106話
「しかしまあ、よく眠ってるねぇ」
居間の隣にある寝室の扉を半開きにして一つのベッドに丸まって眠るサラとミハイを見ながらコーディーがそんなことを呟く。時刻にすればもうそろそろ日付が変わろうかという頃合いだが、かれこれ八時間以上は眠っている。
やはり充分な栄養を摂れず体にも結構な負担がかかっていたのだろう。
「ふん、調子に乗って食事の後に遊び呆けているからそうなる」
「そんなこと言っちゃって。その遊びに付き合ってあげたくせにさ」
「うるさいから適当に相手をしてやっただけだ」
余程嬉しかったのか、食事を終える頃にはミハイだけでなくサラもハロルドに懐いているようだった。最終的に遊び疲れて姉弟揃ってハロルドに寄りかかりながら寝落ちするくらいには心を開いてくれたらしい。
それから二人はずっと眠り続けている。一応夕飯も作り置きはしているが、この分だと明日の朝食になるだろう。
「おつまみを作りながらそんなこと言っても説得力ないけどねぇ」
「ただの時間潰しだ」
実際、フィネガンの妻が帰ってくるまで暇だった。なので小腹がすいたというコーディーの要望に応えて軽くつまめるものを作っていた。
とはいえ干し肉を厚めに切り、表面だけ炒めながら胡椒で味を調える程度のものだ。それこそサラにだってできるだろう。
本当ならばこれをつまみにお酒を、というのが定番だが他人の家で勝手に酒盛りを始めるほど非常識ではないので昼に作った野菜の煮込みスープで我慢させることにした。薄味で作ってあるので塩味の強い干し肉と合わないことはない。
その後もコーディーのからかうような話題をあしらっていると外に人の気配を感じた。
「来たぞ」
「え、なんで分かるの?」
「引きずるような足取りで近づいてくる気配が一つある。まず間違いない」
「君どんどん人間離れしてってないか?」
「いいからさっさと出迎えてこい」
「はいはいっと」
ハロルドに促されてコーディーが玄関へと向かう。家の中で待ち構えているよりも玄関先で待っていましたと声をかける方がまだ無難だろう。まあそれでも間違いなく不審がられるだろうが、夫の元同僚とは言え帰ってきていきなり家の中に人がいたらもう驚かれるとか警戒されるどころの騒ぎではない。
まあ最早家の中にいるだけでは飽き足らず台所まで借りているのだが、その辺も口の上手いコーディーに丸め込んでおいてもらいたいものだ。料理の手伝いよりも大事な役割分担である。
内心ではドキドキしながら椅子に腰かけたままで二人が来るのを待つ。
それから数分後、ハロルドはようやくフィネガンの妻と顔を合わせることとなった。
「初めまして、シンシアと申します」
「ハロルド・ストークスだ」
「不愛想な男で申し訳ない。これでも悪い男じゃないんですがね」
「いえ……それで夫に関わるお話というのは?」
突然の事態に怪しんではいるのだろうが、ありがたいことに妻のシンシアの方から話を進めてくれた。それだけ夫の件について藁にも縋る思いなのだろう。
コーディーと目が合ったハロルドは「お前が説明しろ」という旨の視線を送る。この口は説明というものに向いていないのだ。初対面の人間に対してはなおさらだ。そんな思いを察してかコーディーがそのよく回る口を開く。
「率直に言いますとフィネガンの寝たきりを改善できるかもしれない方法が見つかりました」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。あくまで可能性がある、という話ですが」
駄目な場合もある、と言外に語るコーディー。そんな彼を「コイツこんな真面目に話せるのか」と意外に思いながら見つめるハロルド。まあ聖王騎士団という名誉ある組織で責任のある立場に就いている男なのだから状況に応じた言葉遣いなど出来て当たり前ではあるのだが。
両親の前以外では辛辣で不遜な物言いしか出来ないこの口が異常なのだ。
「……それで費用は?」
思いつめたようにシンシアはそう聞いてきた。まあ普通に考えればそんな治療を無償で受けさせてもらえるとは考えないだろう。爪に火を点すような生活をしていればなおさらだ。
とはいえコーディーはそこまでシビアな人間ではない。良くも悪くも適当な性格をしている男なので無茶な要求などはしないだろう、とハロルドは聞き役に徹しながら気軽に構えていた。コーディーがこちらに視線を寄越すまでは。
「なんだ?何か言いたいことがあるならはっきりと言え」
「言いたいことというか、これはハロルドの剣がなければできないことだしボクの一存で決められることじゃない」
「下らない。俺はただ剣を貸してやるだけだ」
報酬という点で言えばフィネガンにかけられているユストゥスの洗脳を解けるかどうかが分かるだけでも充分なものがある。懸念している部分もいくつかあるがそれは別に今口に出すことでもない。
要するに勝手に決めてくれ、ということだ。
「うーん、となると……別に治療費とかは掛からないしタダでも構わないんですがね」
「そんな!夫を治していただけるかもしれないのに何もお礼をしないなんてできません」
「いやまあそうでしょうけど……」
コーディーの歯切れが悪い。確かに費用は掛からないが、その代わり少しばかり命を削ることになる。
だがそれを説明すると常識的な反応を示すシンシアは治療を遠慮してしまう可能性がある。受けるにしても命を削って助けてもらった大恩など簡単に返せるものではない。簡単に返事が出来なくなるのは目に見えていた。さてどう説得したものか、と考えているのだろう。
シンシアの気持ちも分かるがハロルドとしてはこんなところで無駄な時間など食いたくなかった。速やかにフィネガンを治療し、成否に関わらずその結果を持ってあの二人の元に行かなければならない。それはハロルドにとって既に決定事項である。
「なら貴様は費用を請求されたとして払えるか?それとも金の代わりに差し出せるものがあるのか?」
そして説得の援護射撃をしようとしたらこれである。
オブラートに包むという概念を知らない口から放たれた言葉にコーディーとシンシアはもちろん、思わず口を挟んでしまったハロルドでさえ押し黙る。
だが黙ったままではこの場の空気が取り返しのつかないほど重くなってしまう。己の迂闊さを悔やみながらええい、と勢い任せで言葉を続けた。
「どちらも無理だろう?何かしらの貯えがあるならガキ共だけでもまともな食事をしているはずだ」
「それは……そうですが……」
「だったら出来もしないことを口にするな。貴様からの礼などあろうがなかろうが大差はない」
「ハロルド、言いすぎだ」
「事実を突き付けているだけだ。いいか?貴様に出来るのは選ぶことだけだ。無償での治療を受け入れるか、拒むのか。それ以外のことは考えるだけ無駄なんだよ」
言葉の暴力に耐え切れなかったのか、俯いたシンシアの頬に一筋の涙が流れる。
それを見てハロルドの良心が呵責により叫びを上げた。が、ここで言葉を止めてしまうと本当にただ嫌味なことを言う高圧的なクソ野郎で終わってしまう。
なんとかせねば、と焦ったハロルドはとりあえず言葉ではなく行動でワンクッションを挟むことにした。立ち上がり、まだ湯気の立つスープを小ぶりなスーププレートにすくう。そしてそれを俯いたままのシンシアの前に置いた。
「……これは?」
「四の五の言わずまずはそれを飲め」
突然の行動にシンシアは、そしてコーディーもわけが分からなさそうな顔をする。ハロルドとしては単に温かいものでも飲んで気持ちを落ち着けてほしいと思ってのことだった。
その気持ちが通じたかは微妙だが、それでもシンシアはスープに口をつけた。
「美味しい……」
「当然だ。俺が作ってやったものだからな」
「これを貴方が?」
「ああ、それ以外の料理もそうだ」
そう言っていくらか余っていた昼間の料理の残りもテーブルに並べる。その動きはこなれていてまるで給仕のように淀みない動きだった。
ハロルドに促されるまま、シンシアはそれらも口に運ぶ。
「まともな食事の味はどうだ?」
「……美味しいです。とても、涙が出そうなほど……」
もう出ているが、という無粋なツッコミはもちろんしない。
正直味はプロどころかその辺の主婦とすら比べるべくもないだろうが、その程度の料理に涙するほどこの家の食事事情が悪かったという話だ。まあこの涙が味に感動してのものか、さっきから引き続き流しているものかは判別がつかないのだが。
「だろうな。ガキ共も変哲のない食事に喜々とし、買い与えてやった石鹸一つで歓声を上げていた」
「どうしてそこまでしてくれるのですか?貴方が言ったように、私達が返せるものなど何もありはしないのに……」
ここで子どもたちの笑顔がお代です、とでも言えれば好感度の一つも稼げるのだろうが、生憎とハロルドはそんな好青年ではないのである。
「気まぐれだ。だが全てがそうだという訳じゃない。フィネガンを治療することが出来れば俺にも利点がある」
視界の端でコーディーが「え、そうなの?」とでも言いたげな顔をする。彼には関係のないことなので伝えていなかったが、考えてみればそれをコーディーに教えていればもっと楽に交渉を進められたのではないだろうか。
まさに後悔先に立たず。
「だから今回は多少の恵みをくれてやった。俺は貴族だからな、気分一つで罰を下すこともあれば下賜を取らせることもある」
我ながらひどい言い草だとは思うハロルドだったが、それがある程度まかり通るのもまた事実である。
「立場が違うんだよ。貴様らは所詮、俺の思い通りに動くことしか許されない。それを理解しろ」
シンシアの顔が歪む。
その表情に浮かんでいたのは傲慢なハロルドへの怒りであり、力のない自分への惨めさであり、弱者が強者に弄ばれる残酷な世界へ対する諦観であった。
しかしそれらを飲み込んでハロルドの言葉に追従しかけたシンシアを制する声がかかった。それは他ならぬハロルドのものである。
「……だが、その上で納得できないというならここに誓え。己の意思を貫けるように、守りたい者を守れるように強くなってみせると。その誓いを交わせるなら今日のことは全て貸しにしておいてやる」
「え……?」
「当然だがこの貸しは高くつく。貴様はそれを覚悟で踏み出せるか?餌を待つひな鳥のように待ち惚けていれば手に入るものを、わざわざ険しい道を歩んでまで求めることが出来るのか?」
要するにハロルドはこう提案したのだ。
無償での治療を受け入れて終わりにするか、治療を貸しにしておいて後からその恩を返すのか。
家計に余裕のない家族を相手に意地の悪い質問だ。その自覚はあるがハロルドとしては手っ取り早く行動に移りたい想いと口の悪さが合わさってこんな二者択一になってしまった。
まあこれなら前者を選んでくれるだろうし、精神的なケアはコーディーに任せればいいか。そう思いながらハロルドはシンシアの返答を待つ。
「……分かりました。貴方の提案を受け入れます」
「そうか。では……」
「はい、ここに誓いましょう。私は夫を、子ども達を守るために強くなってみせます。そしてどれほどの時間がかかってもこの御恩は必ずお返し致します」
(……あれ?)
ハロルドは内心で呆然とする。え、貸しの方を選ぶの?何かと大変じゃない?と。
そんなハロルドを尻目に、シンシアは椅子から立ち上がりハロルドの前で膝をつき、頭を下げた。
「そして貴方様に、無上の忠誠を誓いましょう」
そんなもんはいらん、とはさすがに言えない空気だった。
狙いとは一八〇度異なる展開を前に、ハロルドはただ「ふん、その言葉は夫が目を覚ますまで取っておけ」と素っ気なく返すので精一杯である。
まあこれですぐフィネガンの治療に移れるのだから結果オーライだと言えばそうなのだが。
「あ、そうか。下賜と貸しのどちらを選ぶかって掛けてるわけね。おっ洒落ぇ」
とりあえずハロルドの横でとんでもなく的外れなことを言い出したコーディーの足を、そんなわけねーだろ!という思いを込めて少々強めに踏んでおくことにした。