七話
翌日は土曜日だった。Sにとって週末は哲也と会えない上に仕事もないので、ただただこの二日間が早く過ぎ去って行ってくれるのを耐えるしかない。
苦痛で屈辱的な職場であっても、哲也に対する想いを紛らわせてくれる場所に違いはなかった。
二日間は手紙や思い出に耽ってやり過ごすにはあまりにも長過ぎる。
目覚めるとSはまずテキパキと朝食を作り始めた。卵を掻き混ぜてベーコンはカリカリに焼いて、ヨーグルトとはちみつ、トーストとバターとジャムといった完璧な朝食を用意した。
そして二杯目のミルクティーを飲みながら明日の朝はおいしいクロワッサンを買って食べようと思った。
そうしてミルクティーを飲み干すと間髪いれずに部屋の掃除と洗濯を始め、身支度を整えると外へ出掛けた。
Sは大きな本屋へまず向かった。
雑誌やらガイドブック、今話題の小説などを立ち読みしているとあっと言う間に二時間が経った。
Sは情報誌と小説とガイドブックを一冊ずつ買うと今度はビデオショップに向かった。
ビデオショップに入るとSは懐かしいような切ないような感覚に襲われた。
一番種類が充実していて大きなビデオショップ。
映画好きなSと哲也は毎週のようにここを訪れてはビデオを借りて一緒に観賞したものだった。
Sは長い時間を掛けてビデオを物色した。
二ヶ月も経つと新作ビデオもたくさん店頭に並んでいたし、観たいと思いながらいつも誰かに借りられていたビデオも数本見つかった。
それでも結局Sは哲也と一緒に観たことのあるビデオを手に取った。
そうして名残惜しそうにビデオショップを後にするとスーパーで大量の食材を買い込み、二時間掛けて自分のための夕食を作った。
食後はビデオを観て、ガイドブックを広げた。
哲也と新婚旅行で行くはずだったバリ島のガイドブック。
熱帯植物とライステラスとビーチとエキゾチックな民族舞踊やエスニックな料理の写真がところ狭しと本を飾っている。
ガイドブックを眺めながらSは綿密な旅行の計画を立てた。
ホテルは海に近いヌサドゥアがいいかしら。
それともアーティストが多い山側のウブドゥがいいかしら。
ケチャダンスは絶対観たいしエステにも行きたいし、お土産にバリの画家が描いた絵も一枚欲しいな。そして新居にそれを飾って・・・・・・。
やにわにSはガイドブックを閉じ小説を手に取った。
あの人が大好きな作家の小説。
Sも哲也から数冊借りて読んだことがある。その中でも二人が一番感動した小説。
Sは文字に目を落とした。
そうして読み始めたのだが二、三ページ読んでは前のページに戻った。
内容がいっこうに頭に入らなかった。
そんなことを二、三回繰り返すとSは小説を放り投げた。
そして目の前のガラステーブルの上に積み上げられているビデオテープや先ほどのガイドブックを思いっきり腕で払った。Sは髪の毛を掻き毟った。
こんなことをしても何にもならない。
新しい小説、新しいビデオ、新しいものを見ようとしても結局は哲也の思い出から抜け出せない。哲也との思い出をなぞるだけの毎日から私は抜け出せない。
Sは大きく息を吸い気持ちを落ち着けようとした。そしてノロノロと這いつくばるように散らかった本やビデオを掻き集めた。
辛くても何かしなければ。何かしなければ私は壊れてしまう。
Sは気分を取り直すように頭をブルブルと振って今度は情報誌を手に取った。公開中の映画の特集の記事が載ってあった。
そうだ、明日は映画館へ行こう。
何を観ようかと記事を読んでみるとふとある作品に目が奪われた。今とても勢いのあるフランス人監督の去年カンヌでも賞を獲った作品だ。
馬鹿ね、これを観てどうしようっていうのよ。
Sはその記事から目を離し、薄く涙を滲ませながら苦笑した。
だけど他の映画を観たってロクに頭に入らないに決まってる。
Sはもう一度その映画の記事に目を落とした。
毒食わば皿までだわ。明日はこの映画を観に行こう。
勇気を奮い立たせるように決心するとSは少し自分が元気になれたような気がした。
それはまさに哲也と観に行こうと約束していた映画・・・・・・。
日曜の映画館は混雑していた。
ほとんどがカップルや友達同士の中、Sは一人所在げなく前の回が終わるのを待っていた。
そうして映画を観終わった人々と入れ替わりに劇場内に入った。
真ん中の通路側に座るSの脇を人々が通り過ぎる。
ふと覚えのある気配にSは顔を上げた。
上げた目の先に哲也の背中があった。そしてその隣には長い髪をなびかせた上本サユリの後姿が。
何て残酷な偶然なんだろう。
Sは思わず帰ろうと腰を浮かしかけた。
こんな小さな映画館だもの。きっと気づかれてしまう。
そして次の瞬間ふとSは思った。
気づかれて何がいけないの。
Sは哲也とサユリが歩いて行く方へ視線を戻した。二人は数列前の席に座ろうとしていた。
私がいることに気がつけば、哲也はもしかして私が蘇って渋澤洋子の身体の中にいることに感づくかも知れない。少なくとも私と映画の趣味が同じだってことくらいは感じてもらえるじゃない。
Sは哲也の隣に座る上本サユリに視線を移した。哲也の方を向いて何やら話している。そこからは顔は見えなかったがきっと鮮やかな笑みを浮かべているのだろう。
上本サユリにフランス映画なんて分かるわけがないわ。
Sは初めて自分が上本サユリより優位に立ったような気がした。
なるほど、上本サユリはきれいだし一緒にいれば哲也の寂しい気持ちも紛れるのかもしれない。
でもそれはたまたま彼女が近くにいたからであって、哲也にしてみれば気持ちを紛らわせてくれる相手ならきっと誰でも良かったのだ。
哲也を慰めてやれる人間はいくらでもいるかも知れない。
けれど彼の趣味や好みを理解してあげられるのは私しかいない。
哲也の話に対して気の効いた言葉を返してあげられるのは私だけなのだ。
開演のベルが鳴った。
劇場の灯りが消えて哲也と上本サユリの後姿がシルエットになった。
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