第三章 悲愴と愛欲 ときに不可解
蒼禰はいそいそと部屋へ帰る途中だった。薔薇の様子を見るだけのつもりが、思わぬ珍客との出会いで時間をくってしまい少し焦っていた。
母や女中達が起きてしまっているかもしれない。何とか見つからずに部屋へ戻りたい。
そう考えていた矢先、
「あをね様…?」
ぎくりとした。玄関を過ぎて二階の自室に行くまでに通る、一階の大広間。あと少しで大広間を抜けて階段にたどり着こうという所で、後ろから女の声がした。
振り向くと、そこにはおつねの姿。たすき掛けをして露わになっている、控えめに言ってふくよかな彼女の腕は盆とその上に乗った菓子を支えていた。
「今朝のおめざをお持ちしようとしたのですが…」
「おつね…」
困ったような顔つきのおつねは、玄関のある方角を見ながら言った。
「お出になられていたんですか…」
「ごめんなさい…言いつけを守らなくて。」
蒼禰は叱られるか母に言いつけられるかと思い頭を垂れて身構えたが、おつねは腕と同じくらいふくよかな顔を緩ませ、悪戯めいた顔で笑った。
「じゃあ奥様に怒られるといけませんから、あをね様がここにいたのは内緒にしなくては。」
ふふと笑うおつねは、蒼禰を先導するように先に階段を上る。拍子抜けした蒼禰は、おつねの大きな尻が揺れているのを見ながらその後に続いた。
「あをね様、何でお外に出ていらっしゃったんです?」
歩きながらおつねが問う。
「お庭の薔薇が…もうすぐ咲きそうだったの。様子を見に行きたくって…」
あぁもうそんな季節なんですねえ、とおつねが感慨深げに頷くと、二人は蒼禰の部屋へ到着した。
「あをね様ぁ、失礼いたします。おめざをお持ちいたしましたァ。」
わざとらしくおつねが戸を叩きながら言う。蒼禰はここにいるのに部屋の扉を叩くとは如何したことかと暫く眉を寄せたが、やがてその真意に気づいた蒼禰も、手を口にあてくぐもった声を作り
「いいわ、入りなさい。」
と言った。
おかしさ故に二人は顔を合わせくすくす笑い合った。ちょっとした裏工作である。そうして二人は部屋に入った。蒼禰は、やれやれと言った調子で寝台に腰を下ろす。
「今日のおめざはとら屋の栗羊羹です。」
おつねが持ってきたそれは、金色の輝きが見事な大粒の栗が惜しげもなく入っている羊羹だった。
「あら、美味しそうね。とら屋さんの栗羊羹、私好きよ。」
「あらぁそうですか!それは買ってきた甲斐がありますよ。………では、私はこれで失礼しますね、あをね様。」
「もう行ってしまうの?もう少しお喋りしていってはくれないのかしら?」
今日は、何しろ先生も来ないし外出も禁じられている。あまり人とも会わないような、退屈な一日になりそうなのだ。要するに人恋しいのである。
蒼禰が寂しそうな表情でおつねを見ると、おつねは困り顔で言う。
「今日はお客様が来ますからねぇ…色々と準備が忙しいんですよぅ。あ、お客様がいらっしゃるときはあをね様も大広間にいらっしゃって下さいね。」
客のことで忙しいと言われては、引き留めるのは酷な話だ。何せ、おつねは女中達をまとめる立場の人なのだから。
「そう…分かりました。引き留めてしまってごめんなさいね。」
渋々ながらも了承してくれた蒼禰にほっと息をついて、おつねは失礼しましたと言って部屋を出ていった。一人部屋に残された蒼禰は、羊羹を口に運びながら窓の外を見た。
先ほど出会ったあの少女は、弥生と言ったっけ。無事に見つからずに出られたのだろうか…。
蒼禰は、薔薇とその近くの茂みを見ながら弥生と名乗った少女のことを思い出す。面白い子だった。年はそんなに離れてはいないだろう。可愛らしい声と仕草だった。しかしゲンマンなんてことを知っている辺りは少し怖いな、とも思う。
何にせよ、今日の昼にはまた会うのだ。そのときはお互いに知らんぷりして
「初めまして」などと、面映ゆく言い合うのだろう。
そのことを想像すると、先ほどのようなおかしさがこみ上げて来た。楽しい。内緒ごとをするというのは何だか楽しい。体がこそばゆくなった蒼禰は、少しだけ口元を緩めて羊羹をまた一口食べた。
栗羊羹は口に甘く、耳の下まできぃんと甘さが染み渡った。
「あをね様、あをね様ぁ!!」
どんどんどん、と忙しなく叩く扉の向こうからおつねの声。焦っているようだった。蒼禰はその声に目を覚まし寝台から跳ね起きた。窓を見ると太陽は高く昇りさんさんと輝いている。どうやら、朝早く目覚めてしまった為か午前中を睡眠に使ってしまったようだった。
「あをね様ぁ。」
おつねは焦っているのか困っているのか、情けない声を出している。
「おつね…!今何時かしら?」
「もう正午近くですよぅ、もうすぐお客様がお見えになりますゥ。」
しまった、失敗したと思った。和服を着るのには時間が掛かる。もうすぐお客様が来るというのならそれなりにきちんとした格好であるべきだが、これでは和装は難しいかもしれない。時間を考えると洋装が妥当ではあるが、蒼禰は洋装があまり好みでは無かった。
「あをね様ぁ…」
扉の向こうではおつねが泣きそうな声を上げていた。
仕方がない。蒼禰は覚悟しておつねに声を掛けた。
「おつね、今日は洋装にします。着替えを手伝いなさい。」
はたとノックの音が止み、おつねは扉を開けた。焦りながらも少しだけ安堵している彼女のその手は、すでに洋服を持っていた。やけに準備がよいことを訝ると、
「奥様が、今日は洋装にしなさいとおっしゃっていたのですよぅ。あをね様がいつも洋装をお嫌いになるからわたしも困っていたんですが、ご自分から着てくださるのは吃驚です。」
ということだった。
「仕方がないわ。今日は寝坊してしまったのだから時間が無いもの。」
「はァ、奥様としては怪我の功名みたいなものですねぇ。さぁさ、お着替えをお手伝い致しますよ。今日のお召し物はメリンスの西洋服でございます。」
「まぁ、そんなに大げさな着物を着てお出迎えするほど大事なお客様なのかしら。」
「え、何でも旦那様が直々にお呼びなさったお客様だとか。きっとお仕事の事ですねぇ。」
無学なわたしには旦那様のお仕事なんて分かりゃしませんですけど、とぼやきながら、おつねは蒼禰の背中にある紐を勢い良くぎゅうと結んだ。
「………っ!」
蒼禰は息の詰まる思いで、実際に息が詰まっているのだろうが、唇を噛みしめた。
これだから西洋の服は嫌だ。腰をきつくきつく締めることは苦しくて仕方がない。如何に女らしい出で立ちになろうとも、こんなに腰を締め付けられて顔色が悪くなったら美しくはないに決まっている。西洋の女の人の目と眉毛がつり上がっているのは、きっとこの為なのだ。
「おつね、もう少し腰の所を緩くしてくれないかしら。」
「申し訳ありません、これ以上緩めるとお背中がみっともなくなってしまうんです。」
はぁ、と嘆息した蒼禰は姿見を見る。何だか奇妙な格好である。びらびらとした足下や袖についた布。蝶々飾りを纏うた格好。奇妙以外の何者でもない。
もう一度深くため息を吐くと、おつねが蒼禰の背中をぽんと叩いて言う。
「よくお似合いですよ!さ、一階の大広間へ行ってらっしゃいまし。お急ぎなさいましね。」
これが似合うというのは、果たして誉め言葉なのだろうか。兎に角、蒼禰はお客様が来る前にと大広間へ向かった。
弥生は豪勢な…本当に豪勢としか形容できない屋敷の正門に立っていた。門の先に見えるのは御大層な石燈籠やら敷石やら見慣れぬ花やら、端々まできっちりと手入れされた洋風の庭はいっそ空恐ろしい。門構えにおいては鉄の棒を奇妙に捻じ曲げたような造りである。それに絡みついた蔦がまたおぞましい。なんとも珍妙な様相を呈しているものである。
弥生の隣にはもちろん夜太郎がいた。この珍妙な屋敷の入口に立った二人は暫時呆れた。また随分と厄介なところにお世話になることだと思いながらも、弥生の心には何とは言えぬ高揚感が滲んでいた。それは今朝方に会ったアオネという人にもう一度会えるという期待からだろう。
「んじゃあ早速、中に入ることにするかい。」
夜太郎は右手で門の取っ手を掴み横に引こうとした。しかしそれはびくともせず、金属のがちゃんという音が響いたのみだった。
おやと夜太郎が思う間もなく弥生の手が横から伸び、すっと取っ手を握って軽く押した。今度はすんなりと開き、二人は中に入ることが出来たのであった。要するに門は引き戸ではなく開き戸だった。
「お前、よく知っているなあ。」
惚けた風に夜太郎が言うと、
「世の中の門が全て引き戸だと思っている兄さんの方がおかしいのよ。」
と一蹴。実は今朝に裏口で同じ失敗をしたとは言い出せない弥生であった。
敷石のとおりに道を辿ると、すぐに玄関が見えてきた。玄関の前では何やら男が二人ほど立ち話をしていた。こちらの存在に気がつくと小さく会釈をしてすれ違って行く。何やら陰気な雰囲気のする二人であった。
家の造りは西洋風とでも言うのだろうか、とにかく奇怪な石造りの建物であった。二階建ての屋敷は凹の字を門を正面に向けて書いたような形で、玄関口はその真ん中、凹の窪んでいる部分にあった。
それにしても欝蒼とした庭である。西洋風の垣根に沿って植えられている樹木は高さがある訳ではないのに庭の外と内とを断絶している。生い茂るそれらは決して太陽を求め自由に生い茂っているとは言い難い、不自然に刈り込まれた人工物であるからかもしれない。
気の早い蝉がぢぢと鳴き始めている。暑い。しっとりと弥生の首筋に汗の玉が浮かび上がっている。蜃気楼のような揺らめきが夏の到来を予感させ、石造りの足もとから熱気がむああんと下から押し上がってくる。初夏の太陽に眩暈を覚えそうに為るほどだ。
――――それなのに、何処か背筋がぞくとするのは何故なのだろうか。
「御免下さい、日下部です。」
夜太郎が扉を叩いた。それで弥生ははっとする。茹だる暑さに莫迦なことを考えてしまっていたようだ。
がちゃ、と扉が開く。中から顔を覗かせたのは、厭に血色と体格の良い女中であった。 |