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番外編:とある森の日(2)
 ぴちょん――と少年の頬で水の雫がはねた。
 冷たい感触に少年は呻くと、身体の向きを変えようと動いた。
 だが、横にずれた所でその先はなく、少年は真っ逆さまに地面に後頭部を打ち付けた。
「いだっ!? えっ、なに? えええ」
 少し垂れ下がった目尻は気弱な印象を与える。名は御堂雅人。夜道を歩けば不良に絡まれてカツアゲされそうな、幸薄そうな少年である。
 雅人は痛む後頭部をさすりながら辺りを見回した。
 先程まで寝ていた石で造られたベッドに手をついて立ち上がる。
 天井から垂れ下がる幾多もの鍾乳石。ゴツゴツとした壁には旧時代的なロウソク。部屋を満たすほどの明かりとは言えず、肌寒い空気と薄暗い部屋はひどく不気味だ。
「へっ……ここどこ」
 まったく記憶にない場所。そもそも、森の中にいたはずなのに、目が覚めたら洞窟である。驚くのも無理はないだろう。
 そんな動揺を露わに、部屋の入り口らしき場所を見た。
 扉なんてものはなく……小さな穴があるだけ。
 そこから薄汚れた猪が二足歩行で現れる。片目には傷があって歴戦の戦士のような威風堂々とした雰囲気を身に纏っている。
「目が覚めたか、我等が救世主よ」
 雅人は目を瞬かせる。急に猪が喋ったのもあり、なぜか二足歩行なのだから夢でも見ている気分だ。
 そんな雅人に気づいてないのか、無視しているのか猪は喋り続ける。
「我はこの国において女王陛下親衛隊の隊長を務めている。カリラスラ・ビグランリッヒ・キバラジビ・リッカリン・キューリンガだ」
 長い名前だった、もちろん覚えることなんてできなかった雅人は、頬を引き攣らせた。
 そんな雅人を見て猪は、
「驚くのも無理はない。気づいたら洞窟の中なんだからな」
 短い腕を組んで……というより蹄の先が少し触れるだけで、組んでいるとは言えないかもしれない。
 そんなコミカルな光景に雅人は突っ込んだほうがいいのか、それとも夢だと思い込んだほうがいいのか、頭が混乱して視線を彷徨わせるだけに終わった。
「救世主よ黙ってないで、何か言ったらどうなんだ」
 何一つ言葉を発しない雅人に、猪は焦れったく思ったのか、鼻息を荒く吐いた。
「えーと、名前長すぎて……なんて呼んだらいいか……」
「そんなことか、マルクでいいぞ」
「…………」
 自己紹介した時と違う名前に、雅人は絶句するしかなかった。そもそも、一文字もあってない。
 しかし、突っ込んだところで前に進みそうにもないので、雅人は殴りたい衝動を抑えつつ口を開いた。
「えーと、僕はなんでここに……そもそもマルクは僕を襲ったよね」
「あの時は説明している時間はなかったからな。それにイノシシの言葉がわかるとは思えん」
「確かにイノシシと会話なんて……」
 そこまで呟きハッと雅人は気づいた。なぜ会話しているのだろうかと、なぜ『ようやく気づいたか』みたいな憎たらしいマルクの表情まで読み取れてしまうのだろうかと。
 恐る恐る雅人は自身の身体を見下ろした。
 毛むくじゃらだった。茶色の毛が全身から伸びて、手も蹄になっている。
 人間の姿だったときの私服を着ているからか、お洒落なイノシシさんに見えなくもない。
「なにこれ……」
「イノシシだな」
「いや、なんで……イノシシ?」
「一種の呪いだ」
「呪いですか……」
「そう呪いだ」
 マルクは満足そうに頷く。雅人は怒りに身体を震わせ、毛を逆立たせた。
「ふざけるな!」
 雅人はイノシシの身体に慣れていないはずなのに、驚異的な速度でマルクとの距離を詰めた。
 マルクは驚愕する。
「なんと……もう対応したというのか――さすが救世主、すごぶぎぃッ!?」
 蹄が顔面に食い込んで、マルクは地面に背中から叩きつけられる。
「すぐに人間に戻してよっ! イノシシってなんだよ!」
 雅人は気が動転しているのか、フガフガ息を詰まらせるマルクの顔面に、何度も蹄を叩きつける。
「おっ、おぎぃづけっ。ぐぶふごぉフガッ?!」
 六分経った頃からマルクは、悲鳴をあげることはなくなった。ピクピクと痙攣しているだけである。それでようやく冷静になれたのか、雅人は少し気まずそうに距離をとった。
 ようやく蹄の嵐が止んで、マルクはふらふらと立ち上がった。
「さ、さすがは……救世主。半端ない攻撃だな。さすがの我も死にかけた」
 雅人は死んでいなかった事に、ホッと胸を撫で下ろしたが、すぐさま睨みつける。
「すぐに人間に戻してほしい」
「少し落ち着いて聞け。その呪いも永遠という訳じゃない。三日もあれば人間に戻れる」
「三日!? 三日も……ふざけるなぁ!」
「ぶごふぅっ!?」
 雅人の怒りは再び爆発した。何故怒ったのかわかっていないのか、マルクは苦悶に顔を歪めながら驚きで目を見開いている。
 また猛撃を受けたら死にかねない。マルクは腹を押さえながら後退ったが、雅人は膝を抱えて鳴き始めた。
「ブギィ――三日……三日も家を留守にしたら」
 そう、三日も家に帰らなかったら幼馴染二名と、闇神二名――そして最近追加された妹一名から、どんなおしおきが待っているか……考えただけでも恐ろしい。
「鳴いているのか?」
 少しビクビクしながらマルクは近づいてくる。
「当たり前じゃないか……こんな格好で帰ったら鍋にされちゃうだろうし、三日後に帰ったとしてもタコ殴りにされちゃうだろうし」
 どちらにしても死ぬのだ。ははっと雅人は乾いた笑いをあげる。
 マルクは、そんな雅人を慰めるように、頭を思いっきり殴りつけた。
「びぎぃっ!? なにをするんだよ……すごい痛いじゃないかっ」
「それほど強くしたつもりはないんだが……まあ、お互い様じゃないがぎゅルァ!?」
 雅人は再びマルクの顔面に蹄を埋め込んだ。マルクは後ろ足をガクガクと震わせる。
 痛む顔を撫でたいのか前足が短くて招き猫の如く、くいくいっと動かすだけだった。
「貴様、我が大人しくしておれば……我は女王陛下の親衛隊の隊長だぞ!」
「知るか! 人をこんな姿にしたくせに。それにさっきから偉そうなんだよ! 少しは反省しろよ!」
 二匹のイノシシは殴り合いを始めるのだった。
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