八話
その夜Sはこの世界に蘇って以来、初めて辛い気持ちから抜け出せることが出来た。
哲也に私が蘇ってきたことを伝えるのは無理かも知れない。けれども哲也の事を心から理解できるのは私だけだということなら伝えられるかも……。
八方塞がりかと思われた状況に打開策を見出すことが出来たSはいつになく前向きな気分に包まれた。
私が戻ってきたことを伝えられないなら、渋澤洋子として好きになってもらうしかないわ。
Sはふと鏡に映った渋澤洋子の顔を見た。
途端に気持ちが萎えそうになったがSは自分に言い聞かせた。
哲也は私の顔だけを見て好きになったんじゃないわ。
美しさなんていうのはきっかけにしか過ぎない。なんだかんだ言って人は中味で相手を選ぶのだもの。
ふとSの中で映画が終わった直後の出来事が思い出された。
劇場内が明るくなり、他の観客に混じって哲也が出口に向かうのをSは座ったまま顔を上げて待った。
私に気づいて、哲也。
期待も空しく哲也はチラともSの方へ視線を向けることなく素通りしていった。
自分の横を通り過ぎる哲也の横顔が脳裏に浮かぶと一抹の寂しさが湧き上がった。
あれぐらいのことでがっかりしていたら、この先何も出来ないわ。
Sは寂しさを振り切るように映画のパンフレットを開いた。
翌日Sはいつになく軽い足取りで会社へ向かった。社内の哲也を見ると今朝はさほど忙しくないのか比較的のんびりとした様子に見えた。
Sは早く哲也と昨日観た映画の話がしたくてしかたがなかった。きっと哲也も同じ場面に共鳴し感銘を受けたに違いない。
それでもSはぐっと堪えた。突然話し掛けられても相手は面食らうだけだ。あるいは忙しいのを理由に話を聞いてくれないかも知れない。
初めは相手に不審がられるだろうということは承知の上だ。
とにかく話を聞いて貰わなければ何も伝わらない。
そう考えたSは哲也に話し掛けるタイミングを見計らっていた。
哲也が誰か他の人間と、例えば上本サユリとでも、雑談しているところへ入り込むのがいいだろうとSは考えていた。
いきなり会話に入られて嫌な顔をされるかも知れない。けれども話さえ出来れば哲也はすぐに私に対して心を許してくれるに違いない。
いつになく穏やかな空気が流れる朝の職場で、誰かれともなくコーヒーを手に一息つき始めた頃だった。
案の定、上本サユリは二人分のコーヒーを手に哲也に近づいた。やがて楽しげな談笑が辺りに響き始めた。
今だわ。
Sはこのチャンスを逃すまいと席を立った。
Sが席を立った時はさして気にも留めなかった同僚達は、やがてその行き先に気づくと驚きと好奇の視線を向けた。
「昨日、映画観に行ってたでしょう。私も同じ映画を観てたのよ」
突然話しかけられた哲也と上本サユリは怪訝そうにしばし無言で渋澤洋子の顔を見た。
驚かれるのは承知の上だわ。でも話し掛け方としては悪くない。
Sは挫けることなく言葉を続けた。
「あの映画どう思った。私は結構楽しんだんだけど」
Sの問いかけにさすがに女性である上本サユリは戸惑いながらも笑顔で対応した。
「私は何だかよく分からなかったわ。どちらかと言えば退屈だったかなあ」
顔に掛かる長い髪を掻き上げながら上本サユリは愛想良く答えた。
Sはそんなサユリには目もくれず改めて哲也に問いかけた。
「田辺さんは? おもしろくなかった?」
名指しで呼ばれた哲也は怪訝そうな表情を隠そうともせず「えっ」と声を上げ一瞬Sの方へ顔を向けた。そして「別に」と答えたきり居心地悪そうにそわそわと視線をあちらこちらへ動かした。
Sはさりげなく話を映画の具体的なポイントに向けた。主人公達の微妙な心の機微や話の展開の仕方や映像のそこかしこに散りばめられたメタファーの数々・・・・・・。
「すごいわね、渋澤さんて。映画通なのね」
上本サユリが半ば呆れたような、困ったような口調でそう言った。
「俺ちょっと書類取りにいかなきゃならないから」
上本サユリの言葉をきっかけに哲也はその場を離れた。
サユリも哲也の飲み終わったコーヒーカップを手に誰に言うともなく「私も仕事に戻らなきゃ」と口ずさみながらその場を後にした。
一人残されたSはノロノロと自分の席に戻った。
同僚達は慌てて違う方向を向いたりしたが、Sが席に着くとチラチラと視線を送りながら時折失笑が洩れ聞こえてくるのだった。 |