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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

いきやみ

作者: 扇智史

 白い病室のドアが、かすかな軋みを立てて開く。

 少女たちが、くちづけを交わしていた。


 窓辺のベッドに腰を下ろし、真新しいブランケットにともにくるまったふたりは、カーテン越しの陽射しの中でとろけ合うように重なっている。清潔な床に落ちるふたりの影は、まるでひとりのもののように細く、長い。

 少女たちの片方が、ドアの前に立った摩子に気づき、振り返った。


「見ていたの?」


 幽理の問いかけには、摩子を責める色はなく、むしろ面白がっているようでもあった。


「……申し訳ありません」

「かまわないわ、別に見られて減るものでもなし。それに、こんなのはただの医療行為、いかがわしくはないもの」


 幽理の言葉の間に、もうひとりの少女はゆるりと立ち上がっていた。つかのま、彼女の髪が幽理のそれとからまる。幽理は薄く笑って、白くやせこけた指で、もてあそぶように髪をほどいた。

 立ち上がった少女は、幽理と摩子にそれぞれ一礼し、病室を出て行く。摩子は彼女の顔に見覚えがなかった。しかし、そのほっそりした顔立ちは、途方もなく美しかった。幽理の次くらいに。


 少女が廊下に去り、ドアが音もなく閉まる。


「新しい、入居者のかたですか?」

「七瀬さん。3日前、ここに来たそうよ」


 わずかに空いた窓から冷えた風が入り込み、カーテンをそっと揺らす。


「かわいそうに」


 幽理の言葉は、誰に向けたものともつかない。七瀬か、あるいは幽理自身か。摩子は何も答えられず、先週よりいくぶんか痩せたように思われる幽理の面差しをじっと見つめることしかできない。彼女の頬に落ちた影がひときわ重たく見えるのは、初夏の陽射しの故か、それとも病の進行の故か。


「あの子も、いつまで保つものかしら」


 ふと、幽理がカーテンの隙間から外を見やった。庭先には、なだらかに傾斜した芝生が広がり、風にさわさわとそよいでいる。その、命の輝きに満ちた景色の彼方に、冷え冷えとした墓石が並んでいることも、摩子は知っていた。


 この療養所は、『息疫』を患った少女たちのために設立された、終の棲家だ。息疫を病むのは決まって、若く美しい少女たち。呼吸器を冒すその病は、またたく間に少女を蝕み、命を奪う。

 息疫の患者たちが生き存える為の手段は、ただひとつ。美しい少女による口づけのみ。

 健康で美しい女性は、病に感染しないよう、療養所からは遠ざけられる。それゆえ、療養所の乙女たちは、互いの命を繋ぐために口づけを交わし合うという営みを続けているのだった。


「……私の口づけなど、どれほど薬になるものかしらね」


 幽理は、なかば独り言のように、吐き捨てるようにつぶやく。


「昨日もまた、ひとり死んだわ。私の後に来て、私の前に死んでいくの。ずっとそう。こんなふうに、私は女の子たちを見送っていくのかしら。そしていつしか、私も……」

「……お労しい、幽理様」


 摩子は堪えきれなくなったようにつぶやく。幽理の瞳がぎらりと光り、摩子をにらんだ。


「あなたに何が分かるの、摩子」


 幽理の声に、視線に、深く黒いものが宿る。それは、屋敷を離れてこの人里離れた施設に閉じ込められ、病み衰え、死んでいった魂の残滓の凝って出来た、陰影の色をしていた。


「何も出来ないあなたに。私を癒やすことも出来なければ、私の病を肩代わりすることも、私とともに死んでいくことも出来ないあなたに」


 はなやかな地上の思い出に唾を吐くように、幽理は摩子を罵り続ける。その声には、力はない。ずっとベッドに横たわったままの幽理の体の衰えは著しく、もはや大声を出すこともままならないのだろう。その事実がいっそう、摩子の胸を締めつける。摩子はうつむいて、きつく唇を噛んだ。


「顔を上げなさい、摩子」


 冷たく幽理は命じる。


「私に、その醜い顔を見せなさい。その野暮ったくて、田舎くさい、あばただらけの顔を」


 摩子はおずおずと、顔を上げた。幽理の漆黒の瞳が、自分をまともに見つめている。

 実際、摩子の顔は美しいとはお世辞にも言えない。地味な顔立ちで、荒れた肌のその顔は、幽理の言葉通り、醜い。

 摩子の唇は、幽理を癒やせない。彼女はまったくの役立たずだ。

 それを自覚して、なお摩子は、幽理と向き合う。恥じらいと、絶望とが入り混じり、ぐちゃぐちゃに心の中で絡まっていく。

 そうして心の底に残るのは、あまくて熱くて苦い、喜悦だった。


 ひょっとしたら、すこしだけ摩子は笑ったかもしれなかった。幽理は、それを見届けたのか、目を閉じてベッドに横になる。


「……帰って。父に伝えることは何もないわ」

「かしこまりました」


 摩子は深く一礼し、きびすを返す。お大事に、などという上辺だけの挨拶など、幽理を逆上させるだけだと知っていたから、近頃はもうそんな言葉をかけることもなくなっていた。

 病室を出た摩子の後ろで、ドアが閉まる。かすかな軋みが、耳にひどく残った。


 療養所を去り、摩子は街へと降りるバスに乗る。曲がりくねった道をくだりながら、ひどく揺れる座席に腰を下ろしている摩子の脳裏に、幽理と、七瀬と、そしてかつて幽理に口づけて、死んでいった少女たちの顔が次々によぎる。

 狭苦しい崖のてっぺんを危うくなぞる細い道を、病人と死者の顔を思い起こしながら、進んでいく。

 街へ着くころ、摩子はひとつの決意を固めていた。


 摩子は、屋敷には戻らなかった。



 ……摩子の来訪が途絶えて、3ヶ月が経とうとしていた。夏はあっという間に過ぎゆき、細く開いた窓から滑り込む風は、すでに冷え冷えとした秋の気配をただよわせている。

 幽理は薄汚れた天井をにらんでいた。もはや出歩くどころか、起き上がることもままならない。病は急速に進み、いまにも幽理の命を奪い去らんとしていた。


 七瀬は、あのあと程なく没した。それから、何人もの少女たちが療養所を訪れては、幽理を遺して消えていった。なぜ自分だけがこんなにも生き存えているのか、その理由はきっと、単なる天の気まぐれに過ぎない。


 昨日も、今日も、病室を訪れたのは年老いた看護婦だけだった。他の患者は誰かいないのか、と、問う勇気は、幽理にはなかった。結局のところ、幽理は臆病者なのだった。


 このまま、誰の口づけも得られなければ、今夜には幽理の命は絶えるだろう。薄ぼんやりした予感に覆われた頭の中で、かすかに残る明晰な意識は、たったひとりの名前を呼んでいる。


「……摩子……」

「お呼びになりましたか」


 不意の声に、しかし、振り向く気力さえない。幻聴だったら、という恐怖で、目も動かせない。

 凍りつく幽理に、足音が近づいてくる。


「ご無沙汰しておりました、幽理様」


 聞き違えようもない摩子の声。

 それとともに、幽理のかたわらに現れたのは、顔を包帯に包んだあやしげな人影であった。包帯の隙間から、ぼろぼろの髪の毛と、火傷したような赤黒い肌がのぞき、隠された恐ろしい異貌を予感させる。

 けれど、幽理は、知っていた。分厚い包帯のいちばん奥、不安げに、美しく光る瞳の色を。


「摩子なのね」

「はい」


 涙声になった摩子に、泣きたいのはこちらの方だ、と言ってやりたかったけれど、幽理の口から出てきたのは別の言葉だった。


「いままで、どうしていたの」

「……申し訳ありません、幽理様。やはりわたしは、愚かな小娘でした」


 かぶりを振って、摩子は、包帯をほどく。


「幽理様のために、幽理様をすこしでも長く生かすために、わたしは……美しくなりたかったのです」


 包帯の下から現れた、今の摩子の顔を、幽理はじっと見つめた。


「ですが、整形に失敗し、わたしはいっそう醜くなってしまった。これでは、幽理様に合わせる顔がありません。お屋形様もわたしを疎んじられ、屋敷を逐われ……」


 深いため息が、摩子の口から漏れる。


「幾度も死のうと思いましたが、そのたび、幽理様のお顔が浮かんで、思いとどまりました。せめて、一度だけでも、幽理様のお顔をふたたび……ようやく、そう決心することが出来ました」


 摩子の頬を、涙が屈折した道筋を描いて、落ちていく。


「今日、今、ここに来なければ、すべて手遅れになるような、そんな気がして……」


 幽理は何も言わなかった。言いたいことは、この3ヶ月の間に山と溜まっていたはずなのに、すべて頭から吹き飛んでしまっていた。

 ふと空をよぎった雲が陽射しを隠して、病室を薄闇に染める。地上の風はいつしか凪いで、永遠になりそうな静寂のさなかで、幽理と摩子はただそこにいた。

 骨と皮だけになった腕を懸命に動かして、幽理は、摩子の頬に触れる。


「もっと、よく顔を見せて」

「……はい」


 摩子が、ゆっくりと幽理に顔を寄せていく。かさかさになった唇を、幽理の指先がかすめる。あまやかにしめった吐息が、摩子の唇からこぼれ落ちて、幽理につかのま生命の温度を与えた。

 間近に、摩子の顔がある。幽理は笑った。


「とてもきれいよ、摩子」


 そして、ふたりは、さいごの口づけを交わす。

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