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プロローグ
 鬱蒼と蔓延る木々に囲まれて、空を見上げようにも、枝と葉に阻まれ光は断絶していた。
 どれだけ見渡そうが、景色が変わることはない。それは永遠と暗闇だけが支配する世界。
 深淵の世界――闇に呑まれることなく一人の幼い少年が、木陰に隠れるようにして泣いていた。
「うっ、ひっく」
 声を押し殺して泣いている。
 祖母に入ってはいけない、と言われていた森に入ってしまった。
 友人と隠れん坊をしている途中に、いつの間にか足を踏み入れていた。
 気づいて後ろを振り返れば入り口は闇に閉ざされ、どれだけ歩こうとも出口に辿り着くことはなかった。
 大人でもこの森に入ることは躊躇してしまう。勿論、闇が跋扈する森になんて誰でも入りたくはないだろう。
 だが、入らない理由はそれだけではない――出ることが叶わないからだ。
 余程の酔狂な者か、この世と決別する者、特殊な力を持つ者の三種に分けられるだろう。
 大人でさえ体力の続く限り歩こうとも、出ることは叶わないのだ。
 それが幼い少年ならば、永久にでることはできないだろう。
 ――幼い少年がこの恐怖に耐えられるはずもなく。
 ――幼い少年がこの孤独に耐えられるはずもない。
 いつしか嗚咽は大きくなり、涙が溢れ出て止まらなくなっていた。
 粘った生暖かい風が、こびりつくように頬を撫でていく。
「ひっ」
 枝が揺れ、葉や草の擦れる音が闇に浸透して辺りを支配する。耳障りな音に少年は身を竦ませた。
「うぅぅっ」
 膝を抱えうずくまる。音は収まるどころか、更に大きくなっていく。
 人ならざる者、闇を好む者――闇神……幼い子供など格好の的だった。
 幼い少年がいる世界から急速に音が消えていく。
 そして――目の前に誰かが、立っている気配を感じた。
 まるで品定めをしているかのように、その者は静かに少年を見下ろしている。
 ――五分が経ち――十分経っても一向に襲ってくる気配がない。
 少年は意を決して、ゆっくりと顔を……上げた。
 胸の鼓動が早くなる。ゴクリと喉を鳴らす。
 目の前には、冷たいと感じる雰囲気を纏った女が――立っていた。
「こんな所で、なにをしているの?」
 深淵と同じ色の髪が腰まで伸びていて、鋭利な刃を思わせる切れ長な黒い瞳。
 まるで作り物のような造作。身体の線も細く、服装も変わっていた。
 それは、巫女服のようであり、それは、喪服のように黒く染められている。
 似合わない訳ではないが、どこか悲しい雰囲気を感じさせる。
 そして最後に――腰に差した黒刀。
 幼い少年の顔は、驚愕に染まっていた。
 別に刀に驚いた訳ではない、これが街であったならば驚くかもしれないが、少年の気はそこにはなかった。
 なぜ女性がこの森の中にいるのか、その一点だけである。
 視界に捉えた女性は、襲うでもなく闇に誘う訳でもない。
「どうしたの? 怖かった?」
 腰を落とし片膝をつき、少年の目線と自身の目線を同じ高さに合わせた。
 微笑を浮かべて、少年の頭に自然な動作で手を置く。
「ここに来ちゃダメだって言われなかった?」
 女性は困った顔をして、それでも、優しく頭を撫でてくれる。
 また少年は驚く、先程とは違い暖かい。
 女性の問いから、数秒の間を要したが、少年は口を開いた。
「言われたけど……知らない間に入っちゃった……」
「そう……でも、もう大丈夫よ」
 涙ぐむ少年の頭を、優しく、ただ、優しく撫で続ける。
 冷たいと思わせる見た目とは裏腹に、暖かみを感じる手に幼い少年は、いつの間にか心が落ち着いていた。
「あ、ありがとう」
「いいのよ。誰だって闇は怖いもの。私だって、怖くなるときがあるわ」
 女は苦笑してから、少年を抱きかかえ立ち上がった。
 唐突な出来事に少年は呆気にとられてしまう。しかし、そこに不快感はなく抱えられた時に、鼻腔をくすぐった甘い香りに、頬を赤く染めてしまう。
「あの……どこに行くの?」
 照れているのを誤魔化す為に言った。が、少年は女性を見て硬直してしまう。
 驚くほど近く、ほんの少し顔をずらすだけで、触れてしまえる距離に、端正な顔立ちがあった。
 固まる少年に、優しげに微笑むと女性は言った。
「ここから出してあげる……」
「出られるの?」
「ええ、私は闇神だから……ここは、庭みたいなものなの」
 悲しげに瞳を揺らして、すぐさま無表情な冷たい表情に戻ってしまう。
 幼い少年は、微妙な変化に気づかなかったようだが、言葉の意味はわかったようだ。
 闇神――確認されたのは、遙か昔、平安時代まで遡る。
 嫉妬、憎悪、人の内にある醜い感情――闇から生まれたと言われている。
 闇を好み、戦を好み、人よりも力を持ち、人よりも知能を持つ。
 人に紛れて暮らす彼等に、いつしか人々は、恐れ、忌み、嫌い、それが討伐の対象となるのは自然な流れではあったが――人に感情がある限り彼等がいなくなることはなかった。
 長い歳月が経とうとも、それは、現代でも変わらない。
 少年は目元を赤く腫らした顔で女性を見つめた。。
「……闇神使いの敵になっちゃうの?」
 闇神使い――平安時代、闇神が確認された時同じくして現れた新興霊術集団である。
 類を成す陰陽師と呼ばれる者達がいたが、当時、平安京では妖怪が跋扈している状態であり、とてもではないが、新種の闇神に対応できる状態ではなかった。
 その時、現れたのが、闇神使いの始祖である男だ。
 現代まで、その男の血筋が途絶えることはなく、そんな一族に少年は生まれた。
 だからこそ――少年は言ったのだ、敵になるのかと……。
「大丈夫よ……私は、敵にはならないわ」
 少年を安心させるように、はっきりと言った。
 そして――女は地を蹴り樹海を駆けだす。
 人の身であったならば、これほどの動きはできない。女性は足下を見ずに走っていた。
 平坦な道ならば、それほど驚くことでもないかもしれないが、今は樹海の中、足下に何が転がっているのかさえわからない状況なのだ。
 常人であれば、身辺に無造作に浮き出た幹に足をとられてしまう。
 しかし、女性は大して気にする様子もなく、幹を踏み台にして近くの枝へと飛び移る。
 枝が大きくしなる前に、すぐさま離れて軽やかに跳躍する。
 まるで風と一体化したかのように、女はただ一直線に走り続けた。
 抱き抱えられてから、三分程で前方の木々がまだらになってくる。
 差し込む日差しに、そろそろ抜けるのだろうと少年は思った。
 あれだけ歩いても出られなかった森が、たった数分で抜けることができた。
 驚くよりも幼い少年は、少し残念な気持ちになっていた。
 もう少しだけ……この女性と話をしていたかった。
 会話がなくても一緒にいたい、と思わせる魅力が彼女にはあった。
 女性は森を抜ける寸前で立ち止まると、少年をゆっくり地面に降ろす。
「ここには、もう来てはいけないわよ」
「あ、あのお姉さん――あ、ありがとう」
 感謝を述べる。だが、うまくいかず、はにかみながら言った。
 そんな幼い少年を、女は眩しそうに見つめる。
「また会えるわ……その時に、またね」
 女は名残惜しそうに少年の頬を撫でて、精一杯の笑みを作り、また暗い森の中へと消えていく。
 幼い少年は女性の背が見えなくなるまで、ずっと眼で追い続けた。
 闇に閉ざされた森から光に照らされた地――一歩踏み出した少年は空を見上げる。
 どれほどの時間を森で過ごしたのか、既に空は茜色に染まっていた。
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