美術室には、重たい石膏像や、捨てられない昔の生徒作品、何に使うのかわからない古い道具など、気が遠くなるほどの荷物があった。これを一人で運ぶなんて、できるわけがない。三月にこの話を聞いたときにはそう思った。けれど、その苦難から逃れる方法は、この学校の仕事自体を断る以外になかった。まだここにいたい。その執念だけで、私は必死にこの無茶な仕事をやっている。半分くらいの荷物は捨てることにしたけど、遠いゴミ捨て場まで運んでいくのはやはり自分。使う労力は同じだ。戸棚など大きなものは手の空いた生徒に手伝ってもらいながら、授業以外の時間はすべて、荷造りと荷物運びに費やしていた。

 美術室は四階。渡り廊下を使って隣の館のエレベーターまで台車で運び、一階に下りると、エレベーターがある棟とは反対側の講堂まで台車を押していく。講堂は十数段ほど階段を上った所にあるので、台車はその下まで。そこからは、ダンボールを一個ずつ手で運んでいく。

 やっと台車に乗っていた荷物を運び終え、カラの台車をエレベーターに運んでいると、そこまでグリたちの声が聞こえてきた。暑くなってきたから、窓を開けて練習しているのだ。

「誰が歌ってるの?」

下級生が四階の窓を見上げて聞いてきた。

「三年が文化祭のライブの練習してるんだよ。」

「え? だれ?」

「グリとヤスコ。」

「へぇ、ギターとか弾けるんだ。」

後輩たちも興味を示し始めている。ライブには案外たくさんの人が集まるかもしれない。

 準備室に戻ってみると、なんだか変な空気が漂っている。

「先生って、歌詞書いたりする?」

グリが聞いてきた。

「たまにね。なんで?」

二人は顔を見合わせて、にやりと笑い、いきなり弾き語りを始めた。

「歴史見つめてきたものたちに 想いを寄せる暇もなく 捨てていかなきゃならない私を どうか許して…」

あーっ! これ、私がさっき思いつくまま書きなぐって、机の引き出しにつっこんだ詩だ!

「きゃあ! 勝手に人の引き出しあけるんじゃない!」

真っ赤になって、両手でかわりばんこにヤスコの頭をポコポコ殴った。授業中にポコンとやろうもんなら体罰だと騒ぐけど、やはりこんなとき、生徒は全く抵抗しない。

「文字の数ちゃんとそろえといてくれなきゃ、曲つけづらいじゃん。」

時間がないから後でやろうとそこに入れといたのを、あんたたちが勝手に引っ張り出したんでしょうが。それにしてもいい曲だった。この子ら、けっこう才能あるのかも。

「そう言えば、楽器店にオリジナル曲のオーディションのチラシが貼ってあったよ。私らやってみようかって言ってるんだけど、先生もどう?」

「へえ、おもしろそうだね。」

かなり興味があった。この前通信添削でほめられた曲なら、人に聞かせてもいいかもしれない。でも、待てよ…

「それって、年齢制限あったりしない?」

「ないない。三十才までだから、全然大丈夫だよ!」

「…大丈夫じゃないじゃんか。」

「え? 先生って、いくつ?」

「もうすぐ三十八だよ。」

「もうそんな年なの? 知らんかった…」

あのグリが黙ってしまった。外見が若く見えても、精神年齢が未熟でも、実年齢で拒否されることは多々ある。そのオーディションに関しては、私はもう参加する資格がない。


 長い間悩まされた、工事のための引越しも終わり、文化祭がやってきた。例年のように男子のライブが午前中にあり、午後にグリたちのアコースティックライブが組まれている。初めての試みだった女子のライブも、思いのほかたくさんの人が入り、午前中のバンドのライブに負けないくらい盛り上がっている。練習の時からずっと見てきたから、自分のことのようにうれしい半面、少し寂しかった。ほんのちょっとだけでいい、私も参加させてもらえばよかった、ステージを見上げているうち、そんな思いがよぎり始めたのだ。

 四月からひたすら荷物運びに明け暮れ、疲れはてていたので、彼女達のライブと自分の夢を結びつける発想なんて浮かばなかった。思いついたとしても、クタクタの私には、ギターの練習をする気力もなかっただろう。工事がなければ私もあのステージの上にいたかもしれない。今回もまた、私は見ている人。私にはいまだ、人前で演奏するチャンスは巡ってこない。


 文化祭の二日後、

「今日の朝、生まれたよ。」

マユから電話があった。

「女の子だよ。」

「おめでとう! 二人とも元気なんだよね?」

「うん。」

短い会話だったけれど、マユの声は幸せに満ちていた。彼女はついに、彼女の夢だった「お母さん」になったのだ。すぐに病院に会いに行きたかったけれど、仕事が休めず、入院中には行くことができなかった。退院したらしばらく旦那さんの実家にいるということだったので、ずうずうしく押しかけない方がいいだろう。マユがアパートに帰るのを待って、アカネと二人で会いに行った。もう夏休みに入っていた。

「来てくれてありがとう。ミサキだよ。」

マユは、私以上に幸せな人はいないというような表情で、ゆったりと自分の生み出した命を抱いていた。壊れそうにデリケートなその子は、マユの腕の中でゆっくり瞬きしている。

「抱いてみる?」

笑顔で言うマユに、アカネと二人、顔を見合わせた。アカネが先に手を伸ばす。まだ抵抗することを知らないミサキちゃんは、されるままにマユの手からアカネの腕の中に移った。アカネはぎこちなく、でも落とさないように気をつけて、ミサキちゃんを胸に抱く。

「かわいい。」

顔をのぞき込んで、アカネが言った。

「でも居心地悪そうな顔してる。私の抱き方が悪いのかな。」

アカネが私の方にミサキちゃんを向け、交代しようと目で合図した。私はそっと手を伸ばす。そしてアカネから恐る恐るミサキちゃんを受け取ったけれど、アカネと変わらないくらい、私の抱き方もぎこちなかった。七、八年も経つと、赤ちゃんの抱き方なんてすっかり忘れてしまっている。というより、生活に追われていた私は、自分の子をゆっくり抱くことさえしていなかったのかもしれない。最近になってミヒロを抱くことが増えてきたので、ミサキちゃんはずいぶん軽く感じた。壊れてしまいそうで、すぐにマユの腕に戻した。

 ミサキちゃんを産むときのこと、生まれてから今日までにあったできごと、マユは楽しそうに話してくれた。初めての出産、子育てには、たくさんの不安や苦労があったはずなのに、マユの口調からはそんな大変さは感じられない。母になるという夢が現実になった今を、マユは慈しみ、かみしめ、自分のものにしているように見えた。三十才でミヒロを産み、自分のペースを乱されることにいら立ってばかりいた私とは大違いだ。私は、いまだに胸を張って「私は母だ」と言える自信がない。けれどマユが赤ちゃんを抱く姿は、すでに母だった。

 三時間近く話し、マユが夕飯の支度を始める頃に、私たちはアパートを出た。


 二学期に入り、夏休みの工事できれいになった準備室は、柴田たちグループの溜まり場となっていた。一年生の教室は隣の棟の同じ四階で、渡り廊下を渡ってすぐだから、休憩ごとに団体でやってくる。六人だったり、七人だったり、そのうち半分くらいは、一年生を二回やっている子たちだ。昼にはここで弁当を食べ、カラを散らかしていく。

「弁当のカラは自分で片付けな!」

怒鳴り散らすのが私の日課になった。私がその子たちと奮闘している間、柴田はひとり自分の世界に入り、ギターを弾いている。

「ストリートで歌いたいんだ。知ってる人の前で歌ってもおもしろくないし。」

柴田が言った。私も同じ思いは持っているけど、私にはまだ人前でギターを弾ける力はない。一人で弾き語りというのは、あまりに荷が重すぎる。柴田はまだ、私以上に未熟だけれど、今すぐにでも街に出て歌ってやろうという気満々だ。中途半端な状態を人前にさらすことが、恥ずかしくはないのだろうか。でも、恐いもの知らずのこいつの方が、私よりずっと早く目標にたどり着くような気がする。

「やっぱり難しいな。どうやったらうまくなるんだろう。」

ギターを弾く手を休め、柴田がつぶやいた。

「プロになった人が、高校時代は一日十時間弾いてたとか言ってたよ。そのくらいやりゃ、いやでもうまくなるんじゃない?」

「…言葉が出ないね。」

「学校はまともに行ってなかったらしいけどね。だいたいそんな生活なんて、普通できないじゃん。」

言った後で、ヤバかったかなと思った。コイツはまねをする可能性がある。柴田は入学した頃からずっと、まともに授業に出ていないのだ。家からバスや電車を乗り継ぎ、一時間半かけて通う道のり。一つ乗り遅れれば乗り継ぎがうまくいかず、一時間以上待つこともあるらしい。学校に着いたら午後、なんてこともよくあるようだ。このままだと進級できないと、担任の先生から何度も言われているのに、こいつは全然変わらない。一緒に美術室に来る子たちもサボることはあるけれど、一応は「この時間はこれ以上休むとヤバイ」というような計算をしている。ところが柴田はそんなことを考えている様子もなく、気の向くままに過ごしているのだ。このままいくと、間違いなく二学期中に結果が出てしまうだろう。

「進級する気あるの?」

時々聞いてみる。

「あるよ。」

いつも返事はそう返ってくる。


 「今日英語に出なかったらもう進級できないって言われてたんだけど、出なかったんだ。もうホントにダメなのかな。あやまったら、何とかなるかな。」

「え…?」

放課後やってきた柴田が言った。来るべきときが来たようだ。こいつにしては深刻な顔なのかもしれないけれど、ことの重さが本当に分かっているようには思えない。謝ればすむという発想が軽すぎる。

「ちょっと、あやまってくる。」

「…たぶん、どうにもならないと思うよ。」

「でも、一応行ってみるわ。」

少し笑顔が引きつってきた。やっと自分の置かれている状況がわかってきたようだ。この学校のシステムでは、たぶんどうやっても、もうどうにもならないはず。万が一、今回どうにかなったとしても、本人に変わる気がないのだから、またすぐ同じ状況になるだろう。結局、柴田は今年度いっぱい休学し、四月からもう一度一年生として復学することになった。それと前後して、二年目の一年生たちも、ポツリポツリと学校を去っていった。私にできることは何もなく、ただ見送る。準備室はさびしくなった。


 ギターの音がしているのが当たり前になっていた美術室には、しばらくすると二年生のバンドの子たちが練習をしに来るようになった。三年生を中心に、卒業式のあとに卒業ライブというイベントを計画しているらしく、二学期のうちから練習に取りかかっているようだ。ギターにベース、アンプと次々に道具が運び込まれ、美術準備室はいつの間にか、軽音楽同好会の部室のようになってしまった。昼休憩も放課後もかなりやかましい。だけど、見ていると勉強になることもあるし、生徒たちが音楽に向けるエネルギーの中にいるのは心地よかった。いいのか悪いのか、今年は美術部がゆうれい部員ばかりでほとんど活動していなかったので、うるさいと文句を言うものもいない。

「ドラムできるやつが足りないよな。もう一人くらいいてくれたらいいのにな。」

昼休憩の準備室で、ギターの鶴田がぼやいていた。

「うちの娘がやってるよ。ためしに一曲やらせてみる?」

半分冗談で言ってみる。ドラムを始めて一年ちょっと経ったミヒロは、最近バンドをやってみたいと言い始めていたのだ。

「何年生だっけ?」

「今小学校二年生。バンドやりたがってるんだよね。」

「二年生? ちゃんと曲できるの?」

「CDに合わせて曲叩いたりはしてるけど、まだバンドで演奏したことはないよ。」

「一回やってみたらおもしろいかもな。今回は間に合わないけど、文化祭にやってみるか。」

「いいかもね。」

同じバンドのベース、広川も話に乗ってくる。相手にしないだろうと、半分冗談で言ったのに、二人は本気でミヒロとやってみようと計画を始めた。

「ついでに私に歌わせてよ。」

ミヒロのおまけになってやろうと思ったら、

「ダメ。ボーカルはいくらでもいるの。」

こっちはあっさり却下された。ボーカルがおばさんじゃ、カッコつかないってことだろう。また私は置いてけぼりになるけど、ミヒロだけでもバンドを体験させてやれたら、いい経験になる。

 

 卒業ライブに向け、準備室の楽器は忙しく働きつづけた。若者はすごい速さで成長する。初心者もいたのに、毎日聞いていると日に日にうまくなり、簡単に私を追い抜いていく。その活気の中で、部屋の主であるはずの私は、また取り残されて複雑な気分を味わっていた。私もライブがやりたい。どうしてもその壁を越えたい気持ちが、押さえられなくなってきていた。   

 私がバンドに入り込むのはむずかしい。だったら下手なギターをもっと練習して、一人で弾き語りをやるしかなさそうだ。もう少し頑張れば、もしかして卒業ライブにもぐりこむことができるかもしれない。ライブの中心になっているのは、一、二年の時美術を選択していた子のようだ。一曲だけでも歌わせてもらうことはできないか、一応きいてみよう。二月に入り、三年生はもう登校していないから、その子のアドレスを知っていそうな生徒に聞いてメールしてみた。でも、アドレスが変わっていてメールは届かなかった。仕方がないので、参加することはあきらめた。

 いや、どうにかして連絡しようと思えば、何か方法はあったはずだ。だけど、私はそれ以上動かなかった。心のどこかに、連絡が取れなくてホッとしている自分がいた。人前で歌いたいと言いながら、自信がなくて尻込みしてしまったのだ。

 弾き語りとなると、苦手なギターをひっかからないように相当頑張らなければいけない。それがなんとかなったとしても、一人でその場を持たせることができるかどうか、やはりこわかった。

 だけど、やはりあきらめきれない自分がいて、当日いきなりギターを持って行って飛び入り参加することを考えながら練習は続けていた。参加するのは知ってる子がほとんどだから、勇気をふりしぼれば、それは許される気がしたのだ。チャンスは準備してから待つもの。いつでもステージに上がれる準備だけしておけば、めぐってきたチャンスをつかむことができるかもしれない。


 ついにグリたちの卒業式はやってきた。たまたま今年は三月一日が土曜日。普通なら学校は休みなのだけれど、卒業式は毎年三月一日と決まっているから、その日に行われた。今年もまた、二階の放送室から見下ろす卒業式だ。今年はかわいらしいオルゴールの曲で卒業生を送り出す。先生たちが退場口に花道を作り始めた。CDのスイッチを押すと、花道に加わるため、放送室を出て階段を駆け下りた。

 グリ、ヤスコ、アカネ… 私がこの学校に来るのと一緒に入学してきた子たち。一つの学校にこんなに長くいたことはないから、三年間通して見た生徒を送り出すのは初めてだ。花道を通る子たちとの思い出がよみがえる。出会った頃は、先生の言うことになんか耳をかさなかった子たちも、三年間お世話になった先生にちゃんとあいさつをして、会場をあとにした。全員が退場すると、私はまた放送室に駆け上がる。CDを止め、後片付けだ。この係をしていると、落ち着いて感傷にひたれない。いつまでも引きずるタイプの私には、その方がいいのかもしれない。

 卒業ライブは、その日の午後。学校が休みのミヒロを家まで迎えに帰り、急いで会場に向かった。最後まで迷ったけれど、どうしても勇気が出なくてギターは置いてきた。

 開演時間ギリギリに会場に入ると、ギターを抱え、準備しているグリたちがいる。え?文化祭のライブと同じで男子のバンドだけが出ると思い込んでいた。女子のアコースティックライブもやるんだったのか。それなら私も違和感なく入り込めたのに、なんて大きなチャンスを逃してしまったんだろう。後悔している私を置き去りにして、卒業ライブは始まった。

 最初は下級生のバンド。そして、この日のために組んだ、にわか作りの三年生バンド。「うまくはないけど、一緒に楽しもうよ!」そんなステージの上の空気が、会場いっぱいのお客さんにも伝わり、盛り上がっていく。

 バンドが交代する切れ目の時間、鶴田と広川がやってきた。

「娘さん?」

「そうだよ。」

「今度一緒にバンドやらせてもらう鶴田と広川です。よろしくお願いします。」

私には敬語なんて使ったことのない鶴田がていねいにあいさつをし、小学校二年生のガキに深々と頭を下げた。その態度に、ミヒロ以上に私の方がとまどい、緊張した。こいつら本気だ。ミヒロを一人前のドラマーとして扱い、完成した演奏を実現させようという気持ちが伝わってくる。これはいいかげんな気持ちでやらせるわけにいけない。ぽかんとしているミヒロを押さえつけ、

「あんたもちゃんとあいさつしなさい!」

無理やり頭を下げさせた。鶴田たちが去った後、

「あんたよりずっと年上の人が、むこうから頭下げに来たんだよ。その期待に、ちゃんとこたえなきゃいけないね。」

ミヒロに話しながら、自分にも言い聞かせる。こっちからミヒロを連れてあいさつしに行くべきだった。私が思っていたより、事は重大だったのだ。身が引き締まる思いで、その後のライブを見た。

 男子のバンドが充分に会場をわかせたあと、女子のアコースティックライブをはさみ、中心になっていた三年生のバンドが最後を締めるようだ。三年は男子と女子の仲があまりよくなかったけれど、今日は協力していい雰囲気でやっていた。終わりよければすべてよし。そんな言葉が似合うすがすがしいイベントで、彼らは高校生活三年間の幕を閉じた。

 ライブをやりきり、卒業していくグリたち。バンドに入れてもらえることが決まり、目標に一歩近づいたミヒロ。最初の一歩を踏み出すチャンスを見送ってしまった私は、また取り残される。


 寝起きの悪い朝だ。またあの夢を見たのだ。三年間一緒に過ごしたグリたちにも、やはり置いていかれてしまった。

 やりたいことをやってみようと決めたけれど、結局私は何も行動できないでいる。人に隠れてこそこそ曲を作って、ひとりきりの部屋でだけ歌っていたのでは、今までと何も変わらない。外に出なきゃ。そして、人前で演奏しなきゃダメだ。私より未熟なはずの若者にできて、私にできないはずはないのだ。

 今回また、自信がなくてチャンスを見送った。納得いく技術が身につくまで待っていたら、生きてるうちにステージに上がる日なんてこない気がする。「うまくはないけど、一緒に楽しもうよ!」ライブで卒業生たちが見せてくれたあんな気持ちが、私には必要なんだろう。またひとつ、生徒たちに教えてもらった。

 次々に入学してきては、私を追い越し、卒業していく生徒たち。いつまでも卒業できない私は、うらやましさや妬ましさを持って、その姿を見送る。いつまでもこのままじゃ、私があの子たちに教えてあげられることなんて何もない。逆に教えられてばかりだ。私は仮にもあの子たちに先生と呼ばれ、授業をし、それでお金をもらって生活しているのである。先に生まれても、後ろをついて歩いてるんじゃ、先生なんて呼ばれる資格はない。

 もう一度十代に戻って生き直すことはできない。でも、今ここからなにかを始めることはできる。幸いなことに、私はまだ生きている。自分の置かれている状況の中で、最大限に生きようとする高校生たちのように、私もまだ夢を追うことはできるのだ。せっかくやりたいことを見つけたのだから、今度こそ行動してみよう。あれこれ考えているだけじゃなく、まず一歩を踏み出さないと何も始まらない。

 そんな生き方を教えてくれたのは、たくさんの生徒たちと、私よりも三十年遅く生まれた、しかも私の中から出てきた小さな娘だ。


 グリたちが卒業し、学校は急に静かになった。このときがチャンスと、校則が急に厳しくなる。遅刻やサボりもほとんど無くなったし、服装も乱れていない。この状態で三月を過ごし、ある程度定着した四月に新入生を迎えるという計画だろう。

 私は四年目も臨時で勤めることが決まった。三年が過ぎ、来た頃とは全く雰囲気が変わったこの学校で、もう一年チャンスをもらった。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 四月から一学年下のクラスに混じり、柴田が復学することになっている。始業式の日、早速ギターを抱えて、ヤツは準備室にやってきた。

「ギターうまくなったよ。」

弾いて見せてくれたら、本当に見違えるほどうまくなっている。

「一日十時間弾いたからね。」

…え?

「…まさか夜中に弾いてたんじゃないよね…?」

夜と昼が逆転した生活をしているようだと担任の先生から聞いていたので、おそるおそる聞いてみる。

「一晩中弾いてたよ。家じゃうるさいって怒られるから、川原行ってね。」

けろっとした顔で、ヤツは答えた。なんてことだ。近所から苦情はこなかっただろうか。一日十時間なんて、けしかけるようなことを言ってしまった私も責任を感じた。

「文化祭でライブやるんだ。」

それが楽しみで復学したというように、柴田は初日から張り切っている。

 この学校では、文化祭のライブは体育館と決まっているが、

「アコギはやっぱりストリートよ。外でやる。」

と、譲らない。

「それは今まで例がないから、生徒会にきいてみないと、できるかどうかわからないよ。」

「じゃ、きいといてよ。」

「はい、はい。」

 生徒会にきいてみたけれど、やはり、今まで外でやった例はないからダメだと言われた。体育館のライブに混ぜてもらえば? と言っても、広いところはいやだと言う。

「こじんまりしたところで、マイクなしでやりたいんだ。」

「それじゃ、美術室でやったら?」

私が責任を持っているこの場所なら、たぶんダメとは言われないだろう。

「あぁ、これくらいの広さならいいね。」

柴田もその案が気に入ったようだ。私から生徒会にお願いし、ずっと私がついて見ているという条件で許可をもらった。

 柴田のために考えた案ではあったけれど、これはもしかしたら、私にとっても願ってもないチャンスなのじゃないか。今の私でも、この規模ならなんとかなる。いつも生徒の前で授業をしているこの場所で、お客さんも生徒ばかりなら、緊張せず自分のペースで演奏できるだろう。思い切って一緒にやってみよう。

「ここでやるなら、私にも何曲か歌わせてね。」

「いいね。一緒にやろうよ。」

私が用意した場所なのだから、柴田がダメと言うわけはない。話はあっさりと決まった。柴田にとっても私にとってもこれが初ライブ。今度こそ、コイツと並んで私も進級し、卒業してやる。人に聴かせられる演奏ができるように、しっかり練習しよう。口コミで人も集めなければ。しっかり宣伝しなきゃ、四階のこんなへんぴな所に人なんか来ない。

 柴田は、ギターは確かにうまくなっていた。でも歌の方は全く成長していない。せっかくいい声をしてるのだから、基礎の発声練習をやればうまくなるはずだ。

「基礎的な発声練習なんかやってみてる?」

「なにそれ? そんなものがあんの?」

「え? 知らないの? 明日ビデオ持ってきてあげるよ。声の出し方間違ってるみたいだから、よく見て練習してみなよ。」

「ありがと。」

「他にも見たいって言ってる子がいるから、見たら持ってきてね。」

「わかったわかった。」

説教されている時と同じ、うわの空の返事。こいつに物を貸して、ちゃんと戻ってくるんだろうか。次の日ビデオを貸してやったけど、予感した通り、二度と返ってこなかった。ヤツがそれを見たのか見てないのかも定かではない。

 そんないいかげんなやつだけれど、音楽のことを何もわからないまま、とにかくがむしゃらにやってみているその姿が、自分と重なって、手を貸したくなる。今回りにいる音楽小僧たちの中で、私のいる場所に一番近いのは柴田だろう。こいつも私も、目の前の目標は初ライブだ。


 それにしても、柴田は学年が下がっても全く懲りていない。去年と同じように遅刻してきて、授業も平気でサボる。ひどい時には放課後やってきて、ギターだけ弾いて帰る。文化祭のライブのために学校に来ているようなものだ。新しい担任も私も、なんとか変わらないかと話をしてみるけれど、ぬかに釘。これじゃ今年も、時間の問題で同じ結果が出てしまうだろう。二回進級を逃して、それでもこの学校でねばるという子はほとんどいない。やめて働くか、通信制の高校に転校するなど、環境を変える場合が多い。柴田もそうなるのでは… 口には出さないけれど、誰もがそう感じ始めていた。

 もし途中でこの学校を去ることになったとしても、この学校にいた時間が、あいつの人生に何かを残してくれるといい。ライブはあいつの人生にとって貴重な経験になるはずだ。一番やりたいことをやってみることで、ヤツも何か変わり、やる気になるかもしれないし、とにかく、今回のライブは成功させたかった。

 しかし、文化祭の準備が具体的になってくる五月半ば、柴田はほとんど学校に来なくなった。

「文化祭のイベント申し込みの日は絶対来ないと、ライブはできないよ。」

久しぶりに顔を見たとき、釘をさしたけど、

「わかってるよ。」

いつも通り、うわの空の返事。そしてその大切な日、やはり柴田は学校に来なかった。私が申し込みに行くわけにもいかないし、柴田の手伝いでコーラスをする予定の生徒に行ってもらった。

 あんなにライブを楽しみにしてたヤツが、いったいどうしたというんだろう。いくらいい加減な柴田でも、ライブを投げ出すなんて絶対おかしい。何かあるに違いないけど、いつもつるんでいる子たちに聞いても、何も知らないという。私同様、仲間たちも柴田の変化を心配していた。

 何日か後、家庭の事情で退学しなければならなくなったと、柴田が担任の先生に連絡してきた。急な話で、担任の先生もとまどっているようだ。今年度中に学校を去るかもしれないとは思っていたけど、こんなに急に…しかも、あれほど楽しみにしていたライブを目前に控えた今、やめなければならないなんて。私たちがショックな以上に、本人は相当なダメージを受けているに違いない。だけど、そんな深刻な顔を、今まで誰にも見せなかった。柴田はそういうヤツなのだ。

 退学の手続きをしに来た日、柴田は置きっぱなしにしていた楽譜などの荷物を取りに、準備室にやってきた。

「やめること、まだみんなに話してないんでしょ?」

「…言えないね。」

「みんな心配してるから、ちゃんと自分で話しなよ。」

「うん。」

短く答えると、

「ちょっと歌っていくわ。」

柴田は、ライブをやるはずだった美術室にギターを持ち込み、歌をうたい始めた。他には誰もいない放課後の美術室に、柴田の声はよく響いた。外でクラブをしている生徒たちにも、きっと届いているに違いない。

 二、三曲歌った後、一息つくと、柴田は立ち上がり、ギターを私に返した。

「じゃあ。」

「身体に気をつけてね。」

「うん。」

荷物を抱えると、柴田は美術室を出ていった。そこには、ギターが作った空気の振動の余韻が、静かにただよっていた。この空気を震わせていたとき、柴田には、文化祭の日に見るはずだった風景が見えていたんだろうか。ヤツと私の初ライブは幻に終わった。


 三年になっても美術をとっている鶴田と広川は、授業中も絵を描きながら文化祭ライブの話ばかりしている。ミヒロと一緒にやる曲は、ブルーハーツの「情熱の薔薇」。速い曲なので、まだ小学三年生のミヒロの体力がどこまでもつかが問題だった。

「この曲は速すぎてムリ。僕がミヒロちゃんなら断るよ。」

ドラムの先生にはそう言われたけれど、ミヒロはどうしてもやると言い張る。

「じゃあ、ここを少し変えて、やりやすくしようか。」

「ダメ! 楽譜通りにやるって約束したんだから。」

楽譜を簡単に直したりせず、譜面通りにやるというのが、鶴田たちが出した条件だったのだ。絶対にやりきる。ミヒロは愚痴ひとつ言わず、とにかく練習した。

 ボーカルを誰がやるのかが気になっていたが、下級生の女の子に一番人気のある武田くんに決まっているようだ。おばさんが立候補してもかなわないはずだ。

「一回先生んちに、ミヒロちゃんと合わせに行きたいんだけど。」

 文化祭が近づいたある日、鶴田が言った。

「そうだね。ミヒロも楽譜なしで最後まで通せるようになったから、そろそろ合わせてみないとね。いつ来る?」

「明日でもあさってでもいいんだけど。どっちにしても広川はクラブが休めないから、オレだけ行くよ。」

「じゃ、早い方がいいから明日にしよう。ミヒロに伝えとくよ。」

 翌日鶴田がうちに来た。ギターとドラムを合わせてみる。いつもはCDに合わせて練習しているから、生の演奏と合わせるのは勝手が違うようだ。ミヒロはなんだかいつもより調子が悪い。曲を最後まで通して、

「もうちょっと早い方がいいかな。頑張って練習しといてね。」

鶴田は言った。今日はこれで帰るようだ。

「はい。」

緊張した顔で、ミヒロが答える。鶴田が帰ったあと、

「ギターの音が全然聞こえなかったから、むずかしかったよ。」

ミヒロが言った。自分のドラムの音に消され、ギターがほとんど聞こえなかったらしい。だけど、そのせいで速度が遅くなったのでは困る。テンポを決めるのはドラムなのだ。ドラムという楽器の重要さが、最近やっと私にもわかってきていた。初めてのバンドに、ミヒロも私もかなりのプレッシャーを感じている。文化祭まで、あと十日。最後の追い込みだ。

 いよいよ文化祭前日。やるだけのことはやった。放課後、体育館でバンドのリハーサルが予定されているので、小学校が終わったら、ばあちゃんがミヒロを連れてきてくれることになっていた。全員で合わせるのは今日が初めて。あの時鶴田が一度様子を見に来ただけで、そのあと一度も合わせる機会はなかった。ベースとボーカルはミヒロがどれくらいできるかを全く知らない。きっと不安なはずだ。

「着いたよ。」

携帯に連絡が入ったので、授業作品の展示を中断し、門のところまでミヒロを迎えに行く。

 体育館ではライブの出演者が全員そろい、音響の準備が整うのを待っていた。機材が足りないか何か、トラブルがあったらしく、シーンとして空気が重い。途中から入った私たちは、様子がわからなくて、隅っこでおとなしく待った。スタッフの人が忙しく動き回り、やっと準備が整ったようだ。

「一番にやるから、こっちに来て。」

ミヒロが呼ばれた。ミヒロはもじもじして、なかなか出て行かない。

「行っておいで。」

背中を押すと、ミヒロは三年生が手招きしてる方へゆっくり歩いていった。ステージで緊張することのない子なのに、なんだかいつもと様子が違う。ドラムの前に座り、準備をする間も、表情が硬い。

 鶴田が合図を出すと、ミヒロのシンバルから前奏が始まった。ギターも入り、ゆっくりと前奏が流れていく。そして歌が入る直前に、ミヒロが勢いよくシンバルを四回叩く…はずだったのに、忘れている! 家ではこんな失敗をしたことはない。なんだか締まらない出だしのまま、でも止まることなく曲は進んでいった。準備に時間がかかって、リハーサルの時間が押しているから、やり直している暇がないのだろう。そのあとは別に失敗もなく、いいテンポでこなしていく。最後までリズムを狂わせることなく、ミヒロたちのリハーサルは終わった。これなら明日はなんとかなりそうだ。

 ステージを下りて、ミヒロが私のところに帰ってくると、鶴田がやってきた。

「だいたいよかったよ。最初のシンバル叩くとこ、忘れないでね。」

「ゴメンね。練習の時には、出だしを間違えたことなんかないんだけどね。」

黙っているミヒロの代わりに、私が答えた。

「じゃ、大丈夫かな。明日もよろしく。」

次のバンドのリハーサルが始まり、私はミヒロと体育館を出た。

「今日はなんだか変だったね。どうしたの?」

「緊張してたんだよ。」

「あんたでも緊張することがあるんだ。」

「本番より、リハーサルのほうが緊張するの!」

そういうものなのか。経験したことのない私には、よくわからなかった。ミヒロをばあちゃんに渡し、私は作品の展示に戻った。


 文化祭当日は、朝から小雨が降っていた。ミヒロは九時の一般公開の時間に合わせて、ばあちゃんに連れてきてもらった。ライブは十時から。準備があるかと、一応体育館に行ってみた。

「別に今は何もないよ。出番は十一時頃だけど、三十分前くらいには体育館に来てね。」

鶴田がミヒロに言った。初めてのバンドなので、さすがのミヒロも緊張している。リラックスさせるため、文化祭の会場をばあちゃんと回ってこさせることにした。

「ライブは初めから見たいよね。開演時間までには来ようか。」

十時に体育館で合う約束をして、ミヒロと別れた。

 約束の十時より少し早く会場に行ってみると、ミヒロはもう来ていた。ゲームや展示の会場を回ってきたけれど、ライブが気になって、落ち着いて楽しめなかったようだ。本番が成功してくれるといい。ミヒロはスティックの入った袋を持ち、緊張した面持ちで出番を待つ。

「もうすぐだから、中で準備してて。」

二つ前のバンドの演奏が始まると、ミヒロは鶴田に呼ばれた。

「がんばってね。」

 ミヒロを見送ると、私はビデオカメラを持って、体育館の二階に駆け上がった。ミヒロの初めてのバンド演奏だ。よく見えるところから撮りたかった。二階の通路を歩き回り、ドラムが一番よく見える場所に三脚を立てた。

 そうしているうち、前のバンドの演奏が終わり、鶴田と広川が、ステージで楽器の準備を始めた。ボーカルの武田くんも現れたが、ミヒロはまだ出てきていない。直前まで見せずに、お客さんを驚かす計画のようだ。準備が整うと、

「オレたちのアイドルを紹介します!」

武田くんが、そでに向かって片手を広げた。少し肩を丸め、ミヒロが登場する。客席にどよめきが起こった。

「子どもぉ?」

「カワイイ!」

女の子の声が飛びかう。高校生ばかりの観客席に慣れないからか、ミヒロに笑顔が見えない。ドラムにつくと、

「自己紹介。」

武田くんがミヒロにマイクを向けた。

「アサマ ミヒロです。」

またどよめきが起こる。今度は私の娘だという驚きの声だ。

「今日は一曲、彼女がドラムを叩いてくれます! じゃあ、いこうか!」

女の子たちの歓声があがった。前奏が始まり、今日は元気よくシンバルが四回鳴った。それを合図に歌が入る。ステージの前で、女の子たちが飛び跳ねる。男子はステージの端に上がり、ダイブする。練習で一番大変だった間奏の部分も、なんとか遅れずこなした。あとは、最後まで体力が持つかどうかだけだ。テンポを乱すことなく、曲は順調に進んでいく。歓声の中、ミヒロはついに演奏を終えた。大きな拍手が体育館に響く。

「ミヒロちゃん、ありがと!」

武田くんの言葉で立ち上がり、客席におじぎをすると、ミヒロはステージを降りた。ビデオのスイッチを切り、階段を駆け下りて、私はミヒロのところに向かう。

「よかったよ。よくやったね。」

「終わったぁ。」

やっと肩の荷が下りて、ミヒロに笑顔が戻った。自分を仲間に入れてくれた高校生に恥をかかせてはいけない。そんなプレッシャーの中、こいつは本当によくやった。

「今日は緊張しなかった?」

「大丈夫だったよ。待ってる間、ベースのお兄さんがおもしろい話をして、緊張をほぐしてくれたから。」

広川は、口数が少ないけど、そんな気をつかうのだ。たくさんの人に力をもらって、本当にいい経験をさせてもらった。こんな感動は、一人では決して味わうことができない。

全部の演奏が終わり、

「一緒に写真撮ろうよ。」

鶴田と広川が、やってきた。ミヒロはスティック、二人はそれぞれの楽器を持って、記念撮影をした。ミヒロにとって、一生の記念になる一枚だ。シャッターを切りながら、レンズのむこうでなく、カメラを向けてここに立っている自分が、ちょっとさびしかった。できればこの感動を、私も共有したかった。また私は裏方で、指をくわえて見ていたのだ。

 文化祭のビデオをドラム教室に持っていって、先生に見てもらった。

「リハーサルで一度合わせただけですか? …よくやりましたね。」

どうやら、先生を驚かせるようなことをやってのけたらしい。こいつはやっぱりスゴイ。

 小さな頃から何度もステージを経験してきたミヒロ。ステージの経験だけ見れば、こいつはたぶん、今私が関わっている高校生のバンドの子たちよりも、先を歩いているだろう。

 マイペースな私は、その昔、十才も年下の配偶者に「私のペースで私の前を歩いてほしい」という無茶な望みを持っていた。当然そんなことができるはずはない。しかし最近、私は唯一それができる私のパートナーを発見した。ミヒロである。こいつの後ろを歩いてゆけば、私はいつも、無理することなく自分の行きたいところにたどり着くことができるのだ。ミヒロについていけば、きっといつか私もステージに上がれる。


 文化祭が終わってからも、美術準備室はバンドの子たちのたまり場になっていた。夏休みが過ぎてもその様子は変わらず、昼休憩や放課後は常にギターやベースの音がしている。楽器の数も増え、準備室はどんどん狭くなっていく。

 二学期も終わりに近づき、進路が決まる子も出てきた。ミヒロと一緒に演奏をしたベースの広川は、芸大に行くことが決まった。デッサンもろくにしたことがないのに、三年の二学期になってそんなところを受けたいと言い出したときには、絶対間に合わないと青ざめた。だけど、クラブを引退してから毎日予備校に通い、合格を手にした。高校生の力って、本当にスゴイ。

 クラブをやり、バンドをやり、受験勉強をし…こんなにたくさんのことを抱えながら、高校生たちはすごいスピードで前に進んでいく。なのに、なぜ私はこんなにゆっくりしか進めないんだろう。音楽をやってみようと思い立った日から、もう三年以上たっている。高校に入学してから卒業するまでの期間より長い時間が過ぎてしまったのだ。それなのに、私はまだ一度も人前で歌ったことがない。ストリートでも、文化祭のステージでも、どんな形でもいい。とにかく一度、人が聴いているところで歌ってみたいだけなのだ。たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。この壁を越えないと、次のステップには進めない。


 準備室に集まる子たちの話題は、すでに卒業ライブ一色になっている。鶴田と広川は、もう一度ミヒロにドラムをやらせることも考えていたが、今年の卒業式は月曜日。ミヒロは学校があるから、連れて来るわけにいかない。ミヒロも残念がったけれど、その計画は流れた。どんな曲をやるか、どういう順番にするか、話はだんだん具体的になってくる。

 去年は三年生と連絡がつかなくて、ステージに上がるチャンスを逃した卒業ライブ。その計画が、今年は目の前で進んでいる。私の行動ひとつで、チャンスは巡ってくるかもしれない。これだけ場所を提供し、協力しているのだ。ほんの五分か十分時間をもらってもバチはあたらないだろう。でも、誰にどういう形で話せばいい? 美術の授業をとっていて、ギターを弾きにくる回数も一番多い鶴田が、話をする機会は一番多い。だけど、ミヒロのおまけでバンドに入れてもらえないかと言ったとき、「ダメ。」と、一言で却下されたことを考えると、言い出しにくかった。

 迷っているうちにも、時間はどんどん過ぎていく。もう三学期。このままでは去年の二の舞になりかねない。これだけ条件がそろう時なんて、もう二度とないかもしれないのだ。三年生が学校にきている一月のうちに、手を打たなければ。今日鶴田が来たら、思い切って言ってみよう。

 放課後鶴田がやってきた。よし、今だ。去年言えなかった言葉を、いちかばちか口に出してみる。

「卒業ライブで、私にも一曲弾き語りさせてくれない?」

できるだけ軽い口調を心がけて言ったけど、心臓はスカイダイビングかバンジージャンプをするくらい大きく打っていた。言葉を投げたあとで、それは私の言葉ではないと知らんぷりをしたくなる私がいたけれど、一度出た言葉はもうすでに相手に届き、役目を果たしていた。鶴田はチラッとこっちを見て、

「ひとりで? 別にいいんじゃない? 仕切ってるのは武田だから、聞いてみれば?」

そういうと、自分には関わりがないというように、すぐに目をそらした。必死になっている人の気も知らず、そっけない態度だ。ミヒロがドラムをたたいた時のボーカル、武田くんがライブの中心になっているのか。武田くんはめったにここには来ない。あの様子じゃ、鶴田が武田くんに話をしてくれるなんてことは期待できないから、武田くんに会う少ないチャンスを自分でつかまえるしかない。

 数日後、バンドの仲間を探して、武田くんがやってきた。三年生が登校する日数はあとわずか。このときしかないとばかりに、私はもう一度バンジージャンプにトライした。

「卒業ライブで、弾き語りさせてもらえないかな?」

「弾き語り? いいじゃん。一緒にやろうよ。」

気がぬけるほどあっさり、私はステージに上がることを許された。

わかっていた。去年だって、私が勇気さえ出せば、同じ返事が帰ってきたはすなのだ。踏み出す勇気。それだけだった。去年と同じで、まだ自信はない。でも自信というのは、場数を踏んで、失敗しながらつけていくものだろう。最初から自信がある人なんていないはずだ。臆病な私は、当日までにこわくなって、

「あれは冗談だったんだよ。」

などとはぐらかしてしまう恐れもある。気持ちが後ろ向きにならないように、ふんばらなくては。待ち望んでいたチャンスをやっとつかんだのだ。おじけづいて手を離すようなことは、決してしてはいけない。

 

 卒業式前日の日曜日、昼から音響のスタッフさんをお願いして、会場に機材が並べられていく。それが終わり次第リハーサルに入るので、出演者も全員来て準備が整うのを待っていた。最近買ったエレアコを抱え、私も緊張して待機する。

「はい、じゃ、リハーサルに入ります。」

もう三時になる。時間の関係で、どのバンドも一曲だけしか演奏することはできない。

 下級生が終わって、三年生のバンド。出る人数は多くはないけれど、同じ子がいくつものバンドをかけもちしているので、バンドの数は多い。先にリハーサルをやってる子たちを見ていて、ギターとアンプをつなぐシールドは自分で持ってくるのだと気づいた。音響の機材と一緒に会場で借りるのだと思っていたので、今日は持ってきていない。誰かに借りなければ。誰に頼もうかと思っていたところで、

「先生、次行って。」

武田くんが言った。

「はい!」

慌ててギターを持ち、初めてステージの上に上がる。シーンとしていて、すごい緊張感。まず何をしたらいいのだろう。そうだ、とりあえず、誰かにシールドを借りなくてはいけない。

「ごめんなさい。今日はシールド忘れてきちゃった。明日は持ってくるから、誰か貸してくれないかな。」

ステージの上から声をかけたら、鶴田が持ってきてくれた。

「ホントにやるとは思わなかったよ。」

そう言うと、ステージの下からシールドを渡し、少し後ろに並べたパイプイスの席に戻っていく。冗談だと思われていたのか。それであんなそっけない態度であしらわれたのだ。

 借りたシールドで準備をすませ、イスに座る。

「ギターの音、出してみてください。」

音響のスタッフさんに言われ、弾いてみる。音は出ているようだ。

「マイク、入ってますか?」

マイクに近寄り、声を出してみる。こっちも大丈夫なようだ。初めての体験で、手順が全くわからないので、一つ一つの指示を緊張して聞いた。これで整ったのだろうか。どういうタイミングで始めたらいいのかわからない。

「…もうやっていいのかな。」

ステージの目の前で様子を見ている武田くんに聞いた。

「いいよ。」

準備は整ったようだ。初めて人前で弾き語りをする瞬間が、ついにやってきた。呼吸を整え、ギターの前奏を弾き始める。いつも練習している狭い部屋と音の響き方が違って、なんだか変な感じだ。八小節の前奏が終わり、歌が入る。マイクを通した私の声が、初めてホールに響いた。自分の声が、ホールの後ろの壁をぐるりと回って、時間差で自分のところに返ってくる。さらに違和感が強くなった。歌いにくい。これって、人にはどんなふうに聞こえてるんだろう。考えても、確かめるすべはない。もう始まってしまったのだから、最後まで歌いきるしかなかった。歌い終わるまでに、この感覚に慣れることができるだろうか。いつもはもっと力の入った声で歌っているのに、緊張と動揺で声が細くなる。静かな会場で、生徒たちがじっとこっちを向き、私の演奏を聞いてくれている。

 今回のライブのため、一応三曲練習した。去年の卒業ライブで歌おうと練習していた、尾崎の「Bow!」と、TAKUIの曲が二曲。自分で作った曲を歌うことも考えたけど、人前に出せるくらい完成した曲は高校生に受けないテーマのものだったので、今回はやめておいた。「Bow!」は暗譜できているけど、あとの二曲はできていない。楽譜を見ながら弾き語りができるかどうか、尾崎を歌いながら、楽譜立てに置いた楽譜を見ようとしてみた。だけど、緊張してそんなもの全く目に入らない。固定されたマイクと自分との距離が気になり、視線がマイクに向いてしまう。もっと遠くを見なくちゃ。あれこれ考えているうちに、一曲歌い終えてしまった。

 一応ギターは引っかからず弾けた。だけど、結局最後まで違和感は消えず、楽譜を見るような余裕もなかった。仕方ない、明日は一曲だけでやめておこう。そう思いながらそでに向かった。

 ステージから降り、客席の床を踏んだとたん、足がガクガクし始めた。ステージの上で歌っていたときよりも緊張している。人前で歌をうたったという事実を、今になって実感してきたようだ。なんとか荷物を置いてある席までたどり着き、イスに座った。

「先生、歌うまいんだね。」

ギターをケースにしまっていると、三年のボーカルの子が声をかけてくれた。生徒たちが準備室で練習をしていることはあっても、私が生徒たちの前で歌ったことなど一度もない。何を歌うかも、どのくらいできるかもわからない私を、生徒たちは興味を持って眺めていたのだろう。ほめてもらえるような出来ではなかったけれど、思っていたよりはできるんだね、という感じだったのではないだろうか。

「ちゃんと歌えてたのかな。」

最後まで違和感が消えないままだったので、まともに歌えていたのかどうか、自分では全くわからなかった。

「よかったよ。明日も頑張ってね。」

「ありがとう。」

 人前で歌がうたえた。できはどうでも、それだけですごくうれしかった。リハーサルが終わった時点で、まるで本番が終わったくらい、やり遂げた気分になっている。明日の本番は、もう出なくてもいいような気さえした。


 翌日、また放送室で卒業式を眺め、CDのボタンを押して卒業生を送り出した。午後のライブのことが頭にあるせいか、まだ終わった気がしなくて、涙は出なかった。

 式の後片付けをすませると、礼服を着替え、お昼を食べて、ライブの会場へ急ぐ。会場に着くと、もうみんな集まっていた。お客さんも少しだけれど入っている。二階席が出演者の控え室代わりになっていて、そこで楽器の音を合わせたりしているようだ。私もそこに行き、ギターのチューニングをした。

 そろそろ開始予定の一時。まだ人が少なく、さびしい感じだったけど、時間になったので、最初のバンドがステージに上がった。卒業ライブの始まりだ。

 次々にバンドが演奏していく。ステージの前では、今演奏してないバンドの子たちが声をあげて飛び跳ね、ダイブしたりしている。少しずつお客さんも増えてきた。三年生を中心に、女子もたくさん見に来てくれている。

 三年の担任の先生が時々様子を見に来ては、お客さんが少ないといって暇そうな生徒を引っ張って来る。もし自分の順番の時先生がいたら、恥ずかしいので今日は遠慮しよう。昨日のリハーサルで歌えただけで充分だ。

 そういえば、今日のプログラムは何も聞かされていない。準備の都合があるので、自分の出番だけは聞いておかなければ。武田くんに聞きに行くと、

「先生は鶴田たちのあとだよ。この次の次。」

もうすぐじゃないか。そろそろ準備を始めなきゃならない。ギターとパイプイスを持ち、舞台のそでで出番を待った。

 前のバンドが終わり、いよいよ私の番だ。客席をのぞいてみたが、今他の先生は来ていない。よし、行こう。ステージの中央へ進み、パイプイスを広げて置いた。シールドをつなぎ、準備を始めたけれど、勝手がわからず手際が悪い。初めての上に、ステージの上に一人きり。不安で客席に目をやると、リハーサルの時と違い、ステージのすぐ前にバンドの子たちがいっぱい立っていた。今までのバンドが演奏してた時のように、盛り上げ役をやってくれるようだ。よかった、一人ではない。ちょっと安心する。

 もたもたと準備をすませ、イスに座った。いきなり歌うにしては、まだ心の準備ができていない。少ししゃべり、気持ちを落ち着かせよう。

「初めてライブに参加させてもらいます! 私、今までずっと客席で見てる人だったんで、一回この上に上がってみたかったんだ。」

緊張しているせいか、妙にテンションが高くなる。

「今日は初めてで、しかも一人で、すごく心細いんだけど…」

「一緒に歌ってあげる!」

女の子が叫んだ。

「よろしく! でも知らない曲だと思う!」

笑いが起こる。

「じゃあ、がんばるんで…」

「がんばって!」

一言しゃべるたびに、生徒たちがあいづちをうったり笑ったりしてくれて、緊張はかなりほぐれてきた。

「それでは、いきます。」

ギターの伴奏を弾き、歌に入る。昨日と同じ違和感だ。自分の声が自分の物じゃないみたいで、いきなり音をはずす。しまった…と思ったけれど、気にしていたらまた失敗してしまう。気持ちを切り替えて先に進んだ。ギターも、うまくはないけどなんとか止まらずに弾けている。ステージの前では、武田くんを中心にして、生徒たちが手拍子を打ち、リズムをとってくれている。

 この「Bow!」という曲、好きで、何年も前から練習していたけれど、最近二番の歌詞が引っかかり始めていた。これは、わかったような顔をして、私が歌っていい歌詞ではない。

 卒業証書を持たず学校を去っていった子たちをたくさん見てきた。世の中の大多数の人が持つ、高卒という学歴を持たないハンデを埋めるには、相当の精神力と努力がいる。卑屈になるときだってあるだろう。卒業できない夢にうなされていても、世間の目は私を大卒ととらえていて、大学で得た免許を使って働けば、それなりの収入を得ることもできる。高校を中退した彼らが、さまざまな場所で感じる不自由さを、私は体験したことがないのだ。その子たちの胸の中に今どんな思いがあるのか、大卒の学歴を持つ私にわかるはずがない。もしそれがわかっていれば、定時制高校休学中だった元夫と、離婚することもなかったかもしれない。

 尾崎は、高校を中退しても、胸を張って生きられる場所を持っていた。それは、彼が自分の才能を信じ、わずかな光に必死で手を伸ばし、手に入れたものだろう。だけど、学校をやめていくすべての子たちに、そういう光が見えているわけではない。高校時代の私のように、踏み出す方向さえわからないまま立ち止まっている子だっている。人並み以上の苦しみをともなういばらの道を、進んでいけと私が言うのはあまりにも無責任。その苦しみを乗り越えた尾崎の言葉だからこそ、価値があるのだ。

 そしてもうひとつ引っかかっていたのは、学歴は安定を手に入れるためだけのものではないということ。夢を手に入れるための手段として、大学を通過しなければならない場合もある。私がそうであったように。

 そんなことを考えて、演奏したのは一番とサビの繰り返し。二番は歌わなかった。

 なんとか最後まで詰まらずに、演奏を終える。生徒たちがステージの前で盛り上げてくれていたから、リハーサルよりずっとやりやすく、とにかく楽しい。リハーサルの方が緊張すると言ったミヒロの言葉がよくわかった。

「ムチャクチャだったけど、なんとか一曲終わりました。自信ないから、今日は一曲でやめようと思ったんだけど、楽しくなってきたのでもう一曲いきます! TAKUIの曲です。たぶん間違えると思うので、失敗したら思いっきり笑ってやってください。」

私は二曲目を歌い始めてしまった。実はこの曲、練習中も最後まで間違わずに弾けたことがない。絶対途中で止まってしまう。だけど、それでも許される空気が、今ここにはあった。

 家で練習するより調子よくギターが弾けてしまう。気分ってすごい。もしかしたら最後までいけちゃうんじゃないかと思ったとき、コードを間違えてとんでもない音がした。ここで知らん顔してごまかす技術はない。私は演奏をピタッと止めてしまった。一瞬シーンとしたあと、

「ほぉら、間違えたぁ!」

元気よく叫んだら、音響さんが上を向いて、クワァと大口あけて笑っているのが見えた。

「えー? なに? 終わったの?」

「もぉ! 先生、途中で投げちゃダメじゃん!」

女の子たちがブーブー騒ぎ出す。実は歌詞はあと一行しか残ってなかったのだけれど、普通に終わるよりこの方が面白かったかもしれない。

「続きはTAKUIのCDで聴いてねー」

「なによぉ!」

怒っている女子たちに笑顔で手を振った。もう彼女らも、しょうがないなという顔をしている。イスから立ち上がり、おじぎをすると、

「ありがとう!」

自然にこの言葉が出た。いつもステージの下で聞いていたありがとうは、こんな気持ちで発せられていたんだ。あたたかいという言葉でも熱いという言葉でも、表現しきれない充実感を抱いて、私はステージを降りた。

 心配していたギター以上に、歌がボロボロで聴けたものではなかったけど、ステージに上がり、生徒たちとひとつになれたことがうれしかった。リハーサルと本番は全く違う。本番はテンションが上がり、とにかく楽しかった。自分が演奏する側になり、この空気を味わってみたいと、ずっと望んでいたのだ。リハーサルで満足して、本番をやめてしまわなくてよかった。やはり、本番のステージに上がらなくては意味がない。

 そしてひとつ、今回発見したことがあった。ミヒロの心臓に毛がはえているのは、私譲りらしいということだ。私も本番が始まってからは、とにかく楽しくて仕方なかった。

 プログラムは次々に進み、四時間にわたる卒業ライブは終わりを告げた。後片付けはあっという間に終わり、お祭りが終わった寂しさとともに、三年生たちとの別れの実感がやって来た。

 機材を借りるためにかかったお金を割り勘にする計算をしていたから、

「いくらかな?」

武田くんに聞いたら、

「先生からはもらえないよ。」

と、どうしても受け取ってくれない。唯一社会人の私が生徒たちにおんぶしてしまって、居心地が悪かったけれど、彼らの心遣いを受けることにした。

 楽器を抱えた彼らは、会場を出るとさり気ないあいさつを交わし、一人二人と去っていく。今度この子たちの顔を見るのはいつだろう。これから新しい場所で、それぞれにこの続きの人生を綴っていくのだろう。沈みかけた陽の光の中、私も車に乗りこんた。

 車を出すと、今日のできごとがよみがえってくる。整理しきれない気持ちがこみ上げてきて、なぜか涙が出てきた。運転中に前が見えなくなると困るので、慌てて目をパチパチしていると、涙が鼻に伝ってくる。私は鼻をすすりながら車を走らせ続けた。一体何の涙なのか、自分でもよくわからない。もしかしたら、これが生まれて初めて流す、やり遂げたあとの涙なのだろうか。


 私は教室のまんなか辺りの席に座っていた。教室の中には昔の同級生や今の教え子、過去に教えた卒業生も座っている。教壇に立っているのは私の高校時代の担任だ。おかしな光景なのだけれど、不思議と違和感はない。

 今日は卒業式の日で、どうやら今は、式の後のホームルームらしい。先生はいつも通り長々と話をしていたが、いきなり私を指差して言った。

「こいつを見てみなさい。こんなに長い時間かけて、やっと卒業するんだよ。」

みんなの視線が私に集まる。その目はみな優しく、どこからか拍手が起こって広がっていった。教室の中は、今まで味わったことのないあたたかい空気で満たされてている。胸がいっぱいになり、涙がボロボロとあふれた。

 …目頭をつたう涙をぬぐって目が覚める。夢だった。高校を卒業する夢。実際の卒業式には搾っても出なかった涙が、枕をぬらしていた。


 卒業式。生徒たちがそれぞれの道を見つけ、私を追い越して巣立ってゆく。卒業できず、先の見えない私は、ひとり取り残される。今まで三回、そんなふうに卒業生を見送ってきた。だけど、今回は違う。素直な気持ちで卒業生を送り出すことができたのだ。どうしても崩せなかった壁をやっと壊し、初めの一歩を踏み出したことで、長い間止まったままになっていた、私の時計が動き出した。二十一年遅れで、あの子たちと一緒に、私もやっと高校を卒業できたのだ。もう、追い越していく高校生の背中を、羨望のまなざしで見送ることはないだろう。


     ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 あの卒業ライブから二年たつけれど、高校を卒業できない夢はあれから一度も見ていない。正式な美術の先生が転勤してこられるこの春まで、私はその高校に臨時で六年も勤めさせてもらった。そして、そのあとめぐってきた仕事は、高校時代の担任の先生が校長をされている高校の非常勤講師だった。私が着任するのと入れ代わりに、先生は転勤された。

 今度の仕事は非常勤だから、経済的にはまた厳しくなった。小学校で常勤の仕事を探す方法もあったのだけど、道端の草を食べてもいいから、好きな高校生と過ごす方を選んだ。お世話になった先生に呼ばれたことにも、不思議な縁を感じたのだ。

 ライブのあと、私は近くにボーカル教室を見つけて通い始めた。去年はミヒロのピアノやドラムの発表会にも一緒に参加。そこでミヒロとオリジナルの曲を演奏することもできたし、ライブハウスのステージでバンドを体験することもできた。次の目標は、ミヒロと二人でオリジナル曲のCDを作ることだ。高校生たちと一緒に見つけた夢の続きを、私も確実に歩き続けている。ちゃんと地面に足をつけ、一歩一歩踏みしめながら。

 私は一人前の画家にも、作家にもミュージシャンにもきっとなれない。それでいい。そんな肩書きを手に入れることより、生きている実感を噛みしめることだけ考えて、残った人生を使い切りたい。死ぬ時に立っている場所がゴール。それがどこなのかは、今はまだわからない。

 そんな私の最大のライバルは、永遠に続いていく十七才の青春たちだ。すごいスピードで成長している彼らは、あっという間に私を追い越し、私のそばを去っていく。だけど、途切れることなく新たな十七才が現れ、次々と私に刺激を与えてくれる。ゆっくりしか進めない私も、彼らから浴びるエネルギーがあれば、かなり速度を増していく。ひとつ夢がかなったら、次の目標をさだめ、またそこに向かって歩いていこう。ずっと十七才をライバルにして。

 ミヒロは十七才になったとき、いったいどんなライバルになってくれるだろう。今からとても楽しみだ。ミヒロに引っ張られるようにして今を生きている私が、まず自立しなくてはライバルになれない。その日までに、私も自分ひとりの足で前に進めるようになっていたい。

                                    

 非常勤になって時間に余裕ができたので、初めて小説を書いてみました。小説を書くことがこんなに大変なことだとは思っていませんでした。長い文章は、絵と違って全体像が見えず、何度書き直したことか…一年半もかけて、やっと完成です。

 仕上げたつもりでも、読みにくい部分がたくさんあったかと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 登場人物のモデルのみなさん、長い間お待たせしましたが、やっと読んでもらえるようになりました。実はあの時、そんなこと考えてたのか、と、驚くこともあったかと思います。皆さんのおかげで、卒業できない夢から開放されることができました。この話に出てこなかった私のライバルたちにも、とても感謝しています。本当にありがとう。

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― 新着の感想 ―
[一言] 先生―★ やっと読み終えた!! 4日かかりました(笑) いい話だった!!★ お互い頑張りましょう!★ でわでわ―♪♪
[一言] ゴールに向かって自分のペースで一歩一歩確実に進んでいる姿に強く刺激されました★☆★私も『人生まだまだ頑張るぞ〜!!』
2008/01/22 12:02 王園志 照代
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