挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

怖い短編

かえして

作者:井川林檎
 素敵な物件、最高の部屋を借りた。
 新しくできたホームセンターは外装からしてお洒落で、品物も可愛いものが多かった。
 それで部屋の一式をそろえた。
 さくらんぼ柄のカーテンと小鳥の彫り物がついた棚、小さなサボテンの鉢や、猫足の丸テーブル。

 ベッドも良い。
 スプリングが効いているし、アイボリーの枠も品が良い。
 布団のカバーも可愛い……。

 おろしたてのシーツの中で、カーテンの隙間から差し込む朝日を感じる。
 心地よい夢からの浮上。すずめの鳴き声も聞こえる。
 いい夢だった。何の夢だっただろう。
 起きたらコーヒーを淹れよう。昨日買ったばかりの、小鳥のマグカップで。

 眩しい光が差し込んできて、はやく起きたらと優しく促すようだ。
 はやくはやく。ほら、素敵な一日が始まるよ。

 でもまだいい。心地よい夢をもう一度見ていたい……。


 携帯電話が鳴った。
 枕元に置いてある。変だな。こんなところに置いたっけ。
 目を開いてうんと伸びをする。お気に入りの真っ白なパジャマ。ふわふわの髪の毛が胸元に落ちるのを片手でかきあげて、しつこく鳴り続ける電話を取る。幸せなあくびがまじるのを堪えながら。

 「はい、どなた……」
 「返して」

 陰気な、地の底から響くような声。
 わたしは固まった。意味の分からない衝撃が体を貫いた。
 なんだって。

 「それは、わたしのもの」

 ぞうっとした。通話を切る。ばくばくと心臓が薄気味悪く踊っている。息が苦しい。なんだろう。
 ふらふらっと立ち上がり、ベージュのラグを素足で踏んで部屋を出る。隣の部屋に鏡台があるのよ。
 あの素敵なホームセンターは、ホームセンターというより雑貨屋。繊細な模造宝石で飾られた白い鏡台にはレースがかけられていて、わたしはいつものようにそれをはぐる。

 行かなくちゃならない。約束があるから。
 10時にドーナツ屋さんで、彼と――座ってブラシで髪の毛をといて自分の顔を見る。

 色白のうりざね顔に、おおきな瞳。唇は赤く、ぽっちりしている。
 きれいな子、可愛い子、そう言われて来た。
 「……ちゃんはほんとに可愛いわね。ママ自慢の子よ」
 何度も何度も耳元で繰り返された。呪文のように。
 可愛い、きれい、可愛い、きれい――うそじゃない――今、鏡の中からこちらを見返す若い女はだれが見ても間違いなく綺麗だろう。

 にこっと微笑んでみる。
 白い歯がこぼれ、えくぼが微かにできる。長いまつげはビューラーを使わないのに、くるんと上向きだ。
 可愛い、きれい……。
 呪文のように呟くと、鏡の中の綺麗な子も唇を同じように動かして微笑む。

 だけど、続きがあった。

 「あなたは、これ」

  一瞬のまたたきのうちに、鏡の中の顔が入れ替わっていた。
 一重の、頬がさがった、色黒の、にきび跡が消えない……誰だ、知らない、知らない、嘘だ。

 すぐに鏡の中は元通りになった。茶色く染めたウェーブのかかった髪の毛は光を受けて透けている。
 微笑む唇は、まるで今のは冗談だよと言っているみたい。そうよね気のせいだ……。

 支度を整えて。
 化粧をして、淡い色のカーディガンを選んで、春色のパンプスをはいて。
 ドーナツ屋さんに向かう道。空はよく晴れていて、道端にはたんぽぽが咲いていて、時々すれ違う犬の散歩の人や、子供を連れて歩いているママは、みんな幸せそうに笑っている。楽しい、春だわ、素敵な天気、今日のお天気のように、人生にはなんの影もなく、正しい道を楽しく歩いていればいいのよ――みんながそう語っている。

 道端のシロツメクサまで、そう語っている。
 幸せだ、このまま行け、何も見るな――歩道の中、向こうからこちらに急ぎ足で歩いてくるスーツ姿の女性がいた。せかせかと、仕事中だろうか、ストレートヘアをなびかせて顔を俯かせて。かつかつかつかつ――靴の音が耳に突き刺さる――かつかつかつ。

 ちょうどすれ違う時、女性はふっと顔をあげ、ほんのわずかにこちらに振り向いた。
 光る一重の目にわたしは息を飲み、世界がぐにゃんと歪んだ気がした。奴だ。

 「行けばいい、何もないから」
 いくら歩いても、あんたの約束したドーナツ屋なんて見つからない。行けばいい……。

 かつかつかつかつ――女性は通り過ぎた。
 わたしは足を止めかけ、心を持ち直して、再び明るい春の風景を見つめた。
 国道はえんえんと続いていて、コンビニやクリーニング屋さんも青空の下で、すごく活気づいているように見える。みんな笑顔で――いらっしゃい、ようこそ、良い天気ですね、きっと良い一日になることでしょう――幸せを湛えている、幸せを満喫している。

 いいことが待っているのよ。
 どこに行ってもなにかわくわくと心躍ることが待ち受けていて。
 見て、あのひとあんなに綺麗――向こう側の歩道を歩く中学生の集団がこちらを指さしている。にきびだらけの顔をして、髪の毛を無造作にふたつに縛って。ひざ下のソックスをはいて、紺色の制服を着て。
 綺麗ね、モデルさんかな、いいなあ――車道をはさんだこちら側まで聞こえてくる噂話。わたしは聞こえないふりをしながら、微笑ましく彼女たちを盗み見る。

 そうよそんな時期があった。
 思春期は自分にはとても手の届かないものを、たやすく掴めるものだと思うもの。夢は叶う、願いは実現する、好きな男の子は必ず振り返る、努力は報われる――そうねきっと叶うわと、わたしは微笑みながら彼女たちを横目で見る。

 その中には、奴がいた。
 一重の目、浅黒い顔、垂れた頬にへの字の唇。
 恨めしそうにこちらを見つめている。目が合う。かっちり合う。また次元が歪むような錯覚。
 「か、え、し、て」
 彼女は言う。異様に口をうごかして。
 「か、え、し、て――」

 見ない。
 わたしは心に誓う。
 見るもんか。なにも――再び前を見て、前だけ見て、口角を持ち上げて、春の日差しの中をうきうきと歩く。

 スカートは淡く揺れて足元に透ける影を落とす。
 ふわりふわりと風がふく――さあ春だ、これから良いことがあるよ、素敵な季節、はじまりの季節だ――頬に髪に風を受けて目を閉じて、一歩一歩をわたしは踏み出してゆく。

 「こんにちは、良い天気ですね」
 「こんにちは、温かになりましたね」
 「こんにちは」
 「こんにちは……」

 自転車をこぐ農作業姿のおじいさんも。
 原付バイクのおばちゃんも。
 コンビニから出て来た親子連れや、信号待ちで止まった車の窓から顔を出した若い男性まで。

 みんなが笑顔で、希望に満ちていて、お互いの幸せを、美しさを、良い人生をたたえ合っている。
 良いものに満ちている世界よ。

 歩く歩く、わたしはどんどん歩く。
 風はどんどん温かに甘くなり、髪は心地よく揺れて踊る。
 心が浮き立ち、わたしは踊りたくなる。スキップしたくなる。良いことが――ああ、必ず――待っている、最高に幸せな特別ななにかが。

 そのはずなのだ。

 ドーナツ屋さんで彼が待っているのよ。
 約束したのよ。
 この先にドーナツ屋さんがあるの。みんな知っている、誰もが待ちあわせに使う、広くて明るくて、大きな窓から色々な良いものが見渡せる、素敵な店なのよ。

 「こんにちは、良い一日を」
 「こんにちは」
 ……。

 春の埃で道は白く浮き上がっていて、ガードレールはえんえんと続いている。
 車道の車はよどみなく走り続けている。
 わたしは進む、歩く、見ない、なにも見ない、行かなくては、行かなくては。

 待っているのだから。幸せな約束が。
 どんなに恨めしく睨まれても、わたしはあんたのことなんか振り向いたりしない。
 あんたのことなんかで、悔恨し、今の幸せを捨てる事なんか、絶対にしない。


 「返して、それは、わたしのもの……」


 ふたをする。
 聞こえなくなる。見えない、見ない、関係がない。
 どんなにしつこく追いすがってきても、わたしは負けずに歩き続ける。
 良心が魂の借金取りみたいなものならば、そんなものは必要がないのだと思う。

 「返すもんか、これはわたしの顔、わたしの姿、わたしの人生、わたしの幸せ」
 白い道はえんえんと続いて、ドーナツ屋さんにたどり着くのは、もう少し先になりそうだ。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ