車のエンジンが僕を揺らす。
早く走らせてよ、と僕を催促するかのように。
僕は、しっとりとしたバラードを車内に響かせながら、白い雪がフロントガラスに落ちるのを眺めていた。一つ、また一つと、フロントガラスに雪が積もっていく。そして、僕は思いついたようにワイパーを動かし、雪を払う。
もうすぐ、彼女はここにやってくる。
フロントガラス越しに見えてくるであろう彼女の姿を思い浮かべてみる。真っ白なコート、首もとには大きなフェイクファー、黒いロングブーツを履いてくる。そんな予感がした。
僕は、座席を倒して、エンジンを切った。車は力を失っておとなしくなり、バラードを歌っていた女性シンガーも、サビの途中で歌うのをやめた。車内が、静寂に包まれる。深々と降り続ける雪の中で、僕は大好きな映画で流れてくるメインテーマを口笛で表現した。目をつぶると、すぐにでもその情景を思い出すことができる。台詞まで、鮮明に。
「また、観たいな……」
僕は、口笛をやめてつぶやいた。高い音程になると、決まって上手く口笛をふけない。高い音程を出したくて唇をどんどん細めていくと、しまいにはただの吹く息と化してしまうのだった。唇を湿らせて再度挑戦するも、やはりそこで吹けなくなってしまうのだ。
印象的な曲、幻想的なシーン。いつでも僕の頭の中で上映できるのに、音楽だけは再現できない。まるで背景音楽のない、映画だった。
僕はため息をつく。
ガラスがノックされる音に僕は体を起こす。僕の想像通りに白いコートを着たアキがニコニコしながらドアの脇に立っている。少しかがんだ体勢で足踏みをしているアキを、僕は車の中に招きいれた。
「寒くて凍えちゃう」
エンジンをかけて車内のエアコンを入れると、勢いよく温風が飛び出した。続けて、歌うのを中断させられていた歌姫も歌いだす。
「よく寒いのを我慢できるね」
凍った手をこすりながら、僕のほうに笑いかける。頭に積もった雪が車内の温度で溶けて、水の玉になっていく。
「雪国出身だから」
「そういう問題なのかな」
首をひねって考え込む。
「南極に住んでいる人が、北海道に来るようなもの?」
「極端に言えばね」
「ふ〜ん、そんなものなんだ」
アキは神妙な顔つきで、温風を握り締める。
「ふと思うんだけど」
アキは、思いついたように僕に顔を向ける。
「何?」
「昔、雪合戦したよね」
「学校の校庭での話?」
「そうそう」
アキは高校時代の思い出話をしているようだった。思い出して、はにかむように笑って、白い歯がこぼれる。
「あの時はごめんね」
「いまさら、だけどね」
「でも、あの時は本当にあせったんだよ。まさか、気絶しちゃうとは思わなかったから」
「雪の中に特大の石を詰めた時点で、気付いて欲しかったよ。もし頭にぶつかったらどうなるか、とかさ」
「シンならよけると思ったから。シンだって、私が女だってこと忘れて、ばしばし雪をぶつけるんだもん。私、悔しくて……」
「それで、石を詰めて、倍返し?」
アキはふくれっ面で小さくうなづいた。頬が紅色に染まっているのは、恥ずかしさからか、外気温のせいか。とにかく、僕はそういった表情豊かなアキに親近感を覚える。春夏秋冬が、そのまま喜怒哀楽になったような、感情のはっきりした女性。見ていてこちらまで楽しくなってくる。
「悔しかったんだよ」
「何で?」
「いっつも、私の負けだったから」
僕は、座席を元の高さに戻して、アキを窺った。
「シンは、いつも私に勝ってた。そうでしょ?」
「それは、絶対評価で、だろ。点数で評価されれば、仕方ないさ」
「絶対評価でも、相対評価でも。とにかく、当時は、連戦連敗だった」
「でも、今は違う」
「うん。そんな風にシンのこと見てないから」
「なら良かった」
僕は、ブレーキペダルを踏みつけ、サイドブレーキを下げた。シフトをドライブに入れると、車はまるで散歩に行きたがる犬のように尻尾を振り、体をゆする。
「シンは、どんな風に見てたの?」
駐車場から抜けて、国道へと入る信号機で、車は再び停車する。
「妹」
ワイパーを忘れていたので、作動させながら僕は答えた。雪が視界から払われる。
「妹だよ」
反応が返ってこないので僕は繰り返した。
「かたやライバルで、かたや妹、か。その差は歴然だね」
「差なんてないだろ。何でも比べたがる癖、やっぱり直ってないな」
「……そうみたい」
「フォローではないけど、悪い癖だって言ってるわけでもないから」
信号が青へと変わる。
「比べることって大事だと、僕は思う」
雪をまとった情景がフロントガラスをすり抜けていく。
「自分や相手を比べることも?」
「大事だと、思ってる」
「普通、あんまり言わないよね、そういう答え。人から嫌がられそう」
「ほら、比べてる」
「屁理屈」
「……そうだけどさ。比べることから、感情は生まれるんだと思う。『あの人が好きだな。じゃあ、つりあうように努力しよう』……つりあうってことは、比べるってことじゃないかな。ほかにも、僕らは知らず知らずのうちにさまざまなものを比べてるんだと思う」
アキは少し悲しそうな表情を見せた。
「……だからなのかな」
ワイパーの音がむなしく響いた。
「私がシンにふられたの」
温めていた手をコートのポケットに入れる。
「雪合戦のとき、シン、保健室に運ばれたでしょ?」
「うん」
「あの時、私、傍にいたよね?」
「いた」
「ずっと、傍にいたよね?」
「……いた」
「嘘」
窓の外に目を向けているアキは、外を見ていたのだろうか。それとも、僕の顔を見たくないからそうしているのだろうか。
「空白の時間。僅か三十分だけど、とても大きな時間。私は、シンの傍を離れて、保健室を出た。シンは、そのとき起きてたんだよね?」
「……」
「そして、戻ったとき、シンは何事もなかったかのように寝ていた。ううん、寝たふりをしていた」
方向指示をあげて、斜線を変更する。赤信号の下に青い矢印が点灯したので、僕はハンドルを左に回した。図ったかのように、バラードが終わり、車内は静まり返ってしまう。
「何があったの? あのとき。私と、シンと、先生と三人しかいないあの空間で、私だけがいなくなったあの時……」
前を行くバスのナンバーを見つめ続ける。見つめ続けてはいたが、記憶されることは絶対にない。
「私、本当は知ってる。でも、自分から言いたくない。でも聞きたい。シンに否定して欲しい。でも事実だって知ってる。ぐるぐる回るの。私の頭の中に。もしかしたら、もしかしたら、って。想像が、妄想になる。心が痛くなって、そんな想像やめたくて、でもやめられなくて。苦しくて、思い出して、可能性を探って、空白に時間を埋めるために。事件を捜査する刑事みたいに。アリバイとか、聞いたりもした。でも、否定できなくて。私……傷つきたくない。怖いの。でも、このまま知らないでいるのも嫌」
運転する僕に向かって、自嘲気味に笑うアキ。そして、暗い闇の中に沈んでいく。
「比べてるんだよ……。このまま事実を知らないでいる私と、事実を知った後の私を。その、心の痛みを」
「……あれから、二年がたつけど、僕達は今でもその三十分を大切な時間だと思ってる」
僕はハンドルを握り締める。
「……こんな痛みだったんだね。予想以上だよ……」
行くあてもなくハンドルを回す僕の車は、ただ街中を迷走するだけ。いやおうなしに、この車という矮小な空間は、二人の痛切な感情を閉じ込める。
捌け口もなく、膨れ上がっていく車内の空気に、僕はパンクしそうだった。
それは、アキも同じだったろう。
「ひとつ言っていいかな」
僕は首肯の意味を込めて黙っていた。
「シン、好きだよ」
「……ごめん」
「好き」
「……ごめん」
「ずっと昔から、好きだったよ。本当だよ」
「ごめん……」
嗚咽が聞こえてくる。僕の目をはばかることなく、落涙で雪のようなコートを濡らす。涙というのは、こんなにも頬をつたうものなのだろうか。一滴の涙なんて態のいいものではない。まさに滂沱だった。
何もできず、何も言えず、僕はただ車を走らせる。
「雪合戦なんて、しなければよかった」
それが、彼女の最後の言葉だった。雪合戦……その言葉の陽気さとはあまりにもかけ離れた結末。
迷走していた車から降りたアキは、僕に背中だけを向けて歩いていく。
白いコートに、黒いロングブーツ。
昔から仲が良くて、いつも一緒にいて、誰よりも身近だった存在。誰よりも話をした人。誰よりも僕を知っている人。
誰よりも……。
そうして僕は比べていく。
たとえ誰かを傷つけるとしても。たった一つの大切なものを、これからも大切にしていくために。
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