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マリヤの骸
作:宵之口 闇太郎



第一章 邂逅と鬱屈 そして始まり


 文明開化よ、散切り頭よと世間が騒がなくなり久しい年月が過ぎていた。
 時代は明治である。かつて華のお江戸と呼ばれていた地域は東の京と名を改め、街は様相を変えた。
 丁髷頭は形を潜め、闇が近づく時間になれば瓦斯灯が灯るようになった。煉瓦を敷いたモダンな往来で、帯刀して闊歩する者なぞ露とも見かけぬ。 

 赤煉瓦の街並みに初めて訪れる日下部夜太郎くさかべよるたろうは、鉄道馬車から下車した時から首から上を右往左往させていた。
 
 何しろ、初めての東京である。一歩踏み出せば見たことのない着物やら建造物やらが氾濫している。街には赤青紫と、何に使うかも判らぬ珍奇なものを並べた店であふれかえっていた。珍しい物たちを一つでも見逃すまいと、周囲の目も気にせずきょろきょろとせわしなく頭を動かす。ほほぅこれが噂に聞く文明開化の音か、全く不可思議な街に迷い込んだものよと夜太郎は思った。

 と、そこに目鼻立ちのはっきりした、洋装の美しい男が通りかかった。夜太郎は
「あっ、」と思い、不意に口から

「あの、一寸ちょっとそこの兄ィさん。」

と、引き留める言葉を出してしまった。

「俺のことかい」

 青年ははたと足を止め、夜太郎の不躾な呼びかけを気にもせずにこやかに対応した。

「あぁ、あんたさ。…いえね。その、俺は初めてこの街に来たんだが、どうだいね。近頃じゃア日本人も異人さんみたいに牛を食べたり洋服着たりと、なんだかここが日の本の国だってことを忘れっちまうよ。このままこの街に三日も居りゃあ、俺もあんたみたいに、異人さんの毛の色に変わっちまうかもしれねぇな、と思ってね。」

「はは、俺の髪のことを言ってるのかい。確かにこの髪は黒くないが、俺は街に住んでいるからこんな頭な訳じゃないさ。こいつは生まれつきなんだよ。」 

「ヘェ、するってぇとあんた、異人さんとの合いの子かい。」

 すると、青年は一瞬、わずかばかり悲しそうな目を見せた。

 「ま、そんなもんさね。それじゃあな、兄さん。さっきみたいにきょろきょろ余所見してたらスリに遭うぜ。」

「おう、引き留めて悪かったな。へへ、ありがとうよ。」

 そう言って二人は別れた。

 光に透け、仄かに金に光る色の頭をした美しい青年は、夜太郎に背中を向け靴音をカツカツと街に響かせ去っていった。 


 佐竹蒼禰さたけあをねは、書庫の隅に座り読書していた。
薄暗い室内であった。
しかし窓から流れ込む光は明るく頁を照らし、蒼禰が手にする書物は、いっそ眩しい程に輝いていた。

 蒼禰は美しい子であった。透き通るように白い肌、怖いほどに紅い色の唇、黒く長い髪は潤んだ艶を帯び、切れ長の涼しい目の上には完全な形の柳眉が乗っていた。街に出れば子供であると知りながら誰もが振り返るような、そんな美人である。


 時刻は昼を過ぎていた。蒼禰は昼餉を食べた後すぐに書庫へ向かったので、少しばかり漫然としていた。

 ほ、と欠伸を一つする。柔らかな午後の日差しはどうにも緩やかに眠気を誘うのである。少し目を休めようと、書物から窓の外へと目を向ける。庭は善く手入れされており、蒼禰の大好きな薔薇の花は今年も見事に咲き乱れていた。

 麗らかな午後であった。雀のさえずりも遠く響きわたり、まだ夏になりきれていない雲たちが青空に浮かんでいる。窓の外から室内の薄暗い本棚へと目をやると、網膜に日向を惜しむように光の粒子が残像した。蒼禰がそのきらきらした微量なる光の欠片をうっとりと観察していると、廊下からぱたぱたと慌てたような女の声が聞こえた。

「あをねさま、あをねさま」

 女中のおつねであった。

 おつねは書庫の扉をどんどんと乱暴に叩き、蒼禰に声をかける。

「あぁ、蒼禰さま。ここにいらっしゃるのでしょう。リチャアド先生がお見えですよ、お勉学のお時間です。」

 リチャアドというのは蒼禰の家庭教師で、体が弱く学校へ行けない蒼禰の為に親がわざわざ捜して雇った青年であった。

「あら、もうそんな時間かしら。いいわおつね、今行きます。」

 蒼禰は楚々と着物の裾や髪の乱れを直し、足早に書庫を後にした。
「先生、お待たせして申し訳ございません」

 蒼禰はそう言って、自室の扉を開けた。

「いいのですよ、蒼禰さん。貴女の事ですから、また読書に耽っていたのでしょう。」

 色素の薄い瞳と髪の色を持った青年は、窓際に立ちゆっくりと微笑んだ。蒼禰はその様子に、胸をとくん、とひとつ打つ。

「え、えぇ…。今日はお父様の書庫で、シェイクスピヤのお話を読みました。」

すると青年は柔らかに頷き、薄茶の目を細めた。 

「そう、本を読むことは良いことですよ。本を読むだけで君の世界は、それだけ広くなる。
女性が勉強する必要は無い、って未だに言う時代遅れな輩もいるでしょうが、僕は知識を身につけた女性はそこいらの下手な男よりかずっと正確で素晴らしい仕事をするんです。」

 そう言って、異国の匂いを漂わせる青年は流暢に日本語を操った。目を閉じて会話をすれば、日本人と喋っていると思われるかのような滑らかな発声だ。しかしリチャアドは、英国で生まれ英国で育った、正真正銘の外国人である。
 少し他の英国人と違うところは、母が日本人であり、その母に日本という国の様々な事物について教えてもらった為に日本の知識がある、というところか。 

「もう、そのお話は何度も聞かせて頂きましたのに。」

 ころころと鈴を転がしたように笑い、蒼禰は優しく微笑んだ。
 ふと顔を見上げると、そこにはリチャアドの笑顔。蒼禰が目を逸らしたのは、窓からやってくる光の眩しさの為だけではなかった。



 
 淡い、淡い、気持ちだった。蒼禰は、暖かい料理の上に乗った、すぐに溶けてしまう湯気のような淡い気持ちを彼に抱いていた。
 数えて十とふたつ。それが蒼禰の歳なのだから、決して早すぎであったり遅すぎであったりといったことはないだろう。蒼禰は、あぁ、これが先ほどの本のような恋情というものかしらん

などと、まるで他人事のように自分の胸の鼓動を自覚した。

「さて蒼禰さん。お喋りの時間はここまでにしておきましょう。」

そう言って、青年は手慣れた動作で風呂敷から数冊の書物を取り出した。

「ところで蒼禰さんは、先ほど沙翁の本を読んだと言っていましたね。どんな本を読んでいたのですか?」 
沙翁とは、沙吉比亜。つまりシェイクスピアの日本での異名のことであった。

「はい。ロメオとヂュリエットという戯曲のお話でした。」

「そうですか。珍しいですね、恋愛の話を読むなんて。」

「あら、あのお話はただの殿方とお姫様の恋いの話ではありませんよ。とても哲学的なお話じゃありませんか。」

「そうかい?」

「えぇ。とっても面白かったです。」

「有名な台詞があったね。『おお、ロメオ。貴方はどうしてロメオなの』…だったでしょうか。」

「わたくし、その台詞が一等好きなんです。」

にっこりと笑い、蒼禰は答えた。

「家が、地位が、名前が、あの二人を苦しめているのでしょう?でも、わたくし思うのです。ロメオがロメオである為に、一体どれだけのものがロメオたらしめているのでしょう、と。」

「…それは、どういう意味かい?」

「たとえばロメオがモンテギゥ家の子息でなかったら、その人はロメオであったのでしょうか。ロメオという名前ではなかったら、ロメオとは一体誰のことなのでしょうか。」
 
「……。」
 
「先生。ロメオはどうしてロメオだったのでしょう?ロメオはロメオと名付けられて、モンテギゥ家で育ち、それがロメオたらしめたのに。それにです。何故ヂュリエットはロメオがロメオたらしめる物を否定したのでしょう?そんなことを考えると、とても不思議な気持ちになります。それが、」

「面白い、というのですね。…成る程。」

リチャアドは、口角を微妙に上げて目を細めた。

「面白いでしょう?何故、どうして、人間はこんなに不思議なのでしょう。」

 くす、とリチャアドは笑った。それは幼い教え子の大人びた発言へのおかしさでもなければ、嘲笑でもなかった。ただ、柔らかに、少しの憂いを帯びた目で蒼禰を見つめていたのである。その様子に照れたような蒼禰の目とリチャアドの目が合うと、優しい口調で青年は応答した。

「えぇ、だからこそ、人間というのは愛おしいのです。蟻や蜂のような合理的な社会で生ききれず、かといって決して虎や熊のように一人では生きられない。不器用で、不可思議で、精一杯、右往左往しながら懸命に生きる姿が……美しいのです。」

 そう言った彼の言葉の最後は、どこか自嘲めいたような雰囲気だった。

「…先生?」

 蒼禰が不思議そうにリチャアドを見つめると、青年の顔はすぐにいつもの柔和な微笑みへ戻った。

「おしゃべりは此処までに致しましょうか。さ、勉学の時間ですよ。」

そうして、佐竹蒼禰のいつもの午後が始まった。












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