「・・たく。気をつけろよ」出勤途中の僕は思わず悪態をついた。これだけ人がいるのだ。少々ぶつかってもしょうがないが、つい言葉に出てしまった。相手は学生だ。三人で大声を出し笑い、流れに乗りもせず勝手に歩いていた。僕はそのまま改札に向かったが、いきなり後ろに引きずられた。振り向くとさっきの学生達だ。しかも、僕が何かを言おとした時には、みぞおち辺り激しい痛みを感じた。胃が締め付けられるようだ。三人は笑いながら足早に立ち去った。不意をつかれて見事なパンチを受けてしまったのだ。朝に飲んだ味噌汁の味が口の中に広がった。それでも痛みに耐えながらも、倒れることだけは免れた。何度か大きく息を吸って、ゆっくりと背筋を伸ばすと、どうにか痛みは和らいできた。時計を見ると僕は急いで改札を抜けた。胃の辺りは重い痛みが残っている。ホームは人で一杯だ。初めて上京したときは、人の多さに驚かされたが、それから既に二十年も過ぎている。都会の生活にも身体が馴染んでしまった。二十年の間に人並みな結婚をし子供も出来たが、今では夫婦間は冷め切っていた。
妻は私の稼ぎが悪いと罵り、娘は僕を汚がった。それでもたまにケーキなど持ち帰ると、機嫌よくなるのだ。かと言って、それほどの小遣いを貰っているわけではない。ギャンブルだ。どこの街にもあるあの人を引きつけるネオン。それでも勝てば良いが負けると昼食代すら無くなった。
今では妻に言えない借金を抱えている。ホームの脇をなれた足どりで歩き、いつもの乗車口に並んだ。到着した電車に乗り込むのも、慣れたものだ。いつもながら電車は寿司詰め状態だ。身動きが取れない。
その上、前の女性のバッグが腹に当たり、殴られた痛さを思い出させた。『・・ったく、ついてない』心の中の呟きは誰にも届かない。どうにか身体を反転させ、女のバッグから解放された。一息ついた時に、目の前の女性が泣いているのに気がついた。どうやら痴漢にあっているようだ。見ると三人の男が女性を囲み、不穏な動きを見せていた。『・・ったく、馬鹿共が』もちろん心の声で、誰にも聞こえないはずだ。僕にはもっと大変なことがあるのだ。痴漢などには構っていられない。僕は会社の経費を使い込んでいた。全ては妻と娘に喜んでもらうためだった。そのうち不正が不正を呼び、どうにもならない状態だった。営業だと言っては向かうギャンブル場。胃がきりきりと差し込む。『どうでもいいか』
そんな言葉が渦巻き始めた。その時女性が振り向いた。その視線は真っ直ぐに僕の顔を見据えていた。僕は目をそらした。学生のことも有り、僕は見て見ぬ振りをしたのだ。今の自分はそれ所ではないのだ。見ず知らずの女性が痴漢に合おうが、僕には一切関係がない。そう心の中で思い込んだ。『どうでもいいか』またあの言葉が頭をよぎった。駅に着くと人並みに押されるようにホームに降り立った。僕の降りたい駅ではない。人の列の後ろに回り込み僕は一息ついた。その時だ。「あの人です」いきなり僕は両手を抱え込まれた。あの女だ。あの女が駅員に通報したのだ。
そのまま僕は駅員詰め所まで連れて行かれた。抵抗はしなかった。また声が聞こえたからだ。『どうでもいいか』。そのうち派出所から警官も到着した。僕は思わず笑ってしまった。もしも妻が知ったら、会社の上司が知ったら、そう考えただけで笑ってしまったのだ。それなのに、警官は勘違いをしたようだ。こんなことがあるだろうか、警官は僕の腹を殴ったのだ。丁度あの学生と同じところを。この警官も悩みでもあるのか、そんなことを考えているうちに、僕の意識は闇に消え去った。闇の中で僕は悪魔になっていた。妻を殺し、娘と上司を殺し大声で笑っていたのだ。
そして僕は急に現実に引き戻された。僕の周りには人が血まみれで転がっていた。二人の警官、二人の駅員。そしてあの痴漢を受けた女。
僕はぼんやり眺めていたが、右手に異変を感じた。重い。それもそのはずだ。僕の手には白い紐のついた拳銃が握られたいた。警官から引きちぎったようだ。その光景を見ながらも頭の中では『どうでもいいか』の言葉が、徐々に大きく響き始めた。僕はゆっくりと詰め所から出た。
そこには騒ぎを聞きつけたのか、多くの野次馬が集まっていたが、僕を見た途端一斉に逃げ出した。僕はと言えば、返り血を浴びて真赤に染まったスーツに拳銃をぶら下げているのだ。野次馬が逃げ出してもしょうがない。僕は思わず拳銃を振りかざした。無意識に引き金を引いたが弾はでない。どうやら撃ち尽くしていたようだ。その時急に右足に痛みを感じた。見ると血が流れていた。どこからか威嚇射撃が行われたらしいが、僕にはどうでもいいことだった。初めて心の声と頭の声が一致した。その喜びで僕は踊りだした。ところが右足は僕の自由を奪ったのだ。よろめいた拍子に僕は線路へと転がり落ちた。立ち上がれないと、思った瞬間、目の前に電車が迫っていた。こんな状態でも電車は来るのかと思ったが、その答えは『どうでもいいか』・・・。僕の身体はバラバラになった。ホームからは悲鳴や叫びが聞こえてきた。首だけの僕が最後に思ったことは、想像通り『どうでもいいか』だった。
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