FILE11:師匠と弟子
彼女は迷っていた。
やるか、やらないか。
だから、暫く悩んでも答えが出なかった彼女は三年ぶりに彼女に会いに行くことにした。
その家は城下町から遠く離れた西の外れにあった。
一歩そこに足を踏み入れれば、そこは―…酷く懐かしい、緑の香りに溢れていた。
「グランパ、…」
深い、深い、あの死人が住まうと謳われるイーシス国最東部、ヤミの森に立ち込む霧のように、あたり一面、その狭い部屋中に立ち込む煙。
小さな幼子の頭ほど大きく、ユラユラと横に大きく揺れながら動く、吹き抜け天井から今にも切れそうな程古い、年季が入ったロープから吊るされた香炉壷。
足を一歩踏み出すたびまるで障害物のように靴先にコツンと当たる床中隙間無く散らばった古本の山々。
「−…まったく、あの人は」
あまりにも酷い家の荒れ様にヤンはヤレヤレと、まだその家に入って三も歩かぬところでその細い両肩を大きく下へと落とす深い溜息を吐いた。再び目線を前に見やればそこにはまるでヤンの来訪を初めから知っていたかのように白く湯気が昇る熱々の紅茶が二つ、小さなテーブルに並んであった。
「−…おやおや、そんな今にも死にそうな年寄りじみた溜息を吐いて。いったいどうしたね、我が可愛い末弟子よ?」
「のわッ、ぁぁぁあああ! っ痛!!」
「ほっほっほ、そんな大声で騒がないでおくれ難聴になっちまうよなぁ、マリアンヌや?」
「ミャァ」
ぼんやりと昔を懐かしむようにドアの前に佇んでいたヤンは突然、なんの気配も無く前に現れた老人のあまりのも近い距離に驚愕の叫び声を上げると、驚いたと拍子に後ろに下げた足にぶつかった本の束に足を取られ、固い床にドスンッ、と尻餅をついた。
「ホッホ、おやおや奇跡だよマリアンヌ。床が抜けなかった。」
「ミャァ~」
そんな弟子の無様さに、老人はニヤリと唇を緩め、まるで悪戯が成功した悪がき大将のようにクッハッハッ、と声を上げ笑った。
老人の傍らにいつも寄り添うように歩く黒猫の貴婦人、マリアンヌもまた、ヤンを馬鹿にするかのように喉を震わせ笑うと「あんた本当馬鹿ねぇ。」とでも言うかのように声高く鳴いた。
常日ごろ、人をからかう立場に周るヤンにとって非常に屈辱的状況である。
「-…黙れ。この陰険腹黒猫かぶり砂掛けババァに、こんな辺鄙なところにいるせいで出会いの出の字も訪れない性悪猫め。」
「おやおやなんて口の悪い子だ!」
「あなたの教育の賜りモノだっ!」
「全く、この子は‥。きっと産まれたときにセリーヌのお腹の中に美貌と良心を置いてきちまったんだねぇ、可愛そうな我が弟子よ‥。なんとまぁ、哀れな‥」
「よけいなお世話ダッ!」
苛苛と唇を噛み拳を天に掲げながら声を荒立てるヤン。
普段決して温厚とは言えない彼女だが、ここまで感情を露にして怒鳴るのは非常に珍しい。
そして、ここまでただ一人の老人に追い詰められる姿も。
「全く今の若者ときたら情けないねぇ〜。すぐ何かとあれば怒鳴りちらし、口では勝てないと思うと手を上げようとする。お〜お〜、我が弟子ながらなんと残虐非道な弟子であることか。」
「五賢者のうちもっとも冷酷非道で有名なあなたがそれをいうか!?」
ヤンが少しでも身体を動かすたび「お〜コワコワ」と、やや行き過ぎた悲鳴を上げ、そのたびに黒猫の貴婦人マリアンヌがシャーとヤンを威嚇する-…相変わらずの数年前とお決まりの光景にヤンは心底疲れたように深く溜息を吐いた。「来なければ良かった。」本音が唇から漏れる。
「おやおや―…、本当にお前にしては珍しくお疲れのようだねぇ…この自信過剰浮かれ馬鹿間抜け弟子よ。」
グダ~と、力尽きたハイエナのように身体を丸めテーブルにうつ伏せるヤン。
そんな彼女の昔に比べ、あまり覇気が無い様子に老人は面白そうに目を細めると褐色のシワだらけの手を伸ばし、ヤンの頭を人撫ですると唐突にヤンの額にデコピンを食らわせた。
「イタッ! あなたって人はいきなり人に何をなさるんだ?!」
「ふむぅ〜? 愛のムチかねぇ〜。」
「そんなバイオレンスな愛はいらん。」
「いまどきの若者は消極的で困るな。そんな遠慮せんでも愛するアホなお前のためなら我は山ほどお前に愛をやろうぇ?」
「本気でいらん。とうとうボ、なっ!、いた、いたたたたったたたったた!!」
何の予告も成しにヤンの左耳が引っ張られる。
すぐ近くで老人のしゃがれた「可愛いねぇ、可愛いねぇ、」と何の感情も込められていないお褒めの言葉を貰いながらヤンは低くうめいた。
「何故私がこんな目に…。」
どうやら最近の自分の運気はすこぶる悪いらしい。
嫌なことばっかり起きる。
自分は日がな毎日薬草と触れ合っていさえいれば幸せなのにと、聖女がこの国に来る前、約二月前の己のとても充実した薬草漬けの毎日を思い出しこっそり涙をこぼした。
あぁ、恐らく未だ拗ねて、多くの人たちから沢山の心配を、愛を受け、優雅気まま、わがままにあの豪華な王宮の置く深くで暮らしているであろう聖女が憎い。
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