吾輩は犬である。名前はまだない。
気が付いたとき、吾輩は河原の草叢の中に捨てられておりました。産まれてまだ間もない頃でした。
産まれた時の記憶があるのかと問われれば、その時点の記憶はまったくございませんが、一緒に捨てられ既に息絶えていた同胞を見れば、容易に判断はつきました。
混濁した意識の中で周囲を見廻すと、ひとりの女が目に入りました。
色白で髪の長い大変美しい女でした。女は台風のあと増水した川の縁に立ち、 轟々と流れる川面を見つめておりました。
美しい横顔でした。その頬は涙で濡れておりました。ただならぬ雰囲気が伝わってまいりました。落ちたらひとたまりもありません。
女の足が一歩前に進んだとき、吾輩は渾身の力を込めて
くう〜ん・・・と、なきました。
運良く女は吾輩の存在に気づき、側まで小走りに駆けて来ると、吾輩を抱きあげてくれました。ぎゅっと胸元で抱き締め、しばらく嗚咽しておりました。理由はわかりません。わかる筈もありません。
それから女は吾輩を三軒茶屋の木造アパートに連れて帰ると、湯を沸かし、汚れきった身体を隅から隅まで丹念に洗ってくれました。
その後、吾輩は女の腕の中で温かいミルクを頂きました。もちろん牛乳です。
女は美奈子といいました。
それから吾輩は三軒茶屋のアパートで、美奈子さまと暮らすことになりました。
美奈子さまは吾輩のことを「シロ・・・」と呼びました。
あまり垢抜けない名前でしたが、吾輩は吾輩の命を助けてくれた美奈子さまを、この先どんなことがあろうとも全力でお守りしようと心に誓いました。
幸せな日々が続きました。
ある日美奈子さまの留守中、アパートに泥棒が押し入りました。
今時珍しい木造アパートですから、金品目当てでない事は吾輩にもすぐにわかりました。
泥坊が美奈子さまの箪笥を開け、下着を盗み取ろうとしたときです。吾輩は泥坊に飛びかかり、悪漢の腕に思い切り噛み付きました。
泥棒は吾輩を何度も殴り引き離そうとしましたが、吾輩は美奈子さまが帰って来るまで、じっと堪えました。死んでも離すまいと思いました。顎の関節がはずれそうになりました。
おかげで警察署から表彰状をもらいました。ペディグリーチョメ一年分でした。生タイプにしてもらいました。
美奈子さまは少々そそっかしいところがありましたので、またある時はアイロンを消し忘れて外出した事もありました。困ったものです。
消し忘れたアイロンが加熱して畳から煙が出はじめたので、吾輩はコンセントを引き抜き、必死で焦げた畳をかきむしり、消火活動に専念いたしました。
前足二本軽度の火傷を負いました。
あの時は消防署から表彰状をもらいましたっけ。副賞はスルメ一年分でした。
ある日、美奈子さまのアパートに男がやってきました。美奈子さまは男のために甲斐甲斐しく手料理を作り、楽しげに男と食事をしておりました。吾輩はその男のことはあまり好きではありません。
しかし、その食卓に吾輩もぜひ参加したく、男の膝に跳びつくのですが、その度に頭を叩かれました。そのあと美奈子さまが頭をなでてくれるのですが、吾輩の夕餉は決まってペディグリーチョメでした。
男は度々やってきました。
年齢的には美奈子さまよりはかなり年上の様子で、来るたびに、離婚するだの、待ってくれだの、何やら煮え切らないご様子でありました。
いけ好かない奴でした。
ある金曜の晩、二人はいつものようにワインを飲み食事をし、9時を回った頃寝室に消えました。
その後、男が帰り仕度をはじめるまでの間、吾輩は締め出されるわけです。お決まりのパターンです。
いったい中で何が起こっているのかこの若輩者には知る由もありません。
以前、ドアノブに跳びつき、ドアを開け中を覗こうとしたことがありましたが、すぐさま男が出で来て吾輩は男にしこたま蹴飛ばされました。
雪の降る寒い晩でした。
中からは男の荒い息遣いと、美奈子さまのただならぬうめき声が聞こえてまいりました。
しかし、うめき声はそのうち泣き声に変わり、泣き声は叫び声に変わりました。
いつもと様子が違うな、と思いました。吾輩はドアの外側で耳をそばだてました。叫び声はだんだん激しくなっていきます。
「きゃーっ!助けてーっ!!・・・・」
吾輩はもういてもたってもいられなくなりました。美奈子さまは間違いなくこの吾輩に助けを求めているのです。
ドアの鍵穴から眼を凝らしてみますと、丸出しになった男の臀部が確認できました。しかも男は美奈子さまの上に覆い被さっておりました。
髪を振り乱し、からだ全身を激しくゆすり、美奈子さまを攻撃しておりました。
只ならぬ緊急事態です。吾輩は全力で美奈子さまをお守りしなくてはなりません。
吾輩はドアノブに飛びかかりました。何度も何度も飛びかかりましたよ。 男に蹴飛ばされようがかまいやしない。吾輩は全力で美奈子さまをお守りしなくてはなりません。
そして遂になんとかドアを開けることに成功ました。
二人はまったく吾輩には気づいていない様子でした。
激しい男の弾丸攻撃にやられ、美奈子さまは殆どもう息絶え絶えでした。
このまま美奈子さまに逝かれてはならない。
吾輩の命を救ってくれた美奈子さまを、吾輩は命を掛けてでもお守りしなくてはなりません。
吾輩は大きく息を吸い込みました。脳内ドーパミン値をフルに上昇させ、一気に男に飛びかかり、片尻に噛み付きました。
男が悲鳴をあげ、その身体が美奈子さまから離れたところで、今度は一縷の狂もなく男の急所に噛み付きました。
※注 急所とは喉笛の意(狼白書より)
間違いなく頚動脈の切断される感触を犬歯に感じました。赤黒い血液が男の喉元から、心臓の鼓動と同調して噴水のように吹き出しました。
男は左手で喉元を抑え、しばらくベッドの上でのた打ち回っていましたが、そのうち右手の拳で虚空を掴み、力尽き、床へと落ちて行きました。
吾輩も力尽き、暫くはベッドの上で尻尾一振りできない状態でおりました。美奈子さまの方を振り向くと、彼女は全裸のまま血糊の中で膝を立て、両膝の間に顔を埋めていました。両手で頭を被い、身体をガタガタと震わせておりました。
吾輩は何やら大変な事を仕出かしてしまったような気がしました。
しばらくして美奈子さまは頭を上げ、両手で顔を拭うと私の方を見ました。てっきり泣いていたと思っていた美奈子さまの顔には微笑みが浮かんでおりました。
美奈子さまは肩を揺らし、くっくっくっ・・・と含み笑いをすると、しまいには吹き出し、大声で笑い出したのです。
吾輩は美奈子さまが狂ったのかと思いました。顔面に男の血飛沫を受けた美しい面立ちの美奈子さまが、鮮血をあさるエリザベート・バートリーのようにも見えました。背中の毛が総立ちになりました。
恐怖のため震えている吾輩に美奈子さま言いました。
「完全犯罪だわ。ふふふ・・・・」
更に美奈子さまは吾輩の頭を撫でて言いました。
「ごめんね。シロ・・・」
その言葉で吾輩の頭の中の靄は一気に晴れました。
吾輩は利用されたのです。悲しかったです。
しかし、後悔はありませんでした。むしろ、こんな形でしかこの男と決着をつける方法が見つからなかった美奈子さまを哀れにさえ思いました。
たとえ裏切られようとも、愛する美奈子さまのためならば我身滅ぼそうとも命かけ、心から尽くす所存であります。
当時のことはあまり思い出したくもありません。
今、吾輩はいまモンゴルの草原で羊を追いかける日々を送っています。
本来ならば殺人犬という事で吾輩は薬殺されるべきものでしたが、警察署や消防署から表彰を受けていた優秀な犬だという事で、吾輩に課せられた罰は国外退去というものにとどまりました。
その後、吾輩は美奈子さまとモンゴルへ渡りました。
人並み外れた美貌の持ち主の彼女は、まもなくミケーレンヤンゲという村長の息子にみそめられ、結婚をしました。
今、吾輩は美奈子さまの家族の一員として羊を追い、幸せに暮らしております。気になる事といえば、夫のミケーレンヤンゲが少々浮気症ということくらいでしょうか。
吾輩は、この先どんなことがあろうとも、全力で美奈子さまをお守りするつもりです。
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