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Sの失われた顔
作:立木ノエミ



一二話


Sは鏡の前で膝を抱えて座り込んでいた。
その丸い背中は小刻みに震えていた。
そして鏡に映ったその顔からはいつもの締まりのない愚鈍さは消え、瞳は何かに憑かれたかのようにギラギラと目に見えない何かを凝視していた。


スワフミコの話から逃げるように公園を後にしたSが席に戻ると一枚の回覧が回って来ていた。何気なく回覧に目を落としたSはその内容に思わず目を見開いた。そして食い入るように回覧を見つめるSの背後でクスリと忍び笑いが漏れた。


 「すいません、今日これから早退していいですか」


 突然目の前に来られてそう言われた同僚達は慌てて緩んだ頬を引っ込めて真顔を作った。
 そうしてフラフラと職場を後にするSの後ろ姿に押し殺していた笑いを一斉に吹き立たせた。

 しかしSの意識は彼らの笑いよりずっと遠いところにあった。



 「来たる一一月三〇日、営業課の田辺哲也さんと秘書課の上本サユリさんの結婚式が行われます。ついてはお祝い金を集めたいと思いますので、それぞれの氏名、金額を記入の上ハヤシへ返送して下さい。後日集金へ伺います」

 
 Sの頭の中で回覧の書面に書かれた文章が壊れたテープのようにグルグルと回り続けていた。
 そしてその回り続ける文章の間をザッピングするかのように昼間の女子社員の歪んだ笑みや、
 落ちた弁当の食べカスや、
 同僚の忍び笑いや、
 上本サユリのスラリとした後ろ姿や、
 哲也の苛々したような表情、が現れては消えた。

 
 Sのギラギラと輝く瞳は目の前の鏡にまっすぐ向けられてはいたが、すでに鏡に映る渋澤洋子の像は全く見えていなかった。

 
 どのくらいの間そうしていたであろうか。

 
 はたとSの瞳に目の前の鏡が映った。
 Sは目を大きく見開いて自分の瞳を見た。
 先ほどまでの背中の震えも止まり、身じろぎひとつせずにSは吸い込まれるように自分の瞳を見続けた。


 見開かれた瞳が乾いて痛みを覚え始めた頃、俄かにSは脇に転がっていたカバンを掴んで立ち上がった。その足取りは迷いなく台所へ向かい、いくつかのリンゴと共に籠に入っていた果物ナイフと掴むとカバンの中へ放り込んでSは電気も消さずに部屋を後にした。





 すっかり陽が落ちて家々からは夕餉の匂いが漂う中、Sは駅に向かって歩き始めた。
 駅へ向かう道からは家路に着く会社員や部活帰りの高校生たちが自転車を押しながら歩いてくる。
 Sはただ一人その中を逆走して駅へ向かった。
 Sの頭を微かな鈍い痛みが襲ったがSは構わず歩き続けた。


 電車に乗り、三つ目の駅で乗り換えて更に五つ目の駅まで乗った。
 目的の駅に着いた時には頭痛は初めのような鈍く緩やかなものではなく、ズキズキと刺すような痛みへと変わっていた。
 Sはこめかみを押さえながら一歩、また一歩と足を進めた。
 足を進めるたびにズキン、ズキンと痛みが頭に走った。


 頭痛なんて、何てことない。どうせ私は死ねないのだから……。


 そうして歩いて十分ほど経った頃、Sは一軒のマンションの前で足を止めた。
 Sはマンションを見上げた。
 晩秋の風が吹き抜け、痛みのため油汗の浮かんだSの額を冷やしていった。
 Sは灯りのついているある一部屋をしばらくの間瞳を凝らして見つめていたが、やがて痛みに苦しめられている頭を抱えるように俯きながら、再び足を前へ動かし始めた。


 建物の中に入るとSはエレベーターを通りすぎて非常階段へ続く鉄の扉に手を掛けた。
 エレベーターでは哲也の部屋に辿り着けないということをSは悟っていた。


 自分の足で上らなければ。


 Sは哲也の住む七階までSは手摺りに寄り掛かるようにして一段、また一段と階段を上り始めた。


 あそこだ。


 やっとの思いで七階までの階段を上りきったSは哲也の住む部屋の扉を認めて薄っすらと笑みを浮かべた。
 このマンションにはワンフロアに五つの部屋が入っている。哲也の部屋はその中でも一番奥に位置していた。
 頭を襲う痛みに立ち上がる力も残っていないSは廊下を這うようにして歩を進めた。


 「ハイ、どなたですか」


 哲也の声がドア越しに聞こえてくる。

 Sはやっとの思いでインターホンを押したきりその場にへたり込んでしまった。

 覗き穴から人の姿が見えないためだろう、哲也は何度か同じ問いかけを繰り返した後ドアに手を伸ばしたようだった。
 Sは自分の背中がドアで押されるのを感じた。
 Sは身体を脇にずらせた。
 ドアはするりと開かれた。


 愛しい恋人の顔がSを見下ろすように現れた。瞬間Sは痛みを忘れて幸せな気持ちになった。


 「いい加減にしてくれないかな」


 Sの気持ちとは裏腹に哲也はうんざりした口調で言った。


 「君と俺が恋人だったことなんて一度もないよ」
 

 そうじゃない、そうじゃないのよ。私よ、私なのよ。お願いだから私を思い出して……。


 Sは必死になって哲也に訴えかけようとした。しかし思いは声にはならずSはパクパクと口を開け閉めするばかりであった。


 「誰が来てるの」


 奥から女の声が聞こえる。


 「大丈夫、すぐ追い返すから」


 そんな哲也の声を無視するかのように奥からズカズカとやって来る足音が痛みに項垂れるSの耳に響いた。


 「アンタ、いい加減になさいよっ」


 甘い香水の香りがSの鼻をついた。その香りから顔を上げなくても相手が上本サユリなのだとSは察した。


 「毎日、毎日やって来て、迷惑にも程があるわっ」

 
 毎日……? 毎日って……。


 「派遣の契約切られた時に言われたでしょっ。もう、哲也にはつきまとわないでって」


 痛みにこめかみを押さえたまま中々立ち上がれないでいるSの肩を、激した上本サユリは突き飛ばした。


 「これ以上つきまとうつもりなら、警察呼ぶわよっ」 


 尻餅をついたSは痛みを軽減させるべくこめかみを擦るように押さえながらフラリと上体を起こした。
 
 そして顔を上げ上本サユリと対峙した瞬間、Sの表情はあまりの驚きに凍りついた。


 
 
 私の顔……私の顔っ!




 「哲也は私の恋人よっ。もう何年もつき合っているのよ」




 Sは自分と同じ顔をした女がそう言うのを聞いた。
 
 
 自分の顔をしたサユリは怒りに頬を紅潮させながら調子づいたようにSを罵倒し始めた。
 しかし痛みと驚きで感覚が麻痺したSには彼女の声はもはや届いていない。
 目線を宙に漂わせながらSは手探りでカバンの中から果物ナイフを取り出した。
 鈍く銀色に光る刃物にサユリは声を失った。
 Sもまた小さな光を放つナイフの刃先を魅入られるかのように凝視した。



 次の瞬間、Sの顔に血しぶきが降りかかった。



 サユリは刺されて前のめりになったものの、倒れまいとSの肩に手を掛けて爪を立てた。
 サユリは顔を上げた。Sはその瞳を魅入られるように凝視した。
 遠くでパトカーのサイレンの音が鳴り聞こえてくる。
 そして同僚達の話し声が頭の中に蘇った。
 
 「田辺さん、お葬式以来Sの事は一言も口にしないけど……」
 「しょうがないわよ、あんな事が遭った後じゃ」
 「婚約者が死んで一ヶ月しか経ってない……」



 朦朧とした意識の中でSは悟った。



 

 


 Sは……私ではなかった。






 

 「そうよ、渋澤さん」




 

 ゆっくりと瞼を開くと目の前には白衣を着たスワフミコの姿があった。





 ああ。



 私が交通事故に遭ったのは哲也のマンションを出た後だったのか。



 その後、私は警察病院へ搬送されて……。



 精神鑑定を受けて……。



 

 「自分が誰なのか、分った?」
 「ええ」



 
 ただ一つ、まだ分らない事があった。




 「ところで先生、私は一体どんな顔してたんでしたっけ」
 



 先生は薄く溜息をつきながら、また振り出しね、と呟いた。














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