三話
田辺哲也さんへ
死んだ恋人の席に私が座っていることに、さぞお腹立ちかと思います。
突然の事故で恋人を亡くされたショックも覚めやらぬ中、新しい人間を入れて以前と同じような体裁を整えようとする職場にあなたが抵抗を感じるのも無理はありません。
あなたが私のことを忌々しい目で見たとしても、それはあなたの死んだ恋人に対する深い愛情からなのだと私はむしろ喜ぶべきなのです。
哲也さん、私は渋澤洋子ではありません。
私は戻ってきたのです。
私は渋澤洋子の身体を借りてこの世に蘇って、そしてたまたまあなたの、そして私がいたこの会社で働くことになったのです。
以前の私と似ても似つかない姿に到底信じてはもらえないだろうと、私も今まで口にすることは出来ませんでした。最初は遠くからあなたを見ているだけでいいと思っていました。
でも、あなたへの思いをこれ以上隠しているのが耐えられない。
哲也さん、私はSです。戻ってきました。
私の外見は別人かも知れません。けれども私は以前と変わらずあなたを愛しています。
哲也との再会に心を痛めながらもSは会社へ通い続けた。
金銭的な問題もあったが、哲也に会えるという気持ちがSを職場へと向かわせた。
例えそれが失望の毎日であったとしても……。
哲也だけが以前のSと、渋澤洋子の姿を借りたSとを結びつける唯一の絆であった。
Sは仕事中何度も振り向いては哲也の様子をうかがった。
かつての恋人の顔は青白く見るからに憔悴し切っていた。そして時折目が合うことがあっても、あの侮蔑と敵意の籠った視線が返ってくるだけであった。
それでもSは哲也から目が離せなかった。
「渋澤さん、随分田辺さんにご執心なのね」
初めの内は冗談めいた冷やかしの言葉を掛けていた同僚達も、やがてそんなSを呆れた目で見始めていた。
「渋澤さん、田辺さんの事を狙ってるみたいよ」
「えーっ、身の程知らずう!」
影でそんな風に言われているのも薄々感じてはいた。
それでもSは哲也のことを見つめ続けた。
哲也はいつも疲れた不機嫌そうな表情を浮かべているだけだ。
それでもどんなに小さな変化もSは見逃すまいと思った。
その日もいつものように哲也は疲れた顔で溜息をつきながら外回りから戻ってきた。
ブリーフケースを投げるように机の上に置いて倒れるようにイスに座りこんだ哲也に、纏わりつくように近づいて来た上本サユリが邪険な口調であしらわれているところまでは、いつもと変わらない光景だった。
でもその日は違った。
「今、君に構ってる余裕なんかないんだ」
そう冷たく言い放った哲也の口元にほんの僅かな笑みがこぼれているのをSは目ざとく嗅ぎ取った。
もちろんその笑みに気づいたのが自分だけではないことをSは、ゆっくりと距離を置いて行くように離れていく上本サユリの姿から悟った。
冷たい言葉で突き放されたサユリの背中にはいつものような寂しい影はなかった。
その日を皮切りに哲也の強張っていた表情は日に日に氷解していった。
変わらず恋人を失った喪失感が瞳に影を落としていたが、表情からは堅さが消え何かを悟ったような穏やかさを漂わせるようになった。
哲也は自分の身に起こった恋人の死という事実を達観しているようだった。
そうして欲しくても手に入らない何かをきっぱりと諦めたときのような、寂しさを漂わせながらもさっぱりとした表情を見せるようになった。
哲也はSの亡霊から逃れようとしていた。
そして上本サユリと一緒にいることが亡霊から逃れる一番の近道であったのだ。
哲也が私を忘れようとしている、いや、忘れたがっている。
Sは悟った。
もう形振り構っている場合ではない。
例え今の自分が以前とは似ても似つかぬ姿だったとしても、哲也に真実を伝えなければ。
私は戻ってきた。そして以前と同じようにこの席に座ってあなたを思っている。
Sは社内メールに素早く真実を打ちつけた。
そうして送信ボタンを押そうしたその瞬間だった。
パソコンがフリーズして操作が出来なくなった。
Sはもどかしい思いで一度電源を切り、もう一度パソコンを起動させた。
そして再び哲也にメールを送ろうとしたが、またしてもパソコンは固まってしまった。
そうして同じように何度もメールを送ろうとしたがその度にパソコンの操作が出来なくなってしまう。
よりによってこんな時に・・・・・・。
しかし、そうこうしている間にも業務上のメールは届いていた。
Sはふと別のアドレスにメールを送ってみた。メールは何の滞りもなく送信された。
まさか。
Sは更に何通かのメールを送ってみた。どれもこれも何の問題もなく送信される。
Sはもう一度、恐る恐る哲也のアドレスにメールを送ってみた、が……瞬く間にパソコンはフリーズした。
そんな馬鹿な。
明らかに哲也にだけメールが送られないのだ。
驚きと不可解さに包まれながらもSの意思は変わらなかった。
メールが駄目なら直接言えばいい。
「キャーッ、渋澤さん!大丈夫!」
突然卒倒したSを見て近くにいた女子社員が悲鳴を上げた。
立ち上がり哲也の方へ歩み始めようとしたその瞬間、Sを激しい頭痛が襲った。
Sはこめかみを押さえながらその場に倒れ込んだ。
頭の中でガンガンと喚鐘の音が鳴り響くような痛みに、周囲から聞こえる音が途切れ途切れになった。
駆け寄ってきた人々に抱えられ、Sはそのまま更衣室へと運ばれた。 |