獣(S)ver(3分、ホラー)
男は夜の闇に溶け込み、血溜まりの中で感触を味わっていた。
指先から手首まで赤く染まった食べ残しを、丁寧に時間をかけて舐めている。
男は満足げに、のどを鳴らし目を細めた。
足元に横たわる肉塊は拳より一廻り大きいだろうか? 赤水にひたたる僅かな黒髪が、人間だった名残を懸命に訴えているようだ。
≪パキッ‥≫
踏み潰れた骨の音は驚くほど軽く、切ない。だがそれも男の欲望を満たすものでしかない。
(まだだ、まだ、足りない。まだ、欲しい)
低い声で己の渇望を訴えた男は、夜空に浮かぶ満月を見上げた。注ぐ光が地に映る影を作り、彼を飲み込む狂気を纏わせたのか。
男が禁忌たる行為を犯した最初の記憶は、社会人になってからだった。
人間社会に住まう者なら誰にも覚えがある、下級者の成功を妬み、引きずり、屈させる、慣習という名の制裁。
どんなに目を凝らしても見えない壁、不可侵の三角形に、男の心は徐々にひび割れ、壊されていった。
社会の底辺でしか自分が存在しえないことを悟った時、男の胸の内で、もっとも単純かつ自然な黄金律、食物連鎖の頂点を目指す衝動が働いた。
初めての食祭は同僚の若い女だった。その弾力のある肌に犬歯を突きたて、溢れてくる血をすすった時の味わい。剥がれた皮膚の下、美しく流れる赤い血道。そして何より獲物の泣き叫ぶ声がスパイスとなり、五感を満たすことに気づいた。
月光に照らされた影が細く滑り出す。男は何かに憑かれたように走り始めた。無音の暗闇が支配するビルの合間を抜け、ひたすら走る。
(……!?)
住宅街に入った時、剥き出しにしていた皮膚が、男に危険を知らせた。気のせいではない。やはり誰かが追っている。
警察の犬が嗅ぎ付けたか? それとも公安の奴か、まさか自衛隊ということはあるまい。
最近の乱行を振り返り、男は調子に乗りすぎたかと耳元まで口角をねじり上げた。
まだ捕まるわけにはいかない。男は再び走り始めた。閑静な住宅街を抜け、今度は緑林公園の中へと駆け込む。
まだ逃げられる。男は自分の力を信じていた。食人という禁忌の行為を重ねたことで、自分が特別な生き物だと思えていた。
脳裏を横切った直感、ざわめきたつ四肢を鼓舞して、男は茂みの中に飛び込んだ。
自分は人を超越した捕食者なのだ、捕まるわけがない。男は小枝を踏みしめて、低く、速く、鋭く、駆け出し始めた。
《クククッ……》
男の舌に、あのとろけた甘美な人肉の味が甦る。
《クククッ…… クカカカッ……》
やがて大きな池のほとりに辿りついて、男は深くも荒くも無い息を吐いた。のどに強烈な渇きを感じ、池の水で潤そうと水面に近づく。
(……???)
微かに揺れる月面の下、そこに映った自分の顔を見て、男は石のように体を強張らせた。輪郭は朧気だったが上下する肩と月の間には、自らの象徴である顔が、くっきりと映っていた。
(コ……レ、オ……レ?)
自分を探す物音が聴覚を騒がしても、男は静止したまま、うつむき続けた。かって見たのは、いつだっただろう。そんなに遠くない昔、男がまだ人間だったころ。その整った顔立ちは異性の気を引き、光を放っていたはずだった。
雑多な警官の気配が辺りに充満し、男を取り囲む輪は狭くなっていく。それでも微動だにせず、濁った瞳に映る自分を、狂気の笑みを浮かべて、男は眺めていた。
かって見たのは、そうだ、年下の同僚に誘われ、待ち合わせた店先の窓。そして、その後、男は……
……男はもう、人の姿では、有り得なかった。
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