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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

素敵な耳

作者: 五十嵐 涼

今日は本当に久しぶりに外に出る事が出来た。


外はすっかり新緑の季節を迎え、暖かな日差しが気持ち良く風も穏やかだ。


まさにお出かけ日和といった感じなのに、家のすぐ近くのスーパーに決められたものを買ったらすぐ帰ってこいと夫にきつく言われている。


二ヶ月ぶりの外出なので少しくらい寄り道をしてみたくもなるのだが、なにせ帰ってくる時間を決められていた。


その時間なんとたったの10分。


スーパーまでの距離は片道3分なので往復6分。


つまり、スーパーに居れる時間はたった4分なのだ。


これはレジがすんなり済んだとしてもかなり厳しい時間だ。


脇目もふらず目的の品を手に取りレジへと走っても間に合うかどうか。


普段は夫が仕事帰りに買ってきた材料で食事を用意しているのだが、今朝は雑誌でみたパンケーキ屋さんにどうしても行きたいとダダをこねてみた。


それは実際食べたいというのもあったが、夫にそろそろ外に出して欲しいという反発でもあった。


そのお店に行くのはどうしても駄目だと言われたが、それでも食い下がってではせめてスーパーで買って家で作りたいと相当しつこく懇願し、最後はこのまま籠っていたら私は発狂しそうだとまで言うと結局夫が折れ、10分間の外出を許して貰えたのだ。


以前の私達夫婦は、こんな事なんて全くなかった。


私はスーパーくらいいつでも行けたし、夫婦二人で買い物や小旅行にも頻繁に行っていた。ごく普通の夫婦だったのだ。


しかしあの事故以来、夫はすっかり変わってしまった。


なかなか私の外出を許してくれない。


とても嫉妬深くなってしまったのだ。


夫から事故後に出された決まり事は次の通りだ。


•家から出てはいけない


•家に誰か来ても決して開けてはいけない


•誰とも会ってはいけない。両親も、もちろん女友達にも


•欲しいものがある場合は事前に夫に言い、それを夫が買ってくる。ネットショッピングなども宅急便の人が来るので一切禁止


こんな決まり事守る必要もないだろと言いたい所だが、それでも私には彼に従わなければいけない理由がある。


だから今日の今日まで言いつけをきちんと守ってきたのだ。


「大変、あと5分だわ」


スーパーに着いた私はついつい新商品に目を引かれぼんやりしてしまい、慌てて目的のものを手に取るとレジへと急いだ。


「良かった、レジが混んでない」


まだ開店して間もない時間帯だった為、レジは空いておりすんなりと買い物をする事が出来た。


急いで会計を済ませ店を出ようとすると、ベビーカーを押した私より少し年上の30代くらいの女性がビックリした様な表情で私を見て来た。


そして去り際に一言。


「わぁ、綺麗な人」


そう私は美人だ。


自分で言うのも何だが、子供の頃から周囲から持て栄されてきた。


夫が最初に私に声をかけてきた時だって結局は外見が気に入ったからなのだ。


結婚式の時も口々に彼の友人達が「こんな綺麗な奥さんを貰えてお前は幸せだな」と言っていた。


そう言われて彼も嬉しそうに笑っていたのに、あの時は。


(懐かしいな…)


過去の思い出に心揺らされながら小走りで家に帰っている途中、男子高校生二人とすれ違うと彼らも目を丸くしながら


「おっ、すっげぇいい女」


と言ってきた。


その言い方にはさすがの私も少し吹き出してしまった。


しかし、タイムリミットが迫っている。


私は全速力で家へと向かった。


「ま、間に合った」


腕時計を見ると、出かけてから9分40秒の所で玄関に到着する事が出来た。


私は荒くなった息を整え玄関の扉を開けた。


しかし「ただいま」なんて言葉は言わず黙って靴を脱ぐと私はそのままリビングへと向かった。


リビングにはソファーに座り、ノートパソコンに向かって真剣な眼差しで調べものをしている夫がいた。


夫は私の気配に気付いたらしくこちらを向くと「あっ」と口を開きしかし声は出さずに画用紙を手に取ると『おかえり』とペンで書き私に見せてきた。


私は頷くと、ダイニングテーブルに買い物の品を置き、代わりに置いてある紙とペンを持って『ただいま、まだ調べているの?朝からずっとで疲れない?』と書いた。


そう、夫は耳が聞こえないのだ。


これは先天的なものでは無く、二ヶ月前の事故の所為である。思い出すだけで暗闇の淵に立たされる様な気分になるあの事故。





 それは夫婦2人でドライブに行ったあの日の出来事だ。


まだ寒かったが、今日みたいに天気の良い日で、私達は箱根にある美術館を目指していた。


2人ともアートが好きで、特に私はガラス工芸が好きだった。


箱根には有名なガラス工芸作家のラリックの美術館があり前々から夫を誘っていたのである。


私はあまり運転が得意ではないので夫が高速を飛ばし箱根まで向かっていたのだが、途中休憩しようとサービスエリアに寄り道をする事になった。


車を停め降りようとドアを開けたその瞬間、なんと夫がぎっくり腰になってしまった。


重たいものを持っていた訳でもないのに、突然「あっ」と叫び声を上げるとそのままうずくまってしまったのだ。


慌てた私は夫を担ぐ様に助手席に乗せ、高速を降りて近くの病院まで連れて行く事にした。


しかし、もともと運転が得意ではなく、しかも夫の車は大型のセダン車で私の運転はかなりおぼつかないものだった。


それでも何とか高速を走っていると前を走る一台のトラックが何やらおかしい事に気付いた。


変な所で何度もブレーキを踏むし、そうかと思ったら突然スピードを出したりする。


「もしかして、酔っぱらいか居眠りかしら」


しかし、追い越し車線はかなり飛ばす車が次々と走り去っていて、そちら側に移るには運転技術に自信がなく、仕方なくトラックの後ろを走っていたのだ。


早く夫を病院に連れて行きたい一心であの時の私は少し焦っており、トラックが飛ばすとこちらもスピードを出してしまった。


しかし、その直後トラックが急ブレーキを掛けたのだ。


こちらも急いでブレーキをかけたが間に合わず激突しそうな瞬間に私はハンドルを左に切ってしまった。


そしてそのまま壁に激突したのだ。


車が大破する程の大事故だったにも関わらず2人とも命を落とす事は無かったが、その事故により夫は鼓膜が破れ聴覚を失い、左半身に大怪我を負った。




2人とも退院して家に帰ってから夫は突然奇行に走った。


家にある電話、携帯、テレビ、音楽プレイヤーとスピーカー全てを捨て、家中の鏡を捨ててしまったのだ。


それから更に私には一歩も外に出てはいけないと言い出した


確かに耳が聞こえないからテレビなどは見てもストレスとなるだろう。


しかし、字幕放送などもあるだろうにそこまでしなくてもと思ったが私は黙っていた。


それから鏡を捨てたくなる気持ちは分かると思った。


夫のあの足を見たらきっとショックで人は目を逸らすだろう。


それぐらい跡が酷い。


そしてそんな自分に自信がなくなったのか異常に嫉妬深く、私を家から出さなくなった。


とは言え、夫は取り乱したり、暴力を振るう様なタイプではないので、逆に私が喚けばその行動を止めさせる事も出来ると思う。


しかし、私には出来なかった。


出来ないに決まっている。


何故なら、あの時私が追い越し車線に行きトラックを抜いていたら、落ち着いてスピードを出さなければ、ハンドルを切ったりしなければ、こうはならなかったのだから。


全ては私に原因があった。


夫の状態を知った時、殴られるくらいの事は覚悟していた。


私は責め続けても仕方ないとも思った。


しかし、驚く事にぎっくり腰なんかになった自分を責めていたのだ。


もともと夫は心優しい人間なのだが、ここまでされるともう私は夫の言う事を何でもきくしかないと心に決めたのだ。





『パンケーキ楽しみだな、早く作ってくれよ』


あれだけパンケーキを諦めろと言っていた癖に買ってきたとなると、そんな事を言い出した。


『はいはい、ちょっと待ってね』


そう書くと、私はエプロンを付け準備を始めた。


その姿を見て夫は嬉しそうに顔を緩めるとまたパソコンに向かった。


夫は事故以来、自分の耳と足の火傷跡を治す為に腕の良い医者を探していた。


良さそうな病院を探し出しては、そこへ出向き、しかし帰ってくると決まってガックリとうな垂れ、また探し出す。これを永遠と繰り返しているのだ。


私が代わりに探してあげようかと言うと、自分でやりたいと頑として聞かないのでそこは本人の自由にさしてあげる事にしている。


(早く良いお医者さんが見つかると良いのだけど…)


本人の自由にとは言っておきながらも、実は私も雑誌などで探しているのだ。


主婦雑誌には主婦が気になる内容が詰まっており、料理やファッションから家計のやりくり、あとは病気などの情報が掲載されている。


そこに、時々『名医に聞きました』などの特集があり、色んな症状に特化した医師がインタビューに答えていたりした。


(この間掲載されていたお医者さん、それぞれ耳鼻科と皮膚科のエキスパートの先生達って書いてあったけど…夫に見せようかしら。でも、本人が納得するまでそっとしておいた方が良いのかしら)


あれこれ考えながらも、フワフワのきつね色に焼けたパンケーキが一枚、二枚と出来上がっていった。






 翌日も夫は朝早くから出かけ、そして帰って来るとやはり首をうな垂れていた。


もうこんな事を繰り返している夫を見るに見かねて私は雑誌を夫に渡した。


『これは?』


『ここのページにお医者さんの紹介があって。どうやら名医みたいなんだけど、どうかしら?この病院はもう当たった?』


私から雑誌を受け取ると、夫は首を振った。


『いや、この病院はまだ行っていない。明日行ってみるよ。ありがとう』


私は頷き、彼の肩に優しく手を置いた。


『すまない、僕は冷静さを失って。キミには負担ばかりかけているね』


『そんな事はないわよ』


夫のしおらしい態度に私の目に涙が滲んだ。それを見て夫も瞳を潤ませた。


(こんなに優しい人なのに、今日はわがままを言ったりしてごめんなさい。きっと不安だらけの中に居るでしょうに。もうこんな思いはさせないから)


私は心の中で深く夫に謝罪した。







 次の日、夫は病院から帰ってくるといきなり口をパクパクさせながら飛び回り仕舞には私に抱きついてきた。


『ど、どうしたの!?』


夫の異常なテンションについて行けず私は慌てて紙とペンを手に取ると夫に見せた。


『ああ、すまない。すまない。あまりに嬉しくてね』


夫も急いで書いてはこちらに見せてきた。顔はだらしない程ににまにまとしていた。


『実は今日行った病院でね、耳は若干だが聞こえる様になるかもしれないと言われたんだ!』


『本当!?良かったじゃない!!』


夫の言葉を読んだらあまりの感動に私まで飛び跳ねてしまった。


しかし、夫は一気に顔を曇らせた。


『あ、あれ?どうしたの?』


『やっぱり…。ああ、それから皮膚科にも聞いたら、手術は複数回行わなければならないけどかなり綺麗に出来るとも言われたよ』


『凄い、良かったじゃない!これでまた前みたいなあたなに戻れるのね!』


しかし、やはり夫の表情は固い。


『やっぱり僕が思っていた通りだ。ねぇ、キミは事故以降何か音を聞いた事があるか?』


『何の話をしているの?うちには音が鳴るもの全てあなたが捨てたじゃない。あ、でもこの間、スーパーに行った時にすれ違った人の声を聞いたわよ』


『なんて!?』


『えっ、き、綺麗な人って』


夫は暫し、硬直した後意を決した様にまたペンを握った。


『これから手術を受けるのはキミだよ。ほら、うちの車は左ハンドルだろ。だから壁に激突した時に特に運転席側のダメージが大きくてさ…キミはあの事故で顔に大怪我を負ってね。しかも鼓膜も破れてしまって、だからきっと聞こえてきた声は昔からの名残で他人がそう言っていると思い込んでしまったんだろう』


『な、何を言っているの?』


『でも安心してキミの写真を見せたら治せるって今日のお医者さんが』


「なにを言っているのよ!!この嘘つき!!!!」


確かに私はそう叫び夫を突き飛ばした。


夫はその場に大きく尻餅をつき、彼が手に持っていた写真が一枚はらりと私の足元近くに落ちた。思わず拾い上げると、そこに写っていたのは…………。


『なによ、この写真』


『それはキミだよ、今のキミの姿だ』


(何を馬鹿な事を言っているの!?そんな訳ない!そんな事はあり得ない!私は美しいのよ!)


こんな酷い写真まで見せて私を騙そうとしている夫に苛立ちを通り越して、怒りすら覚えてきた。


そして、これは嫉妬に狂った夫が私をはめようとしているのだと思った。


『分かったわ!これは私を外出させない様にさせる為ね、そういう手口を使うんだ!』


『もういい加減目を覚ましてくれ!先生の所に行って手術を受けよう!それでキミは治るんだよ』


「デタラメばっかり言っているんじゃないわよ!!!!」


私はソファーテーブルに置いてあったシルバーの置物を手に取ると力一杯夫の頭に向けて振り下ろした。







 「あなた、起きて。朝食が出来たわよ」


トーストとベーコンエッグをダイニングテーブルに置くと、ソファーで眠っていた夫に声をかけた。


「ああ、ありがとう。でも今日も食欲がなくてね」


「そう?じゃあ仕方ないわね。私だけ頂くわ」


そう言うと私は夫をソファーに残し、一人で朝食を食べ始めた。夫はピクリとも動かない。


でも、そんな事はどうでも良かった。


「そうそう、この間ね、また宅急便の人に「奥さんお綺麗ですね」って言われちゃった」


「またかい?くそう妬けるね」


「ふふ、あなたったら」


「あはは、キミは自慢の妻だよ」


私たち夫婦の弾ける様な笑い声が家中に響き渡った。


私の耳にはいつも素敵な言葉だけが聞こえてくる。


これからも、ずっと。


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