第一章 季節廻り 縁廻る
プロローグ
ぱたぱたと、軽い足音が近付いてくる。
「まって、ちぃ兄様」
鈴を転がすような声に足を止めて振り返ると、長い廊下の向こうから華やかな振袖を纏った少女が駆けてくるのが目に留まった。秋も深まったこの時分、立派な日本庭園へと続く縁側の障子もぴったりと閉じられている。透かし模様が入った障子の和紙に、少女の影が映ってゆらゆらと揺れていた。
「そんなに走っては転びますよ、姫」
自分とひとつしか違わないはずの少女は、小柄なせいかとても幼く見える。
「ちぃ兄様、次はいつお会いできますか?」
「鈴姫がおとなしくなさって、お風邪など召さなければきっとすぐに」
「うそです。そう言って、二週間も来てくださらなかったじゃないですか」
不満げに、ぷうっと頬が膨らんだ。小作りの唇はへの字に曲がっている。笑ってしまいそうなのを、ぐっと腹に力を入れて堪えた。
「……周お兄様と同じ学校へ行かれると、聞きました」
「はい。正式に周様のお傍に仕えさせていただくことに決まりましたので」
「……鈴も学校に行きたいです」
「通っていらっしゃるではありませんか」
「ちぃ兄様と同じ学校がいいです」
きゅっと眉根が寄せられて、眉間に皺がよった。無理だといいかけて、言葉に詰まる。どう頑張ったところで、男子校に女の子は入れない。返答に困っていると、少女はますます沈んだ顔で力なくつぶやいた。
「やっぱり、ちぃ兄様も周お兄様の方がお好きなのですね」
「鈴姫……?」
「知ってます。鈴は女で、お嫁に行くしか能がないのに、ぐずでぶすだから役に立たないって」
「……誰がそのようなことを申しましたか」
「みんな言ってます」
「戯言です。姫は十分可愛らしくあられますし、大切なお方ですよ。もっと自信をお持ちください」
「……ちぃ兄様は美人だからそんなことが言えるのです」
「千歳の言うことは信用していただけませんか?」
少しむっとして問えば、少女は僅かに躊躇ってから首を横に振った。
「姫はお母上様に似ていらっしゃいますから、今にとびっきりお美しくなられますよ。千歳が保証いたします」
一度だけ見せてもらったことのある、少女の母が幼い頃の写真を思い出す。自分の主となった周が、こっそりと母親の書棚からアルバムを引っ張り出してきたものだ。見つかって、大目玉を食らっていたことを事細かに教えると、少女はやっと明るい笑顔を見せた。
それにほっとしたのも束の間。
「……それでも、やっぱり周お兄様の方が大事なのでしょう?」
拗ねたような物言いに、返答に窮した。それは紛れもない事実。
どんなに言葉を飾ろうとも、主人と定め何よりも優先すべきと決めたのは、たったひとり。
「確かに、千歳の主は周様おひとりですが」
どんな種類であれ嘘をつくのは嫌いだったから、残酷かとは思ったが本音を吐露する。やはり少女は傷ついたように瞳を揺らした。
「姫も掛け替えのないお方であることにはかわりありません」
「では、鈴のことも守って下さいますか?」
「もちろんですが、姫にも……」
「鈴はちぃ兄様がいいのです!」
周に自分が仕えることになったから、従兄弟の誰かが少女に仕えるだろうことは知っていた。けれど、まっすぐに自分を見詰める少女の期待を、裏切るのは忍びない。
主の次ではあるけれど、大切に思っているのは確か。
だから。
「それでは、おふたりともお守りできるよう、千歳は強くなりましょう」
それは真実、心からの誓いだった。
「約束ですよ、ちぃ兄様。きっと守ってくださいましね」
「ええ、約束です」
とても大切な約束だった。
するべきではない、約束だった。
やがてそう遠くない未来に破ってしまうことになるなどと。
欠片も、思っていなかったのに。
第一章 季節廻り 縁廻る
1
最寄の駅から徒歩二十五分。遠くから見れは緑深い山の中に、ぽつんと佇む赤煉瓦色の屋根。急な勾配の坂道を登っていけば、時代がかった木造の洋館。広い敷地を石塀でぐるりと囲ってあり、門はひとつ。左右の門柱にはどちらも御影石で作られた長方形の細長いプレートがはめられているが、これもまた随分長いことここにあったのか、ところどころ欠けている。恐らく初めは綺麗に貼られていたのだろう金箔は、見事にほとんど残っていない。もちろん文字はしっかり彫られていたので、読み取れないということはなかった。
右の門柱には、東雲学園高等部。左の門柱には、東雲学園中等部。全寮制中高一貫学校の、名称である。
春夏秋冬、どの季節が好きかと問われれば、天崎千歳は迷うことなく春と答えるだろう。より正確に言うならば、春から初夏にかけ、ちょうど今頃の季節か。ちなみに二番目は、晩夏から秋にかけての頃合だ。
「要するに、授業サボって屋上で昼寝するのに最適な時期ってことだな」
すっぱり言い切ってメモ帳にペンを走らせるのは、クラスメイトの田村哲。首にデジタルカメラを提げている彼は、いつでもどこでもシャッターチャンスを逃さないようにと豪語して憚らない。新聞部の主戦力、未来の(自称)敏腕ジャーナリスト様は、例え友人だろうが部活仲間だろうが、ネタになるとみれば容赦なく食い物にすることで有名だ。
「そうとも言うな」
「そうとしか言わねぇでしょ」
呆れたような、けれどくぐもった声。あんパンに大口あけてかぶりついたままでのつっこみに、千歳は不満げに眉を寄せた。
澄みきった青空の下、屋上でごろりと横になっている千歳の隣では、一学年後輩の津田恭介が早弁に勤しんでいる。まだ三時間目が始まったばかりだというのに、彼の膝の上には菓子パンがいくつも転がっていた。すべて哲からの献上品だ。半分は千歳にと渡されたものだが、この様子では恭介が全て平らげてしまうだろう。校内屈指の美少女顔の少年は、顔に似合わず大食漢だ。
「恭介は?」
「俺ァ夏ですかね。暑ぃけど。寒ぃのは嫌ぇなんで」
「ふんふん、千歳が春で恭介が夏ね。よっし、じゃあ次!」
「まだあんのかよ……」
「当たり前だろ。好きな食べ物は?」
「おでん」
「食いもんならなんでも」
「……恭介、何かないわけ? 特別好きなものとか」
「今なら柏屋の黒ゴマプリンが食いてぇです」
「哲、俺食いもんより煙草がいー」
「恭介、それ以上は何もやらんぞ。学校新聞に好きな銘柄書いてもいいってんなら買ってきてやる、千歳」
「んだよ、ケチくせぇなあ」
「なぁー」
「千歳はともかくてめぇに言われる筋合いねぇぞ、こら」
メロンパンの封を開けながら千歳に便乗していた恭介は、ちえっとわざとらしく舌打ちした。それを横目に、千歳はむくりと体を起こし、学ランの内ポケットからソフトケースを取り出すと、真新しい煙草を一本口に加える。
そよそよと吹く風が、千歳の今時珍しい真っ黒な髪を遊ばせた。
「……自習とはいえ授業サボって喫煙するような奴が学年主席たぁ、世も末だよなあ」
「お前が呼び出したんだろうが、お前が」
哲の言葉に、千歳は心外だとばかりに顔を顰める。三時間目の化学の授業が突然自習になったため、これ幸いと机に突っ伏して寝る体勢を整えた千歳を、頼みがあると呼び出したのは哲だ。どうせ教師が戻ってくる様子はなかったし、教室は騒がしく誰もこちらを注目していなかったので、ふたりは堂々と屋上へと向かった。
「大体、サボりっつったらこいつだろ」
今度は焼きそばパンにかぶりついている恭介を顎でさす。ふたりが屋上へ来てみれば、部活の後輩である恭介が体育の授業をサボって惰眠を貪っていたのである。
「こんな天気のいい日に体育館で卓球なんてやってられませんて。どうせならバスケのが良かったー」
「腹減ってただけだろ、お前」
顔と運動神経だけは抜群にいい後輩は、腹が減っているときは全てにおいてやる気をなくす傾向にある。おおかた寝坊して朝食を食いっぱぐれたのだろう。寮の食堂のおばちゃんは時間に厳しく、遅れると何も出してくれないのだ。
三人の通う東雲学園は小等部から大学まであるエスカレーター式の私立学校で、都内とは名ばかりの郊外に広い敷地を持っている。小等部と大学部が都心の方にあり、通学もできるようになっているが、中等部と高等部はこの田舎の山に校舎と寮を構えていて、全寮制だ。共学なのが唯一の救いだろうか。
学校や寮の売店以外なら、コンビニまで徒歩二十分の道をのり越えなくてはならない。しかも坂道。駅までは、これにあと五分加算される。
つまりは極めて娯楽の少ない学生生活を、生徒達は送っているということだ。好奇心旺盛で多感な年頃、遊びたい盛りの中高生にとってこの環境は苦行にも等しい。
それでもそれなりに生徒数が多いのは進学校として名高いせいだろう。
「まあいいや、次行くぞ。好きな女の子のタイプは?」
「さあ?」
心底どうでもよさそうな返答に、哲は深いため息をついた。
「てかな、俺とかこいつのこととか根掘り葉掘り聞いてなんになるってんだよ」
だが実際、ため息をつきたいのは千歳の方だった。もう二十分近くあれやこれやと質問責めにされて、いい加減うんざりしているのだ。恭介は腹が満たされたこともあってか面白半分で答えてはいるが、元来自分のことを話す性質ではない千歳には、はっきり言ってしまえば不快だった。
「全校女子生徒が喜びマス」
千歳の不機嫌な目線を受け流し、哲はあっさりと答えた。女子だけでなく一部教職員や男子生徒が混じっていることは言わない。ここでへそを曲げられては自腹を切った賄賂が無駄になってしまう。
この学園で、千歳と恭介を知らない生徒はほとんどいない。ふたりが所属している部活は、通称便利屋と呼ばれる雑用部で、生徒達からの依頼形式で活動する。
例えば運動部の練習試合の助っ人だったり、期限の迫った課題の手伝いだったり、書類整理だったり、捨て犬の里親捜しだったり、とにかくいろいろだ。
この部はもともと、部活動必須のこの学園で、何らかの理由で部活に入れなかったもの、入ったものの退部せざるをえなかったものが苦し紛れに設立したもので、今のところ部員は五名。千歳に恭介に、恭介のクラスメイトの女生徒。哲は新聞部との掛け持ち部員で、幽霊部員の不良学生がひとり。
千歳は運動も勉強もできるのにはじめからどの部にも入るつもりはなかったらしく、顧問に引っ張りこまれた。恭介は剣道の特待生として入学し、もちろん剣道部にも所属していたが一年のはじめに三年の先輩と揉めて病院送りにした結果退部したのだ。紅一点となる春日美衣子に至っては、茶道部で二週間、料理部で三週間。一ヶ月ちょっとのあいだに茶碗や皿を割りまくり、半泣きの部長達に追い出され便利屋に流れ着いた。
これだけ揃えば、アクの強い連中が集まっている部ともいえるかもしれない。
いろんな部活や学年の手伝いなんかもするから、社交的な性格とは言い難い千歳でも、一年も経てば校内に知り合いは増えた。恭介は社交性にかけては千歳よりはいいし、やはり顔は広い。そして、どちらもちょっと厭味かと思うくらいには顔がいいものだから、校内女子に圧倒的な支持を受けている。それに輪をかけて環境が閉鎖的なためか、一種のアイドル状態だ。
そして今月の東雲学園中等部新聞での特集は、校内いい女・いい男ランキングの発表。その内男女とも上位三名にインタビューを組むことになっているのだ。ちなみに男子では、一位が千歳で二位が恭介。三位がバスケ部の葛西という2年生だ。そちらはもう昨日、別の部員が当たっている。
掛け持ちとはいえ同じ部活で、ふたりと仲がいい哲がこのインタビューの役割を振り分けられたのは、至極当然の成り行きだろう。
おそらく他の誰が試みても、千歳どころか恭介も答えない。
千歳とは二年、恭介とは一年。苦楽をともに(大袈裟ではなく)してきた経験と信頼とが、ふたりの口を軽くするのだ。
特にに千歳は取材嫌いで有名だ。基本的に自分のことを話すタイプでもなく、二年間学校でも寮でも一緒に生活している哲でさえ、千歳から家族のことを聞いたことはない。
せいぜい知っていることといえば、便利屋の顧問である天崎善隆が千歳の叔父にあたる、ということと、恭介とはこの学校に来る前からの知り合いらしいということくらいだった。
「具体的でなくっていいからさ。可愛い子とか、綺麗なタイプとか、あるだろ、何か」
「……あー、じゃあ、煩わしくないやつ」
「ほんっと、やる気ねえな、お前……」
鬱陶しく付きまとわれるのを嫌う千歳らしい発言ではあるが、あまりに無情に感じる。彼に想いを寄せる少なくはない女生徒たちが可哀相だ。このままではあんまりなので、後で少し脚色しておこうと、哲は心に決める。
時には捏造も必要だと、彼は思っていた。
「まあいいや……。恭介は?」
「飯作るのが上手い子」
これまた恭介らしいが、千歳よりはマシだ。少なくとも、そのまま書いても差し障りない。
「もういいだろ。これ以上は何も答えねぇぞ、俺ァ」
すっかり短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んで、千歳は断りを入れた。未成年の身で堂々と学校で喫煙しているわりに、携帯灰皿を持ち歩いているあたり、真面目なのか不真面目なのかよくわからないところだ。
一番聞き出したかった好きなタイプも一応は聞いたことだし、これ以上不機嫌になられても面倒なので哲もおとなしく引き差がる。
「ああ、もういいよ。ありがとな、ふたりとも」
これで食い下がってもどうせ何も出てこないことを、彼は経験上知っていた。
千歳がまたごろりと横になったとき、ゴッと何か蹴りつけるような音がして、校舎へ続くドアが軋みながら開いた。立て付けが悪くなっていて、鍵がかかっていてもちょっと衝撃を与えれば開くようになっているのだ。逆に閉めることも簡単。
鍵を使わずに屋上に上がってくるものは限られていて、大抵がサボり常習犯だ。
「おー、なんだお前等、揃いも揃ってサボりかよ」
黒のスラックスにオフホワイトのカッターシャツ。緩く締められたネクタイと、よれよれの白衣。理科教師天崎善隆は、特に怒るでもなく気の抜けた声をだして、無造作に伸びた収まりの悪い頭をぼりぼりとかいた。
無精ひげのおかげで三十路過ぎに見えるが、実はまだ二十七歳だ。これを知ったとき、生徒は大抵驚く。
「さぼりっちゃあさぼりだけどな、なんでアンタまで来てんだよ?」
「何でってお前、先生だって息抜きがね、必要なときもあるんですよ。アンダスタン?」
「意味がわかりません、先生。俺達今の時間、先生の授業のはずなんですけど」
今日は先生、重大な用事があるので自習にします。みんないい子だからちゃんとおとなしく課題やっててくれると先生信じてますからね。だから教科書九十五頁の練習問題と応用問題全部適当にやっといてね。ノートはホームルームで集めるから。じゃ、後よろしく。
三時間目が始まるやいなや開口一番そう言ったのは間違いなくこの男である。
ついでに言うと、千歳と哲のクラスの担任だ。
「それはお前、アレだよ、ほら、先生だってひとりの人間ですからね、二日酔いで頭ガンガンガンガンして授業なんてやってらんねーよバッカじゃねーのって時があるわけ。そういう時はほら、無理に授業するよりさ、準備室で一息ついて屋上で外の空気を吸ってのんびりしたくもなるってわけよ」
「最悪だお前。教育委員会に訴えてやる」
授業や部活動だけでなく対人関係においても基本的にやる気のない千歳だが、この教師にはいつも良く突っかかる。身内の気安さか、それとも同族嫌悪か。はっきりしたところは解からないが、哲も恭介もふたりの喧嘩を止めることはない。
喧嘩というよりただのじゃれあいだからだ。
「ところでちぃちゃん、煙草持ってない? ストック切らしちゃってさー、うっかりしてたよほんと。昨日合コンの帰りにいつもの店でカートン買いするつもりだったんだけど酔っ払ってたからさぁ。買い忘れちゃったのよ。さっき最後の一本吸っちゃってさぁ」
「ちぃちゃんってなんですか気色悪い。生徒に煙草の無心なんてしないでください、先生」
「あれ、ちぃちゃん何怒ってんの? 機嫌悪い? アレの日?」
「テメェさらっとセクハラ発言してんじゃねぇよクソ教師! ガラムしか吸わねぇんじゃなかったのかよ」
「いいよもう、いっそメンソールでも。吸えればなんでも。見てよほら、手ェ震えてるってこれ。ニコチン切れだって。ヤバイって」
「そうだな、ヤバイな、お前の頭。病院行け。むしろ行ってください」
わざとらしくぶるぶる震える右手をかざしてみせる善隆に、千歳は冷ややかなまなざしを注ぎ続けていた。
「お前さっきから酷いよ、先生に対する台詞じゃないよ」
「テメェに言われたかぁねぇなあ、おい」
「もーなんでもいいから煙草くれよ。てゆか買ってきてー、誰か先生に煙草買ってきてーっ! 釣銭あげるから」
「万札でくれんなら行ってもいいっスよー」
「ちょ、恭介君、それはいくらなんでも酷くない? 先生って公務員だからさ、安月給なのよ?」
「だってこの辺で煙草売ってるとこまで片道二十分、しかも坂道じゃねぇですか。その上授業までサボるんですからそんくらいなきゃ割りにあわねぇよ」
「サボってんじゃん、俺が何も頼まなくてもサボってんじゃん!」
「センセー、諦めて自分で買いに行ったらどうですかー」
いい気味だといわんばかりの口調で、千歳は言う。
「俺二日酔いなのよ。頭痛ェのよ。あんな坂道往復してられっかー! つかなんで売店に煙草置いてないわけ? お前等売店に煙草置いてくださいってちゃんとアンケートに書いとけよ。あっただろ先月、売店改装のときに増やしてほしい商品リクエストあっただろ。俺は書いたぞああ書いたとも見事に無視されてたけどな!」
「当たり前だッ! 学校の売店に煙草なんか置くわけねぇだろ、自業自得なんだよ、テメェは! マジで教育委員会に訴えるぞ!」
「んだとコラァ! お前こそガキのくせに煙草なんざ吸ってんじゃねえ! 停学もんだぞホントなら! 見逃してやるから箱ごとください!」
「結局ソレかァ! ふざけんなバカヤロー、テメェが聖職者だなんて俺は断じて認めねぇぞこの腐れ教師!」
ぎゃあぎゃあと喚き合い、だんだん取っ組み合いになっていく叔父と甥を生温かい眼で見守りながら、哲は先ほど取ったインタビューのメモをまとめはじめた。その横では恭介が最後の菓子パンの封を切っている。
授業終了のチャイムが鳴るまで、不毛な争いは続いた。
2
春日美衣子は、その日朝から上機嫌だった。
今朝は珍しく寝坊もせずに起きられて、朝ごはんもしっかり食べた。食堂においてある少し型の古いテレビで見た星座占いでは「新しい素敵な出会いがあるかも★」と結果が出ていて、実際に朝のホームルームで転入生が紹介された。
やっぱり占い師ヒツコの朝の占いは当たるのだ。
部活の先輩である千歳は鼻で笑って信じないけど、今日は部活が始まったら真っ先に教えてやろう。
「九条院鈴鳴です。よろしくお願いします」
教壇では、長いくせのないまっすぐな黒髪を背中にたらした少女がにっこりと笑っていた。
決して派手ではなく、地味な印象はぬぐえないが可愛らしく整った顔立ち。小柄な身体から品の良さが滲み出ていて、まるで良家のお嬢様だ。
苗字も、なんだか凄い家のような名前で、美衣子はわくわくした。
斜め前の席に座っている恭介に話しかけようとしたが、遅刻寸前で教室に駆け込んできた恭介は、今は机に突っ伏して眠っている。
また夜中までゲームやってたな。
恨めしげに睨むが、それで恭介が起きるわけがない。気配に聡い千歳なら美衣子が目配せすると、寝ていてもすぐに気付くのに。
五月の頭という半端な時期に転入してきた理由を、簡単に担任の山本が説明している。説明といっても家庭の事情で急遽、で終わりだったけれど。
彼女の席は、美衣子の後ろになるだろう。窓側の一番後ろ。余った机が新学期からずっと置かれていた。案の定、担任に言われて九条院鈴鹿は美衣子の後ろの席に着いた。しずしず、という形容詞が似合う歩き方。本当にお嬢様なのかもしれない、と美衣子は思う。
「九条院です、よろしくお願いします」
名前のとおり、鈴を転がすような声だ。女の子相手だというのに、美衣子は少しドキドキした。あの占いが効いているのかもしれない。
「春日美衣子だよ。友達はミィって呼んでる。良かったら、そう呼んで?」
美衣子がそう言って右手を差し出すと、彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。
美衣子と鈴鳴は、すぐに打ち解けた。
鈴鳴は大人しく控えめで、柔らかな笑顔が可愛いけれど、少しぽやんとしている。もともと活発な性質の美衣子の保護欲を、見事にくすぐってくれるのだ。
一人っ子で、部活でも先輩と同学年だけで後輩のいない美衣子は妹分のように扱われていて、だから余計に新鮮な気分で鈴鳴に接していた。
三時間目の体育が始まる頃には、鈴鳴は自分が守るのだと使命感を燃やしていたほどだ。義侠ものの映画が大好きで、時代劇ファンの美衣子にとって、鈴鳴は理想の守るべきお姫様像にぴったりマッチした。
(ちぃちゃんも時代劇好きだもん。鈴ちゃん連れてったら気に入るかも)
校内で一種アイドル状態の千歳だが、涼しげな外見と普段のやる気のなさとは裏腹に、実は時代劇ファンだ。恋愛映画は誘っても見ないが、義侠ものや時代劇ものなら向こうから誘ってくることもあるくらいに。
もっとも、千歳に誘われるのなんて、本当にごく限られた人数でしかない。美衣子が知る限りで千歳が親しくしているのは、自分と恭介、哲に善隆くらいだ。そのくらい千歳の交友関係は狭くて、その中に入るのはなかなかに難しい。美衣子にしても、今のように千歳に可愛がられるようになるまで、結構な時間がかかったような気がする。
千歳はとっつきにくい印象が強く、実際その通りだけど実はとても優しいので、美衣子は千歳が好きだった。哲も善隆もだ。恭介とはよく喧嘩もするが、仲はいい。美衣子にとって気が許せる間柄の人間も、千歳のことを言えないくらい少なくて、だからこそその中に鈴鳴が入ってくれないかな、と思ったのだ。
美衣子がこんなにすぐに仲良くなれた女の子は、鈴鳴がはじめてだったから。
体育の授業は男女別で、二クラス合同だ。男子は体育館で卓球、女子はグラウンドでソフトボール。A組とB組で四つの班を作って、試合形式で練習する。味方の攻撃の間、美衣子と鈴鳴は色んな話をした。
好きなテレビ番組や漫画、最近のはまりモノ、部活のこと。
ほとんど美衣子が喋ってばかりで、鈴鳴は聞き役に徹していたけれど、あんまり楽しそうに聴いてくれるので、美衣子も嬉しくなってどんどん喋った。自分の攻撃の番が来ても、先生に拳骨をもらうまで気付かなかったくらいだ。
たんこぶをつくった美衣子を、鈴鳴は本当に心配してくれて、ほんの短い間しか接していないのに、なんだかずっと前から友達だったような気がする。
鈴鳴は、もしかしたら親友になってくれるかもしれない。
美衣子はそう思った。
ずっと前から憧れていたのだ。女の子同士の親友、というやつに。
美衣子の父はいわゆる転勤族というやつで、中学進学をきっかけにこの学校に入るまで、物心ついた頃から各地を転々としてきた。だから友達と親しくなってもすぐに別れなくてはならなかったし、それが辛くて新しい学校に入ってもなかなか打ち解けることができずにいたものだ。
更に父親がこれまた息子が欲しかったと公言して憚らないひとで、息子のように育てられ、服も男物ばかり。
おかげで美衣子はお転婆なんて言葉では納まらないほど男勝りに育ってしまった。正義感が強くて曲がったことが嫌いで、喧嘩上等、お祭り最高。
女の子らしいものに惹かれないでもなかったけれど、今更自分がそんなことをするのは恥ずかしいし、同学年の女の子と話していると、緊張してしまう。
その点男相手は気が楽だ。殴っても蹴ってもどうってことないし、多少きついことを言ったって動じない。少なくとも、部活仲間は誰も気にしない。
ときどき、彼らは美衣子が女の子だということを忘れているのではないかと思うくらいだ。
「ねぇ、鈴ちゃん、どこか入りたい部とかある?」
体育が終わって、教室に戻る途中、美衣子は思い切って切り出した。
「いいえ、特には……。そういえば、部活動必須でしたっけ」
「うん、そうなんだ。だからさ、もしどこも入りたいとこなかったら、うちこない?」
「いいんですか?」
ぱっと、花がほころぶような笑顔を見せる鈴鳴に、美衣子は肩の力が抜けた。
「うん、もちろん! 便利屋なんて言ってもただの雑用部なんだけど、人数は少ないし、顧問も緩いし、男ばっかだけどセンパイ達頭いーし素っ気ないけどやさしーし、ひとりムカつくのいるけど、顔だけはいいから観賞用にはもってこいよ!」
それから、鈴鳴の気が変わらないうちにと一息で捲くし立てる。その勢いに、鈴鳴は眼を白黒させて、やがて可笑しそうに笑った。
「ひでぇ言い草だなぁ」
ぼそりと背後でつぶやかれ、ふたりはぎょっとして振り返る。
「教室の前陣取ってんじゃねぇよ、通れねぇだろ」
美衣子のすぐ後ろに、恭介が立っていた。手には体操服も体育館シューズもなくて、体育のあとにしては随分身軽だ。それに少しも汗臭くない。
一見して女の子かと思うほど小奇麗な顔立ちのせいで、他の男子と比べて見た目の爽やか度は高いが曲がりなりにも男である。しかもかなりのものぐさで、彼が制汗スプレーなど持ち歩くはずがないことも、美衣子はよく知っていた。
「恭介! お前またサボっただろ」
「何のことですカ。言いがかりは止めて下サイ」
「しらばっくれたって騙されねーっつの。どーせまた屋上で寝てたんだろ」
「残念、ハズレー。寝てたのは俺じゃないですー」
「サボってたのは当たってんじゃん!」
「いいじゃん別に。ところであんた誰? 見たことないけど」
美衣子の頭を押し退けて、恭介は鈴鳴を頭からつま先までぶしつけに見た。珍しいものでも観察しているような眼だ。
失礼にも程があると、美衣子は怒ろうとしたが、怒鳴る前に恭介に口を塞がれる。
鈴鳴はそんなふたりのやりとりにこそ驚いた様子だったが、恭介の視線にも動じずににこりと微笑んだ。
なまじ綺麗な顔立ちをしているだけに、恭介に無言で見詰められると大抵の人は気後れする。表情を消している状態では、なおさらだ。
「九条院鈴鳴です。はじめまして。今朝転入してきたんです」
「今朝ァ?」
「お前寝てただろ、ホームルームから二時間目までずぅーっと!」
なんとか恭介の腕を振り解き、美衣子は間近にある顔を睨みつけた。
鈴鳴が怯えなくて良かったが、恭介が彼女を威嚇したことを暗に咎めていた。
そう、威嚇だ。今のは。
美衣子が鈴鳴を便利屋に誘っていたのを聞いたから。
(バカ恭介、これで鈴ちゃんの気が変わったらどうしてくれる!)
恭介は相変わらず鈴鳴を無感動に眺めていて、鈴鳴はその眼を正面から受けて微笑んでいた。
存外肝が据わっているのかもしれない。お姫様的な風貌から気が弱いのかと思っていたけれど、そんなことはないようだ。
正直、美衣子は内心驚いていた。
「今、鈴ちゃんを便利屋に誘ってたとこ。邪魔すんなよ。部員はひとりでも多いほうがいいだろ」
先制攻撃のつもりで、美衣子は恭介に釘をさす。便利屋の部員数が少ないのには、恭介と、そして千歳が人見知りをするところにも原因はあるのだ。
千歳は興味の外にある人間にはほぼ関心を払わないだけだが、恭介はあからさまに邪険にする。それはもう言いたい放題やり放題だ。美衣子が便利屋に入ったときも、一週間先に入部していた恭介と散々揉めた。実際に手が出たことも一度や二度ではない。
その様子を、哲などはまるで野良猫の縄張り争いだな、と呆れ混じりに評したものだ。
恭介はクラスメイトや寮生相手ならそこそこ愛想もいいし、仲も悪くないというのに、便利屋は自分の縄張りだとでも思っているのか、なかなか他人を入れようとしない。
「……入んの? 便利屋」
「ええ、そうしたいと思っています」
「ふーん、そう」
恭介が何か言ったらその時は自分が鈴鳴を守ろうとファイティングポーズをとった美衣子だったが、しかし恭介はそれ以上何も言わずに教室に入っていった。
拍子抜けしてその後姿を見送っていると、鈴鳴がふふ、と笑う声が聞こえた。
「仲が良いんですね」
そんなことはないと声を出しかけて、羨ましい、という言葉に飲み込んだ。
美衣子にも覚えのある、寂しさを含んだ声だったから。
九条院、鈴鳴。
自分の席に戻って、恭介は胸の内で転入生の名前をなぞった。
九条院。
覚えがある。厭な名前だ。
恭介がこの世でもっとも嫌っている男が、何より大事にしていた家の名前だ。自分の家名よりも、あの男にとってはずっとずっと大事だったろう。自分の息子よりも、九条院の子どもをずっとずっと大事にしていた程だから。
だからこそ、その九条院の人間がこんなところにひとりでいるはずがない。
そんなことは絶対に有り得ない。
ただの同姓だ。珍しいことじゃない。そう結論付けて、恭介は二時間目までと同じように、机の上に突っ伏した。
英語教師の下手な発音が、酷く耳障りだった。
3
東雲学園への転校を提案したのは、年の離れた一番上の兄だった。
鈴鳴はすでに家に近い女子校に通っていたけれど、寮での生活、と聞いてすぐに頷いた。都内とはいっても郊外で、自分を知る人間はひとりもいない。そんな場所で、全てやり直してみたかった。
ただの鈴鳴として、生活してみたかった。
そこまで思って、はたと我に返る。
自分を知る人間はひとりもいない?――いいや、そんなはずはない。そんなことは許されない。
そう思った。
けれど、その思いを見透かしたのか、兄は笑って首を横に振った。
ずっと離れて暮らしていた兄は、再会してからいつでも鈴鳴に優しかった。そしてその時も、慈しむような口調で言ったのだ。
「大丈夫、誰も傍にはつけないよ。お前がその学校へ行くことは、私以外誰も知らない。分家の頭も、守護頭も。お前ひとりで行くんだ。……不安かい?」
「いいえ、いいえお兄様」
不安が、まったくなかったとは言えない。だけれど声が震えたのは、嬉しさからだ。
自由になれる。
それだけが頭の中にあった。
自由に。
中高一貫の全寮制。それも郊外の山の中とあっては、それこそが閉鎖的な環境だ。それは解かっている。だけれど、鈴鳴にとっては自由だった。
夢にまで見た、自由だった。
突然の転校の理由は、特に思い当たらなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。
兄は期間のことは何も言わなかったが、例え一時的なことであってもいい。あれほどに焦がれたものが、手に入るのなら。
鈴鳴は、そう思った。
お昼ご飯を美衣子と食堂で食べて、授業に間に合うように移動した。
五時間目は化学だ。理科教室は特別教室棟にあるため、少し遠いらしい。移動のたびに、美衣子が校舎だけでなく、近道や抜け道も教えてくれた。
転入初日で美衣子と知り合えたのは僥倖だった。
美衣子のように元気で素直な女の子は、鈴鳴の周りにはいなかった。
初対面だというのに、好意を隠す事無く表してくる美衣子に初めこそ戸惑ったものの、鈴鳴はすぐに美衣子が好きになった。
彼女なら友達になれるのではないか、なってくれるのではないかと、時間が経つにつれて期待が募った。
だから美衣子に、彼女の所属している部に誘われたときは、本当に嬉しかったのだ。
通称便利屋と呼ばれていて、校内では結構有名らしい。
人数が少なくて、しかも基本的にやる気のない連中が集まっているから大変なのだと美衣子は言っていたけれど、便利屋の話をしているときの彼女はとても楽しそうだった。
部員達が大好きなのだなと伝わってきて、そこに自分も招いてくれているのだと思うと胸が震えた。
恭介のことは気にしないでね! あんなだけど、そんな悪いやつじゃないから。
便利屋の仲間なのだという津田恭介が教室に戻ったあと、美衣子は困ったようにそう言った。恭介があんまりぶしつけに鈴鳴を見ていたから、気を悪くしたかと心配したのだろう。
大丈夫だと答えた言葉に嘘はない。他人に見られるのは慣れている。
ただ、恭介の視線は不思議だった。
無関心を装った眼差しの奥には、不審と警戒があった。
自分の存在が彼にとって脅威になることがあるとは到底思えないのだが、何故だろう。
教室での様子を見ている限り、そう警戒心が強いわけでも、他人を拒絶しているわけでもないようだったけれど。
妙に気になったのは、彼の名前に聞き覚えがあるからだろう。どこで聞いたのかは覚えていないが、確かに聞いた気がする。親戚の中に、彼と似たような名前のひとがいたのかもしれない。きょうすけ、なんて別段珍しい名前というわけでもないのだから。
それよりも、化学教師の名前の方が、鈴鳴には衝撃だった。
天崎。
鈴鳴にとってあまりに身近にあった名前だった。
一瞬、先週からシカゴに出張しているはずの兄に、話が違うと胸中でつぶやいたくらいだ。
だが落ち着いて考えてみれば、化学教師にはまったく見覚えがなかった。鈴鳴がよく知る天崎家の人間ならば、ほぼ全員の顔を把握しているはずだ。
(……神経質になっているんだわ)
慣れない環境に神経が過敏になっているのだ。
現にここ数日、緊張してよく眠れていなかった。
同じ名前があったって、おかしいことなんか何もない。前にいた学校にだって、一クラスに佐藤さんが三人いたことだってあったじゃないか。
思い直して、鈴鳴は真新しい教科書に視線を落とした。どこか気だるげな教師の声が元素記号の説明をはじめる。
「鈴ちゃん、授業終わったら善ちゃんとこ行こ。善ちゃんが顧問だから、入部届け貰うといいよ」
授業中美衣子に耳打ちされたときには、なんとか平静を取り戻していた。
ええ、と微笑んで、授業に集中する。
だから、気付いていなかった。
何気なさを装って、二人分の視線が鈴鳴を観察していたことに。
4
これは何の冗談だ。
天崎善隆は心の中で天を仰いだ。
出席簿に追加された新しい名前に眩暈を覚えたのは二日酔いのせいではない。どうせなら見間違いであってほしいと思ったけれど間違いなかった。
急な転入生で、担任クラスでもないからといって、一応受け持ちの授業のある教員なのだからひとこと言ってもいいじゃないか。いや、転入生が来ることは聞いていたけれど、女生徒でとても優秀だとは聞いていたけれど。
名前までは聞いていなかったし、顔も知らなかった。
出席簿と顔を照らし合わせて愕然とした。表情には出ていなかったと思うが、恭介には気付かれたかもしれない。午前中に屋上で見たときとは比べ物にならない程、恭介の神経が尖っている。
何気なく転入生に気を配っていて、恭介が彼女を意識しているのがわかった。――そこには艶めいた色はまったく見受けられない。
当たり前だが。
さらに頭が痛いのは、どうやら美衣子と彼女が仲良くなっているらしいことだ。
非常に嫌な予感がした。
授業が終わって、美衣子と九条院鈴鳴が自分のところに駆けてきたときには、信じてもいない異国の神様に祈ったくらいだ。
「善ちゃん、あのね。鈴ちゃん便利屋に入りたいんだって!」
おー、まいごっど!
真剣さに欠けるのは許して欲しい。善隆は自称敬虔な仏教徒だ。特に浄土真宗あたりがいい感じだと思っている。
尊敬する人は親鸞和尚。
悲しいかな、誰も信じてくれないけれど。
「あぁー、そっか。今入部届け切らしてんだよ。放課後までに用意しとくから。今日部室来るだろ?」
「うん、わかった。今日大丈夫だよね? 鈴ちゃん」
「ええ」
じゃあまた後でねと笑顔で去っていく生徒に手を振ってやりながら、善隆は背中に感じる視線に冷や汗を止めることができなかった。
「……言っとくけど、俺ァ何も知らねーぞ」
「……ホントにあの九条院なの、あいつ」
「俺ァ直接会ったことねぇけど、間違いねぇよ」
教壇のパイプ椅子に腰を下ろし、昼休みに買ってきた新しい煙草の封を切って、善隆は断言した。それを受けて、恭介はあからさまに顔をしかめる。
「……何で九条院のお姫様がこんなとこ来んだよ」
「俺が知るか。とりあえず、誰か事情知ってそうな奴に当たっとくからお前は姫さん見張っとけ。千歳には俺が知らせとく」
「……入部させんの?」
「断ったって無駄だろ。ミィと親しいなら、一時凌いだところでいつかは会うだろ。とりあえず事情がわかんねーことにはな……」
「……本人に聞いた方が早ぇんじゃねぇの」
「俺が? お前が?」
「どっちでも」
「無理だろ。向こうは俺たちを知らねぇんだ。初対面の人間に素性聞かれてあっさり答えるもんかよ」
九条院鈴鳴は善隆がフルネームを名乗ったとき僅かに動揺を見せが、おそらく天崎の姓に反応しただけで、善隆の素性は知らないだろう。善隆と彼女に直接の接点はないし、顔を合わせたこともない。こちらが一方的に見たことがあるだけで、彼女にとっては赤の他人なのだ。
「……千歳なら、簡単だろうけどな」
「善兄」
咎めるような恭介の声に、善隆は苦笑した。
「冗談だよ。お前も行け。次の授業始まるぜ。姫さんから眼ェ離すなよ」
「……わかった」
何時になく仏頂面で恭介が理科教室を出て行ってから、善隆は隣の理科準備室に戻った。机の上に置きっぱなしにしていた携帯電話を手に取る。もうすぐ六時間目の授業が始まる。電話ではなくメールを打とうとして、着信履歴に気付いた。見覚えのない番号だ。
不審に思い首を傾げる。悪戯か、間違いか。思っていたら、着信音が鳴り始めた。
ディスプレイには、同じ番号。
五時間目の現国が終わったら、英語。相変わらず机に突っ伏していた千歳だったが、哲に叩き起こされた。何事かと思えば、移動だと言う。
「この前、今日はLL教室だって言われただろ」
「……そうだっけ?」
「お前いっつも授業聞いてねぇよなぁ……」
確かに、千歳は授業中大抵寝ている。起きていてもぼうっとしているか外を眺めているかで、真面目に授業を受けている姿はめったに見れない。そのくせ成績はいいのだから、哲はいつも不思議に思っている。
頭の出来が違うと言われればそれまでだけれど。
千歳には、努力や勤勉という言葉がとても似合わなかった。大抵のことは何でも軽々とこなしてしまうせいか、何かに熱中することもない。
あえて言うなら、時代劇は欠かさず見ているということくらいだろうか。
入学したばかりの頃はやっかまれることも多かったのだが、誰に何を言われても千歳の態度が改まることはなかったし、気にもかけていなかったので、次第に誰も何も言わなくなった。あまりのやる気のなさに、言っても無駄だと思われているのだろう。
だけど、千歳はそれでいいと思っている。
もうずっと前から、自分のために何かを努力することなどしていないし、する気もなかった。折角多才だというのにもったいないと言うものは多かったが、そんなことは大きなお世話だ。
心から、放っておいて欲しかった。
机の中から教科書を取り出して、席を立った。千歳のクラスは三階で、LL教室は特別教室棟の三階だ。一階が家庭科室で、二階が理科室。四階は音楽室で、三階にはLL教室の他に視聴覚室と情報処理演習室がある。これは中等部と高等部それぞれ別にあって、体育館もグラウンドもひとつずつ。共同なのは図書館とプール、武道場くらいだ。
東雲学園の校舎は山を切り拓いて建てられているので、場所によって高低差がある。普通教室棟の三階が、特別教室棟の一階にあたる、といった具合に。LL教室までは上手く連結通路を使っても、二階分階段を上らなくてはならないので移動が結構面倒くさいのだ。
「てっちゃん!」
特別教室棟と繋がっている二号棟の階段を上っているとき、哲が聞きなれた声に呼び止められた。
二階と三階の間の踊り場で足を止めて振り向けば、階下に後輩である美衣子の姿があった。理科教室に続く渡り廊下を通ってきたのだろう。
先ほどからすれ違っていた二年生は、美衣子達のクラスだったようだ。
「てっちゃん、ちぃちゃん! ちょっと待って」
美衣子はそう言って、階下に続く階段に向かって手招きした。連れが先に下りていたらしい。それとも、途中で美衣子が自分達を見つけて追いかけてきたのか。
「あのね、入部希望者がいるの!」
嬉しそうに美衣子は笑った。呼び戻した女生徒に、千歳と哲を指してセンパイ達だよ、と囁く。
それを受けて、階下からこちらを見上げてくる女の子。
ドン、と。
胸を強く叩かれたような、鉛の球を投げつけられたかのような、重い衝撃。
――――千歳。
腕の中から教科書が滑り落ちるのにも気付かなかった。
――――お願いだよ、どうか。
こだまする、懐かしい声。
――――僕の代わりに、あの子を。
何故こんなところに、なんて。
持って当たり前の疑問さえ浮かばない。
――――約束ですよ、ちぃ兄様。
かつてはんなりと微笑んだ少女の顔は、驚きに固まっている。
やがて泣き出す一歩手前まで顔を歪ませ、駆け出した。
いつかのように、まっすぐ自分に向けて伸ばされた細い腕。
動くこともできずに、呆然とそれを見詰めていたけれど。
ちょうど降りてきた男子生徒とその肩がぶつかって、少女は大きくバランスを崩した。
――――あの子を守って。
そう言ったのは、ただひとり主と定めたひと。
――――きっと守ってくださいましね。
そう、言ったのは――――。
「――鈴姫!」
ええ、約束します。
応えたのは、――――自分。
続 |