恋愛ゲームの始め方
恋愛、学園、ゲームといった書き慣れないジャンルの習作です。
誤字修正と一部補足(13.6.21)
鏡の中には日本人なのに焦げ茶色の髪を持った美少女が立っていた。長い睫毛も、光の加減によっては金に近くなる茶色の目も、スッと通った鼻筋も、なにも塗っていないピンクの可愛い唇も、きめ細やかな白い肌も、細い首も、細身に見えるわりには意外と大きな胸も、引き締まったウエストも、スラリと伸びた長い足も、彼女を形作る全てのパーツが極上で、何度見ても感心してしまう。
私の名前は渡瀬 桜。昨日から加味乃島高等学園の1年生。
冒頭のセリフは別にナルシストな訳じゃない。生まれた時から付き合ってきた身体なんだけど、一週間前に蘇った前世の記憶から見た客観的な感想なのだ。
そう。私には前世の記憶がある。そして今の私は今生と前世の記憶と性格が完全に融合した渡瀬 桜という人間なのだ。
……え? お決まりの前世の説明はどうしたって? 面倒なのでしませんよ。前世は前世、あくまで『昔の話』です。別に死因が思い出せないからじゃないからね! もともと前世の記憶があやふやで、自分と同じ年代の頃の彼女しか思い出せないとかも全然関係ないですから!
「よし!」
鏡の中の私は気合い充分。真新しい学園の制服に身を包み、いざ出陣! 2度目の高校生活へ!
「うわ~」
ここに来たのは4度目だ。受験と合格発表、新入生だけの入学式に今日。それなのにいつも感嘆の声を上げてしまうのは、それだけ圧倒的だからなんだろう。
見上げているのは学園の中心に立てられた建物。中世ヨーロッパの城を思わせる外観とモダンを融合させた学園のシンボル。名前はロマンもなにもない『中央棟』。ここまで凝った外観の建物を造ったのだから、もっと雰囲気にあった名前を付ければいいのに……と誰もが思うだろう。
周囲は上級生も含めて多数の生徒が教室に向かって歩いていた。おしゃべりをしながら進む数人の女子学生や、携帯端末を操作しながら黙々とあるく男子学生といった姿が見える。
キョロキョロと辺りを見回しながら歩いていた私は、横から歩いてきた人影に気が付いて慌てて足を止めた。直後、一歩先を早歩きで過ぎていくイケメン……いや、学生。一週間前までの私なら確実に注意力散漫でぶつかっていただろう彼は、銀縁の眼鏡の奥からチラリとこちらを見て、そのまま去っていく。
「副会長様だわ!」
何気なしに中央棟へと歩み去る彼を見送っていると、周囲の女子達が騒ぎ始めた。恐らく上級生なのだろう彼女たちは、うっとりとした眼差しで青年の背中を見つめていた。
「登校初日に校門前で生徒会副会長とぶつかりそうになるってどこの乙女ゲームよ」
心情を口に出してから慌てて手で口元を隠す。まずい。ツボに入って大笑いしてしまいそうだ。腹筋に力を入れ若干涙目になりながらも自分が転校生でないだけマシか~と更なる自爆思考に、俯いて肩を振るわせながら耐える。耐えろ、私! ここで一人笑いだせば痛い子に見られてしまう!
ひとしきり笑い終えると息を整え目尻の涙を拭って教室へと向かった。すでに教室には何人かの生徒が登校していて、黒板に張り出されていた席順に従って窓際、後ろから2番目の席に鞄を置いた。男女混合の五十音順なのだが、私より後ろに座る人は滅多にいないので珍しい事だと後ろの名前を確認すると、渡辺 朱里と書いてあった。女の子だろうか。仲良くなれるといいけど。
少し緊張しながら窓の外を見ると、ベランダのむこうに第二グラウンドが見える。そして一番奥、街に一番近い敷地に一本の桜の巨木が立っていた。カラリと軽い音を立ててドアを開けてベランダに出ると春の風が優しく頬を擽る。日差しの暖かさに手すりに寄りかかりながら風に揺れる桜を見上げた。この学園に桜の木は少ない。正門付近に数本あるが、どれもまだ若く桜特有の圧倒的な雰囲気はない。けれどこの古木は、きっと学園ができる前からここに立っていたのだろう。幹の黒さも、枝の張り具合も、花びらの色と数でも学園のシンボルとなり得るほど雄大な姿を誇らしげに晒し、見る人の感嘆を誘っていた。
いつまでも見ていたかったがそろそろホームルームの始まる時間だ。教室に戻ろうと踵を返すと同時に階上から甲高い声が聞こえてきた。
「見て! 見て! あそこにいらっしゃるの、生徒会長の冬夜様じゃない!? こっちを見てらっしゃるわ!」
興奮気味の声に興味を惹かれて振り返るも、広いグラウンドに人影は……あ、桜の木の下にある黒いシルエットがそれか? それにしても凄い視力をお持ちの先輩だ。この距離では人と判別ができても、個人を特定するまでには普通至らない。これも愛の成せるワザなのだろうと感心しつつ、ようやく席の埋まってきた教室へと戻っていった。
残念ながら後ろの席の生徒はまだ来ていなかった。その代わり私の隣の席の男子生徒が友人達に囲まれながら笑っていた。恐らく中学からの持ち上がりの生徒なのだろう、楽しげな様子を羨ましく思ってしまう。残念ながら前と斜め後ろの席も男子で、斜め前の席は女子だが、彼女も他の友人達と楽しそうにおしゃべりをしていた。残すは後ろの席の渡辺 朱里ちゃんだけ。どうにか彼女と友達になりたいと窓の外を眺めていると突然教室がざわついた。
一体何があったのだろうとクラスメイトの視線の先を追えば、教室の後ろの出入り口に立つ長身で真っ赤な髪の男子生徒へと向けられていて、左耳に付けられた3つのピアスと着崩したシャツとネクタイが一際目を引いた。
静まりかえる教室を慣れた様子で机へと向かう彼は、あろう事か私の後ろの席へと座る。と同時に私の隣の男子生徒がにこやかに振り向いた。
「おはよう、朱里。今日は朝から来たんだな」
「またお前と同じクラスか」
盛大なため息を吐いた渡辺 朱里が悪態を吐くも、挨拶をした男子生徒は慣れた様子で笑っていた。
「まぁいいか」
これで私の周囲の席で友達になれそうな女子生徒がいなくなったのだが、この学園に入学すると決めた時点で友人を作りにくいことは判っていた。中学からの持ち上がり組が9割を占めるのだ。だから無理に友達を作る必要はないと私は早々に諦めて外を眺める。
もちろん廊下から向けられる嫌悪するような視線に気付くことはまったくなかった。
担任は眼鏡をかけたイケメン男性教諭だった。不機嫌そうな表情に大人の男性らしい低い声がこれまたイケメン度を上げていたが、持ち上がりの生徒の表情から怖い先生ではないことが判る。中にはこっそりガッツポーズを取る者までいたのだ。見た目に惑わされないよう注意しようと心に決めて、班割りされた周囲の5人で顔を合わせた。
「班長を決めろってことだけど……その前に渡瀬さんって外の中学から入ってきたんだ」
自己紹介の内容を突っ込んできたのは私の隣りの男子生徒、峰岸 勇太だ。彼は人気者らしく、男子女子問わず常に声を掛けられていた。明るい性格と爽やかで甘いマスクに人気の秘密が窺える。
「はい。判らないことだらけですが迷惑を掛けないように頑張ります」
「大変だね。遠慮なく聞いてくれて構わないから」
そう言ってはにかむような笑みを見せたのは私の前に座っている山田 太郎。小柄な彼は黒縁の眼鏡を掛けて平凡な顔立ちをしていた。
「あの……山田君。名前の太郎君って呼んで良いかな?」
そんな彼にそっと視線を向けながら緊張しつつ許可を求めると、彼だけでなく班全員から驚きの視線を向けられる。
「え? どうして……」
名前呼びに慣れていないのだろうか、目を丸くして驚く彼に慌てて理由を説明した。
「だってこのクラスには山田 太一君もいるでしょう? 山田君じゃどちらを呼んでいるか判らないから」
ごく当たり前の理由になぜか空気が緩み、太郎君は微かに赤くなりながら「う、うん」と許可してくれる。それと同時に太郎君と反対側から強い視線を感じて恐る恐る振り向くと、渡辺 朱里が不愉快そうな視線を投げかけてきた。
「俺の事はなんて呼ぶつもりだ」
「朱里!!」
意味不明の彼の質問を遮るように立ち上がる峰岸 勇太。だが渡辺 朱里は質問を取り消すつもりがないようで、更に「答えろ」と要求してくる。
「渡辺君」
訳の分からない要求に、思わずムッとして呼びかける。喧嘩を売るときは姿勢を正し、相手の目を見て正しく売ることという姉の教えに従って、私は渡辺君のきつい眼差しを見返した。
「太郎君の名前呼びの理由を聞いていなかったのかな? 大丈夫。名字で呼ぶから心配しないで」
そう言ってにっこり笑うと、唖然と見返していた彼から視線を逸らして同じように驚いている峰岸君を見上げる。一体なんだというんだ。初対面の私を礼を失した人間のように見下して。
「峰岸君。私は班長は貴方が適任だと思います」
彼等が呆然としている間に提案すると太郎君と宗方君が同意して、多数決で班長は彼に決まった。そう言えばこの班、女子は私だけなんだね……と、今更ため息を吐きたくなったのは仕方のないことだよね。太郎君の隣の女子生徒は前の班に分けられちゃったんだから。
何もしていないのに嫌われるのは案外傷付く。性格が嫌とか容姿が嫌いといったものもあるだろうけど、なぜか存在自体を否定されている気がした。
そんな視線を向けてくる二人の傍でお昼を食べる気にもならず、お弁当を持って屋上に上がると日陰へと逃げ込む。少し肌寒いが食事をしている間に気にならなくなるだろう。お茶も用意してあるし、携帯のアラームも5時限目の授業開始10分前にセットしてある。午睡の準備もしっかり確認して甘い卵焼きを食べ始めようとして。
「きゃあ、冬夜さま!」
甲高い歓声に口元まで持っていた卵焼きが弁当箱へと戻っていく。一体何事かと物陰からそっと覗くと、女子生徒を引き連れた男子生徒が一人、何かを探すように辺りを見回していた。
「半端ない取り巻きだな。いち、に、さん……20人はいるか」
学園の有名人らしい上級生が出入り口から移動したのに合わせて、弁当を持つと屋上から逃げ去る。アレでは煩くてゆっくり昼寝もできない。どこか秘密の隠れ家を探し出すまでは教室で食べるのが無難かもしれないとため息と吐いていると、階段を上がってきた人物と目が合った。
確か……生徒会の副会長だったか。
柔らかそうな黒髪に大人の雰囲気を漂わせた美男子。アイドルも真っ青の長い足と健康そうな白い肌に、どんな日焼け止めを使っているのかな?と一瞬思った。すぐにお弁当の事が頭を占めたけれど。
お互い無言で擦れ違う……はずだった。
「ねぇ、君。生徒会長を見なかった?」
男子にしてはまろやかな声が呼び止めてくる。足を止めるとうなじ辺りに視線を感じて、仕方なく振り向いた。
「すみません。新入生なので生徒会長の顔を憶えてなくて」
だから見ていても判らないのだと言い訳すると副会長は意外そうな顔をしてから、自己完結したのか一つ肯いた。
「君は外部の中学から来たんだね」
今日はずいぶんと確認される日だと印象に残りながらその通りだと肯定すると、副会長が見た目とは違う軽薄そうな笑みを浮かべる。それまでとは違った冷たい表情に、思わず一歩下がって壁に背を付けた。
「なぜ、今朝はぶつかってこなかったんだ?」
すでに擦れ違ってしまっていたから、身長差もあって副会長の頭は見上げるほど高い位置にある。そこから見下ろされる不快感を一瞬忘れるほどの間抜けた質問に思わず首を傾げた。
「直前で気が付いたからです」
正直に答えれば、軽蔑するような眼差しは更に強くなり。
「そのまま馬鹿みたいに突っ込んでくるつもりかと思ったよ」
そうしたら突き飛ばしてやるつもりだったのに。
副会長は顔を近づけると小声で囁き、冗談とも本気とも判別できない微笑みを浮かべて屋上へと上がっていった。
「……私の悪口でも広まってるのかなぁ」
立ち去る広い背中を見上げながら、さすがにこれは泣きそうになる。
「渡瀬さん? どうしたの?」
ちょうどその時、廊下を歩いてきた太郎君が私を見付けて声を掛けてくれた。ごく普通の気遣う声に嬉しくて涙が引っ込む。
「屋上に人が多くて、お昼どこで食べようか悩んでたの」
そう言ってお弁当を持ち上げると、同じように購買部の紙袋を持ち上げた太郎君が笑いながら誘ってくれた。
「そっか。俺もまだなんだ。教室で一緒に食べない?」
どうせ前後の席だしとはにかむ彼に大きく肯いて、私は太郎君と並んで教室に戻っていった。
さて。世の中の出来事には全て裏があるなんてちょっとアレな発言をしてたのは誰だったか。放課後の今、私は生徒会室に呼び出され、生徒会長、副会長、峰岸君、渡辺君と知らない女子学生に囲まれていた。
ちなみに生徒会長とは女子生徒を引き連れて屋上に姿を現したあの学生だ。
「貴女がどんな手を使っても彼等を言いなりにはできませんよ」
長い艶やかな黒髪と大きな目、人形のように愛らしい容姿の女子学生が男性陣に囲まれながらこちらを睨みつける。身に覚えのない激しい憎しみの感情に足が竦むが、訳の分からない状態に怒りたいのはこちらだ。一度深呼吸をしてあらゆる感情を沈めると、気圧されぬように踏ん張って彼等を見据えた。
「何を言っているのか判りません」
彼等を言いなり? 私は催眠術師だと思われているんだろうか。今まで様々な噂が立ったがコレは初めてかもしれない。
「ふざけるのは止めて下さい。貴女は知っているはずですよね? この世界が恋愛ゲームの世界なのだと。知識があって、簡単に逆ハーレムを築けると思ったら大間違いです。貴女は彼等の人権を無視しています!」
声高に叫ぶ女子生徒。可愛い顔が台無しの醜悪さだ。それよりも彼女の頭の中は大丈夫なんだろうかと本気で心配になる。
「美咲のいうとおりだ。俺を注意すれば俺がお前になびくと本気で思っているのか? っていうか、なんで俺に会いに来ない!」
……噂に聞いていた以上の俺様生徒会長ですね。自分中心に世界が回りすぎてついていけません。同じ日本語を話しているとは思えない意志疎通不可能な状態に私は、ただ黙って彼等の言い分を聞いていた。
「俺だって裏の性格を言い当てられたからといってお前を好きになると思っていたのか。馬鹿にするのはやめろ。俺はお前よりも美咲を選ぶ」
副会長は階段で会ったそのままの態度。最後の一言が理解できませんが。
「渡瀬。俺に寂しさなんてねぇよ。親とは不仲だが、それ以上に勇太や美咲達がいる。お前に慰められ、認められなくてもかまわねぇ!」
渡辺 朱里がドスの利いた声で脅してくるのをじっと見据えると、彼は今にも殴りかからんばかりに拳を握りしめた。
「渡瀬さん。俺だって好きな女子を選ぶ権利があるよ」
峰岸 勇太が静かな声で言い放った。
そして生徒会室に広がる沈黙。女子生徒のギラギラとこちらを見つめる目に異常と恐怖を感じる。彼等の盲信的なナニか……がまったく理解できなかった。
だから。
「貴方達の言い分は理解できませんでしたが判りました。では、今度はこちらの言い分を聞いて下さい」
思っていた以上に冷静に頭が働いた。これからこの人達と関わり合いにならない為にいくつか言っておきたいこともあったし、訳の分からないことを言われっぱなしなのは性に合わないのだ。
「まず生徒会長。貴方はなぜ自分に会いに来ないか聞いてきましたね。答えましょう。『私』に生徒会長への用事がないからですよ。貴方に会いに行く必要性がまったくなかったからです」
腕を組み、睥睨するようにこちらを見ていた生徒会長が目を見張った。
「それから副会長。会ってすぐの人間の裏を見抜けるほど、私は人を見る目がありません。貴方の外見と性格の印象がまるで正反対なのは認めますが、そんなことは私じゃなくても知っている事実でしょう。そしてわざわざ貴方に指摘しなければならない理由が、私にはないです」
ムッとした表情の副会長を見ながら、やはり性格に裏表のあるような人物には見えないと思う。
「そして渡辺君。貴方の事を知りもしないのに認めるもなにもないよ。それに……不仲でも生きているなら良いじゃない。まだやり直せるチャンスがあるんだから」
言葉の最後はほとんど力がなくなった。呟くようになってしまっても彼等の耳には届いていたのだろう。疑問の表情に苦笑いを浮かべながら理由を説明する。
「去年、両親を亡くしちゃったから……だから伯父さんの経営するこの学園に入れてもらったの。ちゃんと受験はしたけどね」
寂しい気持ちを誤魔化すためにどうでもいい情報を口にしつつ、顔を背けた渡辺 朱里を見つめた。
「そして峰岸君。貴方の言い分だけは理解できた。だから私も言うわ。私だって好きな男子を選ぶ権利があるの」
判って欲しいと彼と静かに相対する。
「どうして貴方達と付き合わなければならないの? 私にだって好みがあるのに」
「「「「は?」」」」
男子四人に一斉に聞き返された。
「え?」
なにかおかしな事を言ってはいないよね? なんでそんなに不思議そうな顔をする訳? 自分達がもてるからって全ての女子が貴方達を好きになる訳じゃないよね? その自信は一体どこから?
「そうやって自分に気を引かせる手管なのでしょう。騙されないで下さい!」
悲劇のヒロインのように叫ぶ『美咲』と呼ばれた女子生徒の言葉に、四人は顔を見合わせた。
「そして貴女。貴女にしてみればここは恋愛ゲームの舞台なのかもしれませんが、私にとっては悲しい現実なんです。ゲームならどんなに良かったか……ゲームならリセットして、絶対あの日の両親を助けるのに……」
あんなに胸が裂けるように痛み、悲しみのどん底に落ちるような体験は二度としたくない。きっと全力で阻止するだろう。
「無理に決まってるじゃない! 貴女の両親が事故死したことで貴女はこの学園にやってくる。それは絶対決まった出来事なのよ。どんなにリセットしても貴女の親は必ず事故死する運命なのよ!」
金切り声を上げる女子生徒の言葉を聞きながら、もう駄目だと思った。我慢も限界を超えることはできないのだと、ここに来て悟る。
「私がいたから! 両親が死んだって言うなら! 私なんていらない!!」
涙声で叫びながら生徒会室を飛び出すと、そのまま廊下をひた走る。背後で怒鳴るような大声が聞こえるがひたすら無視した。
「渡瀬さん? 渡瀬さん!」
名を呼ばれ突然腕が引かれた。よく走っている人間の腕を捕まえることができるなといつもなら感心しただろうが、今はその余裕がないまま見上げると、心配そうに眉を寄せる太郎君の顔がぼんやり見える。
「太郎……君」
ぽろぽろと涙が零れ、鼻水も流れているはずの私の顔を見て、彼は慌ててハンカチを差し出した。そして濃い青のハンカチを受け取って大泣きする私を、太郎君は近くの教室へと匿ってくれる。そんな彼の親切も身に染みてなかなか泣き止めない私に根気強く付き合ってくれた。
「ごめん……ね。ありがとう」
ようやく泣きやんだ頃には目は腫れて、ハンカチはぐしゃぐしゃになっていた。グスグスと鼻を啜りながら泣きすぎて熱を持つ額を冷たい壁に押しつける。
「何があったのか聞いてもいい? 俺じゃ頼りにならないと思うけど……心配なんだよ」
心地良い距離を保ちつつ押しつけがましくない親切心は彼の長所だ。だからつい本音を洩らしてしまう。
「私がいたから両親が死んだって言われた。私が……私……」
「それは生徒会に呼び出されたのと関係ある?」
私の前の席だからこそ、太郎君は放課後に私がどこに行ったのか知っていた。再び泣きそうになったが、彼の低くなった声に驚いてピクリと肩を揺らしながら小さく肯く。
「鞄も生徒会室?」
荷物のない私に確認を取った彼は携帯電話で誰かに簡単なメールを送ると、スッと頭を撫でてきた。
「助っ人を呼んだから安心して」
にっこり笑った太郎君が励ますように手を握ってくれて、暗く沈んでいた気持ちが少しずつ浮上する。それと同時に目の前で気遣わしげにこちらを見る彼をじっくりと眺めた。
ただ単に席が私の前で、同じ班になっただけの今日名前を知った太郎君。身長は私と同じくらいだし、寝癖の跳ねた髪と黒縁の眼鏡は彼をごく普通の学生に見せていて、名前呼びに動揺して赤面したりと可愛い一面もある。スポーツ万能でも成績優秀でも、実は眼鏡を取ると美少年でも際だって勇敢でもないけれど。
「太郎、どうした?」
ガラリとドアを開けて入ってきたのは、短い髪を後ろに流した体格の良い上級生。驚いて思わず太郎君にしがみつくと、彼は笑いながら握った手を軽く叩いた。
「一佳兄さん。ちょっと生徒会室に付き合ってほしいんだ。彼女の鞄を取りに行きたいんだよ」
「訳ありか」
大人の男性のように低く太い声と私を見ていたきつい眼差しがフッと和らぐ。これだけ泣き顔をさらしていれば誰でも気になるだろうが、一佳と呼ばれた学生は何も聞かずにドアの前で待っていてくれた。
「お兄さん?」
なの? との確認に太郎君はちょっと躊躇いながら否定した。
「従兄弟なんだ。小さい頃から仲良くしてもらっていて、つい兄さんと呼んじゃうんだよ。見た目怖そうだけどとっても優しいし頼りになる。ちなみに生徒会役員を取り締まることもできる風紀委員長なんだ」
きっと自慢の従兄弟なのだろう。太郎君の誇るような言葉は間違いなく尊敬を含んでいた。
「ところで一佳さんだけでも鞄は取りに行けるけど、どうする?」
「一緒に行く。まだ最後まで言い終わっていないから」
「一佳さんはボディガードについていくとして俺はどうしたらいい?」
私の判断に委ねるという彼の手をギュッと握りしめる。
「ここまで散々迷惑掛けちゃった自覚はあるの。だから全部まとめてお礼をするから、もう少し付き合って」
「判った」
繋がれた手が引かれ立ち上がる。二度と前に進むことができないと思っていた足は思いの外簡単に一歩を踏み出し、促してくれた頼れる手に今更ながらに鼓動が早くなりながら私達は生徒会室へと歩き出した。
私が飛び出した生徒会室は大変なことになっていた。自殺するのではないかと捜しに出た副会長が私達を一番に見付け、同じように探しに出た他の3人をメールで生徒会室に集めてもらったのだが、中では『美咲』と呼ばれていた女子生徒が泣きじゃくっていたのだ。
「私は、みんなを、助けてあげようと、思ったのに、その女に関わると、強制的に恋愛させられるって、教えてあげたのに!」
綺麗に目から涙を流しながらそっと周囲の様子を窺う女子生徒。
「渡瀬は! 無事か!」
息を切らして最後に走り込んできた生徒会長が近づいてくるのを、一佳さんが立ちはだかって阻止する。私はそれでも怖くて太郎君の背後に隠れた。
「一佳! 風紀委員長がなんの用だ!」
苛立った声に一佳さんは表情を変えず低い声で言い放つ。
「俺は彼女のボディガードだ」
「風紀委員長、山田 一佳……貴方も攻略対象なのよ! 彼女は貴方を騙しているの。貴方はシークレットで」
訳の分からないことを喚き始めた女子生徒を無表情に見つめていた一佳さんが止めの一言を言い放った。
「太郎。この女を保健室に連れて行けばいいのか?」
「!! 騙されないで! 風紀委員長は不正に立ち向かえば攻略できるのよ! 彼女は被害者を装って貴方の心を奪おうとしているの!」
涙を流しながら訴える彼女はそれでも可愛くて、鼻水混じりで大泣きした自分が恥ずかしくなってくる。
「もういい加減にしてくれませんか」
それでも最後まで言わなければならないと、太郎君の背中から出て腫れぼったい顔を一同に向けた。
「何が真実かなんて判りません。だけどさっき、言いそびれた事だけは言わせて下さい。貴方達がこの世界をゲームと思おうが現実と思おうがどちらでも構いません。だからもう二度と私に関わらないでください」
繋がれた手をもう一度確かめて。
「それからハッキリ言いますが、貴方達は私の好みではありません。私が好きなのは貴方です、山田 太郎君」
「渡瀬……さん」
私の告白に顔を真っ赤にした太郎君が狼狽えた。なぜか私を責めていた男子4人も盛大に驚いていたが無視だ。今はそれどころじゃないのだから。
「嘘よ! 彼はモブなのよ? ヒロインが好きになるはずがないわ!」
叫ぶ声を無視して、口から心臓が飛び出しそうになりながら告白を続ける。
「初めて見たときからいいなって思ってた。今日、いろいろ優しくしてもらって本気で好きになりました。こんな泣き顔じゃなく、もっと知り合ってから告白するべきなんでしょうけど……それでも私と付き合ってくれませんか」
返事を貰うまで手を離すつもりはないと握りしめると、太郎君は私を見ながらしどろもどろに言い訳を始めた。
「俺はふ、普通だし、渡瀬さんは、かっ可愛いから……」
「太郎。返事は短く、だ」
一佳さんが仕方のない弟に教えるような口調で助け船を出す。その声にビクついていた太郎君はゴクリと唾を飲み込んで。
「俺こそ、君が好きだよ」
蚊の鳴くような声で震えながら囁いたのだった。
回収されなかった伏線は別の短編にて回収させていただきます。一応シリーズ化の予定。あくまで習作なので(汗)