ライバルは17才 メチャクチャ成長が遅い私の記録 上
自分の体験をもとに、小説を書いてみました。登場人物にはすべてモデルがいて、名前は変えてあります。話がスムーズに進むように、できごとの順番を変えたり、創作した部分もありますが、ほとんどが実際にあった話です。
出来上がって読んでみると、あまりの成長のトロさに自分で腹が立ちました。イライラするかもしれませんが、最後まで読んでもらえるとうれしいです。私以外の登場人物たちは、きっと魅力的だと思います。
「え?高校に…ですか?」
突然かかってきた電話で、四月から勤められる美術の教員を探しているからこないか、と告げられた。とある公立高校の校長先生からだった。中学校には何度も臨時や講師で勤めさせてもらったけれど、高校からの話は初めてだ。高校! 教員を志したとき、夢にみた職場だ。中学生もかわいいけれど、もう少し成長して、夢も具体的になってきた高校生に、より魅力を感じる。特に、十七才という年齢に、執着ともいえる強いこだわりがあった。もう三月半ば。こういう話は結論を急いでいるので、「少し考えさせてください。」などと言ってしまったら、電話を切ってすぐ他の人をあたり、そちらがうんと言えば「もう別の方に決まりましたので…」ってことになる。今すぐ答えを出さなくては。いろんなことが一気に頭の中をかけめぐった。私が高校で勤まるだろうか。今の仕事とかけ持ちできるだろうか。
今は二ヶ所の絵画教室と中学の非常勤講師をしているが、離婚して保育園児の一人娘を抱えている私にはかなり厳しい経済状態。時間割をうまく組んでもらえば、なんとか今までの仕事にプラスできるんじゃないだろうか。最悪の場合、もう一年継続することになりそうな中学の方は、とりあえず三月いっぱいの契約だから、そこで辞めさせてもらうこともできる。中学は車で片道一時間の距離。しかもかなり雪の積もる場所だから、冬は二時間以上かかることもあって、通うのが大変だった。あの高校なら、うちから車で十五分。暖かい場所なので、雪の心配もいらない。なにより、私が一番関わりたかった高校生の中に入っていけるのだ。すべての条件が、引き受けろと言っていた。
「やらせていただきます! よろしくお願いします!」
「ああ、よかった。では、手続きをさせてもらいますね。」
高校に勤められる! 期待で胸が躍った。しかし、私は大きな勘違いをしていたのだ。
「今の仕事も続けられるように時間割を組んでもらえますか?」
早めにお願いしておこうと切り出すと、
「他の仕事はできませんよ。常勤で臨時の公務員になりますから。」
校長先生は、ちょっと困惑したように返事をされた。
「えっ?! 時間講師の話じゃないんですか?」
今の中学が時間講師だから、勝手に同じ条件だと思い込んでしまったけれど、この話は臨時採用の話だったのだ。
授業をした時間の分だけ時給をもらう時間講師と違い、臨採は正採用の先生たちと同じ時間働き、ほとんど同じ待遇になる。月給制でボーナスまでもらえるのだ。今まで収入にならなかった夏休みなどの長期の休みも、仕事をさせてもらえる。行事等で授業がいきなりカットされて、収入が減る心配をする必要もない。神様が困っている私に手をさしのべてくれたのかと思うほど、願ってもない話だ。だけど、この仕事を引き受けるということになれは、絵画教室をやめなければならない。そんなことは考えたこともなかった。
「他の仕事が辞められないなら、こちらは他のかたを探さないといけなくなるんですが…」
「あ、いえ、勤めさせていただく方向で考えます!」
とっさに答えたけれど、頭の中はパニック状態だ。
正直、切羽詰まったこの生活からは抜け出したいと思っていた。絵画教室をするなら実績を作らなくてはいけないと、先生に勧められて入った絵の会。その活動を維持していくために、今の収入ではかなり無理のある金額を費やさなくてはならない。今住んでいる雨漏りのひどい古屋を買った時の借金も、まだ残っている。高校に臨時で一年出させてもらえば、とりあえず借金は全部返せるだろう。でも絵画教室はどうしよう… 二ヶ所合わせると、三十人以上の生徒さんを放り出すことになる。こんなに急では、次の講師も見つかるわけがない。今月の教室はあと一回。今日を最後にもう来ませんなんて、どんな顔をして言えばいいのだろう。
結局、絵画教室は「年をとって遠くまで通うのがきつくなったから」と、私に教室を譲ってくださった恩師にもう一度お願いすることになり、中学にも事情を説明して急きょ他の先生を探してもらった。あちこちに迷惑をかけ、教室の生徒さんを裏切り、私は四月から高校に勤めることになった。
一生懸命こいでいるのに、自転車は前に進まない。今日は卒業試験だというのに、遅刻してしまいそうだ。きつい登り坂、焦れば焦るほど車輪が空回りして、周りの景色は全然動かない。急がなきゃ! 私はなりふりかまわず自転車をこぎ続ける。
どのくらいたったのだろう。汗だくになり、フラつきながら、なんとか高校の門をくぐった。自転車置き場には誰の姿も見えない。試験はとっくに始まっているはずだから、急いで教室に入らなきゃ。自転車は止めたけど、あれ? どこの教室で試験があるんだっけ? 今から受けるのは何の教科? もしかして、何も勉強してきてないんじゃない…? うわぁ、どうしよう!
その場に立ちつくし、泣きそうになっているところで、うなされて目が覚めた。
まただ…。いつ頃からか、こんな夢をしょっちゅう見るようになった。卒業試験を受けれなかったり、試験問題がぼやけて読めなかったりして、高校を卒業できなくなる夢。実際には十七年も前に高校を卒業し、その後大学も卒業している。それなのに、夢の中ではいつも、私は高校を卒業できない。
高校時代が、今までの人生の中でずっとひっかかっていることは、自分でもよくわかっている。特に十七才のときの自分には、特別な思いがあった。何かがいまだに、そこで止まったままになっているのだ。わかっていても、いまさらどうすることもできないので、ずっとこんな夢を見続けている。季節が一周するたび年齢は一つずつ増え続け、取り残された高校生の自分とのギャップはどんどん広がっていく。
フリーズしている私と同年代の高校生。そんな子たちと関わるチャンスを、やっと与えられたのだ。もしかしたら、止まっている時間を動かすきっかけが見つかるかもしれない。逆に、自分には取り戻せないまぶしい時代を見せつけられて、悲しい思いをするだけで終わってしまうかもしれない。こんな私が、高校生と関わることでどう変化していくかは想像もつかないけれど、与えられたチャンスを無駄にしないように精一杯やってみよう。
新しい学校に勤めるときは、いつもワクワク半分、不安半分だ。臨時や講師を繰り返していくうち、慣れるのは少しずつ早くなってきたけれど、やはり最初は緊張する。今回は高校ということもあり、今までとは違った緊張感があった。
髪を後ろで一つにくくると、どうもおばさんくさい。美容院に行くお金がなくてほったらかしにしていた髪は、腰を通り越してお尻のあたりまで伸びていたのだ。これから若い子とつきあっていくのだから、私も若返ろう。何年かぶりに美容院に行き、長い髪をバッサリと切った。
そして、初めての出勤。春休みなので授業はないけれど、クラブなどで、生徒はたくさん登校していた。車を降りて玄関に向かっていると、
「おはようございまぁす!」
全く見たこともないはずの私に、男子生徒が大声であいさつしてくる。
「おはようございます。」
ちょっとビックリしながらあいさつを返すと、次にすれ違う生徒がまた、
「おはようございます!」
と元気よく行き過ぎる。ちょっとくだけた感じはするけど、裏表のない印象の生徒たちだ。この学校、好きになれそう、それがこの高校の第一印象だった。
春休みが終わり、始業式、そして入学式。次々に会う生徒たちはみな、それぞれの高校生らしさを全身から発している。これから始まる生活が、ますます楽しみになってきた。
初めての授業は三年生。一限目から二時間続きの授業だ。美術選択者の名簿には五人の名前があった。どんな子たちなんだろう。かなり緊張して、美術室で待っていた。
女の子がひとりやってきた。標準的な制服がよく似合う、落ち着いた印象の子だ。
「おはよう」
声をかけると、にっこり笑って
「おはようございます。」
と返事が返ってくる。よかった、話ができそうだ。ホッとしてるとチャイムが鳴った。最初が肝心だから、チャイムと同時に挨拶をして、まずは自己紹介…のはずだったんだけど…なんで一人しかいないの??
「五人いるんだよね?」
「うん。みんなそのうち来るよ。」
「あ、そう… じゃ、みんなが来るまでちょっと待ってようか。」
「全員そろうのは、次の時間になるかもしれないよ。みんな朝弱いから。」
いつものこと、というように、彼女は明るく言った。
「…はぁ。」
「スケッチブックに絵を描いててもいいかな?」
「そ…だね…」
張りつめていた緊張の糸が、ブチブチ音をたてて切れてゆく。これが高校最初の授業…って、授業にならないし!
仕方がないので、絵を描いてる彼女とお互い自己紹介をし、雑談しながら時間を過ごしていると、二人目が現れた。肩のあたりですいたストレートヘアがきれいな女の子だ。名簿に女子は二人。最初に来たのがミカちゃんだから、この子はサオリという子らしい。
「おはよう。」
「おはよ。」
声をかけると返事は返ってきたが、私と目を合わせることもなく席に着く。そしていきなりカバンから鏡を取り出すと、髪をとき始めた。一瞬、え?と思ったが、注意して効果があるのは人間関係ができてから。初対面で説教してもいいことにはならないので、こちらも彼女の態度を無視して勝手にしゃべった。
「今年美術を担当することになったアサマです。よろしくね。」
「よろしく。」
視線を鏡に向けたまま、彼女はぶっきらぼうに答えた。語気の印象以上に冷たく感じるのは、整った顔立ちのせいかもしれない。
「みんながそろうまで、スケッチブックに好きな絵を描いててね。」
「ふん。」
短い返事をすると、彼女は鏡をしまって無表情のまま立ち上がり、後ろのロッカーにスケッチブックを取りに行った。あとは男子三人。いったいいつやってくるんだろう。
二人のスケッチブックにそれぞれの世界ができあがってきた頃、勢いよくドアが開き、男子が一人入ってきた。
「おっはよぉう!」
何かうれしいことでもあったのか、片手を挙げ、満面の笑顔。まっすぐにそろった前髪が印象的だ。
「おはよ、シンタ。」
「タケシとカツヤ、まだ来てないの?」
「まだ寝てんじゃないの?」
スケッチブックから目を離さず、サオリが答えた。
「電話してみようか。」
シンタと呼ばれた子は、ポケットから携帯を取り出すと、いきなり電話をかけ始める。
「もしもしタケシ? 今日学校来るよね? 今どこ?」
校内で携帯を使用することは校則で禁じられているはず。もちろん授業中の使用なんて、もってのほかである。
「もうすぐ来るって。」
「あ、そう。」
目が点になるような出来事が続き、驚きの感情もなくなってくる。今日はこの子たちの様子を見るだけで終わりそうだ。
「先生、新しい美術の先生? 名前は?」
三回目の自己紹介をしていると、電話の相手、タケシがやってきた。やせていて鋭い目、今風にカットされた髪は少し茶色く、一見恐い感じの印象を受ける。
「新しい美術の先生だって。」
私を指差して、シンタが言った。
「見りゃわかるわ。」
タケシの返事はそっけない。
「名前はねえ… なんだったっけ? あ…」
「…アサマです。ヨロシク。」
自己紹介もだんだん雑になってくる。まだ一人来ていないけど、そこで一限目終了のチャイムが鳴った。
「はい、休憩しよう…って何やったんだかわかんないけど。」
「休憩、休けーい!」
シンタが踊るように教室を出て行った。私もちょっと準備室に戻って気持ちを整理しよう。幸い私には、環境の変化にすばやく適応する能力は備わっているらしい。十分間の休憩があれば、自分が置かれている状況を消化することができるだろう。
二限目のチャイムが鳴って教室に戻ると、シンタが誰かと話しながら廊下を歩いてくる声が聞こえた。どうやら最後の一人も来たらしい。ミカちゃんの予想通り、全員そろったのは本当に二時間目だ。
「カツヤも来たよォ。」
「あぁ、眠い! なんで朝から美術なんかやんなきゃなんねえんだ!」
入ってくるなり、大机の上に整然と並んだボンドやスティックのりをいじっては、好きなところに放り投げる。なんだ?この意味のない行動は。体格がよく、制服を着ていなければ社会人に見えそうなその外見とはうらはらに、やることはかなり幼稚だ。もう何があっても驚かないと思っていたのに、挨拶するのも忘れて、しばらくぼう然とその行動に目をうばわれてしまった。
「先生、みんなそろったけど、何するの?」
ミカちゃんの声で我にかえる。
「あ、そうだね。今日は最初の授業だから、簡単なデッサンをやってみよう。みんな、スケッチブックを用意して。」
「スケッチブック? そんなモン、どこやったか忘れたわ。」
教室の中を無駄にうろつきながら、カツヤが言った。
「オレも。」
「ボク、全部落書きして、もう白いとこないよ。」
と、笑顔でシンタ。
「…じゃ、画用紙持ってくるから、ちょっと待ってて。」
私は準備室に画用紙を取りに行く。
週に三時間あるこの授業、これからいったいどうなるんだろう。まともな授業はできそうにないけど、たいくつしない一年になりそうだ。
ミカちゃんとサオリは美術部員だそうだ。美術部には他にも三年の女子が数人いるらしい。
私には一年生の副担任という役割があてられた。その一年生、女子が特にパワフルで、入学して間がないのに、もう三年に負けないくらい服装が崩れている。目立つ子たちはどちらかというと男勝りなタイプが多く、そんな女子に押されて、男子は一歩引いてる感じだ。グリとヤスコ、ヒカリにアカネと、元気のいい子たちがたくさん美術を選択していて、一年の授業はとにかくにぎやかである。
「先生、定規とってぇ。」
「はい、はい。」
「鉛筆忘れてきた。せんせ貸してー。」
「はい、どうぞ。」
「先生ってパシリみたーい。」
ときどきムッとするけど、こんなことで腹を立てていたら神経が持たない。
「二年のあいつがうちらのことにらんでくるんだよ、アタマ来るー。殴りこみかけようか。」
と、グリ。廊下にたむろして、先輩が通れなくてもよけないんだから、にらむのも当然だろう。上級生が寛大だから、にらむだけですんでいるのだ。普通の場合、やられるのはあんたたち。こいつら自分たちの立場が全くわかっていない。
「あの子は悪い子じゃないよ。」
マユという子が口をはさんだ。目がパッチリ大きくて、笑顔のかわいい女の子。今年二度目の一年生をしているので、二年生は去年の同級生なのだ。明るい子で、一年の中でもそれなりに調子を合わせている。新入生のアカネと前からの友達らしく、それも個性の強い一年に早くなじめた理由のひとつかもしれない。他の授業は寝ていたりサボったりするらしいのだけれど、美術は休まず出てきて楽しそうにやっている。
「ねえ、お母さん…あ、間違えた!」
「え? 私のこと?」
「ゴメン、せんせえ。」
ヒカリが照れて舌を出した。
「こんなデカイ子にお母さんなんて言われたらショックだわ。」
「先生って、年いくつ?」
「三十五だよ。もうすぐ誕生日がきて三十六になるけど。」
「じゃ、私のお母さんといっしょだね。」
そう言ったのはマユだった。
「いっしょ? お母さん、若いんだね。」
「十九で私を生んだからね。」
…十九で? そのくらいで親になる人は結構いるよね。マユと十九離れてるということは、一年生たちとはちょうど二十才離れているということになる。ショックだなんて言ったけど、親子でも全然おかしくないじゃない。若いつもりでいたのに、私はもうそんな年になっていたのだ。「お母さん」と言われたときより数倍大きなショックに襲われた。
その頃から、マユとアカネが美術室に来て、一緒に昼ごはんを食べるようになった。どちらか、または二人とも、お弁当を持ってきていないことがあり、私がとっている日替わり弁当を分け合って食べることもあった。
「なんでお弁当持ってこないの?」
「うちら、施設にいてさ、お弁当は作っておいてあるけど、自分で弁当箱に詰めなきゃなんないから、めんどくさいんだよね。」
「せっかく作ってもらってるのにもったいない! お腹すくでしょ。」
「まぁねぇ。」
「美術は休まず出てきてるけど、他の教科はどうしてるの? 欠課が多いって聞くけど。」
「あんまり出てないね。遅れて行ったり、途中で抜けることもあるし。」
「また進級できなくならない?」
「別にいいかな。学校やめようかって、いつも思ってるし。」
「そうなんだ。学校やめて、何かやりたいことあるの?」
「別に。仕事してお金ためて、一人暮らしするかな。」
「一人で家賃払って生活するのは大変だよ。」
「そうかもしれないけど、いっぱい人がいると、いろいろあって疲れるんだよね。」
「そうそう。」
アカネもうなずく。
「マユはどんな仕事したいの?」
「接客とか好きかな。」
「向いてるかもね。まあ、慌てて結論出さないで、ゆっくり考えてみたら? やめようと思えばいつでもやめられるけど、早まったら元には戻せないからね。」
「うん。そうするよ。」
全く言うことをきかないと、先生たちからは評判が悪いけれど、話してみるとすごく素直な子だ。学校という場所と歯車がかみ合わないだけなんじゃないだろうか。
何日かして、マユがシャツの形に折りたたんだ手紙を持ってきた。
「あとで読んでね。」
「わかった。」
その手紙にはこんなことが書いてあった。
?この前先生に「学校やめて何したい?」って聞かれたよね。あれからずっと考えてたんだけど、私はお母さんになりたい。子供をうんで、かわいがって、あったかい家庭を作りたい。今は彼氏もいないし、すぐには無理だけど、いつかきっといいお母さんになるよ。見ててね。マユ?
いつも明るくふるまっていて、寂しさなんて感じさせないようにしているマユ。施設で暮らすあの子にとって、一番欲しいものは家庭なのだ。あせらなくても、きっとマユはいい家庭を作れるよ。読み終えた手紙を元のシャツの形に戻そうとしたけど、どうしてもできないのであきらめた。
私の娘は五才で、ミヒロという。私が子供の頃とは正反対の性格で、何にでも興味を示し、かたっぱしからやってみたがる。おかげで、私はこいつが生まれてから、今まで自分とは縁がないと思っていたたくさんの世界に足を踏み入れることになった。
たとえば、運動オンチの私には関わることもないと思っていたスキー。ミヒロがやってみたいと言うので、二年前いっしょに始めてみた。すると案外おもしろい。ミヒロにせがまれなければ、私はその楽しさを一生知らずに過ごしただろう。好奇心がなかったために、私は今までどれだけ損をしてきたのだろうか。
ミヒロは、四才になった頃からタレントスクールに通っている。子供に変な期待をしてバカな親だと思われるかもしれないけれど、三才のとき、本人がテレビに出たいと言ったのだ。
「どうやったらテレビに出られるの?」
身を乗り出して聞くミヒロに、
「テレビの裏のフタを開けて入るんだよ。」
と、冗談でごまかすと、
「もぉ!」
ヤツは怒って、私に向かって小さなこぶしを振り回した。こいつは本気だ、その時感じた。
「ホントはどうやったらいいの?」
「テレビに出る勉強をするとこに行かなきゃならないかな。」
「じゃあ、そこに行く!」
わが子が初めて自分からやりたいと言ったことだった。子供の気まぐれでもなんでも、やりたいということはひと通りやらせてみたかった。私だけの収入で、そんなところに通わせるのは無茶かとも思ったけど、なんとか切りつめて一年半続けている。高速バスを使って、片道二時間。小さな身体にはきついはずだけれど、やめたいと言ったことは一度もない。
私が習っていなくて後悔したピアノも、同じ時期から習わせている。発表会などで何度かステージに上がる機会があったのだけれど、そのたび舞台度胸のある子だと人に言われた。まだ人前で演じる意味がわかっていないせいか、全く緊張せず、人に見られることが楽しくてたまらないという笑顔を見せるのだ。この子はこういうことが向いているのかもしれない。
ミヒロには小さいうちからいろんなことを経験させて、自分を生かせる場所を早く見つけてほしいと思っていた。父親がいないことをコンプレックスにして、ちぢこまった性格になってほしくないし、「お母さんが苦労して育ててくれたから、一生お母さんの面倒見なきゃ」なんてプレッシャーを感じてほしくもない。もし、早く何かを身につけて自分で稼ぎ、「自分の生活費は自分で稼いできた」と言えたら、私に遠慮せず、自分のことを一番に考えて生きていくことができるだろう。私自身も、子供のためだけに身を粉にして働くような親にはなりたくなかった。お互い自立して、向きあえる親子でありたい。
「将来のために、今はガマンする」という生き方を、ミヒロにはさせていない。今やりたいことがあるなら、それを一生懸命やればいいと思っている。大人になって始めたのでは手遅れなことが、この世にはたくさんある。自分と同じ後悔を、子供にはさせたくないのだ。もちろん将来も大切。だけど、今を一生懸命生きている人には、自然といい未来がやってくると思う。未来というのは今の続きなのだから。
「パソコンで絵を描きたいんだけど、どうしたらいいの?」
サオリが私に聞いてきた。パソコンかぁ。機械は苦手で、使い方がよくわからない。とりあえず準備室に行ってパソコンの電源を入れ、正直に言った。
「実は、私もパソコンで絵なんか描いたことないんだよね。」
「先生のくせに、役に立たないんだから。」
全くその通り。大学を卒業する頃、初めてワープロを見て驚いた世代の私には、パソコンなんて異次元の物体。今どきパソコンを使えなくちゃどんな仕事もつとまらないから、これから勉強するしかない。
「一緒にやってみようか。」
「しょうがないわね。これがお絵かきソフトよね?」
「…たぶん。」
聞くだけ無駄なのを察したサオリは、自分であれこれ操作して、絵を描く画面を出した。マウスを動かし、線を引いてみているけど、思うところに線が引けない。
「むずかしい。もっといい方法ないのかな。」
「そこにあるのがスキャナってやつだよね? それ使ってみれないかな…」
教室のほうでは、カツヤが遅刻してきて何か叫んでいる。
「うるさいな。ちょっとあっち見てくるわ。」
「どうぞ。どうせいても役に立たないし。」
返す言葉もない。
「うわぁ! やっちまったぁ!」
「なにをやったの?」
「もうすぐ母の日だな、なんかプレゼントする?ってクラスのヤツに聞いたら、『うち、母親いないんだ。あ、気にしないで。』って、気にするだろうが! うわぁ!」
クラスメイトを傷つけてしまったことを後悔して、叫びまわってるらしい。また、ボンドやスティックのりが宙を舞って床に散らかる。
「もう言っちゃったもん仕方ないじゃん。」
黒板に落書きをしながらシンタが言った。
コイツらは子供っぽいいたずらはするけれど、弱いものをいじめたり、わざと人を傷つけたりすることはないだろう。いたずらのあと片付けをするのは面倒だけど、まあ、こんなのはかわいいものだ。
「文化祭の曲、何にする?」
「おれはこないだの曲がいいと思うけど、ケンがいやだって。」
「じゃ、アレは? 昨日のテープに入ってた…」
この学校は六月後半に文化祭がある。ゴールデンウイークも終わり、あちこちで文化祭の話が出始めていた。
「文化祭で何かやるの?」
「ライブ。俺がギターでこいつがドラム。」
カツヤを指差し、タケシが答えた。
「へえ、バンドやってるんだ。」
「オレがバンドのリーダー。」
自慢げにカツヤが言った。え? こいつがリーダーで、ちゃんとまとまるんだろうか。そのバンド、ぜひ見てみたい。ドラム叩きながら、物投げてたりして。
「シンタも一緒にやってるの?」
「ボクは何もできないから見る人!」
そんな会話を聞いていたミカちゃんも、
「美術部もそろそろバザーのしたくしなきゃいけないな。」
と、パソコンと格闘しているサオリのところに行き、文化祭の相談を始めた。美術部は毎年、作品の展示と一緒に、アクセサリーなどの小物を作って売るらしい。
「今日、部員全員で集まろうか。」
いつもは活動してるのかどうかよくわからないクラブだけど、文化祭前は活発になるようだ。
文化祭が近づくにつれ、学校の中はかなり活気づいてきた。美術部も連日残り、展示用の作品やバザーの小物を作っている。と言っても、家で制作してる子もいるから、毎日残っているのはミカちゃんとサオリだけなのだけれど。冷たい印象だったサオリが「最後の文化祭だから」を連発し、一番熱くなっている。相変わらず言葉はぶっきらぼうだけど、周りに気を配っている場面もよく見かける。やさしさを人に見せることに照れていて、冷たい態度になっているのかもしれない。複雑な精神構造だ。
ついに文化祭がやってきた。狭い男子更衣室でやっている美術部のバザーにも、けっこう人は入ってくる。広い部屋も空いているのに、美術部員がわざわざこの小汚い部屋を選んだのだ。服を入れるボックスが、展示に使えて便利がいいという理由だった。バザーの店番にずっとついているつもりだけれど、カツヤたちのライブは見に行ってみたい。サオリが行くと言っていたから、ついて行ってみよう。
「そろそろだよ。」
サオリが声をかけてくれた。お客さんの間をくぐって、更衣室を抜け出す。
体育館に入ると、ステージの前にたくさんの生徒が立ち、飛び跳ねていた。へぇ、これが高校生のライブか。演奏してるのは知らない子たち。ギターやドラムのことはよくわからないけど、歌はそんなにうまくはないかな。そのバンドが終わり、次に出てきたのがカツヤたちのバンドだった。ボーカルの子が美形で人気があるらしく、結構な声援だ。演奏が始まると、いつもわけのわからない行動ばかりしているカツヤが、真剣な顔でドラムを叩き始めた。あいつがあんな顔をするときがあるんだ。体格がいいから、音に力があり、迫力もある。なんだか別の人間を見ているようだった。
今ステージの上にいるのは、まぎれもなくあのやんちゃ坊主たち。何の気力も感じさせない授業中の姿とは違い、ここではちゃんと生きている。照明はたいして強くもないのに、ステージの上は妙にまぶしかった。
何曲かやるらしかったけど、一曲聴いたところで、バザーが気になるから帰るとサオリに告げ、体育館を出た。本当は急いで帰る必要なんてない。よくわからないけれど、それ以上そこにいたたまれない何かを感じて、早く外に出たかったのだ。
更衣室に戻ってバザーの店番をしていると、あっという間に時間は過ぎ、閉会式がやってきた。まだ高い陽の下、何日もかけて作ったものたちがゴミ捨て場に運ばれていく。お祭りの後はいつも、心のどこかにポッカリ穴があいた気分になる。
文化祭も終わり、ちょっと疲れの残る日常が戻ってきた。ホッと一息ついたら、今度はすぐに期末テスト。学校という場所は、退屈する暇がないようにできている。
文化祭のドサクサで昼休みもバタバタしていたので、久しぶりにマユたちと食べるお昼ごはんだ。
「先生って、お母さんみたいだよね。ママって呼んでもいい?」
突然、マユが言った。
「え?…いいよ。こんな頼りないのでよければ。」
「ママになったら、私と一緒に暮らさないといけないんだよ。」
私は黙ってそっと笑った。できることならそうしたいくらい、私はマユがいとしくなっていた。でも、それはできないし、マユももちろん、無理なことはわかって口にしている。もし状況が許したとしても、そんなことをしていい結果にはならない。
七年前、私は両親を亡くした卒業生と結婚し、二年後泥沼の離婚をした。子供ができてるとわかったときには別居していて、生まれてすぐ離婚届を出したから、ミヒロは父親の顔を見たことがない。それから一度も会ってないし、連絡先も知らない。振り込むといっていた養育費も、一度も振り込まれたことはない。
先生と生徒という関係は、いつまでたっても変わらない、とてもいい関係だ。その距離を崩さずにいたなら、今でも会えば
「よう! 元気?」
と声を掛け合える関係が続いていたはず。相手のだらしなさだって、自分に降りかかってこなければ許せただろう。人間関係をいい状態で保つには、近づきすぎないことが大切だと思い知らされたできごとだった。私にはミヒロという道連れができたのだから、結婚したことは後悔していないけれど。
昼食を終え、用事があって職員室に入ると、ちょうどマユの話が出ていた。
「これからもずっとあんな態度じゃ進級もできないし、どうしたいのか本人と話してみないといけませんね。」
なんだか深刻な感じだ。
「放課後呼んで、話をしてみます。」
若い担任の先生は、そう言うとため息をついた。
次の日、お昼ごはんを食べ終わって一息つくと、マユが言った。
「ママ、私、学校やめちゃってもいいかな。あと三年もここで頑張る気になれないんだ。」
あのあと担任に呼ばれ、今後のことを考えてくるように言われたらしい。少し目が赤いのは、ゆうべ眠れなかったせいだろうか。
この子は悪い子じゃない。学校という場所とはかみ合わず、邪魔者扱いされてしまうけど、この子が必要とし、必要とされる場所がどこかにあるはずだ。その場所を探してみるほうがいいのかもしれない。
「自分でよく考えた結果なら、それがいいかもしれないね。」
そんな話をして、マユが学校をやめる気持ちを固めていたときだった。授業中先生の指導をきかなかったことをきっかけに、マユを家庭反省させ、今後のことを考えさせることが決まった。こういう状況になって、教室に戻ってくる子はいないらしい。
「施設の先生が迎えに来て、泣きわめきながら引きずられて帰ったよ。」
そのとき一緒にいたアカネが話してくれた。ショックだった。
学校に未練なんかないと言っていたマユ。気持ちを整理したつもりでいたのだろうけど、自分でも気づかない心の底に、ここでみんなと過ごしたい気持ちが、まだいっぱい残っていたのだ。やめたいならやめてもいいなんて言ってしまった私は、間違っていたんじゃないのか。学校という型にはまる努力をしてみろと言った方がよかったのかもしれない。私はマユの気持ちなんか、何ひとつわかってなかったのだ。なんの役にも立てなかった自分が、すごく情けなかった。
マユのいないお昼ごはんは味気なく、なかなかのどを通らない。そのうちアカネも友だちとお弁当を食べるようになり、美術室には来なくなった。
週に一度総合学習の時間があり、三年生が六つの講座の中から好きな講座を選んで学習するようになっている。三、四人の教員で一つの講座を見ていて、私は「創作-つくる」という講座の担当だ。
その時間、教室の真ん中あたりの席で、ゲゲゲの鬼太郎みたいな髪型の男子が毎回寝ている。この講座を担当する他の先生たちも、たまに背中をつついてみるだけで、無理に起こそうとはしていない。起こしたら暴れる子なのかもしれないし、今年来たばかりで様子のわからない私がでしゃばらない方がいいだろう。気にはなるけど、そんなわけで、声をかけてみたことはない。
これだけ爆睡するんだから、夜寝てないんだろうな。いったい何をしてるんだろう。計画表の「作るもの」の欄には「黒い衣装」と書いてある。デザイナーでも目指してるのかな。
「沼田くんて、プロのミュージシャンになりたいんだってね。」
「へぇ、そうなんだぁ。」
女子が噂をしているのが聞こえてきた。ゲゲゲの鬼太郎のことだ。なるほど、黒い衣装はステージで着るためのものか。どんな音楽をやってるんだろう。プロになりたいというからには、うまいのかな。ちょっと聴いてみたい気がする。
夏休みに入った頃、退学手続きをすませたマユから、久しぶりに電話がかかってきた。
「バイト決まったよ。パスタのお店なんだ。食べに来てね。」
変わらず元気そうで安心した。
「三年の沼田くんもそこでバイトしてるんだよ。」
「沼田くんて、ゲゲゲの鬼太郎みたいな頭した子?」
「そうそう。音楽やるのにお金がいるんだ、って頑張ってるよ。」
へえ、あの子バイトもしてるんだ。好きなことを追いかけるために頑張ってる姿が、妙にうらやましかった。
文化祭でカツヤたちのライブを見たときにも、似たような気持ちになった。あんなちゃらんぽらんなヤツらでさえ、本気になれるものを持っている。私はあの子たちの倍の時間生きてきたけど、あんなふうに目を輝かせて何かに向き合ったことはない。
もう一度高校生に戻れるなら、私も音楽がやりたい。ミヒロや高校生たちを見ているうち、そんなことを考えるようになっていた。
小学校五年生の時、いとこがギターを弾いてるのを見て自分も欲しくなり、小遣いを貯めて買った。暇さえあれば持って遊び、基本的なコードはほとんど覚えた。大学の時そのギターが壊れ、しばらく楽器のない生活をしたけど、やはり音が出るものがないと息苦しい。自分で稼ぐようになってから、ボーナスをはたいて電子ピアノを買った。ほんとは本物のピアノが欲しかったのだけれど、学校を転々とし、引越しの多い生活だったから、仕方なく妥協したのだ。ギターもピアノもたいしてうまくはならなかったけど、音を出していると心が和んだ。曲作りのまねごとをしていたこともある。どちらかというと、絵よりも音楽の方がいつも私の身近にあった。
コンサートに行くのも好きで、特にシンガーソングライターの人の生き方には共感することが多い。若い頃、もし身近に音楽をやっている人たちがいたなら、私もやっていたかもしれない、この頃そう思うことがある。だけど、周りにそういう生き方をしている人はいなかったから、ステージの上にいる人たちは別世界の人間でしかなかった。もちろん自分が人前で演奏するなど、考えたこともない。こんな年になって、もしも…なんて言ってみても、私の人生が何か変わるわけでもない。
「イベントが近いから、自分の子がダンスを覚えてるかどうか確認するために、レッスンの見学に入ってください。」
タレントスクールの先生に言われ、レッスン室に入った。みんながダンスをしている部屋の隅で、一人全く違う行動をしている子がいる。…あれはミヒロじゃないか! 指示を聞かないのはいつものことだからと、先生もさじを投げてほったらかしている状態のようだ。一瞬、頭の中が真っ白になった。高い月謝と交通費を払って、いったいこいつは何をしてるんだ。そばに行ってひっぱたきたい衝動に駆られたけれど、先生の手前、そんなことはできない。帰りの高速バスの中でどう説教しようかと、そればかりが頭の中をぐるぐる回る。
いまさら何を頑張っても、手遅れな私。だけどこいつは、これからどんな未来でも夢見ることができる。そのために精一杯の環境を作ってやっているのに、なんでこいつはそのチャンスを自分でつぶすんだ。私がミヒロだったら、こんなもったいないことなんかしない。人よりたくさん練習して、うまくなろうと努力する! 精一杯手を伸ばして、つかめるものは全部手に入れようとするはずだ。私がミヒロだったら…
整理できない怒りで頭の中が爆発しそうになったとき、もう一人の冷静な自分がつぶやいた。
(何かおかしくない? なぜこんなに苛立ってるの? 誰に対して腹を立ててるの? 誰が何をしたくて、何のために頑張らなきゃいけないの?)
そうだ。私が苛立っている本当の原因は、ミヒロではない。ミヒロがたとえプロのミュージシャンになったとしても、それはミヒロの人生であって、私の人生じゃない。ミヒロが努力して、それが報われても、私自身が幸せになれるわけではないのだ。頑張りたいのは私。充実感を手に入れたいのは私。だったら私がやるしかないじゃないか。
自分は手遅れだから、夢を追う若い子たちのそばにいて手助けをすることで、その人生を生きた気になろうとしていた。高校生たちがバンドをしているのも、ミヒロがタレントスクールに通うのもそう。そして、その姿を間近で見ているうち、うらやましいのを通り越して、妬ましくなっている自分に気づいていた。そんな自分を仕方ないと思ってきたけど、私が音楽をやっちゃいけない理由が、いったいどこにあるというのだろう。
ミヒロが生まれてからつい最近までは、時間もお金もギリギリの生活をしていた。ミヒロを育てることと、絵の会を続けることで精一杯。土日も関係なく働き、展覧会の準備や絵の制作に追われ、眠る時間を確保することさえままならなかった。でも今は週末が休みで、生活に困らないだけの給料も入っている。やろうと思えばなんだってできる状況が、いつの間にか整っていた。できないと決めつけていたのは、ほかならぬ私自身。未来を自分で捨ててしまっていたのは、ミヒロじゃなく私の方だったのだ。
なんだ、やればいいんだ。人が好きなことやってる姿を、指をくわえて見てるなんてバカバカしい。こんな年になって、いったいどんなことができるかわからないけど、今できることから、とりあえず始めてみればいい。そう思ったら、一気に目の前が開けてきた。
バスの中で、今日の態度をひと通り説教したあと、
「お母さんも音楽やってみようかな。」
ミヒロにさりげなく言ってみた。
「お母さんにはできないよ。」
ミヒロが返してくる。
「なんでそう思うんだよ。」
ムッとして聞いた後で、私が「お母さんはもう手遅れだから」と言い続けてきた言葉を刷り込まれているのだと気づいた。自分が口にした言葉だけど、人に言われるとカチンとくる。
「お母さんにだってできるかもしれないじゃん。あんたより先にデビューしてやる!」
もちろんプロなんて考えていない。勢いでとんでもないことを口走ってしまった。しらっとした顔で横を向いたまま、ミヒロがボソッとつぶやいた。
「フン…やるんなら本気でやれよ。」
!!……なぁにィ?! なんで五才のガキにこんなこと言われなきゃなんないんだ! わかったよ! 本気でやってやる!
でも、考えてみれば、私よりこいつの方がよっぽどしっかり生きている。やりたいことを自分で見つけ、やりたいと意思表示して、実行に移してきているのだ。何もしない子供時代を過ごし、今また前を向いて歩いている若者を、指をくわえて眺めている私なんかより、ずっと先を行ってるのかもしれない。こいつにまで置いていかれたくない。私は真剣に焦った。
やってみようと決めたけど、さて、何から始めよう。詞を書くことも曲を作ることも好き、歌うことも好きなのに、なぜかこれまで、自分の作った曲を自分が歌うというふうには結びついていかなかった。自分の言葉を自分で歌うことは、なにか照れくさい感じがあったのかもしれない。だけど、その二つを結びつけることは、ごく自然なことだ。それに挑戦してみよう。
曲作りなど習う場所が見つからないので、とりあえず通信講座のシンガーソングライターコースというのを受けることにした。大学時代にギターが壊れてから、十五年間一度も弾いていないのだけど、曲を作るならやはり、ギターがあった方がいい。ミヒロのレッスンを待つ間に楽器店に行き、安いギターを買ってきた。
コードを覚えているかどうか弾いてみる。十五年離れていても、若いときに覚えたことはちゃんと残っているものだ。コード名を忘れているものはあったけれど、ほとんどのコードの押さえ方を覚えている。指一本で全部の弦を押さえるFは、どうしてもできなくて、昔は飛ばして弾いていた。誰に聞かせるわけでもなかったから、あの頃はそれでよかったけど、今回はちゃんと音が出るようにしたい。
久々のギターがうれしくて、毎日二時間くらい練習した。でも、やっぱりFの音は出ない。私よりか弱そうな女の子がちゃんと弾いてるのを見たことがあるから、力が足りないせいではないと思う。いったいどうすればいいのだろう。Fの音が出ないまま、夏休みは終わってしまった。
昼休憩、準備室にカツヤとタケシ、そのバンド仲間たちが暇をつぶしにやってきた。こいつらが来ると、必ず何かいたずらをして帰るので、気をつけてなきゃいけない。
「こら! それはさわっちゃダメ!」
ベースの子に気をとられていると、
「ひゃあっ、ひゃっ、ひゃ!」
後ろで変な笑い声がした。振り返ると、帰りにポストに入れようと、カバンから少しのぞかせていた封筒を引っ張り出し、カツヤが腹を抱えている。
「シンガーソングライターコースだって!」
「勝手に人のカバンの中身出すな! いいじゃない、やってみたいってだけで、別にプロになりたいとか言ってるわけじゃないんだから。ちょっと自分がバンドやってるからって、エラそうにするんじゃない!」
恥ずかしいのと腹が立つのとで、そばにあったティッシュの箱をつかんでカツヤの頭をポコポコなぐった。悪いという自覚があるのか、ヤツは全く抵抗しないでおとなしく殴られている。このわけのわからないやつが、文化祭のライブではそれなりの演奏をしていた。まだ何もやってない私は、音楽というステージの上では、こいつよりずっと後ろを歩いてるわけだ。かなり悔しい。
「フォークギター買ったんだけどさ、Fの音がどうしても出ないんだよね。」
タケシに聞けば、なにかいい練習方法を教えてくれるかもしれない。恥ずかしいけど、思い切って話してみた。
「Fが出るかどうかが、ギターやるときの最初の壁らしいよ。Fの音が出なくてやめる人多いみたいだから、まあ、がんばって。」
けっこう親切な言葉をかけてくれたけれど、具体的な解決策は見つからなかった。誰もがつまずくところだから、練習あるのみ、ということか。
総合学習の時間ずっと寝ていた沼田くんが、服はできそうにないから曲を作るというテーマに変更すると言い出した。まだ何も取り掛かっていないタケシも、一緒に曲を作ることにしたらしい。美術室の隣の音楽室を使うので、私が両方を行き来して見ることになった。
音楽室のカギを開けると、二人がギターを抱えて遊び始めた。いつ見ても寝ていたから、沼田くんが動いている姿を見るのは、初めてかもしれない。
「ちゃんと曲を作ってよ。発表会もあるんだからね。」
「はい、はい。」
とタケシ。
「先生、なんか歌ってみてよ。」
いきなりふってきたのは、ギターを持って座っている沼田くんだ。話をしたこともない、しかもプロのミュージシャンをめざしてる子から歌えなんて言われて、慌ててしまった。
「歌う? ナンデ私が?」
もしかしたらタケシが何か話していて、どのくらいできるのか見てやろうってことなのか? とてもじゃないけど、まだ人に聞かせられるようなものじゃない。
「それより、沼田くんの歌が聞いてみたいんだけど。」
その状況から逃れるため、自分に向けられた言葉をそのままお返しした。
「イヤダ。恥ずかしい。」
じゃ、人にも言うなよ。そう思ってくるりと向きを変えたとき、ギターの音が鳴り、ささやくような小さな声で、歌がワンフレーズ流れて止まった。一瞬、誰かがCDを流したのかと思った。
「え? 今歌った?」
カッコつけているのか照れているのか、沼田くんは前髪で顔を隠してそっぽを向いている。
「…うまい。」
「そう! こいつうまいんだって!」
いつも淡々としゃべるタケシが、めずらしく力を入れて言った。恥ずかしいなんて言っているけど、自分の声を聞いて人がどんな反応をするのか、この子は知っていて、自信を持っている。私に歌えと言ったのも、そう言えば「そっちが歌ってよ」と私が言い返すことを予想した行動だったのかもしれない。本当は自分の歌を聴かせたかったのだ。プロになりたいという夢は、彼にとって、手が届かないものではないかもしれない。
それから毎週二人は音楽室にこもったけれど、遊んでばかりで曲ができている様子はない。物まねをしたり楽器をいじったりしていると、いつもあっという間に二時間が過ぎる。曲を作り、研究レポートも書かなきゃならないのに、この調子だと最後に慌てることになりそうだ。
でも、二人がギターで遊んでいるのを見ていた私には、一つ収穫があった。私のFの押さえ方が間違っていることに気づいたのだ。私は中指の方に引っ張られるように、人差し指のななめ横で弦を押さえていた。彼らはひとさし指の腹で押さえている。家に帰って真似をしてみたら、少し音が出た。もっと力を入れて押さえる練習をすれば、ちゃんとした音が出るようになるだろう。おかげさまで、タケシの言った最初の壁を何とか越えることができそうだ。
「そろそろ曲を作って録音してね。」
二学期も終わりに近づいた頃、通信添削の課題を録音するために買った小さなラジカセを、総合学習の授業に持って行った。音楽室のデッキは使い方がわからないし、自分たちで用意しろと言っても何も持ってこないので、私が用意するしかなかったのだ。
「小さいラジカセ、かわいいね。」
二人はしばらくそれをつついて遊んでいたけれど、
「じゃ、録音しようか。」
沼田くんがギターを持ち、録音ボタンを押すと、バラードを歌い始めた。タケシと私は雑音を出さないようにじっとして聞く。やはりうまい。一曲歌い終わると、沼田くんは自分で停止ボタンを押した。
「今の曲、自分で作ったの?」
「そうだよ。」
「なんだ、もうできてるんじゃん。いい曲だね。」
私がほめたのを聞いて、タケシが笑い出した。
「おい! バレるじゃないか。」
私の知らないアーティストの曲だったらしい。でき過ぎてると思った。
この子がちゃんとしたところで歌っているのを聴いてみたい。文化祭でも歌ったんだろうか。知ってたら聴くんだったのに。どこかでライブをやることがあれば、見に行きたいけど、卒業までにもうそんな機会はありそうにない。
「沼田くんの歌なら、ライブハウスに行けば聴けるんじゃない?」
「ライブハウス?」
「うん。インディーズでCDも出てるらしいよ。将来有名になったりしてね。」
彼氏ができたことを報告しに来たマユから、そんな話を聞いた。ライブハウスなんて足を踏み入れたこともなく、インディーズなんて言葉も知らなかった私は、話の意味がよくわからなかった。ライブハウスってことは、お金もらって人に聞かせてるってこと? CDって、お店で売ってるのかな。本人に聞けばすぐわかるだろうけれど、CD出てるの?なんて聞いて、間違いだったらはずかしい。
ミヒロがレッスンに入っている間、CDショップで暇をつぶしていて、県内のインディーズというコーナーを見つけた。こういうところにあるのかな。情報の授業で作ったバンドのポスターが廊下に貼ってあり、バンド名は知っていた。ざっと見渡したけど、そんな名前は見つからない。やっぱりマユの聞き違いだ。ん? この、オムニバスってなんだろう? いろんなバンドの曲を一曲ずつ入れてあるみたい。手にとって、並んでいるバンド名を一つずつ見ていくと、
「あった…」
めずらしい名前だから、同名のバンドということもないだろう。本当にCDになってるんだ。これは聴いてみなくては。そのCDを買って、ミヒロを迎えに行った。
高速バスから降りて自分の車に乗り換えると、早速CDをかけてみた。あの子の声だ。知ってる人の声が、こんなふうに流れてくるのは変な感じだった。ビブラートのかけ方が、のこぎりの刃みたい。曲を作ったのは他のメンバーだったけど、ボーカルの持っている良さを生かす曲になっている気がした。
「これ、歌ってるの、うちの学校の子なんだよ。」
「へぇ、すごいね。」
「ライブ聴きに行ってみたいよね。」
「行きたい、行きたい!」
ミヒロも乗り気になった。でも、ライブハウスってどんなところだろう。こんな子供、連れて入れるのかな。大ホールのコンサートには何度か連れて行ったことはあるけど、ライブハウスは雰囲気も全然違うだろう。
ういえば、ミヒロは最近妙なことを言い出していた。
「ドラムが習いたい。」
コンサートを見て、ボーカルでもギターでもなく、ドラムがやってみたくなったというのだ。私が気にとめたこともない楽器だったから、変わってるなと思った。小さな女の子がドラムを叩くなんておもしろいから、やらせてみたい気もするけど、今はタレントスクールとピアノだけでいっぱいいっぱいだ。
冬休みが終わり、三学期になった。三年生は一月いっぱいで卒業試験を終え、二月は学校に来なくなる。三年生の授業をするのは、あと三週間ほどだ。授業中、ストーブの周りに五人が集まり、雑談しながら絵を描いている姿を見ていると、急にさみしくなった。
「なに暗い顔してるんだ?」
カツヤが声をかけてきた。気持ちがそのまま、顔に出ていたらしい。他の四人も、何事かとこっちを向いた。
「別に。」
あんたたちに会えなくなるのがさみしいなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。知らん顔しようと、くるりと背中を向けたら、思わず涙があふれてきた。ヤバイ。私は準備室に逃げ込むと、ドアを閉めた。
「ちょっと、泣いてたじゃん。カツヤ何したの?」
「え? オレ? 今日はなんにも悪いことしてないぞ!」
わけがわからないと慌てている生徒たちの声を聞きながら、何とか涙を止めようと努力したけど、よけいにボロボロあふれてくる。そうしていると、授業時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「先生、帰るよ。」
サオリが準備室のドアを少しだけ開けて言った。
「うん。ゴメン、ゴメン。もう終わっていいよ。」
「なんで泣いたの?」
準備室に入ってきて、サオリがいつものぶっきらぼうな口調で聞いた。
「…もうすぐ三年が学校に来なくなると思ったらね。」
相手がサオリひとりなら、素直に話すことができる。
「ハン。私たちに会えなくなるのがさびしいんだ。また遊びに来てあげるわよ。」
早口で言うと、サオリは出て行った。語気はキツイが、これがサオリのやさしさの表現だ。
会えなくなるのがさみしいという言葉だけでは、私の気持ちは表現しきれていない気がした。私はいつの間にか、自分もあの子たちと同級生のような錯覚を起こしてしまっていたのだ。
昔から、私は自分の枠の中に他人が入ってくることを極端に嫌がっていた。予告なしで人が訪ねてきても、よほど気を許した人でなければ中に入れない。準備室も最初はそういう空間だった。でも気がつくと、あの子たちが出入りすることには何の抵抗もなくなっていた。高校時代心を閉ざしていた私にとって、あの子たちは初めて身構えずに付き合えた同級生だったのだ。時間講師に変わるかもしれないけれど、私はとりあえず来年度もここにおいてもらえる可能性が高いらしい。あの子たちが卒業してしまうと、私だけが留年して取り残されるような気持ちになる。
三年生との別れが近づくにつれ、つのっていく思いがもう一つあった。沼田くんのライブが見てみたい。けれど、ライブハウスに足を踏み入れる決心が、どうしてもつかなかった。いい年をして、若い子たちが集まるライブを見に行きたいと口に出すことにも、かなり勇気がいる。二月になったら沼田くんに会うこともなくなるから、行くなら今月中に次のライブの予定を聞いて、チケットを買っておかなければ。毎週授業で顔を合わせていたのに、ふざけているだけで、ライブの話をしているところなど見たことがない。むこうからそういう話題が出れば、言い出すきっかけができるのだけど。
ついに総合学習の発表会がやってきてしまった。講座ごとの教室に移動し、全員がレポートを元に一年間学習してきた成果を発表する。うちの講座は「つくる」ということがテーマだから、作ったものをみんなの前で見せなくてはならない。これがこの授業の最後の時間になる。
タケシと沼田くんにも、先週の授業で一応形だけのレポートを書かせたが、かんじんな曲はできあがらなかった。家でやってくると言っていたけど、ちゃんとやってきただろうか。
「録音してきたよ。再生するものある?」
沼田くんがカセットテープを持ってきた。よかった。できてるらしい。私は持ってきた小さなラジカセを渡した。
「沼田、ありがと。助かったよ。」
タケシは沼田くんがやってきてくれるのをあてにして、何もやってこなかったようだ。
発表は順番に進み、二人の番になった。レポートを早口で適当に読んだあと、沼田くんは持ってきたカセットテープを再生した。テンポの速い曲が流れてくる。どんな楽器で演奏してるんだろう。いろんな音が聞こえる。曲が終わると、教室に「さすがぁ」という声がもれた。こんなことができるんだ。授業中にはそんなそぶりは全く見せなかったのに。
「この曲はシーケンサーで作りました。」
最後に沼田くんが言った。シーケンサー? どんなものなんだろう。聞いてみたかったけど、この年で今さら音楽をやろうとしていることを沼田くんには言ってなかったので聞きづらい。どうせ今の私に使いきれるものじゃないし、自分でゆっくり調べてみよう。このとき聞かなかったために、それがどんなものか、なんとなくわかるまでに一年くらいかかったりするわけだけれど。
発表会の間の休憩時間、沼田くんがタケシに話していた。
「今度大きなイベントがあって、県外からすごいバンドが来るんだ。新しいバンド組んだばかりだから、俺たちも気合入ってるよ。」
「へぇ、頑張れよ。」
ライブの話だ! タケシが気のない口調で答えたので、話はそこで途切れてしまいそうだった。話に割り込むなら今しかない。
「いつあるの?」
話題が変わる前に、なんとか話にすべり込む。
「二月最後の土曜日。夕方からだよ。」
土曜ならミヒロのレッスンがある。スクールからは歩いて十分くらいで行ける場所だから、レッスンが終わって行けば時間的にもちょうどいい。
「その日、近くで子供のレッスンがあるんだ。帰りに行ってみようかな。子供連れて行っても大丈夫?」
いかにもついでに寄るような調子で言ってみた。
「え?…大丈夫だけど、チケット代は二人分いるよ。」
少しとまどった様子で、沼田くんは答えた。やはり私とライブハウスはイメージが結びつかなかったようだ。
「うん。一枚いくら?」
「千五百円。今日はチケット持ってきてないから、また持ってくるよ。」
「ヨロシクね。」
やった! これで後悔することなく、三年生を送り出すことができる。
講座別の発表会の数日あと、全部の講座から代表を二組ずつ選び、体育館で全体の発表会があった。パソコンを使う講座の代表はサオリ。サオリは、パソコンで描いた絵に短い文章を添えた本を作っていた。美術の時間に描いた絵も使われている。笑えるページ、ジーンとくるページ。サオリの感性で表現したさりげない絵と言葉が、心に響いてくる。この本はきちんと製本して書店に並ぶものではなく、自分の手元に置く、一冊だけのものだ。彼女の本を見て、私は目からウロコが落ちた気がした。
私は大学時代から、本を出したいという夢を持っていた。だけど、そのための道のりはあまりに遠く、厳しく思えた。こわくて足踏みしているうち、大学時代は終わり、臨時で学校に勤め始めると、そんなことを考えていられないほど忙しくなる。現実の前に、いつも夢は後まわし。いつか必ず、と思いながら、とりあえず今日を過ごすだけで手一杯の時間が流れる。そしていつの間にか、そんな夢を持っていたことさえ忘れかけていた。
彼女の作った本を見て、私は初めて気がついた。まず形にしなければ、何も始まらないのだ。それがきちんとした本になって書店に並ばなかったとしても、やってみた結果なら納得がいくはず。その結果を受けとめれば、前に進むこともできるだろう。いつかやろうと思うだけで、原稿をまとめるでもなく、もう十五年の歳月が経ってしまっている。このままいけば、死ぬまでそのいつかはめぐってこない。
本の最後のページには「協力してくれた人たちに感謝」と、何人かの名前が並べてあった。その中に私の名前もある。ほとんど役に立たなかったのに、恥ずかしかった。大切なことに気づかせてもらって、感謝しているのは私の方だ。
二月になり、三年が登校しなくなった。三年の教室から、遠く離れた美術室まで笑い声が聞こえてきていた休憩時間が、今はシーンとしている。いくらか課題を残した子たちが来ているらしいけれど、四階の端の美術室までその気配は届いてこない。時々サオリが顔を見せに来たり、カツヤたちが寄って嵐のように騒いでいく。帰っていったあとの静寂は、会えなくなった日の寂しさを予感させ、よけいにつらかった。
にぎやかな一年生の授業を終え、準備室でホッと一息ついた時、ドアの向こうで男子の話し声がした。今は授業中だから、一、二年生ではない。またカツヤたちが来たかな。
「持ってきたよ。」
ドアが開いて、入ってきたのは沼田くんだった。ライブのチケットを持ってきてくれたのだ。タケシも一緒だ。
「ありがとう。一枚千五百円だったよね?」
「うん。…先生って、ライブ好きなの?」
やはり、私が行きたいと言ったことが不思議なようだ。
「コンサートにはよく行くよ。ライブハウスは行ったことないんだけどね。」
「へえ、そうなんだ。あ、ライブのチラシ持ってきたからあげるよ。」
「…あ、これ、ライブハウスの壁に貼ってあった!」
レッスンの帰りにライブハウスの前を通ったとき、同じものを見たことがあったのだ。しっかり化粧をした人たちが写った写真を見て、ミヒロと二人で、
「きれいだね。みんな男の人かなぁ。」
なんて話したのを覚えている。まさかその中に自分の知ってる人が写っているなんて思いもしなかった。これが新しいバンドだったんだ。それにしても、これじゃ誰だか全然わからない。いろんな人のライブを見たけれど、これは未知の世界だ。なんだかまた、足を踏み入れるのが恐くなってきた。ミヒロもいるし…
「俺たち二番目なんだけど、間に合う?」
動揺しているところに、沼田くんが聞いてきた。
「レッスンが終わって急いで行けば、開演時間に間に合うと思うよ。」
「よかった。」
一瞬、沼田くんはお母さんが参観日に来てくれるのを喜ぶ小学生のような表情を見せた。学校の知り合いは他に誰も行かないようなので、結構楽しみにしてくれているみたいだ。やっぱり、今さら行かないとは言えないな。覚悟を決めよう。
「このメンバーで、てっぺんまで駆け上がっていくんだ。」
沼田くんはいつもの顔に戻り、鋭い目をして言った。そして、そのすぐ後に、
「半年後には消えてたりしてね。ハッハッハ!」
えらそうにふんぞり返って、わざとらしい大声で笑う。その高笑いの裏に、先のわからない世界に向かっていく不安が見えた気がした。
ライブの日。レッスンが終わって会場の前まで行くと、外には行列ができていた。黒いドレスで決めている子、顔を包帯でぐるぐる巻きにした子、普段見ている街の風景とは明らかに違う世界がそこにある。今日は五つのバンドが出ることになっているから、それぞれ、自分が見に来たバンドに合わせてオシャレをしているのだろう。ほとんどが若い女の子で、親子連れの私たちは場違いな感じだ。だけど、別にジロジロ見られるわけでもなく、それほど居心地悪さも感じないで、列に並んで中に入った。
初めて入ったライブハウスの中は、思ったより狭く、暗かった。大ホールのコンサートしか知らない私には、そのステージは窮屈に感じられる。今日は三百人くらい入ると、沼田くんは言っていた。この広さで三百人なら、ぎゅうぎゅう詰めになるのだろう。
私たちの後からも、どんどん人が入ってくる。どこにいればいいのかわからないけれど、後ろが詰まってきたから、少しずつ前に寄っていく。開演の頃には右のスピーカーの前辺りに落ち着いていた。暗いステージの上に人影が動き、照明が変わる。いよいよ始まるようだ。
いきなり飛び出した音が、耳に衝撃を与えた。スピーカーから二メートルくらいしか離れていないのだ。これはヤバイ。ミヒロはまだ小さいから、耳を傷めてしまうかもしれない。でも、もうその場所から動ける状態ではなかった。
「見えないよ!」
私の服を引っ張りながら、ミヒロの口がそう動いた。仕方なく抱き上げる。抱いたまま、曲に合わせてかすかに身体を動かしていたら、驚くべきことに、ミヒロは眠り始めた。この音の中でどうして眠れるんだ。ずっしり重くなってきたけれど、降ろすわけにはいかない。私は初めからクタクタになってしまった。
一つ目のバンドが終わる。次は沼田くんたちだ。彼が出るときには起こさなきゃ、何しに来たのかわからない。
「起きてよ!始まるよ!」
ミヒロがなんとか起きて目をこすっていると、後ろの人たちが少しずつ前につめてきて、私たちもじりじりと前に押し出されていく。沼田くんたちのほうが、さっきのバンドより人気があるということだろうか。一度ミヒロを降ろして休みたかったけど、降ろしてしまったら、狭くて抱き上げることはできなくなってしまうだろう。私一人の力で抱いているのは、もうムリだった。
「しっかりつかまって!」
ミヒロに自分で抱きつくように言い、体勢を変えながら、腕や足を順番に休ませる。そうやって頑張っているうち、真っ暗なステージで忙しく準備していた人たちの動きが感じられなくなった。いよいよ始まるようだ。
照明がつき、メンバーがステージに現れると、ものすごい歓声。沼田くんのステージでの名前を叫んでいる子もたくさんいる。こんなに人気があるんだ。曲が始まると、客席はますます盛り上がった。絵の具で描いたような派手な化粧をしているけれど、歌っているのは間違いなく沼田くんだ。力強い声。学校でふざけて歌っていたときとは比べものにならない。
今まで別世界の人がいる場所だったステージの上に、同じ教室で時間を過ごした子が立っている。たくさんの機材がある狭いステージの上を、ぶつかることなく身軽に動き回る沼田くん。その動きに合わせて、前の方にいる女の子たちがそろった振り付けで手を動かしている。日常生活から離れ、ここで疲れや嫌なことを洗い流し、また日常に帰っていく。この子たちはそうやって、沼田くんたちに助けられているのだろう。私が思っていたよりもずっと先を、沼田くんは歩いていた。私は生きているうちに、今沼田くんがいる場所までたどり着くことができるだろうか。熱い空気の中、私は冷静にその様子を眺めていた。
五曲演奏して、沼田くんたちのバンドは終わった。後ろの人たちが散らばっていき、スペースに余裕ができたので、私はすぐにミヒロを降ろした。腕に感覚がない。疲労はピークに達していた。せっかく来たのだから最後までいたかったけれど、もうそんな元気はない。ミヒロもこれ以上この音の中にいさせないほうがいいだろう。次のバンドの最初だけ見て、もしそれほど好きじゃなかったら帰ろう。ドリンクを飲んで、後ろの方で三つ目のバンドを一曲聴き、会場を出た。
「カッコよかったね。私もいつかここでライブやりたいな。」
圧倒されている私と違い、ミヒロは簡単にこんなことを言ってのける。先の長いコイツにとっては、それも難しいことではないのかもしれない。現実に、この子には一月ほど後、タレントスクールの大きな発表会が迫っている。
三月一日。ついに卒業式がやってきた。一月頃から少しずつ心の準備をしてきた別れの日だ。びっくりすることも多かったけれど、たくさんのことを教えてくれた生徒たち。さすがのあの子たちもおとなしく式を終え、放送係の私が流した音楽の中、ゆっくりと退場を始めた。職員は花道を作り、生徒を拍手で見送る。私もそこに加わるため、二階の放送室を飛び出し、階段を駆け下りた。
胸に花をつけ、卒業証書を手にした子たちが、次々と体育館を出ていく。お世話になった先生と握手をする子、涙をぬぐいながら通り過ぎる子、最後に目立ってやろうと面白いカッコをして笑わせる子… 授業やクラブで関わった子に、私は一人ずつ「頑張ってね。」と声をかけて送った。サオリはいつものように淡々とした態度を装って通り過ぎたけれど、きっとたくさんの思いを隠しているに違いない。
最後のクラスになり、沼田くんがやってくる。先生たちの前までくると、両手を上げて大きく振り、笑いをとった。私も一緒に笑っただけで見送る。他の子たちに贈った「頑張ってね」という言葉は、彼には言えなかった。迷って足踏みばかりしてきた自分。私は表現する人間として、彼に全くかなわない。頑張らなきゃいけないのは私の方だ。
私は彼をうらやんでいた。夢をつかんだ彼を想像してではなく、夢を追いかけている今の姿がうらやましかったのだ。生きていくとき、結果なんてあまり問題じゃないのかもしれない。結果がどうなろうと、自分の持てる力を使い切ることが大切なのだ。結果というのは後からついてくるもの。何もしなければ、当然何の結果も出ない。私の一番の後悔は、「何もしなかった」ことなのである。
卒業式の数日後、また例の、卒業できない夢を見た。高校生と一緒に一年過ごしても、やはり私は卒業することができない。私はこのまま、一生高校を卒業できないのだろうか。でも、この学校に来る前とは、確実に何かが変わっている。卒業生たちとの出会いが、卒業する大きなチャンスを作ってくれた気がするのだ。あとは私がどう行動するか。チャンス生かすことができるかどうかだ。
高校生とともに過ごし、だけど、高校生と同じではない自分。未完成な十七才とたいして変わらない、へたすれば、とある十七才よりも未熟な三十六才。もし今、やっと見つかった夢を持って高校生に戻れたなら、私はどんなふうに生き直すだろうなんて無意味なことを考えたこともある。今なお何も行動できない私は、たとえもう一度高校生に戻れたところで、同じ後悔を繰り返すだけだろう。過ぎた青春を悔やんでいる暇に、今何かやってみた方がいい。この年になったって、まだ生きているのだ。自分の気持ち次第で、いつだって自分の足元にスタートラインを引くことはできる。
だけど、具体的に何をすればいいかと考えても、はっきりした答えが出てこない。音楽をやると決めたけど、今は曲を作って通信添削してもらっているだけ。頑張って踏み出したつもりだったけど、これではまだダメなようだ。人をうらやむ気持ちがあるということがその証だった。人に伝えなければ作った意味はない。人前で歌うこと、それをしなければ、前に進むことはできないのだろう。そのチャンスを、どうにかしてつかみたい。
大ホールで行われる発表会が近づき、ミヒロのレッスンはかなり回数が増えていた。ダンスを覚えていなくて、ミヒロはみんなにかなり迷惑をかけているようだ。リズム感はあるといわれるのに、振り付けの決まったダンスをみんなと合わせて踊るのは、ミヒロには向いてないらしい。
私の方は、来年度の仕事がどうなるか、気が気でない時期になっている。「来年度は時間講師としてお願いする可能性が高いのですが、それでも来てもらえますか?」と、一度校長先生からお話があった。授業の数にもよるけれど、非常勤になれば、去年までのように他の仕事もかけ持ちしないと生活できないだろう。それでも、置いてもらえるなら来年も勤めさせてもらおうと思い、「はい。」と答えた。一年勤めて勝手がわかってきたし、せっかく人間関係ができてきた生徒たちとも離れたくない。そして何より、何かが変わりそうな予感に出会えたこの場所で、その予感を現実のものにしたかった。給料が減ったって、元の生活に戻るだけ。一年間月給をもらえただけでもずいぶん助かったのだ。
だけど、これはまだ決定ではない。もし何かの都合で予定が変わり、もういらないと言われたら、急いで四月からの仕事を探さなければならない。はっきりしたことがわかるのは三月の終わり。正採用の先生たちの転勤がわかる日だ。
いよいよその日、
「校長室に来てください。」
校長先生から内線が入った。覚悟を決めて校長室のドアをノックする。
「失礼します。」
頭を下げ、校長室に入ると、
「引き続いて臨時採用で来てもらうことになりましたよ。」
少しでも早く伝えようと、校長先生は前置きもなく用件を告げられた。
「え? 時間講師じゃないんですか?」
「ええ。今、県から正式に連絡がありました。今年と同じですよ。」
すぐには何を言われたのかわからないほど、私は意外な決定に驚いていた。もう一年、フルタイムで高校生たちと過ごすことができる。生活に困らないだけの収入も保証される。今そう告げられたのだ。
「ありがとうございます! よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いしますよ。」
うれしい誤算に、重くのしかかっていた来年度への不安は消えていった。
発表会まで一週間をきり、ミヒロは毎日レッスンすると言い渡された。片道二時間のスクールに通うのは、ほとんど一日がかり。毎日つれて通っていたのでは、私は仕事に行けない。かといって、一番できていないミヒロがレッスンを休むわけにはいかない。いまさら出ないことにしたら、立ち位置など全部変えなくてはならなくなって、みんなが混乱する。せっかく練習してきたのだから、本人も出たいだろう。どうしていいかわからず困り果てていると、
「発表会の日まで、うちでミヒロちゃん預かってあげるよ。」
同じキッズクラスのお母さんが声をかけてくれた。申し訳ないと思ったけれど、どうしようもないのでお願いすることにした。
発表会当日、会場に行くとミヒロはもうリハーサル中で、会えないまま本番を迎えることになった。ちゃんと振りを覚えただろうか。頑張れの一言くらいかけてやりたかったけれど、もうどうしようもない。時間になり、ステージの幕が上がった。
プログラムが進み、いよいよミヒロたちの出番だ。カラフルな衣装で、キッズクラスが登場してきた。不安だったダンスもなんとか覚え、いい笑顔で自分の役割をこなしている。しかし、ヤバイ。踊りが進むうち、衣装の下にすその長い白いシャツを着ているのがのぞき始めた。うわぁ…みるみるそれは目立ちだし、最後には全部出てしまった。すごい格好だ。衣装に着替えるときはシャツを脱ぐようにと、いつも言っていたのに。本人は全く気づかず、とびきりの笑顔。またみんなに迷惑をかけてしまった。
次の出番は大きい人たちと一緒。大勢で輪になって、踊りながら出てきた。円の奥のほうに行ったとき、いきなりミヒロの姿が消えた。しばらくするとまた現れた。どうやら転んで起きたらしい。大きい子たちの陰になっていたから、客席の人はほとんど気づいてないだろう。そ知らぬ笑顔で輪の中に戻ったのでホッとした。
最後の出番は全員で大合唱。迫力ある歌声だ。練習は大変だったけれど、やり遂げた満足感が、たくさんの顔からあふれている。何ヶ月もかけて作ったステージに、やがて幕が下りた。
楽屋に迎えに行くと、出演した子たちが肩を抱き合い、涙を流していた。もらい泣きかもしれないけれど、キッズクラスも全員、目を真っ赤にして泣きじゃくっている。
テレビを見たり本を読んだりして、感動して泣いたことはある。だけど私自身が何かをやり遂げた感動で涙を流したことなど、三十六年生きてきて一度もない。体育祭や文化祭で燃え尽き、涙する生徒たちを、いつもうらやましいと思いながら見ていた。そんな涙を、ミヒロはたった六才で大ホールのステージに上がり、経験したのだ。たくさんの人に迷惑をかけながら、なんとかやり遂げさせてもらって、本当によかったと思った。
「ライバルは17才 メチャメチャ成長が遅い私の記録 下」に続く